〜 初恋 〜
作:何奴 仁
誰もが寝静まる深夜。
ここ、破落戸長屋もシンと静まりかえっていた。
つい先ほどまで、熱と汗とを交わし合い、声を殺していたのだが、それこそあやふやになるようだった。
そんな夜、布団にくるまって眠っている剣心の横で、左之助は一人、その横顔を見つめていた。
行灯が緋の髪を輝かせ、十字の傷に影をもたらしている。
「・・・・・・」
疲れ切ったようで、自分がジッと見ていても起きる気配すらない。
規則正しく息をし、深く眠りについているように見える。
時に睫毛が動いているように見えるのは、ただの気のせいなのだろうか。
すっかり夜目がきいていて、相手を見るには丁度いいくらいだった。
フゥ、と声を漏らし、左之助は布団がめくれぬようにゆっくりと体を起こした。
自分の影が大きく壁にうつり揺れる。
鉢巻を解いて、額の汗を拭った。
「・・・剣心。」
床の上、広がっていた緋色の髪に、指を絡めた。
さらさらと流れるようなそれは、指をぬけていく。
まるでつかみどころのない風のようだ。
「似てるわけでも、ねぇのになぁ・・・」
喧嘩にあけくれていた頃、色町に行くことも少なくはなかった。
そんな左之助が、時に訊かれる質問があった。
− 初恋の相手は誰?
誰と問われて、答えられなかった。
初めて抱いた女も、流れというものがあったし、何よりあれを恋と呼ぶにはあまりにも浅はかだ。
自分が思う“愛”というものにも、到底およびはしなかった。
体を合わせるだけで、恋とか愛とか、語るもんじゃねぇよ・・・
昔の口癖が、それだった。
初めて女を抱いた時、一時は“愛”と錯覚してしまっていた。
だがそれは、恋に恋していただけで、実際には興味というものも多分に混じっていた。
どちらから誘ったとか、そんなことではない。
なぁ、恋とか、どういう気持ちなんだ?
まるで幼子のような問い。
そう言って修達を困らせることもあった。
『あの・・左之さん・・・それを口で説明しろって言われても・・・』
「・・・ハァ・・」
何をするわけでもないのに、左之助は外に出た。
服を着るのが、何故かひどく億劫だった。
「何でだよ・・・別に、似てるワケでもねぇのによォ・・・」
初めて抱いた女の顔。
もう何年も前のことで、今はどこにいるのかも知らない、たった一度しか会わなかった女であるにも関わらず、
「こんなにハッキリ、覚えてるなんて・・・」
ここまで惚れたのは、恐らく剣心が初めてだ。
故に忘れられないのは、剣心に似ているからかとも考えたが・・・やはりそうでもない。
好きだとか、そんな感情ではない。
ただ単に、忘れられないだけ。
「・・・たぶん。」
「俺が剣心に抱いている想い・・・」
これが恋だと、あれが愛だと、そう答えられるものではない。
尊敬・・・それもある意味当てはまる。
色々な面に対して。
「でも、始めは嫉妬だったんだよなぁ・・・」
きっと・・・
強さに、嫉妬していたのだ。
最強の名を持ち、細い腕で剣を振るい、細い足で空をかける。
自分には持ち合わせていない“何か”を、その人は沢山持っていた。
勝負じゃ負けないと思っていたのだが、唯一の自信であった“力”までも及ばず。
いつも誰の気をも緩ませるような笑顔なくせに、何かあると途端に顔つきが厳しくなる。
人はその人を、抜刀斎と呼んでいた。
他の人とは違うのは、確かだった。
いつだったか忘れたが、確か剣心に叩き伏せられた、その日か次の日。
夢を見た。
もう、ここ何年も見ることのなかった夢を。
確か、最後に見たのは・・・総三が斬首されての一週間・・・
そう、本当に久方ぶりだったのだ。
夢はあまりにも衝撃的だった。
『剣・・心ッ』
自分が、布団の上で、負かされた相手を組み敷き、抱いているのだ。
時折、酷く高い声を漏らす様・・・目に付いて離れず・・・
『左、あっ・・ぁあ・・んぅッ』
目が覚めた後、もやもやとした気持ちが何なのか分かった。
「・・・これが、恋か・・・・・・」
その言葉には、疑問も混じっていた。
『左之。』
小さな口。紅も塗ってないのに、ほんのり紅いその唇。
発せられる名前をきくだけで、思わず頬がゆるむ。
「・・・やべェな・・」
考えれば考えるだけ、何とも言えぬ想いが深まっていく。
それは昼間だろうと夜中だろうと、時、場所を選ばず。
「こんな時刻に、言えねぇよなァ・・・」
・・・抱きてぇなんて・・・・・・
自然、足は厠へと向いた。
身体の熱は、当分おさまりそうになかった。
「・・・ま、いつものことだけど。」
太陽は真上に近い正午前。もうすぐ昼ドンなるなーと思いながら、音をたてる腹をさすった。
外で童が遊んでいる声が聞こえる。
何故か今日はそれが妙に新鮮だった。
「・・・剣心のやつ・・・」
目を覚ました左之助は隣に剣心がいないことを分かっていながらも、言葉を口に出さずにはいられなかった。
毎度毎度のことながら、あるはずの温もりがないとは、想像以上に寂しいもので、初めて抱いた次の日の朝を思いだす。
