[ 表紙    2   ]



 普段、慣れぬ着流しは、袂だの裾だのが気になって歩きにくい、動きにくい。今思えば、剣心が洗濯してくれる事をよいことに、浮かれていた自分が少々情けない。汗臭くても泥まみれでも、構わないと言い張っていつもの半纏姿にしておけばよかった・・・。
 と、考えていても既に、後の祭り。お気に入りの一張羅は物干し竿につられているし、乾いているはずもない。
 「チッ、袂がこんなに邪魔になるものとは思わなかったぜ」
 人込みを縫うのも、あの半纏ならば苦もなく摺り抜けた。
 が、着流しともなれば話は別だ、袂だの裾だのが自分にも、そして相手にも纏わりつこうとする。おまけにこの下駄。カランコロンと音はよいが、速く歩くことも走ることもできない。
 今日は全く、ついてない。
 嬢ちゃんには怒鳴られ、愛用の半纏もなく。
 こいつもみんな、平助の野郎のせいだ!
 左之助、だんだんと腹を立ち始めた。
 「えぇい! なんだってェんだ!」
 「何をそんなに苛ついているのでござるか、左之」
 傍らで苦笑をこぼすのは、赤毛も柔らかな剣心である。自分を見上げてくる蒼い瞳が、ふと左之助には眩しく見える。
 「着物でェ! こんなに邪魔になるものとは思いもしなかったぜ」
 彼の言葉に、あぁと剣心は頷く。
 「そうか、いつもはあの半纏姿でござるからなぁ。常に機動性を重視しているお主には、少し辛いかもしれぬな」
 左之助の気持ちを慮るようにそう言いつつも、面差しは愉快そうに笑っている。そんな彼の反応がどうも面白くない。
 「・・・おめェだって、そいつを脱いで着流せばよかったんでェ。どうして俺だけ・・・」
 左之助が恨めしそうに、何気なく袴のことを示唆する。
 「生憎、拙者にはこれが一番性に合っているゆえ。こいつも、あることでござるしなぁ」
 よくは見えなかったが、剣心が逆刃刀を示していることはわかった。左之助は小さく舌打ちをすると、それきりその話題には触れなかった。
 「それにしてもすごい人だなぁ。おい、みんないるかー?」
 左之助の投げた言葉に、彼と剣心の周りからおのおの声が上がった。
 「おぉ! 俺はここにいるぜ!」
 弥彦だ。手を上げてかろうじて存在を示している。
 「大丈夫! しっかり側にいるわよ!」
 薫だ。やや甲高い声は、賑わいをみせる通りであってもよく聞こえる。
 「よぉし、大丈夫だな。両国橋まであと少しだからな! 離れるンじゃねェぞ!」
 離れ離れになることを恐れるのも無理はない。彼ら一行が訪れた両国は、互いの隙間もないほどの賑わいで、どの道、どの店を見渡しても人、人、人なのである。それは両国橋へ近づくに従い、どんどんと密度は高まっていく。
 必然、剣心や薫、そして弥彦が左之助の赤いはちまきを・・・あるいは、その頭部を目当てにして歩を進めてしまうのは当然のことだった。
 いつになく賑わいを見せているのは今宵・・・即ち六月二十八日は、隅田川の川開きなのである。
 毎年この日になると、大勢の人々がこぞって集まってくる。誰もが夏の訪れを知らせる花火を心待ちにしているのだ。
