それは、ある晴れた昼下がり・・・
照りつける日差し、泣き叫ぶ蝉。
なれど、時折過ぎゆく風は些か、冷涼にて心地よく・・・
「ほいっ、ほいっ、ほいっ・・・と」
軽やかな足取り、洩れる言葉。
にやけた面差しには、暑さへの恨めしさは微塵もない。
「惡」一文字の下ではじっとり汗ばみ、露となって流れ落ちているにも関わらず。
むしろ、そんな感触を楽しむかのように半纏、裾を軽く掴んで空を孕ませる。
ふわり・・・晒しを巻いたしなやかな肉体が垣間見え。陽に焼けた、浅黒い肌がさらに光を浴びた。
爪先が選んだ目的地は、既にねぐらと呼んで差し支えがないほどに入り浸っている「神谷道場」。玄関を掃き掃除していた女性が、彼の気配にパッと顔を上げた。
「あら、左之助」
「よぉ、嬢ちゃん」
ニヤリと笑い、左之助は道場が主、薫に軽く手をあげた。
「今日は来るのが早いじゃない。夕餉にはまだ、時間はあるわよ?」
「意地の悪いことを言うねェ」
微苦笑をこぼしながら、彼は笑顔で言った薫にチラリ、右手に下げていた物を差し出した。
「ほらよ」
「なぁに?」
「ちょいとした縁で、和菓子屋の旦那から羊羹をもらったんでェ。俺ァ、甘いモンは嫌いじゃぁねェが、ちょっと味をみりゃぁ気がすむからよ、どうせなら・・・と思ってな」
「あら、あんたにしては気が利くじゃない」
「何だよ、そりゃ」
「それに今日は出稽古の日じゃないから、弥彦もいるし」
「そう思って、今来たんだよ」
「あら、ますます気が利くじゃないの、左之助!」
「・・・いい加減にしねェと、しまいにゃぁ怒るぞ、コラ」
やや呆れ、されどいつもの扱いに左之助、ただただ吐息をついて苦笑するしかない。これが、彼女なりの自分に対しての愛情表現であることなど、彼には先刻承知済みだからだ。
「弥彦ぉ、剣心! 左之助が羊羹を持ってきてくれたわよー。今から食べましょうー」
薫の声が屋敷の隅々まで響いたのだろう、ひょこっと少年が顔を覗かせた。
「左之助が羊羹だァ? どういう風の吹き回しだよ。雨でも降るんじゃねぇのか」
晴天爽快、顔をしかめて天を仰いだ弥彦、ほっと息をついてそう言った。
薫からも言われ、弥彦からも言われ。さしもの左之助も、少しムッとしてしまった。
「何だよ。俺が持ってきたのがそんなに珍しいのかよ」
「ああ、珍しい」
「・・・・・・」
即答され、左之助は容易く絶句。何てことだろうと呆れてしまったが、もう言い返す気力などない。・・・自分がどれだけ、二人の中で印象が悪いのかを思い知ったのだった。
「あら? 剣心が出てこないわねー。いつもならすぐに出てくるんだけど・・・」
「部屋に居ンのか? 俺が呼んできてやるよ」
これ以上、二人と話すのはゴメンだ・・・内心、そうしたぼやきをこぼしながらここぞとばかり、左之助は踵を反転させた。
母屋の離れ、道場へ行く手前に尋ね人の部屋はある。
左之助は中庭を通り、縁側へと上がり込んだ。
この暑い最中、障子が閉められている。
中で何をしているのだろう?
少しく訝りながらも、
「おーい、剣心。居るんだろう?」
スラリ、
開いてみれば。
「・・・・・・」
目の前に広がった光景に、左之助はしばし、唇を閉ざした。
不思議な赤毛を宿す、優男が。
愛刀である逆刃刀を傍らに、横になって眠っていた。
・・・・・・眠っている、のだ。
片膝を立てた座位ではなく、しっかりと横になって・・・
「・・・剣心?」
左之助は。一歩、敷居を跨いで中へと入った。
しかし、剣心は目を覚まさない。畳の上、赤毛を散らしたまま・・・
珍しいことだった。
この一流の剣客が、人を目の前にして目を覚まさないとは。
それほどまでに深い眠りに入ってしまっているのか?
