〜 淫雨 〜

作:朱空一水


雨落ち石に雨水が流れ落ち水が弾け飛ぶ。
肌にべたりと纏わりつく湿気が妙に居心地悪い。季節は秋に写ろうというのに短すぎた梅雨を髣髴とさせる雨がもう七日ばかり降り続いている。天が偲び涙にかえて地と云う袂に落としている感がどうも拭えない。それほどまでにこの雨は居心地の悪いものだ。
洗濯も買い物もいけないこの雨空の下。募る不快感と憂鬱にどう対処して良いものか考えあぐねいてしまう。自身の着物の赤い布地が理由もなく憂鬱を増幅させる。
気分転換にと冷たいお茶を飲もうかと腰を上げると見慣れた頭が見えた。
天に逆らうかのように逆立ちした頭。赤い襷。どうやら奴の髪質は針金並に硬いらしい。いつもの同じ逆立ちの頭を揺らして此方を見据えると当たり前の様にして剣心飯くわせろと云った。どうしようもない奴だ。奥で薫殿がまたかという顔立ちでこちらの遣り取りを眺めている。
「こら左之。ここは飯屋ではないでござろう」
子供に叱り付けるようにやんわりとした口調で話し掛けると左之助は眉根を僅かに寄せると断りもなく上框に腰を落とした。
「もう左之助。剣心の云うとおり此処は食堂ではないんだから。まったく居候並なんだから」
群青色のリボンを靡かせ今流行らしい絵師の錦絵に視線を落とすと薫殿は口調とは裏腹に全く気にした様子を見せずお盆に載せたままの茶を一口三口啜った。
「むさくるしいのがまた一匹来たな。ただ飯位の男が」
薫殿の向かい席でその遣り取りを傍観していた少年が口を挟む。又という辺りに皮肉を込めているらしい。然し相手はさして気にした風ではなくお櫃に顔を突っ込むようにして覗き込むと米がないことに落胆した。
「今から支度するでござるから今しばらく待つでござるよ」
そっとと茶請け菓子を差し出すと左之助はごろりと仰向けに寝転がった。
雨の匂いに攣られて舞い上がる井草の匂いに鼻を数度鳴らす。まるで大きい柴犬のようだ。
「雨っていうのはなんていうかいい匂いがするな」
左之助はすうと瞼を下ろし妙に感慨深げに漏らした。
湿気の膜につられて舞い上がる匂い。普段は気にしないほどの微弱の香りが鼻に付く。それは土の匂いであったり、生活臭だったり。日常では届かない匂いに毎度驚かされる。雨の匂いは甘いにおいがする。
「左之は犬みたいでござるな」
ふわりと鼻腔を擽る雨を良い匂いだという言葉に今まで抱えていた憂鬱を吹き飛ばされている事に気がついた。
「雨の日の散歩に洒落込まないか。なぁ剣心」
愚図ついた雨空を見上げる。いつまで降り続ける雨に昔を思い出す。
遠い昔が先程まで体験し見ていたかのようにして鮮明に甦る。そういう時は必ず限って嫌な記憶ばかりだ。躊躇う思い。躊躇する胸奥。葛藤する心。
偶然は必然。必然は偶然。こうなるのは総て罰則という名の必然。拙者が毎回雨に惑わされるのは至極必然なのだと思い知る。
今出たら間違いなく今以上に苦しむ。
「雨に濡れるから行くなら独りで行く出ござるよ。拙者は遠慮するでござる」
俯き声色が落ちたであろう声音でご飯の仕度もあるからな、と続けると左之助は何か思い出したかのようにして黙り込んだ。そうかの一言で左之助は拙者の声に総てを察すると自分も同じだからか通り雨ならな、と独り呟いた。それは蚊の鳴くように細く頼りないものであった。彼らしくない。
買い置きがない厨の中、梅干とおかかを塗した握り飯、油上げと薬味葱でお味噌汁を作り居間に運ぶと一心腐乱に貪った。大皿に作られた握り飯があっという間に消えていく。
物思い耽る様子を皆して漂わせるのに誰も口に出さない。
雨は必然を確実に呼び戻す。
だから雨は嫌いななのだ。恵の雨。けど二人にとっては憂鬱の雨。心が落ち込む。雨落石の如く。
熱い茶を啜りつつ一同、雨樋の下からそうと空を見上げる。
「ねぇ雨の日ってもう一度でいいから意図的に濡鼠になってみたいって思ったことない」
視線を上げると悪戯の笑みを讃えている。
「子供の頃みたいにもう一度」
