闇に押し包まれた部屋の中・・・
にわかに湿った、吐息が洩れる。
「う、がァ・・・」
些か乱調でありながらさりとて、か細く・・・
どこか、一抹の不安を覚えさせる吐息。
喘ぐ口元、頬といわずこめかみといわず、肌という肌から汗が吹き出ていた。
褥に横たわり、閉じた瞼は天井を睨み据えている。
普段、凛々しさと精悍さを引き立たせている黒い眉が、今では八の字に歪み・・・
唇、時折噛みしめる仕草が苦痛を滲ませた。
「左之・・・」
傍ら、腰を落とし。
こまめに汗を拭き取りながら剣心は・・・じっと、闇の中で息を詰めている。
行灯の光は頼りなく、室内はぼんやりと浮かび上がっているに過ぎない。
淡い明かりに浮かぶ左之助の表情は、赤みが差しているように見えながら・・・それが、どこか鮮血を彷彿とさせて剣心、凝視できないでいる。
左之助が、斎藤一から鋭い一撃を受けて昏倒・・・数日、意識の世界を彷徨った後、目を覚ましたのはつい昨日・・・
それなのに、左之助は何事もなかったかのように昼間、普段通りの様子を見せた。こんな傷は何でもないのだというように・・・
しかし、この男が再び倒れてしまった。
打たれ強さが売りの男が、同じ傷のために倒れてしまったのだ。
夥しい高熱が、彼の鍛え抜かれた身体を襲っていた。
薬師で医者見習いの女医師・恵の見立てによれば、傷がまだ完治していない証拠なのだという。それは口を酸っぱくして、本人にも言ってあったのに無理に動いて・・・とぼやいていた。
もっとも、相当な深手を負っていながら意識を回復したあとのことであるから、そんなに心配はいらないだろう・・・そう、彼女は付け加えてもいた。
とはいえ。
この状況を招いたのは、他でもない自分の責任でもある・・・
剣心はグッと、袴を握りしめた。
この瞳に映る人々くらいは守り抜く・・・そう、誓った。
胸に刻んでこの十年、流れ歩いてきた。
それが・・・このざまだ。
左之助すら・・・いや、下手をすれば薫殿と弥彦すら守れなかった。
・・・斎藤に指摘されたとおりに。
− 半端な強さなど無いに等しい。
口先だけの偽善者の言葉など、胸くそ悪くなるだけだ。
「・・・自分は、流浪人すら失格なのかもしれぬな・・・」
斎藤に言われた一言一句が、鮮明に脳裏を掠めては胸を突き刺す。
では・・・では、流れ歩いてきた拙者は・・・今までのこの時の流れは・・・
・・・一体、どんな意味を持って・・・
「・・・所詮は付け焼き刃・・・人々のためになっているとふるっていた剣は・・・だが、単なる偽善であったのかもしれぬ・・・自己満足にしか過ぎぬのかもしれぬ・・・」
もし、そうだとしても・・・
自分のやってきたことが、無駄であるとは思いたくはない・・・
拙者は、拙者は・・・!
