[ 前 後 ]
ひらひらとはためく洗濯物に、思わず目を細めて。
す・・・と手を伸ばせば、
「あぁ、良く乾いたでござるな」
口元、緩やかに微笑む。
吹きゆく風が、涼やかになった。
ついこの間まで猛暑の嵐であったことなど知らぬかのように、空は澄み渡り、天高い。
赤毛を靡かせ、彼・・・剣心は手早く洗濯物を取り込んでいく。
足元にはいつからか赤い華。無数の花びらを天へ向け、すべてを受け止めるようにしてたたずんでいる。華を・・・彼岸花を目に留めて、剣心は季節の移ろいを心に留めた。
そんな彼を、一挙手一投足見逃すまいと、眼差しを向ける存在があった。
左之助である。
自慢の長身、ゴロリと縁側へ転がらせ、瞬きを忘れたように見つめている。
彼の視線に気づかぬわけもなく、剣心はやや呆れたように、ため息まじりに彼を呼んだ。
「左之」
「何でェ」
半纏を脱ぎ捨てて腕枕をしている彼に、剣心は苦笑を洩らす。
「そんなに拙者を見るものではござらぬよ」
「どうしてそんなことがわかるんだ」
「わかるから、言っているのでござる」
一つ吐息をついて、剣心は縁側へと取り込んだ洗濯物を上げていく。陽の匂いの立ち上る洗濯物に微笑みつつ・・・再び踵を返して物干し台へ。左之助は目で追いかけながらも腕枕を解くことはない。くるくる動き回る彼を見つめるのみ。
「おめぇを見てちゃ、駄目なのかよ」
「駄目とは言わぬが・・・何だかその、妙に・・・」
「何だ、はっきりしやがらねェなぁ」
クツクツと忍び笑って、左之助はふわりと身を起こした。鮮やかに下履きを履いて庭へと降りる。
「はっきりしなくても良いでござろ。とにかく、あまり拙者を見るな」
背中を向けたまま、剣心は言いきった。直視することができなかったのだ。
左之助の眼差しは、いつでも熱く・・・まっすぐであった。
心地よい感触ではあるのだが、時としてそれは剣心に苦痛をもたらす。
数々の修羅場を潜り抜けているにもかかわらず、その瞳は汚れを知ることなどないように透き通り、純なものであった。
こちらの胸の内側まで覗かれるような・・・見透かされるような錯覚を覚えて、剣心はついつい身を強張らせてしまう。
・・・左之助が苦手というわけではない。むしろ、彼にはすべてを知られても良いと思う。
思うのだが、やはり・・・
「ほら、そこをどくでござるよ。洗濯物が置けぬ」
左之助の脇をすり抜けて、剣心は最後の洗濯物を縁側へと置いた。
「連れねェなぁ、剣心」
背後から巻き付いてきた両の腕を、剣心は咄嗟、払いのけようとする。しかし、左之助の腕はびくともしない。
「こら、離さぬか。何もできぬでござろ?」
「まだ用があるのかよ? あとは夕飯を作ることくらいだろうが。風呂だって俺が水を張ったし、薪だって・・・」
「それはまぁ、そうなのでござるが・・・」
「だったらよぉ、俺といいことしようぜ」
彼が何を言わんとしているのか悟って剣心、沈黙した。次いで弾かれるようにして打ち鳴った心の臓に、些かの痛みを覚えた。
「な・・・何のことでござるか」
声が、無意識のうちに枯れている。
「あれだけ誘っておいて、そりゃぁないだろうが」
「さ、誘うって・・・そんなつもりは・・・」
「なかったってか? 俺にはそうは思えねぇがな」
左之助の吐息が、肌を掠めた。クッと身体が引きつった瞬間、熱を帯びた花弁がつぅ・・・と、首筋を滑った。
「・・・いつからおめぇの肌を味わってないと思ってやがんだ。なぁ・・・いいだろ?」
「や、やめ・・・!」
剣心の言葉など、左之助の耳には入っておらぬ。そればかりか、左之助は抜け目なく次の行動へと移っている。
「ン・・・!」
右手がするりと懐へ入ったその感触に、思わず唇を噛んだ剣心を、背後から左之助の忍び笑いが追い打ちをかけた。
