骨をも震撼させる右脇の重み・・・
それはかつて、確かに味わったもの。
この世のすべてを粉砕するかのような、凄まじいまでの破壊力・・・
鋭き一撃は、万の兵数に相当するかのような。
おぞましくも圧倒的な斬撃が、十年前と寸分違わず存在していた。
− 詰めが甘い!
その声とともに、
ガシュッ
身に刻まれた豪なる一打。
蹴飛ばされ、木の葉の如く小さな身体、ヒュウと舞う。
と・・・
・・・もぞり。
身体の奥、何かが寝返りを打った。
動いてはいけないものが、
存在してはならぬものが、
確実に身の内側、身悶えたのがわかった。
これは・・・
心の深淵、何かが悲鳴を上げた。
− 土方歳三の考案した「平刺突」に死角はない。
まして俺の「牙突」なら、尚更だ。
腰を据え、左腕を大きく引きながらも右腕、突き出すように押し出された特有の構え、「牙突」・・・。刃に彩りを添えるかのような双眸は、爛たるも底冷えする光が煌めいている。
喉笛に狙いを澄まし、切っ先、右の指先がふぅ・・・と愛おしむように添えられ、
ダンッ
床を蹴り上げ弾丸の如く長身、懐へ飛び込んでくる。
素早く反応して愛刀、鞘走りをさせるもたちどころ、背中に夥しい痛みが走った。
壁の、冷たい感触。
思わず左手、右脇へ寄せた。
・・・どろり。
生温かなものに触れて神経、たちまち晴れやかに冴え渡った。
− 無駄なあがきを!
声が遠い・・・何を言っているのか、わからぬ。
でも・・・
・・・覚えている・・・この感覚を。
斬られた時の痛み、肌を伝う血の感触、臭い・・・
・・・そして、斬撃の衝撃。
覚えている・・・覚えているとも・・・この感覚、この衝撃・・・
・・・忘れるはずが・・・
のそり、立ち上がった。
「ハァ、ハァ、ハァ」
息が荒い。
呼吸が整わぬ。
肩で息をせねばならぬほどに、血が高騰して鼓動が速い。
まだだ・・・まだ、何かが足らぬ・・・
何が・・・?
わからない・・・わからない、が・・・
つと、何かが視界を遮った。
何だ、誰だ・・・女・・・?
いや・・・誰でもいい、今は・・・そんなことは、どうでもいい。
今は・・・
・・・今は、
やらねば、ならぬ!
俺は・・・!
「いくぞ」
初めて、
生気が宿った声を出せた気がした。
初めて、
剣を握っているのだと実感した気がした。
そう・・・そうとも、今は闘っているのだ・・・
・・・誰と?
誰・・・
・・・言わずと知れた、新撰組三番隊組長・斎藤一!
俺達の、敵だ!
途端、身体から重みが抜けた。
痛みなど忘れてしまったかのように・・・
宙に、浮いた。
「ぬ・・・おおぉぉ!」
耳朶を貫いた斎藤の咆吼。
画然、
顎を砕かれる衝撃・・・肉体が重みを思い出して後方へ飛ぶ。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
息が荒い、息が乱れる、息が・・・
けれど・・・けれど・・・
・・・思い出した。
思い出せた。
足りなかったものが。
欠けていたものが、忘れていたものが・・・
思い出せたよ、斎藤・・・。
「正真正銘の牙突、手加減なしだ」
だから何だ・・・? 手加減なしだから、何だというんだ。
来るのならば来るがいい。
貴様の牙突など、もう通用しない。
疾風となった牙突が迫り来る、刃が右頬をギュンと掠める。
刹那、右踵を軸に身体を反転、
愛刀を抜いた、
「おおおお!」
腹の底から怒号を迸らせたその先に、愛刀がめり込んだ後頭部。
勢い余って長身痩躯、爽快に宙を飛んで壁に揉まれた。
土壁が崩れ、一瞬の静寂・・・
・・・その、奥から。
「フ・・・フフ・・・本当は、力量を調べろとだけ言われていたが、気が変わった・・・」
ゆらりと姿を見せたその額、夥しく血潮を噴かせて滴り落ち・・・
眼光、妖しくも鬼気と光を放った。
「もう、殺す」
「寝惚けるな」
間を置かず、低く冷酷な声音が空を斬る。
「『もう殺す』のは、俺のほうだ」
口腔に広がる鉄のような味わい。それをどこか喜悦の思いで飲み下し・・・
「おおおお!」
互いの魂、同じ鬨の声を上げた。
・・・それからは。
剣と剣の、あるいは拳との激戦・・・
わずかな時の流れが数十倍の長さに感じられるかのような、濃厚な時間。
身体に走る痛みなど、
繰り出す斬撃の凄まじさなど、
もはや意味を成さぬ。
