[ 1     ]

「絆の在処(きずなのありか)」

 先行く道の果てまで、連綿と続いている。
 灰色の、冷たさを宿す高い壁・・・内務省。
 天へとそびえるそれを右側にして、剣心は歩を進めながら固く、唇を結んでいた。
 夜の空気が肌に痛い。チクチクと刺すような感触に、剣心はぶるりと一つ、身を震わせた。
 拳がまだ、痺れていた。
 ジンジンと残るその余韻があたかも、左之助の思いの表れのようで。
 剣心は薄い唇で小さく、息を洩らした。
 つい先ほどまで、あの壁の向こうで闘っていた。
 友であり、相棒である左之助と、互いの信念をぶつけ合った。
 引くことも、譲ることも許さずに闘い抜いた、すべてを賭けて。

   − どうした剣心、なぜ逆刃刀を抜かねェ!

 あの気迫、あの闘気、あの・・・眼光。
 全身からあふれる彼の信念を、この逆刃刀で制してしまった。
 忘れまい。
 結果はどうあれ、理由や理屈はどうあれ。男の道を阻止してしまった。その生き様に横槍を入れてしまった。たとえ自分が正しかったにせよ、その意味を忘れてはならない。
 左手がおもむろに、腰に帯びたる逆刃刀を、柄を撫でた。・・・今宵はまた一段と、この相棒が重く感じる。
 いまだかつて一度も、血を吸わせたことのないこの逆刃刀が。
 とうとう、血を飲んでしまった・・・味わってしまった。
 左之助の、手のひらからあふれ出した深紅の体液、その温もりが、生々しく皮膚によみがえる。
 「左之助・・・」
 己が手のひらを見やれば、いまだ赤黒い血糊が付着していた。あの時すぐに拭ったとはいえ、べとついてきれいに拭いきれるわけもなく。生乾きになってしまったそれを、剣心はぺろりと舐め取った。
 「左之・・・」
 お主の血で、よかったのかもしれない。
 お主の血で汚れた逆刃刀ならば、間違いも起こさないだろう・・・
 拙者が、お主の凶行を阻止したと同時に。
 お主は拙者の刃に警告をした。
 お主の血で汚れたこの刃を、どんな血であろうとも汚すな、と。
 もし、そのようなことがあれば・・・
 「左之助、お主は拙者を・・・」

 ピイィー・・・

 虚空を裂く呼び笛の音に、ハッと剣心の視界が開ける。
 物思いにふけりすぎた、早くこの場を立ち去らねば。
 内務省襲撃に警官達が声を荒げている。不審者がいないかどうか、捜索範囲を広げたに違いない。
 考えるよりもまず、身体が動いた。
 左手で逆刃刀を握りしめ、つま先に力を集中させたその時、
 「待て! ここで何をしている!」
 背後からの声に思わず、剣心は振り返ってしまった。
 警官だ、全力で駆けてきたのだろう、肩を上下にさせている。闇の中で目がぎょろりと動いた。
 「貴様か!」
 踏み込んだと同時、シュランとサーベルが引き抜かれた。
 刃の気配に咄嗟、剣心は後方へと退いて逃走の構えを取った。
 と、
 「貴様・・・緋村。緋村抜刀斎か!」
 「!」
 剣心の身体が強ばった。左手で逆刃刀を握りしめたまま、注意深くその警官を凝視する。
 新月のこの夜に、相手を見定めることは容易ではない。まして刃も交わしていないというのにどうして・・・
 そんな剣心の心を見抜いたのか、警官は静かに口を開いた。
 「俺だよ、緋村。忘れたのか?」
 打って変わって、這うような低い声音に剣心の、埋没されていた記憶が瞬時に呼び起こされた。唇が一瞬、震えた。
 「その声・・・岡崎さん・・・!」
 剣心の目の前にいるこの警官は。かつての同胞、長州派維新志士の岡崎次三郎であった。

 どうする?

