先行く道の果てまで、連綿と続いている。
灰色の、冷たさを宿す高い壁・・・内務省。
天へとそびえるそれを右側にして、剣心は歩を進めながら固く、唇を結んでいた。
夜の空気が肌に痛い。チクチクと刺すような感触に、剣心はぶるりと一つ、身を震わせた。
拳がまだ、痺れていた。
ジンジンと残るその余韻があたかも、左之助の思いの表れのようで。
剣心は薄い唇で小さく、息を洩らした。
つい先ほどまで、あの壁の向こうで闘っていた。
友であり、相棒である左之助と、互いの信念をぶつけ合った。
引くことも、譲ることも許さずに闘い抜いた、すべてを賭けて。
− どうした剣心、なぜ逆刃刀を抜かねェ!
あの気迫、あの闘気、あの・・・眼光。
全身からあふれる彼の信念を、この逆刃刀で制してしまった。
忘れまい。
結果はどうあれ、理由や理屈はどうあれ。男の道を阻止してしまった。その生き様に横槍を入れてしまった。たとえ自分が正しかったにせよ、その意味を忘れてはならない。
左手がおもむろに、腰に帯びたる逆刃刀を、柄を撫でた。・・・今宵はまた一段と、この相棒が重く感じる。
いまだかつて一度も、血を吸わせたことのないこの逆刃刀が。
とうとう、血を飲んでしまった・・・味わってしまった。
左之助の、手のひらからあふれ出した深紅の体液、その温もりが、生々しく皮膚によみがえる。
「左之助・・・」
己が手のひらを見やれば、いまだ赤黒い血糊が付着していた。あの時すぐに拭ったとはいえ、べとついてきれいに拭いきれるわけもなく。生乾きになってしまったそれを、剣心はぺろりと舐め取った。
「左之・・・」
お主の血で、よかったのかもしれない。
お主の血で汚れた逆刃刀ならば、間違いも起こさないだろう・・・
拙者が、お主の凶行を阻止したと同時に。
お主は拙者の刃に警告をした。
お主の血で汚れたこの刃を、どんな血であろうとも汚すな、と。
もし、そのようなことがあれば・・・
「左之助、お主は拙者を・・・」
ピイィー・・・
虚空を裂く呼び笛の音に、ハッと剣心の視界が開ける。
物思いにふけりすぎた、早くこの場を立ち去らねば。
内務省襲撃に警官達が声を荒げている。不審者がいないかどうか、捜索範囲を広げたに違いない。
考えるよりもまず、身体が動いた。
左手で逆刃刀を握りしめ、つま先に力を集中させたその時、
「待て! ここで何をしている!」
背後からの声に思わず、剣心は振り返ってしまった。
警官だ、全力で駆けてきたのだろう、肩を上下にさせている。闇の中で目がぎょろりと動いた。
「貴様か!」
踏み込んだと同時、シュランとサーベルが引き抜かれた。
刃の気配に咄嗟、剣心は後方へと退いて逃走の構えを取った。
と、
「貴様・・・緋村。緋村抜刀斎か!」
「!」
剣心の身体が強ばった。左手で逆刃刀を握りしめたまま、注意深くその警官を凝視する。
新月のこの夜に、相手を見定めることは容易ではない。まして刃も交わしていないというのにどうして・・・
そんな剣心の心を見抜いたのか、警官は静かに口を開いた。
「俺だよ、緋村。忘れたのか?」
打って変わって、這うような低い声音に剣心の、埋没されていた記憶が瞬時に呼び起こされた。唇が一瞬、震えた。
「その声・・・岡崎さん・・・!」
剣心の目の前にいるこの警官は。かつての同胞、長州派維新志士の岡崎次三郎であった。
どうする?
剣心は己へと問いかけながら、どう動くかを瞬時に思案する。
ぐずぐずしてはおれん、すぐにたくさんの警官が来る。しかし、この岡崎・・・!
