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桜、ほころぶ前に



 「親父、酒をくンな」
 古びた台の上には無数の銚子。ゴロゴロと横たわって、どれもこれもが既に冷たい。唯一、凛と立っている一本は身体を仄かにぬくもらせてはいるが確実に、刻々と冷気を宿していく。
 手に取って左右に振れば、にわかな重み。あと一口足らずだろう。
 「酒だ、親父」
 強い口調で再度、要求した。
 「いけませんぜ、左之助さん」
 店の奥から、白髪交じりの男が顔を見せた。目尻には細かな皺が刻まれ、その瞳は黒く、鋭い。じっと客である男・・・左之助を見つめて、店主は言葉を続ける。
 「左之助さんが酒に強いのは知ってはいますがね、今宵はもう、お止めになったほうがいい」
 「そんなことを言わねェで、一本つけてくれよ」
 「できませんな」
 「親父」
 「今宵の酒はいけませんや、左之助さん」
 左之助の、ポッと赤らんでいる顔がつと冷めた。上背をピンと伸ばして店主を見遣るなり、
 「酔っちゃぁいねぇぜ、俺ァ」
 瞳がゆらり、妖しげに揺れた。だが、店主は臆さない。しっかりと左之助を正面から見据える。
 「承知のうえでさァ」
 「だったら・・・」
 「言ったはずですぜ、今宵の酒はいけませんとね。・・・ご自分でもそれは、百も承知の上でございましょうに」
 左之助はムッと、眉間に皺を寄せた。
 「・・・今日は、飲まずにはいられねェんだよ」
 無意識のうちに、右手が左手首を押さえた。そこには、ぼろぼろになった紅いはちまき。
 ギュッと押さえる仕草を店主、チラリと視界に映して焼き付けると、重々しく、頑なな姿勢をさらに強めた。
 「わかっておりやす」
 「じゃぁ、酒だ!」
 「できませんな」
 「親父!」
 いい加減、頑固な店主に左之助ががなった。ぐわっと立ち上がり、店主を睨み据える。
 店主は小柄な男であった、左之助のように背丈のある者を目の前にすれば、まるで幼子のようである。
 が、物怖じした様子は微塵も見せない。そればかりか、
 「できないものはできないんですよ、左之助さん。そんな酒を飲んではいけませんや。今はまだいいが、そのご様子だときっと、悪酔いなさる」
 「だったらどうした! てめェ、俺を誰だと・・・」
 「左之助さんですよ、他の誰だってンです? あるいは斬左・・・いや、元赤報隊の生き残りとでもお呼びしましょうか?」
 「てめェ!」
 「左之助さんらしくない、と言ってるんですよ」
 「!」
 グッと言葉が詰まった、あとが続かない。
 沈黙してしまった左之助に、店主の静かで低い声音が通った。
 「こんな酒は左之助さんらしくございませんぜ。悪いことは言いません、今宵はこれで打ち止めになさいませ」
 「・・・・・・」
 「・・・納得をされないのでしたら、緋村さんをお呼びしましょうか」
 左之助は顔を逸らして思わず、舌を打った。
 ここまで言われてしまっては、諦めるより他にない。
 「チッ・・・親父には負けるぜ」
 「恐れ入りやす」
 「じゃぁ・・・これで帰ェる。邪魔したな」
 懐からある限りの銭を出し、そのまま暖簾を潜って出ていった。「惡」一文字を見せつけながら・・・
 「またのお越しを、左之助さん」
 店主は、客のいなくなった店の中で小さく、頭を下げた。
 そんなことなど露知らず、左之助は両手を下袴に突っ込んで悠然と歩みだした。
 風が、冷たい。