 神谷家一行も他聞にもれず、花火見物に訪れたのだがこの人込み、互いにはぐれないようにすることで精一杯。薫など、せっかくめかしこんだ浴衣姿であるというのに、人込みに揉まれている間にどんどん、皺の数が増えていく。
 「あ〜! もう、嫌になっちゃう! せっかく浴衣を着てきたのにー! これじゃ台無しよ!」
 とうとう音を上げた薫を、しかし左之助がからかう。
 「心配すンな、めかしこんだって、なぁンも変りゃしねェから」
 「なんですって!」
 反射的に拳を振り上げようとしたが、ままならない。薫は悔しそうに唇を噛んでみせたが、左之助はどこ吹く風といった具合に知らん振りである。
 「もう! あとで覚えてらっしゃい!」
 「さぁて、そいつはどうかな〜。俺、そういうことは忘れっぽいから」
 「左之助!」
 ぷぅと頬を膨らませた薫を、左之助は楽しそうに笑った。
 陽はとうに落ち、闇はどんどん濃くなっていく。
 文明開化がものすごい速さで進んでいく昨今だが、まだまだ闇の色は深い。だからこそ花火も映えるのだ、人々の心は夜が深まっていくごとに心を躍らせていく。
 一行は、人の波に揉まれ、流されながら両国橋のほうへと歩んでいく。橋の袂へ近づいたとき、川面に無数の船が浮かんでいるのがはっきりと見えた。
 「おぉ、すごい数の船だぜ! 金持ちのするこたァ、違うなぁ」
 「こらこら、弥彦」
 大声で放った少年を、剣心が苦笑交じりになだめるが、誰もが同じことを思っていることがわかっていたから、それ以上何も言わなかった。
 確かに、船を借りるのはお金のかかることで、なおかつ花火見物などとそのような贅沢なこと、よほど裕福でなければ出来ない趣向だ。
 余裕があればうちでもやるのに、とぼやいた薫の一言を、剣心は聞いてしまったがあえて、聞こえぬふりをしておいた。
 両国橋では欄干にもたれて団扇を仰ぐ者、人の波に流されまいと必死に踏ん張っている者、さまざまな模様が繰り広げられていた。
 橋の上では絶えず人が流れているのだから、中央ではなく欄干側・・・できるかぎり端寄りが一番よいだろう、自分が先頭を切って良い場所を捉え、確保しなければ・・・と、左之助が己が役目を考えていたその矢先。
 「ン・・・?」
 四方へ視線を流していたときに、ふとそれは目に留まった。
 これだけの人込みでどうして、固定の人物に目がいったかなど彼にもわからない。だが目敏く見つけたその人物には、どうにも見覚えがあったのだ。
 「あいつァ・・・」
 左之助の中で、昼間の思いがふつふつと再び沸き始める。
 ただならぬものを嗅ぎ取って、視線をさらに先へと延ばしてみる。すると、そこには人の流れに逆らって一対の男女が。時折背後を顧みては、相手の存在を確かめるようにしながら前に、前にと進もうとしている。
 ところがこの人出だ、思うように進まずに難儀をしているらしく、少しずつ焦りの色が濃くなっていくのが、左之助には見て取れた。
 疑う余地はない。追われているのだ。
 「あの野郎・・・!」
 左之助の目の色が変り、剣心達の傍らからするりと離れた。
 「左之?」
 即座に声をかけた剣心に、左之助はだが答えない、どんどんと人込みを縫って進んでいく。