「くっくっ・・・どうした?」
「左、左之・・・」
「京都から帰ってしばらくになるが・・・あれから何かとバタバタしちまって、一緒にいる時間がなかなかなかったもんなぁ・・・」
確かに、この肌を最後に許したのはいつのことだったか・・・思い出すことが遠いように思えた。京都から帰って・・・最近になってようやく落ち着き、薫の出稽古が再開されたのも今日からだ。
いつもの時間が、流れ始めた矢先なのだ・・・
「左、」
「剣心・・・」
首筋の唇が。つぅるり伸び上がって・・・赤毛の鬢を掻き分けて耳朶に、触れた。
「欲しいぜ、剣心・・・」
「ふ・・・」
耳朶深く、低く響いた声音に剣心は、全身から力が抜けそうになって慌てて引き寄せる。
「今なら、嬢ちゃんも弥彦もいねぇ。な・・・抱かせろ、剣心」
「左之・・・」
「嫌だって言っても、許さねぇよ」
左之助の行動は早かった。
サッと剣心を抱き上げるなり、どっかりと縁側へ上がり込んでスパン! 爪先で障子を開き様、部屋へ入るなり再び、爪先で器用に障子を閉め。
畳へと剣心を開放すると、やにわに小さな身体を抱きすくめて唇、貪り吸った。
抗う余地もなくば「否」の一言、暇すら与えられず。
剣心は、たちどころに蜜のるつぼへと落ちていった。
「あ、待て・・・左之!」
「待てねェ」
「左之・・・!」
「・・・もう、黙れよ」
強く輝く瞳に気圧されて・・・剣心はとうとう、全身から力を抜いた。
たちまち身体の芯からふつふつと熱が込み上がってくる。
「は、ああぁ・・・」
急激に、意識が霞んだ。
・・・こんなに・・・こんなに満たされて、良いのだろうか・・・
左之助の抱擁に眩暈を覚え、剣心は少しく喘ぐ。
穏やかな時の流れ・・・
何もない、平穏な・・・この時に身を沈めて・・・
いいの・・・か・・・?
・・・ここにいて・・・
ここに来て良かったのか、拙者は・・・
戻ってきても、本当に良かったのか・・・?
この・・・熱い腕に縋ってしまっても・・・縋ってしまって、良いのか・・・
良い、の・・・か・・・
剣心の意識は、ぽとんと落ちた。
京都での激戦が嘘であるかのように・・・
剣心を取り巻く空気たるは、穏やかにして悠然であった。
ともすれば、腰に帯びたる逆刃刀の存在すら忘れそうになるほどの・・・
これまで生きてきた中で、「無」ともいえるような空間があっただろうか?
・・・「あの頃」。
あるとすれば・・・それは一瞬の、わずかに得ることのできた安らぎ・・・。
思い出すことのできる唯一の・・・温もりと、優しさと・・・
一人の女性。
あの時と同様の空間が・・・否、それ以上に平穏な時の流れがここにある。
・・・ここにいてもいいのか。
いつしか、剣心は胸の中で同じ問いを繰り返すようになっていた。
ただいまと言って、帰ってきた。
けれど・・・けれど、ここに落ち着いてしまうことが果たして本当に・・・良いことなのだろうか。
何のために、十年もの間流れてきた?
何のために、十年もの間逆刃刀をふるってきた?
それは・・・それは今までの過ちを・・・数多の命を奪ってきた罪を、
少しでも償うためではないのか?
いや・・・違う、償えることではない・・・償えることなどできない罪深さだ。
だからといって、何もしないではいられなかった。
自分にできることを・・・と考えた末に、流浪に出たのではなかったか。
ならば・・・どうしてここにいる?
ここに留まっているのだ。
贖罪は・・・終わってはおらぬ、否、終わるはずもない。
命を奪うことは容易いが、守ることがいかに難しいか・・・
それは、身をもってわかったことではないか。
ならば・・・ならばやはり・・・!
