「爪の痕」

 湿り気を帯びた闇色の空気は、いつでもぬるやかで。
 肌へなまやかにまとわりついては、鋭敏であった感覚を麻痺させていく。
 息を吸い込むたびに甘さは増し、意識は緩慢に落ちていく。
 毎夜の如く繰り返される桃源の味は・・・
 この腕が、胸が夢なのではないかと思わせる、儚さを覚えさせる。
 次の瞬間、さらりと流れゆく砂のように消えてしまうのではないかと・・・
 現実ではなく、幻で・・・
 目を開けばすべてが醒めてまたあの日々が・・・血みどろの日々が始まるのではないかと。
 ずっと・・・ずぅっと夢を見続けているのではないかと考えてしまう。
 ある時は破落戸長屋の四畳半。
 ある時は神谷道場の離れにて。
 またある時は・・・
 場所に捕らわれず、刻限に捕らわれず。
 たくましい腕は容赦なく伸びてきて、かつて血の雨で汚れてしまったこの身体を、
 喰らい、蹂躙し、桃源の地へ引きずり込む。
 骨の髄まで汚れたこの身体を、
 夥しい熱と、息も尽きせぬ肉体が嵐となって肌を貪りつくしていく。

 どうしてこんな身体を求めるのか、わからない。
 どうしてこれほどまでに喰らいつくそうとするのか、わからない。
 この身体にも・・・まして、自分自身にも魅力があるなどと露ほども思ったことはない。

 むしろ、嫌われて当然の存在だと。

 なのに・・・この男は欲してくる、無限大に欲してくる。
 圧倒的な力ですべてを飲み干さんとするように、己が物にしてしまうかのように、
 全身で・・・魂ごとぶつかってくる。

 壊される・・・!

 何度、そう感じて身震いし、息を吐き出したことか。
 でもそれは恐怖などではなくむしろ・・・快感に近く、甘く・・・蜜にまみれた果実の如く・・・。
 壊されたい・・・
 いや、いっそすべてを壊されたいと、
 魂の奥から粉々に壊されてしまいたいと切に願ってしまう。
 この男ならば・・・左之助ならばそうされたいと、
 壊されて、真っ白になって・・・無になりたいと・・・
 ・・・そう、考えて・・・つい、願ってしまうのはやはり・・・
 やはり・・・罪なのだろうか。
 願ってはならぬことなのだろうか・・・

 「・・・心、剣心」
 「・・・あ・・・?」
 遠いところから声がしたように思えて、剣心は反射的に意味のない声をこぼした。目を開くと、暗闇の中で漆黒の瞳が覗き込んでいる。
 「こんなに可愛がってンのに、上の空かよ。目ェ閉じたまんまで・・・ちったァ俺のことも見ろよ」
 「左之・・・」
 「それとも・・・わざと俺をあおってンのか」
 「そんな、つもりは・・・」
 たちまち眉間にしわを寄せた剣心に、左之助はクスリと笑った。
 この時やっと剣心は思い出す、今自分が左之助の長屋にいることを。ともに酒を酌み交わし、そのまま・・・帯をほどかれてしまったことを。
 「妙なことを考えてやがったな」
 「・・・・・・」
 「正直だな、おめェは」
 クックッと笑って左之助は、唇を歪めた。
 「今、どういう状況かわかってンだろうな。もっと恥ずかしい目にあわせてやろうか」
 「左・・・!」
 「そうすりゃ、馬鹿なことを考える余裕なんざ、ぶっ飛んじまうだろうぜ」
 闇の中で、薄く下卑た笑みを浮かべたのが剣心にはわかった。ゾクリと背中に冷たいものが走ったが、すぐにそれは甘美なものへと変貌を遂げる。
 剣心は頬を赤らめ、すぃと顔を背けた。
 背けた向こうで、つと思う。