買ったばかりの蛇の目傘くるくる回し帰り道。迷わず飛び込んだ水溜り。全身水浸しになり怒られた昔。大人になると自然となくなった光景。
雨で翳む視界の先に弥彦は聞き入っている。
ざあざあ。雨音が耳に上がりこむ。一同黙り込む中、徐に弥彦が口を開いた。
「風呂用意しておいてさぁ遊ぼうぜ」
腰を上げると童心に戻るのも憂鬱対策の一つかもな、と付け足した。湿気た煎餅を齧るとあわせたわけでもないのに視線が交じり合い同意の笑い声がひとつ響いた。
あどけない過去が跳ね飛ぶ。
井戸から汲み上げた水を互いに掛け合う。止めろだの馬鹿だと張り上げる声が耳に木魂する。
ぬかるんだ地面に足を取られ、盛大に転ぶ左之助を指差し弥彦。大口をあけて笑う弥彦に向けられた特大の泥団子。
既に左之助弥彦と共に全身泥鼠の中、薫殿はただ静かに庭先の隅で空を見上げている。そして静かに雨を顔面で受け止めている。その様に釣られて、皆で見上げた。冷たい雨が気持ち良い。
後二ヶ月もすれば秋だ。ゆるゆると流れていく。だが確実に過ぎ去っていく過去に溜息が吐いて出る。
「冷たいでござるな」
手に滴を受取り、誰に喋り問うわけでもなく一人愚痴る。
湿気た髪が視界の隅で捲れる。滴り落ちる雫に紛れて涙が零れ落ちる。頬に伝い口元に流れ落ち、それはやがて地面に落ちた。
「童心に返るってぇいうのは偶にはいいねぇ」
何時の間にか背後に立った左之助に振り返る。どこか噛み締めるようにして漏らす冷たいねぇ、実に冷たい雨だぜの言葉に頷いた。
冷たい雨に横たわる過去に懺悔しに帰りたい。けれども戻したくない過去。その狭間に揺られる様にして遠くで蝦蟇が間隔的に鳴いている。それが冷たい。
雨間が早く来ないものかと同意を求めると違いねぇと言う返事が返ってきた。
泥で汚れた袴に視線を落す。水溜りに写りこんだ自身の姿に視線を逸らした。
馬鹿だとつくづく自身で思う。どんな許しを請うても過去は嘲笑うかのようにして過去を雨と共に連添う。それはまるで長年連れ添った夫婦の様に。
心がぶるり、と震えた駄目だまた噴き毀れそうだ。乾いた笑みで誤魔化そうと口角を僅かばかり、上に上げる。
「本当に冷たいでござるな」
どこかで白梅香の匂いがした。それは幻の匂いであった。
気が狂ってしまいたいほどのときがある。そうすればどれほど楽なものかと思案する時がある。だが直ぐに愚かな思惑だと気付く。
大人が泣くものではない。我慢するのだとぎりりと噛み締める心の中。
久し振りに泣いた。
声も上げず、微動だにせず物陰に隠れてひっそりと静かに雨に紛れて泣いた。
男の子は泣くもんじゃないよ、と誰かが宥めるようにして囁いた声が聞えたような気がした。それは確実に聞いた声音であったがもう顔も思い出せないくらい、酷く不鮮明なものであった。一寸した出来事で泣く年頃の頃に強くいわれた言葉が心の奥底に沈殿し泣くことは滅多になかった。大きな悲しみや戸惑い、不安以外の時意外。
左之助は不審に思っているに違いない。頭を無造作に掻くと天を見上げた。
攣られて見上げる雨空の端が俄か晴れていることに気がついた。
心が晴れるまで幾許か。時計の針が目に染みた。
夕闇が差し迫る中、どうしてという疑問符ばかりが脳に浮ぶ。振り返り差し出された声に不器用な笑みを讃えると踵を返した。
「どうして雨は不器用にさせるのかしら」
滴り落ちる髪を束ねて薫殿。皆静かに同意すると青く色づき始めた天を見上げた。
不器用だからこそ生きていけるかも知れぬ。それが人間だからかも知れぬ。そう心の中で回答すると冷たい日本酒が口にしたくなった。
普段は飲まない酒が恋しくなるときは大概心が濾過を求めている時だ。そろそろ心の濾過の頃か。外見はいくら年をとっても中身は余変わらない。それが不安定で怖いときがある。
寝就寝前、襖の片隅に隠すようにして仕舞い込んでいた安物の濁り酒を取り出すと湯飲み茶碗に並々と注ぎそれを一気に飲み干した。五臓六腑に染み渡る酒が熱い。杯が進む。泣いた後だからか。否、違う。心が迷走したがっているのだと自分で判る。
