そよぐ風の中に、一抹の冷たさを覚えた。
小さく、身を震わせて・・・つと、空を見上げれば。
徐々に昇り行く月・・・満月。
皓々と夜空を浮かび上がらせ、淡く鈍く輝いている。
雲もなく、星も見えず・・・澄んだ水の中であるように透き通り、水面を真上から覗き込んでいるような・・・そんな錯覚を引き起こすほどの、麗なる夜。
「・・・静かな夜でござるな・・・」
独りごちて、風にふわりと赤毛を靡かせた。
縁側にぽつりと胡座をかき。
傍らに徳利、ささやかな肴。
手の中にはやや大きめの湯飲み茶碗。
満々と湛えられたそこには、丸い月が映り込んでいた。るる・・・と波紋が広がる。
・・・と。
ひら・・・
月の上、何かが舞い落ちてきた。
「お、桜・・・でござるな」
ゆらゆら、ゆらり。
水面の真上、月の真上、花びら一枚・・・
ゆら、ゆらり・・・
波紋を広げ、
ゆら、ゆらり。
「・・・月と桜を干す・・・か」
唇に薄く笑みを刷き、赤毛の人・・・剣心は一気に、湯飲み茶碗をあおった。
卯月に入ってからというもの、風も暖かく、少しずつ過ごしやすくなってきた。
あれほど辛かった水仕事も苦にはならず、
何よりこうして、月を眺めながら酒が飲めるようになった。
それが一番、嬉しいかもしれぬ。
しかし・・・
「・・・独りで飲んでも、美味くはござらんな」
苦笑を滲ませ、視線を徳利の傍らへと流した。
・・・その影に隠れるように。
コトン、湯飲み茶碗がもう一つ。
濡れぬままにひっそりと、気配を殺してそこにいた。
「やれやれ、せっかく肴をこしらえたというのに・・・仕方がない、今宵は眠るとするか」
別段、約束を交わしたわけでもなかったのだが、姿を見せなかった親しき男に、剣心は苦笑で濁すしかなかった。
彼は徳利と湯飲み茶碗、残ってしまった肴を抱えると、スッと立ち上がり。すぐ後ろの己が私室へと裾を翻した。
闇・・・の中で。
沈んでいた意識がじわり・・・浮き上がる。
眠っていた余韻などなく、意識は鮮明に冴え渡る。
五感が訴える、
「誰か来たぞ」と。
求めに応じて瞼、すぅ、と開かれる。
少しくぼやけていた視界はゆるゆると、滲んでいた線を一つに重ね合わせていく。
見えたものは・・・壁。
影を落とす、障子の格子・・・
・・・明るい。
蒼く淡い光りに包まれた室内・・・剣心は、無心になって格子の影を見つめた。
音も・・・なく。
風すら、なく。
褥の中、寝返りを打つこともなく剣心は、ただただ瞳を開いて壁を、格子の影を見つめ続けた。
心に写り込もうとしている何者かの気配に、じ・・・と意識を傾けて。
微動だに、せずに。
待ち続けた。
・・・ぎぃ・・・
それは、板の間が軋む音。
恐らく・・・縁側からの音・・・
重みに堪えきれず、悲鳴を上げた板の間の声・・・
・・・ドク、ドク、ドク・・・
いつしか剣心の、薄い胸板、奥の奥・・・底の底で、それは小さくも強く、唸りを上げ始めた。
血が、流動を始める。
刻々と加速しながら・・・。
ぎぃ・・・ぎぃ、ぎぃ・・・
小さな音だと思っていたのに、それはだんだんと大きくなってくる。
剣心は淡い光の中で壁に目を見張り、次いで傍らの逆刃刀を見遣るとつい、きゅぅと褥を握りしめた。
やがて、
ぎぃ。
その声は、この部屋の前で止まった。
心の臓が、一つ大きく高鳴った。
壁には、格子の影ともう一つ・・・人影が。
四方へ飛び散った髪の毛が刻銘に映り込んでいて。
自ずと、影の正体を知って剣心は、思わず息を止めた。
あぁ・・・やはり、お主なのか。
胸の中、小さく呟いたその目の前で。
格子の影が左右へ広がり、
背中の向こう、冷気を宿した空気が流れ込んだ。
ヒヤリと首筋、冷気は這ってきて。
反り上がる背筋、張りつめる意識。
そんな彼の目の前に、
ふわり・・・
視界に何かが舞い込んだ。
・・・桜の花びら・・・
ドクン。
弾んだ胸の痛みに眉間、皺を刻み。
つい、瞳を閉じた。
・・・ぱたん。
障子が閉じられる。
ミシ・・・
と、畳が囁く。
それから・・・しばし、静寂が流れた。