 桃がほころぶこの時節、昼間はだいぶ暖かくはなってきたが・・・やはり、夜はまだまだ冷え込みが厳しい。半纏の下は晒し一枚、真冬でも同じ様な格好で乗りきってしまう左之助だが、今宵ばかりはちょいと肌身に染みる。
 「えぇい、畜生」
 思わず身震いをして肩を竦めた。
 「・・・寒ィ、な・・・」
 長屋へ戻って、飲み直そうかと思った。が、肝心の酒を切らしている。酒を買おうにも銭はなく、かつ店も開いてはいない。
 「飲みたい時に飲めねェたァ・・・情けねェ・・・」
 独りごちて、左之助は空を仰いだ。
 夜空には、満月。
 皓々と輝く柔らかな光が、左之助のすべてを包み込もうとする。
 けれど・・・温もりなど感じない、寒さが増すばかりのような気がする・・・
 このまま明日を迎えるのか・・・こんな気持ちのまま、こんな・・・
 ・・・明日は・・・
 「・・・苛々すンぜ・・・」
 ぽつりとこぼした言葉が、吹き渡った風にさらわれた。






 人の気配に、剣心は闇の中で目を見開いた。
 ス・・・と、障子が開く。
 剣心は身を起こした。
 「・・・左之・・・か・・・?」
 漆黒の闇では、誰なのかが判別が付かない。しかし、このような刻限に姿を見せるのは一人しか考えつかず、気配が・・・左之助のものだと感じていた。
 だが、返答がない。障子を閉める音はしたが、それきりだ。
 それに・・・確かに左之助の気配ではあるのだが。何か・・・何かがいつもと違っている。
 漂わせている空気とも言えばよいのか・・・よくわからぬものが彼から発していることに、剣心は奇妙な不安を抱いた。
 「・・・左之?」
 声を漏らすと、シュルル・・・衣擦れの音が聞こえてきた。微かな物音に、剣心は彼が何をしているのかを悟って、わずかに安堵すると。褥に潜り込むなり息を詰めた。
 ごくわずかな間の物音であったが・・・剣心の胸はたちどころに、高鳴って弾けそうだった。
 彼に対して背を向けていると・・・布団をわずかに跳ね上げて、左之助が潜り込んできた。来た、と思ったときには・・・剣心の身体は絡め取られていて。項にかかる生温かな吐息と、唇の感触に肌を粟立たせていた。
 「あ・・・」
 髪の生え際を、舌先が這った。肩をすくめると、力強い手のひらにグッと押し戻される。衣紋が、指先で引っかけられてすり下ろされて・・・
 褥の中で襦袢が、はだけていく・・・
 「左・・・之、左之・・・」
 喉の奥からこぼれてくる声音が、ゆるりゆるりと艶を増す。強張っていた身体が溶けていき、肌は湿って開いていく。
 左之助の腕に誘われるように仰向くと、やおら唇を強く吸われた。
 「ん、んン・・・」
 背中へ手のひらを這わす。背筋を、首筋を、臀部を・・・引き締まった肉体は、剣心をたちまち微睡ませた。
 深く、深く唇を吸われ・・・離されて。剣心は左之助の両頬を両手で挟んだ。闇の中で、黒い瞳が自分を見つめているのがわかる。
 「・・・酒を、飲んできたのか・・・」
 愛おしげに頬を撫でて、親指の腹で唇を確かめる。と、密やかに奥が開かれて、指先が舌先に嬲られ始めた。
 「そのわりに、は・・・冷えているではないか、お主・・・」
 舐められる感触に声を震わせながら、剣心は言葉を続ける。
 「寒かったから・・・冷えたのか・・・?」
 左之助は答えない。答えぬまま、剣心の胸乳へ唇を落とした。
 「あ、ぁ、左之・・・」
 声を聴かせぬ左之助が、剣心には不安だった。無言のままに肌を貪られていると、左之助ではないのではと、妙な錯覚を起こしてしまうのだ。
 「左之・・・左之・・・」