血が肉が、魂の底からざわめいた、あらゆる感覚など忘れ去り。
偏に刃の動きを追い、
偏に相手の双眸を睨み据え、
あらゆる攻撃にあらゆる方法で反撃していく。
久しぶりの味わいだった。
久しぶりの猛々しさだった。
この、ギリギリでの命のやり取り・・・
・・・たまらない。
瞳、喜々として染まる。
だが・・・血の饗宴には必ず終止符が打たれる。
・・・「死」という形で。
「そろそろ・・・終わりにするか」
ゴキッ・・・と拳を鳴らし、壬生の狼はにやりと笑う。
「・・・そうだな」
チャッ・・・と鞘を握り、
スィ、と腰を落としざま鐺、
ふぅと狙いを定めた、
「おおお!」
ゴッ
二人の間合いは急速に縮まり、
「・・・!」
ぱち、
目が、覚めた。
「・・・ハ! はぁ、はぁ、はぁ・・・」
短く荒く、荒く短く、呼吸を繰り返す。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
呼吸を繰り返しながら、眼前に広がった光景に突如、心は竦んだ。
居場所は・・・自分の部屋であることがかろうじて、認識することができた。
そこまでは、いい。
問題なのは・・・
「・・・目ェ、覚めたかよ」
小さくも低い声が、耳朶の奥へと痛く響いた。
身体が硬直し、身じろぎ一つできぬ。
「左、左之・・・」
驚きが隠せなかった。
彼が目の前にいたからではない。
その彼に向かって今、自分は愛刀を・・・逆刃刀を抜き放って切っ先、喉笛に狙いを定めていたのだ。
片膝を立ててピタリと。寸分の狂いもなく、定めて・・・
驚愕に瞳を見開いたままの彼・・・剣心に、切っ先を生々しく感じながらも左之助、悠然と口を開く。
「朝だぜ、剣心」
「あ・・・あぁ・・・」
「・・・目が覚めたンなら、そいつを降ろせよ」
言われ、剣心は慌てて逆刃刀を鞘へと戻した。
それでもまだ、表情が強張っている。
「大丈夫か」
「・・・あぁ・・・」
「眠れたのか」
「・・・あぁ・・・」
「嘘をつくな」
やにわに頤を掴まれ、剣心は面差しをあげられた。瞳に緊張が走る。
「・・・隈ができてンぜ。それに・・・」
左之助の左手、乱暴に彼の袷を握るなりグイッ、手前へと引っ張り上げた。漆黒の瞳、露わになった懐の奥へと突き刺さる。・・・薄暗くも青白い肌、そこには・・・
「ひでェ寝汗だな、おい」
「・・・!」
抑揚のない声に指摘され、剣心は思わず身を震わせた。・・・言われてみれば、全身がじっとりと汗ばんでいる。夏でもないのに、玉のような雫がびっしりと。
剣心、瞳をわずかに伏せた。
そんな彼を、しばし沈黙の中で見据える左之助。その表情に一片の温もりも見えぬ。
やがて・・・
・・・ス。
力の漲っていた左手が、袷から緩やかに離れた。
離れ、膝を起たせ、踵を返す。
「嬢ちゃんの不味い朝飯が待ってる、早く来いよ」
「あ・・・あぁ・・・」
「それから・・・」
障子まで歩み寄り格子に手をかけ。
「・・・顔、洗ってこいよ」
彼の声を、剣心は黙って飲み込んだ。視界の中、障子を開いて消えゆく左之助の影のみを追い・・・結局、精悍な姿を瞳に収めることはなかった。
「・・・顔、か・・・」
ぱちんと己が顔、手のひらで覆って、ぼそり。
「・・・それほどまでに酷い顔をしているのか、拙者は・・・」
深々と吐いたため息、澱んで重く畳を這う。
左之助が、念を押すように言い置いた意味を剣心、悟っていた。
昨日の今日である、一番不安に思っているのはあの二人であるに違いない。不安であるのは左之助も同様なのだろうが、その点、彼はやはり「男」であった。心得ているものがあると見え、今ばかりは頼もしく思えてしまうほどに落ち着き払っている。
いや・・・そう思えるのは、信頼してくれているからかもしれない・・・。
・・・自分が京都へは行かないのだ、と。
そう、たとえそのように信じていたとしても、不安を隠しきれないのが薫と弥彦だ。弥彦も顔に出すような少年ではないがとかく、薫はそうもいくまい。
そんな彼等を目の前に、渦の中心たる自分がこのような姿をさらせば・・・。
「・・・かたじけない、左之・・・」
姿を消した男へ小さく礼を述べたその直後・・・
こめかみから一筋の汗、つぅと落ちた。
盥へ屈み込み、ざぶざぶざぶ・・・着物と水の調和をひたすら、刻み込んでいる。