 剣心は己へと問いかけながら、どう動くかを瞬時に思案する。
 ぐずぐずしてはおれん、すぐにたくさんの警官が来る。しかし、この岡崎・・・!
 沈黙が流れた。が、流れを断ち切ったのは岡崎のほうだった。
 「緋村、お前は今、どこにいるんだ」
 「え?」
 「どこだって聞いてるんだよ」
 「ほ、本郷の、神谷道場です」
 思わずそう口を開いてしまってから、しまったと臍を噛んだがもはや、遅い。小さく唇を噛んだが、この闇では相手には見えない。
 「わかった、行きな」
 「え?」
 「行けって言ってンだ!」
 剣心は踵を返した、その一言にすべてを理解して。きれいに背中を見せて、全力で疾駆する。
 たちまち消えた小さな背中を見送って。警官・岡崎次三郎はぼそりと呟いた。
 「こんなところで再会するとはな・・・逃がすな、ということか」
 ひゅぅ、と一陣の風が吹き渡り、彼の呟きを掻き消して。
 剣心の姿を、岡崎の姿をその場から消失させた。
 辺り一帯、いまだ闇。
 闇夜はまだまだ、深いままだった。






 パンパン!と手ぬぐいをはたき、しわを伸ばすと。
 物干し竿に引っかけて、さらにしわを伸ばし。
 「うん」
 と、満足そうに剣心は頷いた。
 空はどこまでも、青く澄み渡っていた。
 風もなく、太陽の光が眩しいばかり。
 薄く目を細めながら剣心は微笑むと、足元へと視線を落とした。
 たらいには、絞ったばかりの着物がまだまだ山のように積まれていて。急いで干さなければと、胸の内で自らを叱咤する。
 そう、いつもならば洗濯物を干すことなど完了しているというのに、今日はどことなく、動きが鈍かった。
 「どうした、剣心。進まねェみたいだな」
 縁側で寝そべっていた左之助が、少しばかり不思議そうな声音を洩らした。
 「夕べのことで、どこか身体を痛めたか?」
 「いや、そんなことはござらんよ」
 襦袢を干そうと広げながら、剣心は少しく顧みて苦笑した。
 「それを言うならむしろ、お主のほうではござらぬか。いい色がついているでござるなぁ、その脇腹」
 「むっ」
 反論してやろうと勢いよく起きあがったが、
 「ツ・・・」
 左の脇腹へ手を寄せて、左之助は苦悶に顔をしかめた。
 「ほうらみろ。拙者よりも重傷ではござらぬか」
 「うるせェ」
 「ふふ・・・」
 ふてくされ、くるりと背を向けて寝そべってしまった左之助を、背中の「惡」一文字を見つめながら、剣心は苦笑をにじませる。
 内務省襲撃未遂事件が起こった、その朝。左之助はもう何食わぬ顔をして神谷道場へ姿を見せた。
 昨夜の宴の翌日ということもあって、どこに行っていたのかと道場が主・薫を始めとする面々に詰問を受けたのだが、左之助はうまく言葉を濁していた。剣心もまた、特には何も触れずに。
 互いに顔を合わせた、目を合わせた。それだけだった・・・それだけで、十分だった。
 「・・・何か、気に病んでるんじゃねぇのか」
 「え?」
 背中を向けたまま、そう問いかけてきた左之助に剣心は、ゆるく首を振った。
 「いや・・・何もないでござるよ。そう見えるでござるか?」
 「見えるから言ってンじゃねぇか」
 「そうか、それは困ったな」
 小さく笑いながら、剣心は洗濯物を再び干し始める。その気配を感じて、左之助がゴロリと剣心のほうへと身を向けた。
 「困ってないだろ、てめぇ」
 「いや? 困っているでござるよ? 拙者は普通でござるのに・・・どうしてそう見えるのかなぁと」
 「はぐらかすんじゃねぇよ、剣心」
 「左之」
 つと、動きを止めて。剣心は振り返る。
 「拙者が気に病むことがあるとすれば・・・昔のことを思い出しているときだけでござるよ」
 にっこりと笑ったその顔に、左之助は何も言えなくなった。
 それから黙々と干していく剣心の背中を見つめながら、左之助は思う。