・・・考えられないことであった。
普段であれば、心を許しているであろう薫の、そして弥彦の気配を捉えたときにはまるで、眠っていたとは思えぬほどふわりと瞳を開くのだ。開くなり、
「どうしたのでござる、薫殿?」
と、にこやかに声をかける・・・
それが、剣心だった。
例え左之助であっても、その反応のはずだ。
なのにこれほどの至近距離、かつ、声もかけているのにピクリともしない。
まさか、剣心の身体に異常がッ?
不意に不安に駆られ、左之助は膝を擦って剣心の傍らへ腰を落とした。
まじまじ、彼の面差しを見遣る。
・・・すぅ・・・すぅ・・・
・・・微かだが。
寝息を・・・立てている。
聞き慣れているあの、寝息が。
「な・・・ンだよ・・・」
思わず左之助、ほうっとため息を吐いてしまった。
心配するほどのことでもない。
彼は本当に、眠っているのだ。「昼寝」に興じているのだ。
それにしても・・・
「いくら昼寝ったって・・・そんなに深く眠り込んじまうもンか? え? 緋村抜刀斎さんよ・・・」
苦笑して。
左之助は、心の底から安堵して改めて、剣心の面差しを見遣った。
ゆるりと落とした、瞼。今にも開きそうな余韻、されども結ばれた睫。
柳眉な眉は、眠っているときですら凛々しく。
味わい尽くしたはずの唇は、ふっくらと丸みを帯びて白い歯、少しくこぼし。
十字傷に降りかかる赤毛が、今は恨めしく思う。
邪魔もなく、そのままの彼の寝顔が見たいと思ったから・・・。
・・・考えてみれば。
「おめぇの寝顔・・・はっきりと見るのは初めてかもしンねぇなぁ・・・」
肌を重ね合うのは、闇の中。
明かりは月、時として行灯。
ある時は陽の光・・・されど。
眠るのは夜、薄明かり。
彼の面差し、鮮明に見た記憶がはたとない。
そう、思うと・・・
左之助、おもむろに立ち上がった。
開きっぱなしであった障子、ストンと閉じて。
半纏、脱ぎ捨てた。
コクリと鳴る喉、酷く鮮やかに。
滲んでいたはずの汗、一瞬ひいた。
否が応にも、胸が高鳴る。
にわかに、指先が震えていた。
・・・俺は、何をしようと・・・
自らに問いかけるまでもない、既にわかっていることだ。
けれども、
嫌だ・・・起こしたくねェ。このまま・・・剣心の寝顔を見ていてェ・・・
裏腹、
今の剣心が・・・眠っている剣心が欲しくて、たまらねェ・・・ッ
相反する、両極端の思いがせめぎ合っていた。
再び、膝を落として。そっと・・・手を伸ばし。
剣心を守るようにして側にある逆刃刀、指先で触れた。
・・・逆刃刀を除いては、剣心が目を覚ましてしまうのではないか・・・
一抹の恐怖が、左之助の心を巡る。
が、
一度掴んだ逆刃刀を、離すつもりはなかった。
グッ、持ち上げてみる。
・・・しっかり手入れが行き届いている証拠、鍔鳴りの一つも聞こえてはこなかった。
内心、安堵して左之助は、逆刃刀を脇へと退けた。
これで、邪魔者はいない。
焦る思いを抑え込み、左之助は剣心の傍らへと身を横たえた。
間近に、剣心の寝顔。
先ほどよりも刻銘に、眉の生え際から睫の長さに至るまで、しっかりと見ることができた。
見れば見るほどに、整った顔立ち。
思わずうっとりと吐息をつきそうになって、左之助は慌てて息を呑んだ。
・・・綺麗な顔、してやがんなぁ・・・
まじまじと見つめながら、左之助はそう思わずにはいられない。
されど、彼は知っている。
その宿した瞳でどれだけの修羅を見つめ、潜り抜けてきたのかを。
悲劇を、憎悪を、腐るほど見つめてきたことを。
だから・・・剣心の瞳は、面差しは深い愁いを常に秘めている。
誰にも慮ることのできない、底のない「愁い」を。
「剣心・・・」
そんなに深い眠りに入って、お前はどんな夢を見ている?