「左之・・・」
目の前で横たわる左之助へ、剣心は崩れ落ちた。
布団、胸元の上・・・頬を埋めて剣心は呟く。
「拙者・・・拙者はやはり、人斬りでござるよ・・・この業からは逃れられぬ・・・。いや、逃れようとも思わぬが・・・流浪人として生きることは、やはり無理なのかもしれぬなぁ・・・拙者の帰るべきところは・・・もう・・・」
剣心はゆらり、立ち上がった・・・右手に逆刃刀を握りしめて。
ミシ・・・と畳を軋ませ、スラ・・・と障子を開けば。
「・・・雨・・・」
いつしか、雨戸の向こう側・・・雨音が密やかにこだましていた。
左之助はパチリ、目を開いた。
・・・闇。
どうして明るくないのだろう・・・と少しく逡巡してみれば・・・
あぁ、もう夜なのだと思い至った。
身を、起こしてみる。
「つ・・・」
ズキリと右肩を貫いた痛みに、左之助は顔をしかめて上体を折り曲げた。
・・・そうか、俺はまた熱を出しちまって、伏せって・・・
無意識に傍ら見遣れば、水を浸した小さな桶に、手拭いが一枚。闇色に溶け込んで、ゆらゆらと手拭いが揺れていた。
看病をしてくれていたのか・・・
誰が?とは思わない、剣心であることは直感できたゆえ。
けれども、その剣心が見あたらない。
よくよく目を凝らせば、ここは彼の私室である。
夜ともなれば、ここで休んでいるはずなのだが・・・
「・・・どこへ、行きやがった・・・」
憚りだろうか、とも思い至ったが・・・不思議なことに、左之助の胸はザワザワと騒ぎ立てていた。
何かを感取ってのことなのだろうが・・・正体がわからない。
一体何だというのか・・・。
「剣心・・・」
ふと、探してみようという気になった。
思い過ごしであればそれでいい、取り越し苦労であれば良いのだ。
けれど・・・この胸騒ぎが何かを捉えたものだとしたら・・・。
ここにいては、いけないような気がする。
左之助、重い体を引き起こした。
昼間、動いていたときよりもさらに、身体が重い。
「こんな思いを味わうのは・・・初めて剣心と闘った時以来だ、な・・・」
それほどまでに斎藤の一撃は重く・・・凄まじかった。
剣心と同等、いや・・・あるいは・・・
重みに堪えられず、崩れ込みそうになりながらもどうにか立ち上がって。
左之助は、きれいにたたまれた半纏を掴み取り・・・熱と痛みに顔をしかめながらも袖を通した。
ミシ・・・と畳を軋ませ、スラ・・・と障子を開けば。
「・・・雨・・・」
雨戸の向こう側、断続的に降りしきる雨音が、けたたましく耳朶の奥を穿った。
これほど激しい雨ならば、外へ出ることはないだろう・・・
と、思ったが。
奴のことだ、一端思い立ったことを中途で投げ出すとは思えない。
もし、このまま出て行ってしまったとしたら・・・
確認せずには、いられなかった。
身体も重ければ足も重い・・・だが、それらを苦痛に思わぬところが左之助という男でもある。
鈍重に感じる足を前に前に突き出して、彼は気になる箇所を・・・母屋中を見て回った。玄関に、厨に、憚りに・・・よもや嬢ちゃんの部屋か?と思い当たって薫の部屋に耳を澄ませるも・・・気配はない。雨音でよくわからぬが、薫の寝息のみであるように思えた。
と、なると・・・
残すところは、あと一つしかない。
左之助は足音を忍ばせ、一直線に最後の目的地へ歩を進ませた。
耳朶をつんざくほどの雨音は、あらゆる音を許さなかった。
ザリザリと不快な歯ぎしりを響かせ、我が物顔で蹂躙している、
豪雨。
今にも雷鳴が轟きそうな予感に、左之助の心は自ずと震えを起こしていた。
・・・雷が怖いわけではない。ただ・・・
ただ、この先にあるものが何であるのか・・・言いしれぬ、理由なき不安に襲われ心が深呼吸をした・・・そんな感じだろうか。
渡り廊下はしどとに濡れ。
横殴りの雨粒に肌は冷やされ。
目的地についた頃には、彼の眼光は冴え冴えと輝きを放っていた、火照っていた熱をすべて奪われたかの如く。
瞳が、刃のように鋭さを帯びていた。
・・・閉じているはずの雨戸。
それが一枚、薄く開いている。
微妙な間隔が不気味さを漂わせた・・・その先、溶けた闇色。
だが躊躇わず、左之助は指をかけ手のひらを当て、ズズ・・・開き。
口を開けた闇の中へ身を滑り込ませた。
・・・神谷道場。
昼間見慣れているその空間も、こうして夜に訪れてみると全く、異質の空間のようだった。
闇が・・・静謐の闇が。
しっとりと濡れてたちこめて・・・目の前に横たわっている。
肌にまとわりつくような感触に、左之助は眉を顰めながらも振り払おうとはしない。
・・・一寸先は闇と、言葉に交えて話すことはあるが、今がまさしくその通りのことだと彼は思った。
目の前すら見えぬのだ。
己が爪先がぼんやりと見える程度・・・そんな視界の悪さであった。
なのに。
・・・何か、いる。
左之助の五感は激しく高ぶり、溶けた闇の中にいる者の存在を、強く訴えていた。
その刹那。
何かが動いたような気がした、直後の空気の胎動・・・
明確なことはわからぬ、されど左之助は確信した、ここに剣心がいる、と。
左之助、一歩前へと踏み出した。
「剣心? 剣心・・・なんだろ?」
画然、
ぶわっ
眼前を何かが横切った。
反射的というべきか、あるいは本能的というべきか。
左之助、一寸早くその場にしゃがみ込んでいた。
「なッ?」
何が起こったのかわからない。が、その身体は次の危険を察知して右へ左へ、俊敏に動いた。
右肩の傷のために、決して動きがよいとは言い難いが、それでも動かざるを得ないのは命の危険を覚えてのこと。
理性よりも、理解よりも早く身体は動き、見えない危険から回避する。
何が起こっているのか。
額に冷や汗を滲ませながら左之助、混乱しながらも考えていた。
ここには確かに剣心がいるはずだった。
それなのになぜ、こんな目に合わねばならぬのか。
そう・・・あれは刀・・・覚えのある斬撃。
誰かが侵入してきたのか、ここに?