 そんなことを言われたら、もう何も言い返せねェじゃねェか。

 そいつは殺し文句じゃないかと、一瞬、寄せ付けぬ壁を見せられたような気がして、左之助は小さく舌打ちをした。

 ・・・岡崎次三郎、か・・・。

 洗濯物を干しつつ、剣心が胸の中で呟いたその名は、郷愁とともに血の臭いをも運んでくる。
 血生臭い世界の中にありながら、思えば彼の存在は、ほのかな陽の光であった。
 それを表に出すことは・・・素直に表現することはなかったけれど。
 あれから、十年。
 一回りほど年長者であったから、齢・・・三十八くらいになっているのだろうか。
 暗闇の中だったから、面差しはよく見えなかったが。
 あの声音は・・・懐かしいものだった。

 本郷の神谷道場にいると告げてしまったから、もしかしたらここへくるかもしれない。

 そう、考えたときだった。

 「剣心ー! お客様よー!」

 道場のほうから、剣心を呼ばわる薫の声が響いてきた。反射的に返事をした剣心だが、誰だろうと首をかしげる。
 「おめぇに客人たァ、珍しいな」
 左之助も珍しそうにして身を起こしながら、剣心へと視線を向けた。
 「さて・・・どなたでござろう」
 あと二、三枚ほど干せば終わるというところだったが、剣心は手を休めて正門のほうへと歩を進めた。
 朝早く・・・というわけでもなかったが、昼前というにはあまりにも早い。そのような時刻に誰が、自分を訪ねてくるというのか。
 心に思い当たる面々を思い浮かべるのだが、もとより知り合いの少ない東京府下、浮かんでくる顔ぶれなどごくごく、限られている。
 そうこうしているうちに正門へとたどり着いてしまい・・・剣心、思わず大きく目を見張った。
 そこに立っていたのは今まさに思いを馳せていた人物、岡崎次三郎、その人であった。詰襟の警官服に身を包み、帽子のつばの奥からじっと、剣心を見つめていた。
 「よぉ、緋村」
 にやりと笑みを浮かべた岡崎に、剣心は目を見張ったままに呟く。
 「岡崎さん・・・」
 「近くまで来たもんでな。ちょいと覗いてみたんだ」
 帽子を払い、陽光の中に面差しをさらした警官に、剣心は吐息をこぼした。
 「・・・岡崎さん、お変わりない」
 昨夜の一件で再会を果たしたものの、にわかに信じがたい気持ちであったのだが。これでもう・・・確定した。
 今、目の前にかつての同志がいる。
 刃の林を駆け抜けてきた、仲間がいる。
 時の流れが一気に、逆流したように感じた。
 「さすがに、お前はいい男になったな。あの頃はまだ、元服を迎えるかどうかのガキだったが」
 短く刈り上げた髪に、浅黒く日焼けをした精悍な顔立ち。大きな黒い瞳が細められ、懐かしさに淡く潤んでいる。
 「岡崎さん・・・」
 少し困ったように眉根を寄せると、警官は少しく口元をゆるめた。
 「お前・・・変わったな」
 「え?」
 「まぁ、立ち話もなんだ。ちょいと早いが昼飯に付き合え」
 「はぁ・・・」
 軽く頭を掻いたとき、剣心はハッと思い出す。
 「あの、申し訳ないんですが。まだ洗濯物を干し終えてないので、一緒に行くわけには・・・」
 「なんだと、洗濯物?」
 声音をあげて、岡崎は不思議そうにそう言った。
 「洗濯物って、お前・・・」
 「今、ちょうど干しているところなんです。もう少しで終わりますが・・・」
 「そうか、それなら待ってるよ。だから早く干して来い」
 「・・・すぐに、戻ります」
 ばつが悪そうに苦笑を浮かべ、剣心はくるりと背を向けた。
 足早に去っていく彼の背中を見ながら、岡崎は呟く。
 「ふん・・・洗濯物、ねェ」
 確かに言われてみれば、小さな背中にはたすきがかかっている。袴の裾も心持ち、上げているだろうか。
 「あの緋村が・・・」
 ふと、気がつけば。
 岡崎のつま先は中庭のほうへと、方向を定めていた。