沈黙が流れた。が、流れを断ち切ったのは岡崎のほうだった。
「緋村、お前は今、どこにいるんだ」
「え?」
「どこだって聞いてるんだよ」
「ほ、本郷の、神谷道場です」
思わずそう口を開いてしまってから、しまったと臍を噛んだがもはや、遅い。小さく唇を噛んだが、この闇では相手には見えない。
「わかった、行きな」
「え?」
「行けって言ってンだ!」
剣心は踵を返した、その一言にすべてを理解して。きれいに背中を見せて、全力で疾駆する。
たちまち消えた小さな背中を見送って。警官・岡崎次三郎はぼそりと呟いた。
「こんなところで再会するとはな・・・逃がすな、ということか」
ひゅぅ、と一陣の風が吹き渡り、彼の呟きを掻き消して。
剣心の姿を、岡崎の姿をその場から消失させた。
辺り一帯、いまだ闇。
闇夜はまだまだ、深いままだった。
パンパン!と手ぬぐいをはたき、しわを伸ばすと。
物干し竿に引っかけて、さらにしわを伸ばし。
「うん」
と、満足そうに剣心は頷いた。
空はどこまでも、青く澄み渡っていた。
風もなく、太陽の光が眩しいばかり。
薄く目を細めながら剣心は微笑むと、足元へと視線を落とした。
たらいには、絞ったばかりの着物がまだまだ山のように積まれていて。急いで干さなければと、胸の内で自らを叱咤する。
そう、いつもならば洗濯物を干すことなど完了しているというのに、今日はどことなく、動きが鈍かった。
「どうした、剣心。進まねェみたいだな」
縁側で寝そべっていた左之助が、少しばかり不思議そうな声音を洩らした。
「夕べのことで、どこか身体を痛めたか?」
「いや、そんなことはござらんよ」
襦袢を干そうと広げながら、剣心は少しく顧みて苦笑した。
「それを言うならむしろ、お主のほうではござらぬか。いい色がついているでござるなぁ、その脇腹」
「むっ」
反論してやろうと勢いよく起きあがったが、
「ツ・・・」
左の脇腹へ手を寄せて、左之助は苦悶に顔をしかめた。
「ほうらみろ。拙者よりも重傷ではござらぬか」
「うるせェ」
「ふふ・・・」
ふてくされ、くるりと背を向けて寝そべってしまった左之助を、背中の「惡」一文字を見つめながら、剣心は苦笑をにじませる。
内務省襲撃未遂事件が起こった、その朝。左之助はもう何食わぬ顔をして神谷道場へ姿を見せた。
昨夜の宴の翌日ということもあって、どこに行っていたのかと道場が主・薫を始めとする面々に詰問を受けたのだが、左之助はうまく言葉を濁していた。剣心もまた、特には何も触れずに。
互いに顔を合わせた、目を合わせた。それだけだった・・・それだけで、十分だった。
「・・・何か、気に病んでるんじゃねぇのか」
「え?」
背中を向けたまま、そう問いかけてきた左之助に剣心は、ゆるく首を振った。
「いや・・・何もないでござるよ。そう見えるでござるか?」
「見えるから言ってンじゃねぇか」
「そうか、それは困ったな」
小さく笑いながら、剣心は洗濯物を再び干し始める。その気配を感じて、左之助がゴロリと剣心のほうへと身を向けた。
「困ってないだろ、てめぇ」
「いや? 困っているでござるよ? 拙者は普通でござるのに・・・どうしてそう見えるのかなぁと」
「はぐらかすんじゃねぇよ、剣心」
「左之」
つと、動きを止めて。剣心は振り返る。
「拙者が気に病むことがあるとすれば・・・昔のことを思い出しているときだけでござるよ」
にっこりと笑ったその顔に、左之助は何も言えなくなった。
それから黙々と干していく剣心の背中を見つめながら、左之助は思う。
そんなことを言われたら、もう何も言い返せねェじゃねェか。