ゴロリと、体の向きを変える。
手をやるとそこは冷たくて、熱を求めたくなる。
「一言くらい、声かけてから帰れっつーの、ヤロー・・・」
布団に残った彼の匂い。
そこに顔を埋めて、小さく呟いた。
手はそろり、下へと下がっていく。
「あー、腹減ったー。」
いつものように、左之助は神谷道場へ行った。
畳は長屋と違って全て日に焼けてなく、まだ緑が残っている。少しだけ、匂いがした。
「なぁ、剣心〜。」
畳の上をゴロゴロと転がる。
まるで自分の家のようにくつろぐ姿は剣心から見て可愛らしかった。
そういうことを言ったならば怒るのだろうなと思いながらも、笑みが零れてくる。
「ふふふっ・・・」
それを見て左之助が不思議そうに首をかしげて問いかけるが、何でもないと、ただそれだけを言った。
いつものことだ。
「飯ー」
「そうは言っても、お昼は済ませてしまったしなぁ。ちと、来るのが遅かったのではないか?」
そう言われて思いだしたのは今朝のこと。
今朝も、なかなか抜けてくれぬ熱が左之助を駆り立てた。
思わず、頬が紅潮する。
「うるせぇなぁ。」
照れ隠しに頬をつねってやると、戯けた声でおろろと言った。
「それより、なんかねぇのかよ。残りモンでも構わねぇからよォ。」
「そうでござるなぁ。」
剣心の返答はそんな曖昧なものばかり。
来た時からしている繕い物は、おそらく弥彦の物だ。丈の短い袴を鮮やかな手つきで縫っている。
ほぅ・・・と見とれてはそうではないのだと我に返る。
「テメェ、遊んでやがんな。」
「何を今更。」
ゆるりと笑っているところを見れば、優しく少し気の弱そうにも見えるのに、それを裏切るかの如く、たいていの場合はスッパリと答える。
それでも顔は笑っているものだから、左之助はやりきれない気持ちになってしまうのだ。
「ばーか。」
何の気なしに口から出た言葉。
意味は、特にない。
「ふふっ、なんだそれ。」
「・・・別に。」
何か言わずにはいられなかったのだけれど、口から出たのがよりによってそれだったことに今更ながら後悔した。
「ガキだなぁ。」
大きいのは体だけか?と剣心が小突く。
「黙れジジイ。」
「失礼なやつだ。」
他愛のない会話。
悪意などあるわけもない。
本気でもないけれど、あながち嘘でもない、そんな内容だ。
プチッと、音がした。
剣心が白い歯で、糸を切った音だった。
しっかりと玉結びもされた、糸。
「解けねぇのな。」
「あぁ、これで大分保つだろう。」
・・・保つ。
「俺達は・・・?」
左之助は、いいながらも思った。
なんか俺女々しいな、と。
どっかの女に、似たような言葉を言われたような気がした。
その時自分は正直、うざったいと思っただけで。
適当に、言葉を並べていた。
・・・相手が喜ぶような。
「何がでござるか?」
「だから・・・」
ニブチン、と叫んでやりたくなった。
計算されているのか、それともただ鈍感なだけなのか。
・・・恐らく、後の方だ。
「俺ら、どのくらい保つのかナァー・・・なんて。」
別に、最近思い始めたことではなかった。
おそらく、こうした関係になった、すぐ後・・・
「また左之は、埒もないことを・・・それよりも、雨が降りそうだ。洗濯ものを・・・」
剣心は、話をそらすことが多い。
こういう真面目な話を持ち出すと、特に。
「俺のことより雨ね。」
「どっちなどと言って・・・ほら、腹が減ったのならむすびでも作ってやるから。」
剣心が音もさせず立ちあがり、厨に行こうと障子へ向かった時。
「逃げンなよ。」
当然のように、細い手首が捕まれた。
剣心もそれを予想していたかのようで、深い溜息をつく。
「さーの。離すでござるよ。」
「嫌だ。」
少しだけ力を加えてこちらに引いても、剣心の体はびくともしなかった。
「何を言っている。大きな子供だな、左之は。」
「茶化してんじゃねぇよッ!」
次は思い切り力を込めて引っぱってやった。
剣心はコロリと左之助の腕の中に落ちたが、それはどうもわざとに思えて仕方が無く、左之助のやりきれぬきもちは強まるばかり。
いつものようで違う剣心の瞳。思うに、蒼さが増している。
その目で、真っ直ぐと左之助を見て反らさない。思わず身動ぎたくなるのは、やましいことがあるからではなく、その胸の奥底が見えないからだ。
自分の胸の中にいる様子を端から見れば仲のよいように見えるかもしれない。
が、近づいてみれば驚く程空気はぴりぴりとしてる。
「・・・・・・」
左之助は黙っていた。
いや、何を発していいのかが分からなかったのだ。
それはまるで、声が奪われたかのよう・・・
「どうした左之。何かあったのだろう?」
瞬間、緊張の糸が切れた。
「・・・え?」
今まで凛としていた剣心の瞳が、柔らかなそれへと変わったためだ。
今までどうやって声を出していたのかが分からなかったのに、今となってはまた、それは常識と化していた。
[ 次項 ]