 これなのだ。
 この瞬間がたまらないのだ。

 もう・・・癖になってしまっていることに、自分で気がついている。
 気がついているが、気づかぬふりをしている。
 ・・・そう、気づいては・・・。

 伸びてくる指先が、
 吹きかけられる吐息が、
 かけられる言葉の一つ、余韻が・・・
 まるで妖しげな薬のように染みこんでくる。
 陶然と、揺らめいてくる意識の中で・・・
 自分のすべてを壊してくれることを願ってしまう。
 壊し、壊されて・・・全く違う自分になれることを、心のどこかで期待してしまっている・・・
 腕と温もりに酔いしれて、その先に何があるのだろうと期待してしまう・・・
 身も心もすがって、先にあるだろう世界を見てみたいと・・・
 望んでしまうのだ、決して許されることではないとわかっていながら。

 「剣心」

 髪を滑る指先の・・・
 耳朶に染みゆく吐息の・・・
 柔な唇がたどる、肌の流れ・・・
 ぞんざいに身体をまさぐってくる手のひらのざわめき。
 合わされる肌と、肌。
 混ざり合う雫と絡む視線。
 熱い、
 なのに・・・温もりは安らぎに満ちていて・・・

 「左、之・・・」

 両腕を伸ばしてぺたぺたと。手のひらで左之助の頬を触る。
 触って、その感触を確かめるように撫でて・・・

 「剣心・・・?」

 左之助は剣心の手を取った。その指先をおもむろに唇へ含め、ニヤリとする。
 唇の奥の、高い熱に剣心はクラクラと目眩を覚えた。指先に絡まる舌先に、淫靡なものを感じて思わず、吐息を洩らす。

 「どうしたよ、剣心。俺ァ、ここにいるじゃねェか」
 「左之・・・」
 「もっと・・・感じてェのか」

 つつぅ・・・と無骨な指が白磁の大腿を伝い落ちたとき。
 ハッとして剣心は、唇を噛んで少しばかり、目を伏せた。

 「俺が中に入ろうとすると、おめェはいっつも・・・そんな面ァするよな・・・」

 身体を割り開いて腰を潜らせ。華奢でありつつも力強さを秘めた脚を抱え込む。左之助は互いに滴りあっている腰を、吸い付けるように擦り寄せていく・・・
 その気配に、生白い臀部が妖しく蠢いた。

 「剣心・・・」

 蒼い瞳をじっと捉えたまま、剣心の肩へ深く唇を落として。軽く首筋を味わい・・・再び、蒼い瞳を見た。

 「何か怖いのか? それとも・・・いつまでたっても、なれねェか」

 鼻先で笑いながら、けれども瞳にわずかだが寂寥が混じった。

 「左之・・・?」
 「剣心・・・しがみつけよ」

 自分がどんな顔をしているのか、そんなことはわからない・・・いや、わかりたくもない。
 けれど・・・けれども。
 こうして、左之助に貫かれようとする瞬間になるといつも、胸の奥がにわかに騒ぎ出す。

 いつもここには安らぎがある。
 いつもここにいれば、心は和む。
 身も心も預けてしまえば、いつでも夢が見られる、見せてくれる。
 このぬるま湯にいつまでも浸かっていたい・・・

 ・・・その、傍らで。

 この男を求めてはならない、欲してはならないと・・・
 心の奥底から叫びがあがる、心酔してはならぬと鋭い刃が飛んでくる、
 眩い光を手に入れることなど罪深いと、
 こんな、至福の瞬間を味わうことが自分に許されるわけがないと・・・!

 己の罪をかえりみろ、
 己の過去を忘れたか?
 お前の手は血でまみれている、
 その手で何を掴み、何を得ようというのだ・・・!

 「左之・・・!」

 しがみついた、たまらずに。力の限り・・・左之助に。

 許されないことはわかっている、わかっているが求めてしまう、心が、身体が・・・!
 どうしようもなく、欲しくてたまらない・・・!