そいつは殺し文句じゃないかと、一瞬、寄せ付けぬ壁を見せられたような気がして、左之助は小さく舌打ちをした。
・・・岡崎次三郎、か・・・。
洗濯物を干しつつ、剣心が胸の中で呟いたその名は、郷愁とともに血の臭いをも運んでくる。
血生臭い世界の中にありながら、思えば彼の存在は、ほのかな陽の光であった。
それを表に出すことは・・・素直に表現することはなかったけれど。
あれから、十年。
一回りほど年長者であったから、齢・・・三十八くらいになっているのだろうか。
暗闇の中だったから、面差しはよく見えなかったが。
あの声音は・・・懐かしいものだった。
本郷の神谷道場にいると告げてしまったから、もしかしたらここへくるかもしれない。
そう、考えたときだった。
「剣心ー! お客様よー!」
道場のほうから、剣心を呼ばわる薫の声が響いてきた。反射的に返事をした剣心だが、誰だろうと首をかしげる。
「おめぇに客人たァ、珍しいな」
左之助も珍しそうにして身を起こしながら、剣心へと視線を向けた。
「さて・・・どなたでござろう」
あと二、三枚ほど干せば終わるというところだったが、剣心は手を休めて正門のほうへと歩を進めた。
朝早く・・・というわけでもなかったが、昼前というにはあまりにも早い。そのような時刻に誰が、自分を訪ねてくるというのか。
心に思い当たる面々を思い浮かべるのだが、もとより知り合いの少ない東京府下、浮かんでくる顔ぶれなどごくごく、限られている。
そうこうしているうちに正門へとたどり着いてしまい・・・剣心、思わず大きく目を見張った。
そこに立っていたのは今まさに思いを馳せていた人物、岡崎次三郎、その人であった。詰襟の警官服に身を包み、帽子のつばの奥からじっと、剣心を見つめていた。
「よぉ、緋村」
にやりと笑みを浮かべた岡崎に、剣心は目を見張ったままに呟く。
「岡崎さん・・・」
「近くまで来たもんでな。ちょいと覗いてみたんだ」
帽子を払い、陽光の中に面差しをさらした警官に、剣心は吐息をこぼした。
「・・・岡崎さん、お変わりない」
昨夜の一件で再会を果たしたものの、にわかに信じがたい気持ちであったのだが。これでもう・・・確定した。
今、目の前にかつての同志がいる。
刃の林を駆け抜けてきた、仲間がいる。
時の流れが一気に、逆流したように感じた。
「さすがに、お前はいい男になったな。あの頃はまだ、元服を迎えるかどうかのガキだったが」
短く刈り上げた髪に、浅黒く日焼けをした精悍な顔立ち。大きな黒い瞳が細められ、懐かしさに淡く潤んでいる。
「岡崎さん・・・」
少し困ったように眉根を寄せると、警官は少しく口元をゆるめた。
「お前・・・変わったな」
「え?」
「まぁ、立ち話もなんだ。ちょいと早いが昼飯に付き合え」
「はぁ・・・」
軽く頭を掻いたとき、剣心はハッと思い出す。
「あの、申し訳ないんですが。まだ洗濯物を干し終えてないので、一緒に行くわけには・・・」
「なんだと、洗濯物?」
声音をあげて、岡崎は不思議そうにそう言った。
「洗濯物って、お前・・・」
「今、ちょうど干しているところなんです。もう少しで終わりますが・・・」
「そうか、それなら待ってるよ。だから早く干して来い」
「・・・すぐに、戻ります」
ばつが悪そうに苦笑を浮かべ、剣心はくるりと背を向けた。
足早に去っていく彼の背中を見ながら、岡崎は呟く。
「ふん・・・洗濯物、ねェ」
確かに言われてみれば、小さな背中にはたすきがかかっている。袴の裾も心持ち、上げているだろうか。
「あの緋村が・・・」
ふと、気がつけば。
岡崎のつま先は中庭のほうへと、方向を定めていた。
岡崎さんはただ、拙者に会いに来ただけなのだろうか?