幕末の頃の夢か、はたまた流浪の十年か? それとも・・・・・・
・・・つと。
左之助の視線、剣心の面差しから落ちた。
頤から喉仏、鎖骨から・・・
「・・・・・・」
ゆるやかな袷が、横たわってしまったことでさらに、はだけてしまっていた。
うっすらと汗ばんだ肌が・・・胸乳が、影に染まって密かに。
「・・・ッ」
思わず、唇を噛んだ。
「剣心・・・っ」
小さく、呟き。
彼は己が顔をグッと、剣心へと寄せた。
トク、トク、トク・・・
聞こえてくる鼓動が、忌々しい。
自分はそれほどまでに緊張しているのか。
自嘲しつつも、身の強張りを解くことなどできずに。
・・・左之助は。
剣心の面差しまであと一寸という距離まで来た。
・・・すぅ・・・すぅ・・・
剣心の寝息、吐き出される空気。
それを、左之助の鼻先が少しく吸い込んだ。
途端、じわりと汗ばむ。
・・・起こしたくねェ・・・
ちょん。
互いの鼻先、触れあった。
もう、彼の名を呼ぶことはできない。
呼べばきっと、彼は起きてしまう・・・
・・・だからっ
もどかしい思いをそのままに、左之助は鼻先同士を摺り合わせる。
・・・触れあうほどに、何度も。
軽く息を吸い込みつつ、ゆっくり吐き出しつつ。
剣心と、一つになったような錯覚を覚えた。
あぁ、もう・・・ッ
堪えきれない。
これ以上、堪えきれない。
・・・唇を・・・
少し、くらいなら・・・
啄むように・・・掠めるように。
左之助は羽の如くの軽さで唇、一瞬合わせた。
「・・・ッ」
知っているはずの味、貪り尽くしたはずの味。
なのに。
ほんのわずか、一瞬であったのに・・・
気づけば。
左之助は深く、剣心の唇を奪っていた。
力無く、薄く開かれていた唇は容易くも、左之助の支配下に落ちる。ややぞんざいに、されども熱っぽく。左之助は我を忘れて甘やかな花びらを散らす。
剣心の身体を仰向かせ、無意識のうちに膝を割り、両腕でしっかり腰を抱いて。
深く、深く、深く・・・・・・
深淵へ向かって、舌先を乱舞させる。
「ん・・・」
初めて、
剣心が声を漏らした。
ピクリ、指先が痙攣する。
「・・・ん・・・?」
瞳を閉じたまま、剣心は眉を寄せ。
闇の中、何が起きているのか少しく巡らせ。
のち・・・
「・・・あ・・・」
何をどう、理解したのか。
左之助の肌に背中に、剣心の両腕がまとわりついた。
「ふ・・・ん、ぅ・・・」
左之助の唇を受け止めて、剣心は流されるがまま。
身体が、感情が覚え込んでしまった左之助の唇。
絡みつくような、逞しいような・・・
それでいて・・・
「ん、左ぁ之・・・っ」
小さく喘いで、剣心は。
左之助の背中を何度も撫で上げた。
「剣心・・・」
求めてくれている・・・ッ
袴を割っていた膝を迎えるように、剣心の脚はゆるりと開かれ。
爪先が、強く畳を突っぱねている。
わずかに浮いた腰部が、左之助の大腿に擦り寄せられ・・・
「左之・・・っ」
「剣、」
と。
「お〜い、剣心、左之助? まだ来ねェのかよ?」
画然、障子の向こうから少年の声。
ハッと左之助、自分が何の目的でここへ訪れたのかを思い出す。
内心慌てたが、慌てたところでどうにもならぬ。
左之助、咄嗟に返答していた。
「悪いな、弥彦。今ちょいと、立て込み中だ。あとで行くから、二人分だけとっといてくれや」
左之助の言葉に、障子の向こうで弥彦、首を傾げた気配。
「立て込み中? 何だ、そりゃ」