 ・・・そうだ・・・そうとも、かまうものか。
 こんなに欲しくてたまらないんだ、かまうものか!
 どんな罰がこの身に下されようともかまわない!
 許されなくてもいい!
 だから今は・・・今だけは、
 この男に溺れていたい、
 溺れていたいんだ・・・

 「剣心・・・!」

 烈火の如く、熱く焼けただれた塊が身体を押し入ってくる。
 夥しい、痛み。
 されど・・・されど、それを越えれば・・・

 「あっ、あっ・・・!」

 気がつけば、唇から迸っているのは絶え間ない嬌声、喘ぎ声。
 そして・・・
 左之助の存在感を追い求める自分がいた。

 「剣心・・・、はぁっ」

 鋼の肉体を揺さぶって、ずんずんと奥へ、奥へ・・・さらに奥へと際限なく入り込もうとしてくる。
 これ以上は進入不可能、どうあがいても入れないというところまで。
 それでも諦めないと言いたげに、いったんは退いてまた進み、進んでは退いてなお、進む。
 繰り返し、繰り返し・・・調子を速め、あるいは遅く・・・
 華奢な身体に刻まれる不安定な律動は、容易く剣心を翻弄させた。

 「左、之・・・左之・・・!」

 意識が霞む。
 甘い痺れが全身を包む。
 瞳が陶然と・・・潤む。

 感じていたい、左之助を。
 快に沈みつつも、しっかりと彼の身を感じていたい、得ていたい・・・
 我が身を苛むこの嵐が、確かに左之助であると・・・
 感じ続けていたい・・・!
 儚くなどない、夢でもない、
 確たる現実のものであると・・・!

 肩へ回していた両腕は、いつしか背中を捉えていて。
 ぐぐっと爪を立てていた。

 「ツ・・・」

 一瞬、左之助の顔は苦痛で歪んだが、剣心は気づかない。
 指先に力を込めてひしと、肌をすがらせていた。

 「剣心・・・!」

 荒々しく唇が奪われ、舌先が乱舞する。
 嬌声はたちどころに吸い込まれて、左之助の口腔内にてのたうちまわる。
 剣心は切なげに息をこぼした。

 「ン・・・ふぅ・・・ぁ」

 左之助が唇を離す頃・・・もはや、剣心には理性のひとかけらも残ってはいなかった。
 ただ、ゆらゆらと・・・妖しげな光が瞳に浮かんでいた。

 「たまらねェぜ、剣心・・・俺ァ、も・・・!」

 深く深く、左之助が剣心を抉り抜いた瞬間・・・
 二つの想いは、頂点を極めた。






 ・・・ざぁざぁと、雨が降っていた。
 ぽたん、ぽたん・・・どこかで雫が溜まる音。雨漏りの雫が、水瓶にでも落ちているのだろう。

 左之助は一人、身体を起こしていた。

 暗闇の中、聞こえてくるのは雨音と・・・微かな寝息。
 傍らで眠る赤毛の人は、規則正しい呼吸を繰り返していた。
 じ・・・と、目を細めながらその人を見つめる。
 きれいな横顔には、痛々しい十字傷があった。かなりの古物で黒ずんでしまっている。
 長い睫に凛々しい眉・・・傷さえなければ本当に、女と見紛うばかりの美しさだというのに。
 けれども・・・
 この傷に、この男が背負っているすべてのものが詰まっている。
 この傷に、この男の生き様すべてが詰まっている。
 「剣心」という男を語る上で欠かせないもの、「剣心」という男そのものを現しているであろうこの傷が。
 今だけはとてつもなく、恨めしい。

 「今日も駄目・・・か」

 ふ・・・と、吐息をついて。左之助はおもむろに、傍らに転がっていた徳利を取り上げてぐびり、ぐびりと飲み干した。
 「ふ〜・・・」
 深く息を吐き出して。腹の底からわき上がる熱に身を任せる。
 グッと手の甲で口元を拭いながら、彼は再び傍らを見やった。
 「見えねェな・・・やっぱ」
 どんなに激しく抱いても・・・どんなに淫らに、喘がせてみても・・・結局のところ、肝心なところは見えない、見せない、見えてこない・・・。

 俺が抱いているのは、いったい何だろう。

 いつしかそう、考えるようになった。

 身体か・・・心か?
 身体・・・は、抱いている。狂わせるほどに、吸い付いて離れねェ。
 だが心は・・・? こいつの心はいったい、どこにあるんだ・・・
 何を見て、何を考えてやがんだ・・・
 俺に抱かれながら、何を思って・・・