 次第に夥しい熱を孕んできた身体を持て余しながら、剣心は譫言のように繰り返した。
 「左之、左之・・・声を・・・声を聴かせろ・・・左之・・・」
 吐息混じりに言葉を紡ぎ、肌をくねらせて。流れ、染み渡っていく快い波に意識を乗せて・・・
 「左ぁ、之・・・左之、呼、べ・・・あぁ・・・」
 それでも左之助の声は聞こえてこない。褥の中でしきりに剣心の肌を貪り続け、果ては身体を押し開こうとする。
 いつもと違って性急に事を運ぼうとする彼を、剣心は訝った。訝ったが・・・
 「・・・あ」
 ふと、気づいたのだ。
 あぁ、そういうことかと・・・感づいたのだ。
 彼が何をしにここへ来たのか・・・
 何を求めてここに来たのか・・・
 「左之・・・」
 正直、剣心の身体はまだ、左之助を受け入れる状態には至っていなかった。が、彼は全身から力を抜くとゆるりと身体を開いて見せて、
 「・・・来い、左之」
 自ら身を縋らせていったのである。
 一瞬、左之助の動きが止まったがやはり、声を洩らすことはない。甘んじるようにして、己が唸りをあげている腰部を荒々しく突き込んだ。
 「く・・・ぁ・・・!」
 小さな悲鳴にも似た声が、きゅぅと闇の虚空を貫く。思わず唇を噛んで、剣心は褥を掻きむしった。
 「左、之・・・!」
 逃がすように飛び出すように、一呼吸が唇から溢れた。眉間に無数の皺が刻まれ、ぶわりと滲んだ額の汗に、赤毛がぴたりと張り付いた。
 「左之、左之、左之・・・!」
 揺れる視界の中で、剣心はひたすら彼の名を刻み続けた。口腔内が乾こうとも、全身を痛みが苛もうとも。
 身体が、二つに裂かれるようだ・・・!
 「左之、左、ン・・・!」
 唇が塞がれた。艶めかしい舌先が荒ぶり狂い咲く。
 「ん、ん・・・んぅ・・・ン・・・」
 悶えながら・・・喘ぎながら・・・間近で見てしまった左之助の眼は、
 冷めていた。
 凍てついたように凝固している眼光は、剣心の心を痛みで縛り上げてしまう。
 「ふ、ンぁ、あぁ・・・!」
 けれども、剣心は左之助を受け止め続けた。褥を掴んでいた指先は、いつしか左之助の身体を捉えていて。痛みを刻んでいる己が肉体を、自ずと彼へと密着させていて。
 離さぬとばかりに、四肢にて絡め取っていた。
 「左、あぁ・・・!」
 白い肌が一瞬にて朱色に染め上がったとき。奥底にて左之助の飛沫が上がるのを感じた。
 刹那、全身から力という力が消えた。
 「はぁ・・・はぁ、はぁ・・・」
 乱れた呼吸が、熱くて苦しい。胸が潰されてしまいそうだ。
 どうにか呼吸を整えようとした矢先・・・左之助の両腕が、他愛もなくコロン、と剣心の身体をうつむけてしまった。
 「左・・・?」
 何だろうと声をあげる間もなく、
 「あ・・・!」
 腰部を高々と持ち上げられて再び、身体は容赦なく割られた。
 剣心が、ぶるりと肌を震わせた。
 「あ、あ、あ!」
 先ほどの比ではない、ガクガクと乱調に乱雑に揺さぶられて、剣心の意識は混濁した。洩らされる喘ぎは絶え間なく、開かれた唇からは唾液が滴る。枕を、褥を汚そうがお構いなしだ、ただただ、左之助の熱を受け止めることで精一杯で・・・
 「左之、左之・・・はぁ、ンぅ、あぁ・・・!」
 灼熱の嵐に揉まれて腰部が淫らに揺れた、赤毛が散って背中を流れゆく。
 湿りを含んだ嬌声は・・・しばしの間、闇を濡らし続けていった・・・


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