斎藤・・・いや、蒼紫・・・?
必死になって考えながら、左之助は痛む肩を押さえつつ転がっていく。
冷たい床はどんどん体温を奪い、
雨粒に濡れて冷え切っている身体、ますます冷気を宿す。
全身を粟立たせ、左之助は転がり、退き、あるいは踵を転じて踊り続けた、闇の中。
刃は空を切り裂いて迫り来る。
右、左、上から下から。
あらゆる方向から間断なく、容赦なく突き込んでくる、斬り込んでくる。
突如として沸く切っ先は、左之助に夥しい戦慄を呼び起こさせた。
このまま逃げ切れるのか。
このまま無事に脱出できるのか?
いつしか、この場から失せることのみ一念を裂いていたことにふと気づき、左之助、俄然奮起した。
「何を考えてやがんだ、俺ァ! 情けねェったらありゃしねぇ!」
自らの不甲斐なさに舌打ちをするなり、濡れきってしまった半纏を脱ぎ捨てた。
包帯を巻かれた右肩が露わになったが、これで少しは動きやすくなるだろう。傷を労っている場合ではない。今はこの状況を打破せねば!
そのためには・・・まず、
「かかってこい、剣心!」
虚空に向かってそう叫ぶと、左之助は背後の雨戸を一つ蹴り破った。
同時、
ドドオォーン・・・!
巨大な鉄球が落ちたかと思えるほどの凄まじい雷鳴、眩い矢が一本、駆け抜けた。
神々しいまでの光、破られた雨戸一枚を見逃さずに飛び込む。
「やっぱり・・・」
一瞬、光に浮かび上がった相手の正体に左之助、息を呑んだ。
ある程度の予測はしていた。
否、確定していたからとはいえ・・・実際に目の当たりにすると少々、驚きがこみ上げてきた。
闇の中で洗礼を浴びせ続けていたのは、剣心だった。
腰を低く落とし、
左手、鞘を握り。
右手、柄へ伸ばされ。
わずかに身体を捻った態勢に・・・
ギラリと輝いた双眸。
紛れもなく・・・
「・・・抜刀斎・・・だってェのか・・・?」
面差しが全く、違っていた。
異質のものであると断言してもいい。
あれほど柔和で、例え剣を抜いたとしてもどこか、穏やかさを潜ませた眼光はしかし、爛々と狂気を潜ませ。
堅く結ばれた唇からは強固なる意志を、澄まされた表情からは凍てついた殺意を覚えた。
そう・・・明らかなる殺意、殺気だ。
「こんなところで・・・何をしてやがんだ、剣心」
静かに問いかけた声音が、道場内の停滞していた空気を少しく震わせ。
「俺の看病を放るってなァ・・・俺よりもよっぽど大切なことなんだな」
冗談交じりでそう言ってみせるが、剣心からの反応はない。
微動だにせず、左之助を睨み据えている。
「俺と・・・やろうってのかよ」
彼はジリジリと後ずさりながら、ゆっくりと腰を落とした。
背後に手を伸ばせば・・・日本刀。
祭壇に祭られてある刀のことを、左之助は思い出したのである。
本来ならば、自慢のこの拳で応戦したいところだ。
だが素手では恐らく、「抜刀斎」には敵わない・・・
「剣心」の時ですら、歯が立たなかったのだ。
しかも現在、右肩を負傷。
このままでは・・・!