 何かあった、あるいは何かを見てしまったのか。

 鋭く感づいて剣心、無意識のうちに腰のものへ手をやって。
 「すまぬ、弥彦。薫殿を頼んだでござる!」
 そう言い置くと、左之助の広い背中とはちまきを目印に、小柄な身体を駆使して歩み出した。
 「おい、剣心! どこへ・・・!」
 「ちょっと、剣心!」
 戸惑う二人の声など、もはや届かない。ただ、彼は声の限りにこう、叫んだ。
 「拙者達が戻らねば、二人だけで見物を済ませて帰るでござるよ!」
 声は聞こえども、姿は見えず。薫と弥彦はしばらく、二人が消えていった方向を見定めていたが、
 「・・・行っちゃったわね」
 ぼそりと言った薫の声音には、寂しさが滲んでいた。
 「仕方ねェさ。どうせあいつらのこった、妙なモンでも見つけて居ても立ってもいられなくなったんだろ。いつものことじゃねェか」
 「まぁ・・・それもそうなんだけど」
 「心配すンなよ、薫! おめェはオレが守ってやっから!」
 「生意気、言うんじゃないの!」
 そう言った薫の面差しはしかし、嬉しそうに明るくほころんだ。






 「待てや、こらァ!」
 背後からの声音が、どんなものよりも恐ろしく思えた。
 「お嬢様、こっちです!」
 男が華奢な手首を掴んで、グイッと己へと引き寄せては角を曲がり、全力疾走していく。
 手を引かれている女性はただただ、ともに走ることに精一杯、返事も呼吸もままならず、黙したままに追従していた。
 花火見物に訪れた人込みをようやく脱し、町の奥へ奥へと走っていく。自分一人ならば容易に逃げられようが、女連れともなればそうもいかない、この辺りの地の利も心得ていず、とにもかくにも暗いほうへ、暗いほうへと突き進んでいく。
 背後に迫る追っ手の声、それがどうやら一人ではないらしいと感づいたのはつい先ほど。曲がる角、曲がる角にまばらに人影が見え始めたのだ。しかも人相風体がいかにも怪しげな男達が。
 「畜生・・・!」
 毒づきながらも、逃げることをやめない。この手を離さぬと、女性の手首を握り締めて青年はひたすら駆けずり巡った。
 が、
 「きゃぁ!」
 ガクンと後方で力が抜けた、どうしたのかと振り返れば、女性があられのない姿でものの見事に転倒していた。
 「お嬢様!」
 大慌てで青年は駆け寄り、すぐさま彼女を立ち上がらせる。
 「大丈夫でございますか、お怪我は!」
 「いいえ、大丈夫です! 今はそんなことに構っているときでは・・・ごめんなさい、私が・・・!」
 「お気になさらず! さぁ、走れますか? 追っ手はもうすぐそこです!」
 青年は勢い込んで女性の手を再び握り締めると、
 「おぉっと! そこまでだ。逃がさねェぜ!」
 アッと青年と女性が息を飲んだ時には、見知らぬ男達がぐるりと四方を取り囲んでしまっていた。
 なんてことだと唇を噛み締めて、咄嗟に青年は己が背中へ女性を囲い入れた。
 「なんです、あなた方は! 私達になんの用があって・・・!」
 「声が震えてるぜ、兄さんよ」
 クックックッと忍び笑う声が、闇の間から染み出た。青年の肝は縮み上がったが、臆した様子など微塵も見せない。
 「なぁに、俺達が用があンのは、そっちのお嬢さんのほうさ。そのお嬢さん・・・本所は呉服問屋商、伊野屋喜兵衛さんの一人娘、早苗お嬢さんだね?」
 途端、青年と女性の顔色が一変した。
 「ど、どうしてそれを・・・!」
 「こっちはそれを承知の上だってェことよ。さ、怪我ァしたくなけりゃ、早苗お嬢さんをこっちへ渡しな、若造」
 ズズ、と男が摺り足ににじり寄ってきた。
 青年は額にびっしりと汗を貼りつかせながら、背中へ、背中へと女性をかくまっていく。
 同時に、四方を取り囲む男達の範囲は徐々に狭まり、二人は次第に家塀へと押しやられていった。
 「茂吉、茂吉・・・!」
 ガタガタと震えながら、女性は青年の名を呼びつつしかと背中にしがみつく。
 その震えは青年にも伝わり、恐怖と勇気が一緒に奮い起こってくる。