 自分を見てくれているようで、その根底では見ていないのではないか。
 抱かれながら全く別の、何かを見ているのではないか・・・
 本当はここに、剣心の心はないのではないか・・・

 この腕に抱きながら感じてしまう、激しいほどの寂寥感。
 それはきっと、全く見えてこない剣心の心にある。
 こんなに深く入り込んでいるのに・・・肝心なところが全く、見えない・・・。

 − 妙なことを考えてやがったな。

 あの時。
 あの時考えていたことが本音の部分、心の部分なのだろうと直感している。
 だが・・・
 それを知ることは・・・
 知る日が来るのだろうか。
 見せてくれる日がくるのだろうか・・・?

 「剣心・・・」

 小さく名を口にする、けれど・・・すやすやと眠り続けている。
 雨音とともに、混じって寝息が聞こえてくる・・・

 「やらせてくれるだけでも満足してたってェのに、それが現実になると・・・人間、欲張りになるもんだよなぁ・・・今度は、おめェの心が欲しくってたまらねェ・・・」

 はぁ・・・とため息を吐いて。左之助は額に手を当てた。

 「おめェを丸ごと俺のものにしてェと願うのは・・・いけねぇことかよ、剣心・・・」

 いつまでたっても、見えてこない。
 どんなに抱いても、見えてこない・・・
 ・・・ただ。
 背中にはいつも、爪跡があった。
 剣心が夢中で爪を立ててくるのだ。
 それが傷になっていることを知ったのはつい最近で・・・兄貴と慕ってくる修に言われてのことだった。
 だから・・・間違いないと感じている。
 俺は確かに、剣心を抱いているのだと。
 そして・・・剣心もまた、俺に抱かれているのだと感じているに違いない。
 爪を立てることで、傷を付けることで無意識のうちに確認しているに違いない・・・。

 そんなお前なのに。
 そんなお前なのに・・・
 見えてこない、お前の本心が。
 見せてくれない、お前の本音を!
 お前の心が欲しい・・・!

 「なぁ、剣心・・・」

 寝息を立て続ける剣心の上空を、左之助の身体が覆い尽くす。
 剣心を真下に見つめながら、左之助は呟いた。

 「俺は頼りねェか・・・? おめェをすべて受け止めるには、物足りねェか・・・?」

 ス・・・と顔を落として。左之助は・・・唇を奪う寸前、呟いた。

 「おめェを丸ごと、俺にくれ。俺はすべて受け止めてみせる、だから・・・」

 雨音の中、密やかな吐息が洩れていく。
 整った寝息はすぐに崩れ、すぐさま湿り気を帯びていく。
 闇の中にスラリと両腕が伸ばされて、汗に冷えた鋼の身体を抱きすくめる。

 「剣心・・・」

 その声はすぐに埋もれる、肌の中へ。
 心の迷いも一緒に、埋もれていく・・・

 二つの想いは再び絡む、重なり合う。
 重なり合って・・・雨音に紛れていく・・・

 雨は降り続ける、静かに・・・ことさら、静かに。

 そっとやさしく・・・包み込むように・・・




     了


背景画像提供:「篝火幻燈」さま
http://ryusyou.fc2web.com/

〜 祝! 50000 hit & 2周年! 「MOON VILLAGE」さまへ捧ぐ♪ 〜





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m(_ _)m


拝啓 Tsukiさん♪

 Tsukiさん! 50000 hit & 2周年、まことにおめでとうございます〜(^▽^)!
 ・・・なんだか、二つをひっくるめちゃって申し訳ないなぁと思いつつ(笑)。 でもよかったら、ささやかながらこの拙作を、お祝いの品としてお受け取りくださいませ m(_ _)m
 いつも本当にお世話になりっぱなしで(><)! 私にはもう、欠かせないお方と なりました(笑)。これからもどうかよろしくお願いいたします(*^^*)!
 ではでは、これからも「MOON VILLAGE」さまの繁栄と、左之剣ロードを爆走 されることを祈りつつ・・・(笑)♪

かしこ♪

BY. ぢぇっと   「漆黒の刃」 http://www3.to/yaiba/

05.06.02