「・・・い、おい、剣心!」
ハッと我に返って振り向いた。
左之助だ。
ぽりぽりと頭を掻きながら、眉音を寄せて剣心を見ていた。
「何を呆けてやがんだ。大丈夫か?」
「あぁ・・・すまぬ、ちと・・・考え事をな」
苦笑を滲ませながら、剣心は今何をしていたかを思い出した。
厨にて、笊一杯に入った小豆。そうだ・・・今は傷の入った小豆を寄っているところだった。
「おはぎでも作るのかィ? 明日は彼岸の中日だもんなぁ」
「あぁ、そのつもりでござるよ。うまくいけばよいのでござるが・・・」
土間にて、桶に水を浸し。
その中へ小豆の入った笊を浸けて寄っている。
眼差しを自分から小豆へ戻した剣心に、左之助は何気なく問いかける。
「なぁ・・・剣心」
「何でござる?」
「さっき・・・何を考えてやがった?」
「別に、何も・・・たいしたことではござらぬよ」
「ふーん・・・」
それきり押し黙り・・・左之助は、じっと剣心の作業を見つめていた。
彼の白魚の指先が、水の中をたゆたい・・・傷物の小豆を除いていく。傷物の小豆は、水に浸すと浮いてくるのだ。時折かき混ぜながら、剣心は黙々と作業を続けている。
数日前から、彼の様子が妙なことに左之助は気づいていた。
が、そのささやかな変動に薫も弥彦も気づいていない。
・・・肌を合わせるがゆえの機微なのか。
この間も・・・
ほとんど強引に剣心を抱いたとき。
最初は嫌がる素振りを見せつつも、洗濯物をすっかり取り込んでからは小さな身体、くたりと落ちてきた。
久しぶりの感触に我を忘れ、白い肌を縦横無尽に貪ったものだったが・・・
ふと。
違和感を感じたのだ。
・・・なんだ・・・?
説明しがたい違和感だった。何が、どうというものでもない。
ただ、何か・・・
それ以来、左之助はこの違和感を追いかけていた。
京都から帰ってきて以来、剣心にはさほど変化は見られないような気がする。
だから・・・肌を合わせても、違うことは何一つないはずだった。
けれど・・・
あれはいったい、何だったんだ・・・?
傍らでは黙々と作業を続けている剣心。
左之助は一つ、息をついた。
「剣心、剣心ー! ・・・あら? いないのかしら」
薫の、凛たる声が屋敷に響く。何度か呼ばわるその声に、大あくびをしながら門を潜ったばかりの左之助はすぐさま声をかけた。
「なんでェ、剣心の奴ァいやがらねェのかィ?」
「あら、左之助」
ずかずかと中まで上がり込み、どっかりと居間へ腰を下ろした左之助に、だが薫は些かも不快な表情を見せない。
「ねぇ、剣心を見なかった? いないのよ」
「俺がここへ来る途中には、会わなかったと思うがよ・・・」
「そう・・・どこへ行ったのかしら。剣心が黙って行くなんて・・・」
「なんだ、急用かィ?」
左之助の問いに、薫は首を横に振った。
「ううん、今お墓参りから帰ってきたんだけど・・・一息ついたから、おはぎでも食べようかなって」
「あぁ、そうか。今日は彼岸だったなぁ。おはぎって・・・それじゃぁ、剣心が作ったおはぎを御供えに持っていったのかい」
「えぇ」
「おいおい、嬢ちゃんの手作りじゃねェのかよ? ご先祖様も泣くぜェ」
ニヤニヤと笑いながらからかうと薫、ぷぅと頬を膨らませた。
「何よ、うるさいわね! 私だってそのうち、おはぎくらい作れるようになるわよ!」
「そのうちねェ・・・いつになることやら・・・」
「何ですって!」
袂を素早く握って右拳を振り上げた薫に左之助、咄嗟に避けようとしたその矢先、
「ほら! お茶、持ってきたぜ!」
お盆を片手に弥彦が姿を見せた。急須と湯飲みを携えての登場に、左之助は思わず笑みをこぼした。
「お、気が利くじゃねェか。さすが弥彦だねェ」