 なんとかせねば、この事態を自分が切り抜いていかねば・・・!
 「やれやれ、人が親切に話しを進めてやっていれば強情なヤツだぜ。・・・おい!」
 男が何かしらの号令をかけた。途端、それまでにじり寄ってきていた男達がいっせいに飛び掛ってきた。
 「きゃああぁ!」
 悲鳴が、夜空を貫く。
 「いやぁ、茂吉、茂吉!」
 「お嬢様! 畜生、お前達・・・!」
 自分の背中から強引に女性を引き剥がそうとする男達を、青年は必死になって離すまいとした。背中の奥へと彼女をかくまいつづけ、彼女もまた、青年の着物をつかんで離そうとしない。
 「やめて、やめてェ!」
 画然、
 「ぎゃ」
 不快な音が一つ、紛れ込んだ。最初はその音に気づかなかった男達だったが、しかしだんだんとそれは増えていく。
 「がぁ・・・!」
 「うげェ」
 ようやく異変を感じとって、男達も青年も女性も、暗闇へと視線を馳せてみると・・・
 闇夜の中に。忽然と姿を見せていたのは長身の男。今宵は静謐なる夜、しっとりと濡れた闇が落ちている。花火の夜とは思えぬほど、この一帯は静まり返っていた。
 「なんだ、てめェは!」
 お決まりの台詞といえばそれまでだが、問われて長身の男、ゆらりと歩を進めながらこう告げた。
 「やっと掴まえたぜェ、平助」
 足元に転がる男達をさらに足蹴にしながら、彼は忍び笑いをこぼす。
 「そ、その声は・・・!」
 男、血の気が失せた。忘れるはずのない声音だったからだ。否、忘れようにも忘れられるわけがない、何しろ昼間に聞いたばかりの声だったのだから。
 「斬左、て・・・てめェ、どうしてここに・・・!」
 「ご挨拶じゃねェか。てめェのあくどい臭いは、臭くて敵わねェ。プンプン臭うもんだから、迷惑だと言いに来てやってみれば・・・おめェだったとはなァ。いい拾いモンをしたぜ」
 「なんだと!」
 「何を企んでンのかは知らねェが、あこぎな真似をしてることはよぉくわかるぜ」
 カラン、コロン・・・と懐にしまっておいた下駄を放り出し。片肌脱ぐなりパッと着物の裾をまくり上げ。バキバキ・・・と空気を僅かに震わせたそれは、拳の節が鳴った音・・・
 「もう逃がさねェぜ。友達の借り、きっちり返させてもらうぜ・・・俺の拳でな」
 「やかましい!」
 男・平助、急に声を張り上げた。面差しも判然としない、鮮明に見えぬ暗闇の中でその眼光をギラギラと光らせた。
 「この人数を相手にするってェのか? 馬鹿もいいところだぜ!」
 「うるせェ!」
 長身の男が怒鳴った。まさしく怒号のような一声に、一瞬男達のざわめきは止まった。
 「口上ばっかりたれてンじゃねェよ。それともなにか、やっぱり俺が怖くて動けねェか」
 「な・・・!」
 「それなら仕方がねェ、俺のほうから行ってやらァな。気がつかなくてすまなかったなァ」
 瞬間、目の前から左之助は消えていた。
 「え・・・!」
 戸惑いも束の間、
 「ここだ」
 背後からの声に思わず男が振り返れば、
 「うわぁ!」
 鳩尾に深々と、拳がうずまっていた。直ちに意識は消失、がっくりと弛緩する。
 腕に寄りかかってきた肉体を苦もなく払いのける、ブンっと身体は宙を舞ってあっけなく、地に落ちた。
 あまりの出来事に男達は一瞬、思考回路が停止していたが、
 「この野郎ァ!」
 それぞれが声を上げていっせいに、左之助へと襲いかかっていった。
 「へへ、どこからでも来やがれ!」
 両拳を身構えると、唇の端が醜く歪んだ。
 目の前で始まった乱闘騒ぎに、青年と女性は呆気にとられていた。
 いったい何が起こっているのかさっぱりわからない。
 ただ、突然姿を見せたあの長身の男が、助けに入ってきたという事実だけは飲み込めた。青年は首を巡らせ、
 「大丈夫でございますか、お嬢様」
 できるだけ平然さを装って声を掛けた。
 「え・・・えぇ、大丈夫です」
 「私から離れないで下さいましね」