若葉薫る吹きゆく風、軽快な音は優美に流れ・・・
空は青く鳥は飛び、眩い光は優しく暖かく・・・すべてを照らし、包み込む。
温もりを全身に感じながら、赤毛を揺らして剣心は、たすきがけをした背中を空へ向けてざぶざぶざぶ・・・盥と着物、水の調和を溶け込ませている。
薄く透けた白磁の肌、袖から・・・肘が剥き出しにされたそれが上下に動く様を、縁側から左之助、じっと熱い視線を注ぎ続けている。
考えていることは、ただ一つ。
が、その事柄が何なのか・・・と尋ねられれば、おそらくは答えに窮する。
お題は一つであるのに、考えてしまうことが多すぎるのだ。
縁側に腰掛けたまま、左之助は瞬きすることも忘れ、じ・・・と、剣心を見つめ続けている。
この視線に、気づかぬ訳がない。
だが剣心は、一向に彼のほうを振り向く気配がない。
一辺倒に盥へ屈み込んだまま、
ざぶざぶざぶ・・・
営々と洗濯を続けている。
何を考えてやがる、剣心。
彼の丸く、小さな背中へ左之助は無言で語りかける。
昨日の今日だ・・・いろいろと考えてやがんだろうな・・・。
今朝だって、夢にうなされやがってよ・・・
おめぇ、どうするんだ・・・行くのかよ、京都に?
喉の奥まで出かかっているこの台詞を、左之助は吐き出せないでいる。
もし、そのように尋ねて「行く」と言われたら・・・?
その解答が恐ろしく思えていたりもした。
けれど・・・
・・・こいつのことだ、おそらくは京都へ行くと返答するに違いねぇ。
何だかんだ言っても、京都の人々を見捨てるようなことはできねぇだろう。
たとえ・・・人斬りを捨てた今だって、その力が必要とされるなら、
・・・人々の役に立つかもしれないと思ったら、
こいつのことだ、京都に行くに違いねェ・・・
そんな生き方に、彼の強さに自分は惹かれた。
だから否定はできない、止めることもできない。
だが・・・
・・・ここから剣心がいなくなる・・・
その現実を考えたとき、心のどこかが大きく震えるのがわかった。
一体何が・・・震えるというのだろう。
怯えているのか、悲しんでいるのか? それとも・・・
自分の心が、見えない。
「・・・剣心」
左之助の視線を痛いほど感じながら、剣心は洗濯を続けている。
そう・・・背中を貫くが如くの鋭さと熱っぽさでありながら、剣心の心は左之助へは傾いてはいなかった。
・・・あの時・・・。
脳裏に描き出しているのは昨日の出来事、夢の反芻。
十年ぶりの邂逅、そして対峙・・・
幕末の、激動の頃と寸分違わぬ剣捌きがそこにあり、何より確実に・・・
・・・「抜刀斎」は、いた。
自分にとって抜刀斎など、かつての自分であるという認識のみであった。
それがどうだ、昨日のあれは。
完全に自我を失い、壬生の狼に感化されるがままに剣を振るう姿はまさしく、「抜刀斎」。
かつての自分の姿としてではない、未だ生々しくこの身体の奥底にて、「抜刀斎」は別の人格を宿してそこにいる。
そうとも・・・「かつての姿」ではない、「もう一つの人格」だったのだ。
さもなくばどうして・・・
「・・・巻き込まれたのは拙者だけではないと・・・どうしてあの時、皆の名がすぐに出せなかった・・・」
躊躇いもなく、忘れることもなく。否、忘れてはならぬ仲間達の名を言えてこそ「剣心」と名乗れるのではないか。
それが、すっかり「抜刀斎」となり果ててしまっていた自分は、仲間達を忘れてしまっていて言えなかった・・・。
これでは・・・
「・・・今の拙者は、『剣心』とも『抜刀斎』ともいえぬ、半端者・・・」
自分は剣心であると・・・「剣心」として生きてきた、なのに・・・
足元が、崩れたような気がした。
「十年」という名の時の流れが一瞬のうちに、流砂となって・・・。
変わりに、現れたものは。
新たな脈動を打ち始めた「抜刀斎」・・・。
・・・わかるのだ。
こうして洗濯に没頭していながらも、心のどこかで抜刀斎が息づいていることを。
おそらくは・・・何らかの拍子で飛び出してこようとする抜刀斎がいることを。
自分は・・・昨夜の一戦ですっかり、かつての自分を、感覚を取り戻してしまっている・・・。
このまま・・・
「このまま、ここにいて良いのか、拙者は・・・?」
限りなく危険なように思えた。
神谷にいる人々が・・・仲間達が危険なように思えた。