久しぶりだからと、会いに来る・・・そんな男ではなかったように思うのだが。
まさか、夕べのことで左之助の存在に気づいたのでは・・・
・・・岡崎さんと左之助を、会わせたくないな。
考えを巡らせながら剣心が中庭へ戻ると、左之助が身を起こして縁側へ腰掛けていた。
「なんだ、もう終わったのか?」
「いや・・・」
苦笑のみを浮かべてみせる。
「何かあったのか?」
「別に。何も・・・どうしてでござる?」
「勘だよ、勘。感じるものがあったんだよ、今」
この男、やはり侮れないなと剣心は、左之助を見やりながらそう思った。
「そうか・・・何、ただ・・・今日の昼は、お主とともに食べることはできなくなったなぁと」
「え?」
「待っているのでござるよ、客人が。昼飯に付き合え、とな」
「誰でェ、そいつは」
「俺だよ」
「!」
聞きなれぬ声に、二人は反射的に振り返っていた。見るとそこに一人の警官が、帽子を取って立っていた。
「へェ・・・本当に洗濯物を干してるぜ。まさかとは思っていたが・・・へェ・・・」
顎を撫でながら、さも感心しきったように剣心を見ている警官に、左之助はスッと目を細めた。
「なんだ、てめェは」
幾分低い声音に、警官はこともなげに答える。
「客人だよ、緋村の」
「おめェが?」
「何かご不満でも?」
「左之」
たちまち漂い始めた剣呑な空気に剣心、すかさず声をかけた。だが、左之助は剣心のほうなど見向きもしない。警官を見つめたままだ。
「岡崎さん。待っていてくださいと言ったでしょう」
やれやれと息を吐きながら、剣心は恨めしそうに岡崎を見やる。
「まぁそう言うな。お前が洗濯物を干してるって言うから、つい気になってな」
岡崎はニヤニヤと笑ってそう答えた。
「そんなこと、気になさらずとも結構です」
仏頂面になって言い放った剣心を見て、岡崎は愉快そうに身体を揺すった。
「ハッハッ、馬鹿野郎、これが気にならないでどうする! 見ておかないと損をするだろ」
「岡崎さん!」
声を上げて笑う警官に、どこか向きになっている剣心。そんな二人に、左之助は妙な腹立たしさを覚えた。
「剣心! こいつは何なんだよ!」
左之助の一言に、剣心は軽く頭をかきむしった。
「岡崎次三郎さん。拙者の・・・昔の知り合いだ」
「何だ、他人行儀だなぁ。せめて昔の仲間とか、かつての同志とかって言ってくれよ、緋村」
「かつての同志?」
途端、左之助の表情が冷めた。あぁ、そういうことかと内心で納得してしまう。
「ふーん・・・そういうことかィ。だったら俺には関係ねェこった」
言いざま左之助、縁側へごろんと寝そべるなり、「惡」一文字を向けてしまった。
「左之」
「なんだ」
あくまでも左之助の声音は冷めている。剣心は深々とため息を吐いた。
「拙者、洗濯物を干したら岡崎さんと少し、出かけてくる。その足で買い物へ行くから・・・」
「あぁ、わかったよ。積もる話もあるだろうからよ、ゆっくりしてきてくンな」
ひらひら、と手を振って顧みない左之助に、剣心は苦笑をこぼすにとどめた。
「なんだ、お前は買い物もするのか? 緋村、お前って本当・・・」
「話は後で伺います。それ以上は何もおっしゃらないでください、岡崎さん」
にわかに垣間見えたのはおそらく、苛立ちであったに違いない。岡崎は幾分肩をすくめて、
「へいへい」
とだけ答えた。
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