左之助、苦渋の決断だった。
しっかり左手、鞘を握り。右手はスラリ、引き抜いた。
そのしなやかな刀身に思わず、目が奪われる。
無論、刀を見ることは初めてではない。
だが、刀を握ることは実に数十年ぶりではないだろうか。
かつての愛刀であった斬馬刀。これを握り続けていたゆえかもしれないが・・・
これほど優美でしなやかで、刃の輝きは燦然たるものであったのかとしみじみ思った。
何より・・・
こいつを俺は、どこまで使えるのか。
当然の事ながら、斬馬刀は超重量の刀であった。
今握っているものはその・・・何分の一だろうか。
左之助にとっては羽よりも軽い得物、それが果たして吉と出るか、凶と出るか・・・。
柄をグッと握りしめて、左之助は剣心の間合いを計りながら進み出た。
「・・・来いよ。俺でよけりゃぁ、相手になってやるぜ」
と、構えを取った途端、
「!」
視界から剣心は消えていた。
どこへ行ったッ?
瞳、ぶるると痙攣を起こす、
「ぐぁ!」
腹部に激烈な痛みが走って左之助、勢い余って倒れた。バンッと背中をしたたかに打ち、わずかに呼吸が止まる。反動で後頭部、床で軽く跳ね上がった。
意識、ぶわりと滲む。
しかし刀はしっかりと握っていた、反射的に刃、上空を払う。
ギイィィン・・・!
微かなる火花。淡くも美しい光はだが、刃と刃のせめぎ合いを生み出した。
「ぐぅ・・・!」
右手がわなわなと震えた・・・右肩、痛みに戦く。じわぁり、じわりと傷口が開いていくのがわかり・・・
左之助、たまらず左手も添えた、柄を両手で握りしめて全力でもって押し返そうとする。
が、
全体重をかけるようにして刃を押し込んでくる剣心は、たとえどんなに小柄であっても、負傷している今の左之助には弾き返せぬ力であった。
即ち、
刻々と、己が峰が眼前に近づいてくる。その様にさしもの左之助、脂汗を滲ませた。
このままではやられる。
歯を食いしばり、どうにかして剣心を押し返そうとしながら、左之助は懸命に考えていた、ギリギリと異様な音を耳にしながら。
一生懸命に意識を集中させ、この状況を打破せんと思うのだが、肩の痛みが容易く集中力を奪う。
意識、さらに滲んだ。
どうすれば・・・!
己が刃との距離、ジリジリと縮んでいく・・・
さながら、地獄が口を開けて待っているかのようだ。
汗を滲ませ、憤怒の如く睨み据える左之助に反し、優勢であるはずの剣心の面差しは眉尻一つ動かさず。唇すら歪めず・・・呼吸すら、乱れず。
白き能面、漆黒の中にぼうっと浮かんでいた。
感情が・・・ない・・・?
瞬間、心の底から冷気が沸き上がり全身、総毛立った。
これが「恐怖」であると知ったのは、この直後である。
俺が恐怖だとッ?
左之助は愕然とし、激しくも熱い鼓動が鳴り響いた。
「ふ・・・ざけンなァ〜!」
腹の底から起こった情念は、そのまま彼の力となった。あっという間に剣心を押し返しざま、敢然と斬り込んでいったのである。
左之助は的確に剣心の姿を捉えていた、たとえ己が刃が彼を掠めることはなくても、猛然として斬り込む。
彼の豹変したような姿に、それでも剣心は顔色一つ変えなかった。冷静な眼差しで彼を見つめ、攻撃のすべてを交わす。
シュッ、
ヴン・・・
空を裂く音のみが、闇に響いた。
形振り構わず刃をふるうのではない。左之助の刃は剣心の急所を狙って斬りあげ、突き込み、捌く。
が、そこに残されたものは幻・・・残像。視界に映るものすべてが、残像であった。
・・・次第、次第に・・・
本当に剣心がいるのかと、奇妙な錯覚に襲われた。
俺の相手は、誰だ・・・?
しかし、
「ぐぁ!」
闇の中、穿たれる攻撃の痛みは確かに本物で。
「ぐぅ・・・」
肉体に刻まれる刃の感触は、冷たく固く・・・重かった。
これが幻であろうはずがない・・・!