「馬鹿言ってンじゃねぇ! おはぎ食いたさに来ただけだろうが!」
「あたぼうよ! それ以外になんの目的があるってェんだ」
「てめェ・・・」
いつしか拳を降ろしていた薫も、弥彦共々深くため息を吐いた。・・・この男の頭の中には、食い気しかないのだろうか・・・
「早くおはぎ、持って来いよぉ。剣心がこしらえたおはぎだ、格別にうまいだろうぜ。俺ァ楽しみにして来たんだぜ?」
「あ〜、もう・・・わかったよ。待ってろ」
呆れたようなため息を吐いてから、弥彦は渋々膝を立てた。その傍らで、薫が茶を煎れ始める。
彼女の仕草を何気なく見つめながら・・・左之助、ぼんやりと思った。
あの野郎、どこへ行きやがった・・・
昨日見た、彼の表情が気になった。
小豆を寄りながらも何かを深く考え込んでいた、あの眼差しが気になった。
確かに何かを考えている・・・深く、深く。だが・・・
それが見えない、わからない。
妙なことをしでかさなきゃいいんだが・・・
湯飲みから立ち上る香りに、左之助の意識がふと、途切れた。
白い手のひらが、湯飲みをそっと、左之助へと寄せる。
「それにしても剣心、どこへ行ったのかしら? 帰ってこないと、おはぎ、なくなっちゃうわ」
「おお、あいつの分まで食っちまおうぜ。帰ってこねェほうが悪いンだからよ」
「もう、左之助!」
再び振り上げられた拳を目の当たりにしながら、左之助は快活に笑い飛ばした。
その胸に・・・一抹の不安をよぎらせながら。
・・・ざ・・・ざざ・・・
さざ・・・さら・・・
空をそよぐ音に、剣心はじっと静かに耳を傾けていた。
それは水面の囁く声、川の流れ・・・風の悪戯。
川原へぽつんと腰を下ろし、剣心は微動だにすることなく、そこにいた。
先ほどまで、対岸で幼子達が笑声を発しながら戯れていたのが見えていたが、いつの間にか姿を消していた。
草が茂り、小石のさんざめく川原には剣心、ただ一人。
囁きに耳を傾けながら、水面を見つめながら、彼は沈黙のままにそこにいた。
懐には、今朝までこしらえていたおはぎが二つほど入っていた。
だが・・・昼を過ぎても口にする気にはなれなかった。
今頃、神谷の屋敷ではおはぎを頬張っている頃合いだろうか?
ふとそんなことが脳裏をよぎったが、一笑に付した。
こうして・・・川のせせらぎのみに耳を傾けていることが、非常に不思議に思えた。
心穏やかに、波風一つ立てずに・・・ぼんやりと呆けてしまうように、川を眺めた事なんて今までにあっただろうか。
いつも背後の気配に気を配り、目の前の光景から敵意を探り・・・
そんな日々を日常として過ごしてきた、当たり前のように。
それが・・・ここには全くなくて。
否、これが普通だと認識しているにもかかわらず、落ち着かず・・・これではいけないと考えてしまう。
自分は、これではいけないのだと。
穏やかな時間に身を置いてはならないのだと。
やらねばならぬことがあるではないか。
「贖罪」というこれからが・・・!
そう・・・そうとも。
ここへたどり着いてからの自分はどうだ。
誰かに甘えてばかりではないか。
優しく傾けられる言葉に、
温もりに、
いけないと思いながらもついつい・・・縋っていってしまって。
心地よいと感じてしまって・・・
・・・抜けられないでいる。
この・・・温かな湯の中から抜け出したくはないと・・・思ってしまっている。
「そんなこと、許されるわけがない! 罪深い拙者が、こんな・・・!」
安穏としてここにいていいのか?
贖罪の日々を全うすることこそが、自分のやるべきこと・・・道のはずだ。
仲間達の温もりに埋もれてしまって・・・それでよいわけが・・・!