 グッと背中へと押し込んで、青年は拳が乱舞する世界を凝視した。
 何度か乱闘騒ぎを目にしたことはあったが、ここまで圧倒的で、しかも楽しそうに拳をふるう男を、青年は見たことがなかった。
 「あらよっと」
 「ぐは!」
 まるで遊んでいるかのようにすら見える、足元には次々と男達が横たわっていくのに。惨状が惨状ではないように見えてしまう・・・
 男の拳に吸い寄せられていくように見えるのだ。ちょうどそこには頬があって、腹部があって・・・本当に、不思議な光景だった。
 「大丈夫でござるか」
 「!」
 突然、側から声がして二人の心臓は縮み上がり、ハッとして左側を振り向いた。
 いつからそこにいたのだろう、小柄な男性がにこやかに微笑みながら立っていたのだ。
 柔らかな髪の毛をざっくりと一つに束ねて。ゆるりと開かれた懐から白い肌。何より目を引いたのは、小作りな顔に似合わず腰に差された大刀だった。
 二人は身体を強張らせ、見たこともない男を注視した。
 「あぁ、驚かせてすまぬ。拙者はアレの連れ合いでござるよ」
 そう言って指し示したのは、男達の中心でやたらと楽しげに拳をふるっている、あの長身の男。青年はそれでも声が出せず、強張りを解かない。
 「それほど怖がらないで下され。あの男は相楽左之助といって大の喧嘩好き、拙者は緋村剣心・・・流浪人でござったが、今は本郷の神谷道場に居候をしているでござるよ」
 「・・・神谷、道場・・・」
 へなへなと、青年は崩れ落ちた。慌てて女性が声を掛ける。
 「茂吉!」
 「す、すみません、お嬢様・・・力が抜けてしまいました・・・」
 「も、茂吉・・・」
 「大丈夫でございますよ、お嬢様。本郷の神谷道場といえば・・・神谷薫という腕の立つ女性剣士がいることで有名でござります。そこへいらっしゃるお方でございましたら、きっと信用しても大丈夫でございましょう」
 その言葉に笑いをこぼしたのは、名乗りを上げた剣心だ。
 「あぁ、大丈夫でござるよ。心配はいらぬ」
 剣心は二人の前に立つと、左之助のほうへと視線を向けた。
 男達の数は知れなかったが、剣心がようやく人込みを抜けて駆けつけたときには、そのほとんどが地面に転がっていた。彼の膂力はある意味、怪物じみているから命を奪いかねない。だが、さすがにその辺りは心得ているようで、うまい具合に力を抜かせている。
 加減をしながら喧嘩を楽しんでいる様子の左之助は、男達から見れば悪鬼以外の何者にも見えないだろう。
 昼間の妙な引っかかりもあって、胸騒ぎを覚えて追いかけてきたが・・・
 そんな必要はなかったのかもしれない。
 自分の行動に苦笑をこぼして、剣心は静観を決め込んだ。
 「オラオラ、どうした! これで終いか! もの足りねェなァ!」
 左之助の足元には、醜く蠢く者ばかりが転がっていて。気がつけば、あの平助という男だけが残っていた。
 「とうとう、おめェだけになっちまったなァ平助よ」
 「ヒ・・・!」
 にじり寄ってくる左之助を、平助はガタガタ震えながら見つめ・・・何を思ったか、懐へと右手を突っ込んだ。
 「こ、これでも・・・!」
 「!」
 左之助の動きが、止まった。
 一瞬、周りの空気が凍てつく。
 「ヘ・・・ヘヘヘ・・・」
 平助の乾いた笑い声が、不気味に染み広がっていく。
 「どうだ・・・これで手も足も、出ねェだろ・・・」
 彼の右手が握りしめ、外気へさらしているものは拳銃。黒光りする銃口が、ピタリと左之助に狙いを定めている。
 動きを止めた左之助だったが、臆した様子は全くない。むしろ嘲笑った。
 「ハハ・・・へぇ? おめェ、そんなモンまで持ってやがンのか。どこまで腐れ外道なんだか」
 「黙れ!」
 「誰が黙るか! 俺がそんなもンに屈するとでも思ってやがンのか!」
 ジリ、一歩左之助が進み出た。
 平助、一歩下がる。
 「退いてンじゃねぇよ・・・オラ、撃てるもんなら撃ってみやがれ!」
 「う、ぁ・・・!」
 平助の頬が痙攣したその時、