 岡崎さんはただ、拙者に会いに来ただけなのだろうか?
 久しぶりだからと、会いに来る・・・そんな男ではなかったように思うのだが。
 まさか、夕べのことで左之助の存在に気づいたのでは・・・
 ・・・岡崎さんと左之助を、会わせたくないな。

 考えを巡らせながら剣心が中庭へ戻ると、左之助が身を起こして縁側へ腰掛けていた。
 「なんだ、もう終わったのか?」
 「いや・・・」
 苦笑のみを浮かべてみせる。
 「何かあったのか?」
 「別に。何も・・・どうしてでござる?」
 「勘だよ、勘。感じるものがあったんだよ、今」
 この男、やはり侮れないなと剣心は、左之助を見やりながらそう思った。
 「そうか・・・何、ただ・・・今日の昼は、お主とともに食べることはできなくなったなぁと」
 「え?」
 「待っているのでござるよ、客人が。昼飯に付き合え、とな」
 「誰でェ、そいつは」
 「俺だよ」
 「!」
 聞きなれぬ声に、二人は反射的に振り返っていた。見るとそこに一人の警官が、帽子を取って立っていた。
 「へェ・・・本当に洗濯物を干してるぜ。まさかとは思っていたが・・・へェ・・・」
 顎を撫でながら、さも感心しきったように剣心を見ている警官に、左之助はスッと目を細めた。
 「なんだ、てめェは」
 幾分低い声音に、警官はこともなげに答える。
 「客人だよ、緋村の」
 「おめェが?」
 「何かご不満でも?」
 「左之」
 たちまち漂い始めた剣呑な空気に剣心、すかさず声をかけた。だが、左之助は剣心のほうなど見向きもしない。警官を見つめたままだ。
 「岡崎さん。待っていてくださいと言ったでしょう」
 やれやれと息を吐きながら、剣心は恨めしそうに岡崎を見やる。
 「まぁそう言うな。お前が洗濯物を干してるって言うから、つい気になってな」
 岡崎はニヤニヤと笑ってそう答えた。
 「そんなこと、気になさらずとも結構です」
 仏頂面になって言い放った剣心を見て、岡崎は愉快そうに身体を揺すった。
 「ハッハッ、馬鹿野郎、これが気にならないでどうする! 見ておかないと損をするだろ」
 「岡崎さん!」
 声を上げて笑う警官に、どこか向きになっている剣心。そんな二人に、左之助は妙な腹立たしさを覚えた。
 「剣心! こいつは何なんだよ!」
 左之助の一言に、剣心は軽く頭をかきむしった。
 「岡崎次三郎さん。拙者の・・・昔の知り合いだ」
 「何だ、他人行儀だなぁ。せめて昔の仲間とか、かつての同志とかって言ってくれよ、緋村」
 「かつての同志?」
 途端、左之助の表情が冷めた。あぁ、そういうことかと内心で納得してしまう。
 「ふーん・・・そういうことかィ。だったら俺には関係ねェこった」
 言いざま左之助、縁側へごろんと寝そべるなり、「惡」一文字を向けてしまった。
 「左之」
 「なんだ」
 あくまでも左之助の声音は冷めている。剣心は深々とため息を吐いた。
 「拙者、洗濯物を干したら岡崎さんと少し、出かけてくる。その足で買い物へ行くから・・・」
 「あぁ、わかったよ。積もる話もあるだろうからよ、ゆっくりしてきてくンな」
 ひらひら、と手を振って顧みない左之助に、剣心は苦笑をこぼすにとどめた。
 「なんだ、お前は買い物もするのか? 緋村、お前って本当・・・」
 「話は後で伺います。それ以上は何もおっしゃらないでください、岡崎さん」
 にわかに垣間見えたのはおそらく、苛立ちであったに違いない。岡崎は幾分肩をすくめて、
 「へいへい」
とだけ答えた。


[ ≫≫≫≫ ]