「・・・駄目だ。こんな・・・拙者は、ここにいるべきではないのだ。やるべきことを・・・贖罪を・・・」
くしゃ、と。額に手を押しやり前髪を掻いた。やや俯いた面差しは、苦渋に満ちていた。
視線を落としたその先に、足元で赤いもの・・・彼岸花が咲いていた。
風に揺らめき、ゆらゆらゆら・・・
赤い花びら、艶やかに・・・目の前で揺れていて。
・・・つと。
その花びらを見つめているうちに胸の中、ふわりと一つの面影が漂った。
懐かしい気配に、剣心はゆるりと眼を細めた。
「・・・彼岸花、か・・・」
・・・彼岸というものが、本当にあるなら。
そこにいけば・・・会えるのだろうか、彼女に。
初めて心を寄せた、あの女性に・・・
彼女なら・・・今の自分に、答えをくれるのだろうか・・・
「彼岸花というのだから・・・彼岸に咲いているのでござるかなぁ・・・もしそうなら・・・お主達は会っているのでござろうか・・・」
華にそっと語りかけた・・・その時に。
剣心は突如、覚えのある匂いに鼻腔を反応させた。
何だろう・・・これは、彼岸花の匂いではない。
これは・・・
・・・白梅香ッ?
そんな馬鹿なと剣心、パッと面差しを上げた。
「!」
対岸に。
真っ赤な彼岸花が咲き乱れていた。
その中・・・
白い着物を纏い、漆黒の髪を下ろした・・・女性。
黒曜石のような瞳が、静かに剣心へと向けられていた。
表情もなく。
ただ・・・静かに。
いつの間にか夕暮れ時、全身に銅色の光を浴びて、そこにいた。
「と・・・」
愕然として、剣心は思わず立ち上がった。
絶句してしまい、言葉が出ない。
見開いたままの瞳が、激しく収縮を繰り返しつつも閉じることができない。
瞬きでもしようものなら、あの姿が消えてしまいそうで恐ろしかったのだ。
「と、巴・・・?」
聞こえているのか、否か。
あるいは、声が届いているのかどうかも定かではない。が・・・
確かに。
対岸の女性は、見覚えのある人物で。
艶やかな黒髪を背に流し、雅やかな空気を漂わせて両手を前に揃え。
そんな彼女の足元に広がる夥しい彼岸花。
紅色と着物の白磁が異様なまでに映える。
いっそ妖しげな・・・かといってどこはかとない空気を纏い、女性は、たたずんでいた。
人違いかとも思った。
彼女は既にこの世の人ではない、何かの間違いだ・・・幻だと思った。
しかし、対岸とはいえ見れば見るほど・・・その人は紛れもなく・・・
「巴・・・」
もはや、相手に声が届いていようがいまいが、どうでもよくなっていた。
今、目の前に現れた存在が剣心にとって唯一無二だった。
世界のすべてであった。
「いつから・・・そこに・・・?」
立ち竦んだまま、微動だにせず。剣心は対岸の女性を凝視し続けた。
が・・・硬直した身体とは裏腹に、彼の面差したるはかつてないほどに柔和で・・・
憑き物が取れたように、爽快な色を浮かべていた。
「巴・・・巴、俺は・・・どうすればいい、どうすべきなんだ」
グッと拳を握り、剣心は少しく唇を噛んだ。
胸が、逆巻く嵐のように激しく・・・熱く。
なれど、思うように言葉が出てこない。
伝えたい、伝えたいのだ。
自分でもよくわからぬこの想いを、
この胸中を、
この渇望を。
どうすればいいのか・・・!
「・・・俺は・・・俺の人生は、死ぬまで・・・闘うことにあると思っている。すべてが、贖罪に費やさねばならぬものだろうと。これは・・・贖罪そのものが、俺の人生になるだろうと」
左手が、帯びる得物へ寄り添った。
この刀の意味を、君はどう捉えるだろうか。
どのように・・・映すのだろうか。
「闘って、闘って・・・身体が動く限り、この逆刃刀がふるえる限り俺は闘って、生き抜くことこそが贖罪の人生になるだろうと・・・俺なりの償い方になるだろうと思っている」
対岸の女性は、剣心の言葉に耳を傾けているように思えた。
そう、思いたかった。
ただただ、剣心を見つめ。
ただただ、たたずんで。
彼岸花とともにそこにいて。
剣心は・・・言葉を続けた。
「けれど今の俺は満たされている、満たされようとしている! それは許されることだろうか? 今まで君を含めて、数多くの命を奪ってきた俺が、こんなに満たされていいわけがない! 生き抜くことすら罪深いのにさらにこんな・・・! 俺は・・・俺にはそんな資格はない! 手にしてはならないものなんだ!」
自ら温もりを手に入れることなど!