それを承知でここへとどまったはず。
だが・・・もう、限界なのかもしれない。
潮時か。
自分の力を求めてくれる人々が、京都にいる・・・
みすみす、見過ごすわけにはいかない。
なおかつ、自分と同じ「人斬り」ともなれば・・・
人斬りに勝てる者は、
同じ闇を知る人斬りしかいない。
拙者は、もう・・・ここには・・・
胸の内、何やらキリリと痛みを覚えた。
「・・・剣心」
つと、背後の声に剣心、振り返った。
いつのまにか、側にまで左之助が。
彼の気配と視線は感じていたのに、どうして近距離に来ていたことに気づかなかったのか・・・
考え事をしていたからだとすぐに思い至り、いつものように苦笑を滲ませながら立ちあがった。
「どうした? 洗濯を手伝ってくれるのでござ・・・」
「夕べも、言ったと思うがよ」
語尾をさらって、左之助は低く言った。蒼い瞳を見透かすような眼差しで凝視しながら。剣心はつい、息を呑んだ。
「俺ァ、おめぇが今更担ぎ出されることが腹立たしいんでェ。確かに、昔は大久保のおっさんのために働いていたかもしンねぇ、けどよ、だからといっておめェが尻拭いをする必要はねェだろが」
「左之・・・」
「むしろ、そんな危険なヤツを潰せねぇ明治政府なんざ、いっぺんブッ潰れちまえばいいんだ。今更剣心の力を借りようなんざ・・・虫が良すぎる、阿呆のするこった」
剣心は何も言わない。苦痛を滲ませたまま静かに、左之助を見上げている。
「話に乗るな、剣心」
「・・・しかし、左之、」
「しかしもヘチマもねェ!」
ガシッと懐を掴み挙げ、左之助は語気を荒げた。
「おめェのこった、理由はどうあれ京都を放っておくことなんざ、できはしないだろうよ。だがよぉく考えてみろよ、おめぇはもう抜刀斎じゃねぇ! 緋村剣心なんだよ!」
「・・・・・・」
「人斬り抜刀斎じゃねぇだろッ? あいつらが求めてンのは今のおめぇじゃねェ、昔のお前、緋村抜刀斎だ! 今のおめェは違う、流浪人の緋村剣心だろッ? あいつらの要求を飲み込む道理はねぇはずだ!」
かなり強引であることは百も承知していた。けれども、己が本音を吐露せねばどうにも、収まりがつかなかったのだ。
彼が京都に行くことは目に見えている・・・それが剣心らしくもあり、彼の行く道であるに違いない。
だがしかし、明治政府たる大久保利通のやり口が、左之助にはどうしても気に入らなかった。今の剣心ではなく、抜刀斎を・・・当時の力を用いようとするその考えが。
・・・だから。
そう・・・そうとも。俺は・・・俺は、剣心に京都へ行ってもらいたくはないんだ!
大久保の言いなりになってもらいたくはないんだ!
お前はもう、志士じゃねぇ・・・ただの剣客、流浪人なんだからよ!
本当にそれだけか?
心の奥底、強く叫ぶのはもう一人の自分。
だが、左之助はその声に聞こえぬフリをした。
「左之・・・」
二の句が継げず、剣心はただただ、左之助を見上げているしか術はなかった。
何をどのように、左之助に告げればよいというのだろうか。
今の自分とて・・・明確な答えを得られていないというのに・・・
自分は・・・京都に行きたい・・・行かねばならない。
そう思っている。思っているが・・・
・・・正直、迷っている・・・
何を迷う、迷う必要がある・・・?
この力を役立たせるため、すぐにでも出立すればいい。それが自分の役割、生き方・・・。
そう、わかっているのに、思うのに・・・
どうしてまだ、ここにいるのだ?
行かなければ・・・行かねばならぬのに・・・!
・・・左之助・・・
お主に話せば・・・迷いの正体がわかるだろうか・・・
「とにかくだな、剣心。俺は今回ばかりは反対だぜ。おめぇの生き様が人々を助けることにあっても、政府の言いなりになる必要はねェ! あいつらのしでかしたことだ、自分達で決着をつけりゃいいんだ。わかったな、剣心!」
言いたいことをすべて吐き出して、左之助は背を向けた。背を向けるなり縁側へ戻り、ゴロリと横になる・・・
剣心は、左之助の一挙手一投足を目で追いながら・・・瞳、切なさを滲ませた。
「でも、左之・・・拙者とて、あの頃は・・・あちら側の人間であったのだ・・・だから、この一件は・・・」
ぼそぼそと呟くように言った言葉は、緩やかな風の中へ掻き消された。
若葉薫る、涼やかな風に・・・