・・・何もない空間。
されど、
そこには熱い眼差し、痛いほどの・・・
背を向けて目を閉じているとはいえ、今自分が、頭の天辺から爪先まで舐めるように見られていることを感じた。
掛け布団を貫いて、視界に捉えられぬはずのこの、姿を・・・。
無意識のうちに、身体が強張る。
乱れそうになる呼吸を必死に抑えて、
剣心は目を閉じ続けた。
と・・・
ス、ズ・・・
微かなる衣擦れの音。
バサ。
畳へ、落ちた。
画然、肌は粟立った。
震えそうになる身体を、どうにか押し殺す。
口の中、開いてもいないのに激しい渇きを覚えた。
来る・・・ここに、来るのか・・・?
ドクドクと胸を鳴らして、剣心は来訪者の気配を感じ続けた。
こっちに来て・・・その腕を伸ばすのか?
それともそのまま潜り込んでくるのか、
あるいは・・・
一人闇の中、胸中にて格闘を繰り広げていく間に、
来訪者は褥のすぐ側まで、歩み寄って。
トン・・・膝を落とし。
掛け布団を捲ると己が身体、滑り込ませた。
「!」
一瞬、肌が硬直したがそれでも、目を開かなかった。
寝返りも打たず、相も変わらず壁のほうへと身を傾けたまま。
・・・ただ、相手の匂いが鼻腔を犯した。陽の光を浴びたような匂い・・・
意識が一瞬、霞んでしまう。
寝床へ潜り込んできた来訪者は、彼の心中などわからぬのだろうか・・・
いや、目を覚ましていることも知らぬのか。
やや粗暴に己が爪先、剣心の爪先へと擦り寄せた。
その冷たさに剣心、とうとうぶるりと一つ、震えてしまった。
来訪者の動き、一瞬、止まる。
・・・気づかれただろうか、起きていることを。
瞳を閉じたまま、剣心は考えた。
もう、瞳を開いてもいいだろうとも思ったのだが・・・
ここまでくると、開きたくない思いに駆られていた。
確たる理由もないというのに。
・・・どうすれば・・・
考えようとした矢先、
ぞろり。
鬢を掻き上げられた、がさついた指先で。
頬の十字傷が露わになり、生やかな呼吸が降りかかる・・・
微かな、温もり。
思わず細い喉仏が上下に動いた、音もなく。
「・・・起きてンだろ、剣心」
耳朶へ奥深く、重くも低い声音が脳髄に染み込んだ。
剣心の肩が、竦んだ。
「起きてるよなぁ・・・? 俺の気配・・・知ってンだろ・・・」
背後から。
絡んできた腕がもぞり、懐へ潜り込んできて。
冷ややかな手のひら、滑らかな象牙の肌に張り付いた。
袷をくつろげ、胸乳を晒し・・・
帯を、解かれた。
「剣心・・・」
項の髪、掻き分けて唇、首筋に吸い付いてくる。
生え際、舌先を這わせ・・・。
「・・・ぅ」
小さく漏れ出た声に、剣心は唇を噛んだ。
途端、耳元で忍び笑う男の気配。
「我慢、するこたァねぇぜ・・・? なぁ、剣心・・・」
声音が、次第に剣心の心を絡め取っていく・・・
心地よくも、それはどこか罪の味わい・・・
「なぁ・・・聞かせろや・・・おめェの声をよォ・・・」
来訪者の両手は、いつのまにか剣心の腰部を絡め取っていた。己が片膝を内股へと潜らせて。その片膝は徐々に、彼の身体を割り開いていく・・・
剣心はさらに強く、唇を噛んだ。
来訪者が下卑た笑いを浮かべていることを知りながら、無駄な努力を怠らなかった。
そう・・・自分でも「無駄な努力」とわかっていながら、やらねば気がすまなかった。
彼の心労など慮ることなく、来訪者はまさぐる手をたゆませることなく、思う存分味わっていく。
次第、次第に上気していく肌、
刻々と乱れていく己が呼吸・・・
混濁していく意識の中で、剣心は必死になって考えていた。
これはどう考えても、おぞましい行為でしかない。
男が男を抱き、
男が男に抱かれるなどと・・・
剣心の理性は訴える、
「このままでは駄目だ」と。
自分もこの男も、いずれこのままでは・・・
ならば、この男を引き剥がしてしまえばいい。
今、すぐに、振り返って両腕を突っぱねてしまえばそれですむ。
脳裏で叫ぶ、「この男から離れろ」。
でもそれができない、どうしても。
なぜ?