「ちょいと、剣心に話さなくちゃならねぇことがあってな。それを思い出したんで、今その話の途中なんだ。もうすぐ終わるからよ、先に食べててくンな」
少しばかり苦しい言い訳かとも思ったのだが、やや不思議そうな気配ではあったが弥彦、納得はしたようだ。
「わかった。一応二人分はとっておくけど、保証はしねぇぜ。何しろ薫がいるからな」
「あぁ、わかったよ。なるべく早く、そっちに行くぜェ」
この台詞を最後に、弥彦の気配は消えた。
やれやれ・・・と胸を撫で下ろし、さて続きをば・・・と、眼下を見てみれば。
「け・・・剣心・・・」
すっかり覚醒してしまったのだろう、ぱっちりと目を開いた剣心が、深い色を湛えた瞳でじっと、左之助を見つめていた。
「・・・これはどういうことでござる、左之助」
「へ?」
どうも、雲行きが妖しい。
先ほどまで喘ぎ、悶えていたはずの剣心はどこへやら。
寝顔すら思い出すことが難しいほどに、剣心の面差しにはありありとした怒りが。
左之助、嫌な汗を拭き出した。
「いや、その、羊羹を持ってきたから、一緒に食わねぇかな〜・・・と、思って呼びに来たんだ」
「ほぉ」
「そしたらよ、おめぇ、昼寝をしてやがって・・・呼んでも起きねぇから・・・」
「・・・それで?」
「それで・・・・・・その・・・」
「・・・寝込みを襲ったのでござるか」
「そんなつもりは・・・」
「言い訳は聞かぬッ」
剣心、両手を突っぱねるなり左之助の身体、振り落とした。
唖然としたままの左之助、呆然として剣心を見上げるしかない。
「全く・・・油断も隙もあったものではないッ。こんな昼間っから・・・拙者の寝込みを襲うなどとッ。しかも薫殿も弥彦もいるでござるのにッ」
ぶつぶつと言いながら、剣心は慌ただしく身支度を整えた。
左之助は慌てて立ち上がり、
「でもよ、おめぇ、本当に起きなかったんだぜッ? いつもなら気配で目が覚めるおめぇが、珍しいなと思ってよ・・・」
「だからといって、寝込みを襲うなどと卑怯も甚だしいでござる!」
くるりと振り返り、剣心は左之助を見上げた。
瞳に浮かぶのは烈火の炎。
しまったとは思ったが、もはや後の祭り。
「悪かったよ、剣心。もう二度と、やらねぇよ」
「当たり前だっ」
「それにしても・・・どうして起きなかったんだよ、剣心。おめぇ、弥彦が来た途端、しっかり目を覚ましやがって・・・。俺が何をしても全然、起きなかったじゃねぇか」
「・・・・・・『何をしても』・・・?」
ハッとしてしまったがもう、遅い。
「左之助! お主はこれより十日の間、ここへの出入りを禁ずる!」
「はぁッ? 何だよ、そりゃぁ! 元はといえば、目を覚まさなかったおめぇが・・・」
「問答無用ッ!」
「剣心ッ? ちょ・・・待てよ、剣心ッ!」
パアンっと一つ、
すこぶるけたたましい音を立てて開け放たれた障子、ぶるりと震え。
どかどかと母屋に向かって歩み出した剣心を、左之助は慌てて追いかける。脱いでしまった半纏を、剣心の私室に置き忘れたまま。
・・・そう。
彼が大切な半纏を再び羽織ることができたのは、これより十日後のことである。
それを左之助が思い知ったのは、口も利いてもらえず、すごすごと屋敷を後にした直後のことだった。
が、どうすることもできず、左之助は自らの突飛な行動を悔やみながら帰途につき・・・
「あぁ・・・俺の馬鹿野郎・・・」
・・・チリン。
どこかで風鈴が一声、鳴き。
青い空の下、ひらりと舞った、赤蜻蛉。
左之助の頭上、音もなく飛んでいった・・・
了
「昼下がりの災難」(改訂 03/4.6)