自分のような人間が手に入れて良いわけが・・・
そんなこと、できるわけがない・・・!
すると、それまで微動だにしなかった女性がくるりと踵を返した。
あっ、と剣心、思わず一歩が踏み出る。
「巴っ?」
呼びかけるが、振り返ろうとはしない。
見る見るうちに、女性の背中は小さくなろうとしている。
剣心は焦った。
「巴、巴! 待って、待ってくれ! やはり・・・やはり許されることではないのだな・・・こんなことでは俺は、君にも・・・!」
身体の奥、どこかで悲鳴を上げていた。
声にはならぬ嗚咽を洩らし、腕を伸ばして彼女を求める。
その、指先に・・・
・・・ぽつ。
冷たい雫。
ぽつ、ぽつ、ぽ・・・ぽぽぽぽ・・・
空からの水の気配にわずかばかり、剣心の意識が逸れた一瞬。
「!」
黒髪がふわりと靡いて瞳、剣心を捉えた。
淡い桜色の唇をきつく結び、じ・・・と、見つめてくる。
「巴・・・」
女性は、振りゆく雫に身を濡らしながら・・・ゆうるり、首を一つ横に振った。
「何だ、巴ッ? それはどういう・・・!」
聞きたい、君の声で。
教えてくれ、君の言葉で!
何を伝えようとしてくれているのか、
それはどういう意味なのか・・・
聞きたい、教えて欲しい・・・!
「とも・・・!」
狂い始めた焦燥感とは裏腹に、どんどんと視界の前が閉ざされ始めた。
乳白色の霧が左右から流れ込み始めたのだ。たちどころ、女性の姿は消え去ろうとする。
「ま、待ってくれ、まだ・・・!」
視界が遮られていくその中で、剣心は慌てて駆け出そうとした。
画然、
「剣心!」
ねじ伏せるような圧倒的な圧力が背後から襲ってきた。
視界がグルグルと回転し、ふと気づいたときには・・・
「・・・左之・・・」
自分を見下ろす、見慣れた男の面差しがあった。
歯を食いしばり、眉尻を上げた憤怒の形相で。
「こンの馬鹿野郎がッ! 死ぬ気かよ、てめェ!」
「え・・・」
「この大雨の中で! 増水してる川ン中へ入っていきゃぁどうなるかくれェ、おめェならわかるだろうが!」
彼の言葉に。組み敷かれた状態の剣心は、左之助の肩越しから空を見上げた。
・・・空は、泣いていた。大粒の涙で。
その真っ黒い胸を大きく揺らし、激しく号泣していた。
あぁ・・・と、感嘆を洩らしたその息が、左之助の耳朶をくすぐった。微かな感触だったが、左之助には充分すぎるほどのものであったらしい、そのまま崩れ込むなり剣心を抱きすくめてしまった。
「何だよ、もう・・・俺ァ、おめェが川ン中へ駆け込んでいく様を見た時ァ、胸が潰れるかと・・・」
川の中・・・
左之助の言葉に導かれるように、剣心は川面へと視線を流した。
・・・川は、狂っていた。その水を大きくうねらせて荒々しく、何もかもを飲み込んで流れていた。
轟々と咆吼を上げる姿は、猛った龍のようであった。
「日が落ちても帰ってこねぇから、探しに出ようとする嬢ちゃんを止めて俺が出てきたんでェ。この雨だろ、女子供を外に出すわけには、と思ってよ。そしたら・・・土手を通りがかったらおめェが川ン中へいやがって・・・身も心も凍ったぜ」
きつく抱きすくめてくる左之助に、剣心はただ、身を預けていた。身を預けて・・・闇色の空をぼんやりと見つめ・・・
「剣心・・・?」
「・・・り・・・」
「・・・?」
豪雨の中、左之助が耳を澄ませると・・・
「・・・やっぱり・・・辛い、な・・・」
か細い一言をようやく捉えた。
左之助が、そこまで差してきたのであろう番傘が、
役目も果たせず川原に転がって・・・
虚しく、激しさを増していく雨粒に身を委ねていた。
[ 前 後 ]