憂鬱を酒の抓み片手に一人自室で飲み干していると隣で寝ていた左之助が寝返りを打ち寝酒に付き合うか、と問いかけると返答待たずして身体を起した。
日付も変わりそろそろ丑三つ時が近付く頃。
酔った余興でというのは言い訳だ。左之助が以前、喧嘩屋時代、お礼として質屋から室屋から頂いた黒地に白梅の花があしらってある着物を身に纏うと髪を解いた。黒に赤髪が行灯の中では映える。白梅とは実に皮肉なものだ。
もう随分昔の事だ。初めて初夜の床をした時、巴がどういう心情であったのか疑問がわき女物の着物を着て致した事があった。行為の最中、どこかしら冷静に観察している己がいたことに驚いた。否、違う。全く動じなかったことに驚いた。性癖と言うのであろうか。快楽に捉えられ悶える訳でもなくただ客観的に快楽に触れている自分がいた。
頭の淵で燻られる愉楽にただ目を閉じて耳を傍立てる。それだけで興奮した。傍から見れば自分は性欲に対して淡白に見えるようでこうして褥を交えてしまうと驚かれた。不思議なものでも見るように。合わせ鏡のように。
真綿で詰められた偽りの胸乳にそっと指先が触れる。ざらついた大きな手が何かを確かめるように滑り込んできた。項に寄せられた頤が何かを云おうと開くが、次の瞬間。唾液と共に飲み込むと強く吸い上げた。
「泣いちまえ。形振り構わず思い切り剣心」
腰巻に手が伸ばされて弄られていたことに気が付いた時、時既に遅く。既に反応し濡れそぼっている先端を強く爪先ではじかれた。脳天に響く強烈な快楽に頭の芯が痺れ、その快楽を飛散させようと白足袋の先が畳を引っ掻く。背後で抱きかかえている左之助にも枝垂れかかり、力なく首を振った。視線を下に転じると己の欲で汚れた左之助の指先が見える。節々が目立つ男らしい手に反応している欲に左之助が見逃すわけがない。肌蹴た裾が目に痛い、色っぺぇ、たまんぇよと繰り返す掠れた声。鼻に篭った吐息に合わせるようにして足を限界にまで開かされ、臀部に脈打つ昂ぶりを腰に押付けられた。眩暈がするほどの熱と快楽に脳神経の総てが焼き払われた。
「男同士でするなんて馬鹿げているとは思わないか」
微かに体の奥で燻っている熱をもてあましながら問いかけると反対に理由を聞かれた。同じなんだ、わかんねぇのか、と目が強く物語る。
帯を解かれ口に含まれるともう意識はなかった。
ざあざあと相変わらず降り続けている雨模様に辟易としながらも白け始めた空の端を捉えた。
「左之。随分と冷たい雨でござるな」
情事の所為かはたまた泣いた所為か腫れぼった目を擦ると肩口が冷えぬよう内掛け布団が寄せられた。
そろそろ朝餉の支度をしようと軽く目を閉じようとすると頭上で、嬢ちゃんたちと照る照る坊主つくろうかと提案する左之助に頷くと短い眠りについた。
雀が鳴く空の端の中で、漂う照る照る坊主。
照る照る坊主。照る坊主。明日天気にしておくれ。
そう口ずさむと不思議と心が軽やいだ。


  −了−

06.09.01 UP

〜 朱空一水さま より、50,000 hit 祝い m(_ _)m 〜
HP:「コンペイトウ」さま

背景画像提供:「篝火幻燈」さま http://ryusyou.fc2web.com/


 朱空一水さまより、50,000 hit のお祝いとして頂いてしまった小説です(//▽//)♪
 雨を背景に、剣心のさまざまな思いが投影されて・・・なんだか切ないです(><)!
 決して忘れることはない、いつでも胸にくすぶっている罪の意識・・・。
 心に抱えている闇が、なんともいえない物悲しさを漂わせています。
 でも・・・そんな彼のそばにいる左之助がナイスです(//▽//)♪
 左之助と剣心は、こうでなくっちゃぁ(笑)!!
 素敵な小説を、どうもありがとうございました! 大事にさせていただきます〜(*^^*)!!
 m(_ _)m