 ヒュルルルル・・・

 聞き覚えのある音が空を駆け、

 どおおぉん・・・!

 大輪の華が夜空に咲いたその下で。

 「グ・・・あああぁ・・・!」

 下劣な悲鳴が轟いた。
 天空を貫く右腕の先からは、硝煙の煙が吐き出され。
 手首には、深々と逆刃刀が埋められて花火の明かりで妖しげに輝いていた。
 剣心が逆刃刀を払うと、だらりと右腕が落ちてきて。平助はもんどりうってその場に倒れた。
 「があぁ、痛ェ、痛ェよぉ! 俺の腕が・・・右腕がァー!」
 「当たりめェだ、この馬鹿が」
 ガンっと左之助が蹴り上げる。見事に鳩尾に入ったらしく、嘔吐物が地にまかれた。
 「こいつの剣は普通のモンじゃねェんだよ。良かったなァ、味わうことができてよ。滅多と味わえるもンじゃねェんだぜェ?」
 クックッと笑いながら、悶え続ける彼の胸倉を掴み挙げた。
 「さァ、俺の友達の借りを返させてもらうぜェ」
 「あ、や、やめ・・・!」
 「あぁ? 聞こえねェなぁ?」
 「た、頼む、助け・・・!」
 「馬鹿野郎、おめェだけは許せねェんでェ。それにおめェのこった、どうせ、あの嬢ちゃんをかっさらって、がっぽり金でも脅し取ろうって腹だったんだろう!」
 「う・・・!」
 「図星か? ハハ、だったらあいつの刃同様、俺の拳も味わっていけよ。うまいぜェ?」
 「や、やめ・・・!」
 ぐぐっと振り上げられた右腕を、平助は恐ろしさのあまり意識を揺らめかせながら見つめていた。こんな時、どうして気を失わないのだろうと恨めしく思いながら・・・
 「遠慮はいらねェ、ま・・・永久にうまい飯は食えねェだろうが、な・・・!」
 ガンッ
 平助の頭部が飛んだ。
 一度地面で弾んでからドサリ、と落ちて。
 それきり、動かない。
 「あ〜らま、やりすぎちまったかな?」
 左之助はボリボリと頭を掻きながら、辺りの惨状を見渡してそう言った。しかし、剣心は目敏く言う。
 「顔が笑っているぞ、左之」
 「そうか? 気のせいだろ」
 フフンと鼻で笑う彼に、剣心はふっと息を付く。
 「余計な手出しでござったかな」
 「あぁ」
 「それはすまなかったな」
 「今度やったら、許さねェよ」
 「拙者も、あの男のようになるのでござるか?」
 苦笑しながら指し示した平助を、左之助もまた笑いをこぼす。
 「馬鹿、ンなわけねェだろ。別のやり方で泣かせてやらァな」
 「ほう? どんなやり方でござるかな?」
 「そいつは俺を怒らせてのお楽しみ。せいぜい余計な手出しをして、俺を怒らせてくンな。楽しみにしてるぜ」
 互いに目を合わせて、ふわりと笑いあった。
 「あ・・・あの〜・・・」
 声を掛けられて、やっと二人は青年と女性の存在を思い出した。振り返ると、二人が同時に頭を下げている。
 「この度は危ないところを助けて頂いて、本当にありがとうございました」
 「なぁに、気にすンな。俺が好きでやったことだ、礼を言われる筋合いはねェ」
 「は・・・?」
 二人が同時に首を傾げた。無理もないと、剣心が笑いをこぼしながらあとを続ける。
 「こんな男なのでござるよ、気にする必要はござらぬよ」
 「いえ、そんなことは・・・また後日、改めてお礼に伺いますので・・・」
 丁寧に挨拶を続ける青年を、左之助は邪険に払う。
 「だから、そんなことをする必要はねェって。なぁ、剣心?」
 「あぁ、左様でござるな」
 「だからよ、あんたらも早く行って、花火見物して来ねェ。面白くもなんともねェだろ? 打ち上げは始まっちまったみてェだし」
 空を焦がす花火は、先ほどから数を増して打ち上げられ続けていた。きっと両国橋界隈では、見物客が歓声を上げていることだろう。さすがにここまでは聞こえてはこないが・・・。
 「さぁて、剣心! 俺達も花火見物といこうぜ。熱い二人なァ、俺達は無用の長物だ」
 「ハハ、全くその通りでござるな、左之。では、この辺で失礼を致すよ。あとの処理は・・・ま、おいおい巡回の警官が来るでござろうから」
 「あ・・・はい、しかし・・・」
 「気にするな、でござるよ」
 ニッコリと笑うと、既に先を歩き始めていた左之助の背中を、剣心は追いかけていく。
 「あ〜、しかしなんだな! やっぱり着流しはいけねェや、動きづらくってよぉ! それにこの下駄が・・・」
 「そうか? そのようには見えなかったでござるがなぁ・・・」
 「馬鹿言え、俺はなぁ・・・」
 闇の中へ溶け込むようにして・・・夜空に浮かぶ花火が二人を浮かび上がらせつつも・・・姿はすっかり、消えてしまった。
 青年と女性は、二人の背中へ黙って、頭を下げ続けていた。


[ 表紙    2   ]