なぜ何度も、同じ思いに捕らわれるのに引き剥がすことができない?
いけないこととわかっていながら、何度こうして・・・
「・・・ふ、くぅ・・・あぁ」
無意識のうちに、唇からは甘いため息が洩れていた。
瞳すら、薄く開いていて・・・
「剣心・・・」
自分を呼んだ来訪者に、彼はにわかな反応を見せる。
「こっち、向けよ・・・」
伸ばされた手のひらが頬を包み込み、そっと仰向かせた。
壁側へ向いていた身体が天井を見据え・・・上空を支配する来訪者を捉えた。
とうとう見開かれた瞳が、相手を視界に映し出した。
「・・・左之・・・」
名を呼ばれて来訪者は・・・左之助は、嬉しそうな笑みを刷いた。
「やっと俺を呼びやがった、この強情っぱりが」
「よく言う・・・寝込みを襲っておいて」
「襲う? 馬鹿野郎、ふて寝をしていた野郎に言われたかねェな」
クツクツと笑いをこぼした左之助の髪から、
はらり・・・
舞い落ちるもの。
「・・・花びら・・・」
剣心の呟きに左之助、落ちてきたものを指に取り、
「あぁ・・・桜だ。くっついてきやがったか」
花びらを剣心の額へ落として・・・左之助は言った。
「今度、花見に行こうぜ。みんなで弁当持ってよ・・・」
「あぁ・・・そうだな、行こう・・・」
それきり、左之助から言葉が洩らされることはなく。
少しく瞼を落としながら唇、寄せ始めた・・・
あぁ・・・この瞬間だ。
つと、剣心は悟った。
いけないことだとわかっていながらどうしても離れられぬのは・・・
「この瞬間」にすべてを得られるからだ。
自分が本当に求めてやまないものの、すべてがここにある、存在している・・・
これから先はきっと、
どんなに求め、欲しようとももう二度と、
手に入らないだろう、この想いは。
手に入らないだろう、この温もりは。
自分を安らぎに導くこの腕を、
手放すことなど・・・
「左、之・・・」
わななく心を、
わななく肌を、
剣心は委ねる・・・逞しい腕に。
ここにいれば何もかも忘れられる、
ここにいれば何もかもが与えられる・・・
・・・ここに、いれば・・・
桜の花びらとともに訪れた、
至福の瞬間、
芒たる夢、
まどろみの春に・・・
了
拝啓
ハハハ・・・な・・・何なのでござろうねェ〜、コレは(^^;)
う〜ん・・・単なる夜這いに過ぎないような・・・(-_-;)
自分でも何が書きたかったのかわからないのでござるが(笑)、何も煮詰めることなく、徒然に書いたことだけは確かでござるかな〜(^▽^;)
しかしながら、左之助が訪れるまでの間・・・剣心へと手を伸ばす、その瞬間までを楽しみながら書いていたように思いまする(笑)
でも・・・本当にそれだけ(-_-;) 意味などござりませぬ(涙) あ〜・・・何だかなぁ(^▽^;)
お目汚し、ありがとうでござりました! m(_ _)m
かしこ♪