視界の中、映っては消える剣心の姿・・・方角も見定めることができずにまともに食らう斬撃・・・。
嬲られているような気がした。
どうしてこんな目に合うのかがわからなかった。
そもそも・・・
どうしてとどめを刺さない?
たとえ逆刃刀であっても、その斬撃の鋭さは並大抵のものではない。斬られることはないといえど、確実に「斬られている」のだ。
なのに。
倒れない・・・気を失うほどのことでもない・・・
ただ単に、自分が打たれ強いからかとも思ったが、そればかりではないような気がする。
何だろう・・・何か・・・
左之助の胸、にわかな違和感を嗅ぎ取って。全身で刃の猛襲を受けつつも、必死に考えを巡らせ始めた。
何だ・・・何かが違う。剣の鋭さも殺気も、剣心の時とは比べものにもならねェほど・・・
・・・剣心の時とは・・・
比べものにもならねェ・・・?
ハッと、意識が鮮やかに染まった。
こいつ、急所をギリギリ避けてやがる!
そう。
とどめを刺そうとすれば必然、急所を狙うはずだ。しかも今は「抜刀斎」、そうすることが・・・そうされることが至極当然であると思われた。
それが全く外れている、いや・・・
ギリギリで避けているところをみると、もしかして・・・!
左之助、突如声を張り上げた。
「とどめを刺せ、剣心! それとも・・・急所は斬れねェかッ!」
ピタ。
画然、剣心の姿が眼前に。
刃を突き込む姿勢で微動だにせず、忽然と姿を現した。
今度は残像ではない。その証拠に、彼の逆刃刀を握る手がふるふる・・・震えていた、無表情のままに。
瞳が、左之助を射た。
「・・・どうしたよ、剣心」
深く、沈むような声音に満ちるは堂々たる自信。
「とどめ・・・刺さねェのか・・・?」
トン・・・己が指先にて左胸を指し示し。
「ここだぜ、ほら・・・ひと思いにやれよ」
「・・・・・・」
「やれッつってんだろ、剣心!」
左之助の怒号は道場の空間を雨の夜を、雨雲を突き破って天空、貫いた。
「・・・・・・!」
剣心の面差しがみるみる気色ばみ、目が大きく見開いた。
瞳、微量に痙攣。
「・・・左・・・之・・・」
か細い声、無音となった空気に・・・ぽっ。
聞き取ることもやっとのはずであるこの声音を、左之助はしっかり聞き取っていた。憤怒の如くであった形相が一瞬にてとろけ果て・・・浮かべたものは満面、緩やかなる柔らかなる微笑・・・。
「・・・やっと、俺を見やがった・・・馬鹿が・・・」
「左・・・之、左之・・・」
カタン・・・
逆刃刀、床へと落ち。
「あ・・・」
ガクン、
全身から力が抜けて剣心は、そのまま両膝を床へつき。
「拙者、拙者は・・・」
呆然と呟いて闇、瞳に映し込んだ。
「剣心・・・」
ぱた、と歩み寄って左之助は、彼と視線を合わせるように片膝を落とした。
が、剣心は目を合わせようとしない。そのまま顔を伏せる。
それでも左之助は、彼に向かって左腕を伸ばし・・・右頬へ手のひらを寄せた。
自然、剣心の面差しは空を仰ぐ。
「・・・我を忘れても、俺を殺せなかったな・・・」
「・・・左之・・・」
「どんなつもりでここに来たのか知らねェが・・・これだけは言えるぜ・・・」
親指の腹、頬の曲線をたどりながら・・・
「おめェはもう二度と・・・抜刀斎にはなれねェよ・・・なりきれねェ・・・」
「・・・・・・!」
「抜刀斎になっていながら・・・急所が貫けないのは・・・もう、抜刀斎でもなんでも、ねぇや、な・・・」
「左・・・?」
剣心の目の前、ぐらぁり・・・左之助の上体が傾いて。
「人が、斬れねェ抜刀斎・・・なんざ・・・ヘヘ・・・」
唇、歪んだ微笑を浮かばせて・・・
意識は、攻落した。
「左之・・・!」
彼の耳朶にはもう、その声は届かない。
ただただ、唇に浮かんだ微笑のみが残り・・・後は。
闇に染まる道場と、
刃こぼれをした逆刃刀・・・
映し出すものは、闇に絡まる男、二匹のみ。