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 本郷から深川までの距離は結構ある。徒歩で半刻はかかるだろう。少し早めに出ようかと考えたものだが、どうにもそんな気にはなれず。
 結局、夕餉をしっかり作ってきてしまった。
 夕餉の支度を抜かしてしまえば、岡崎の指示した七時に間に合うのだったが。
 多少、遅れてもいいだろうと・・・あの物言いでは、いつまででも待っているという様子だったから構わないだろうと。
 ・・・いや、願わくば、会わずにすめばそれに越したことはないのだが・・・
 そんなはずは、ない。
 「話をつけねばならんな」
 ふぅと。雑踏に紛れ、剣心はため息を吐いた。
 深川は淡い行燈の明かりで、通りが照らし出されていた。夜の帳が降りているというのに人通りが多く、華やいだ空間が取り巻いているのは、ここが花街であるからにほかならない。
 剣心にとってはほとんど無縁の場所であった。
 女に興味がない、というわけではない。
 ただ、来る用事がなかったわけだし、女と遊ぼうという気にならないわけで・・・ともかく。
 剣心は「彩乃」という料亭を探すことにした。

 その料亭は、すぐにわかった。
 といっても、人に尋ねてようやくわかった。
 どうやら有名どころの料亭ではあるようなのだが、場所が少しわかりにくいところにあるらしい。
 場所を突き止めてみて、その理由がよくわかった。入り組んだ細道の奥に存在しており、また、店の両脇は茂みに囲まれてひっそりと静けさが漂っている。
 密談をするには格好の場所だろうと、おそらくは大臣級の人間も利用しているに違いないと、剣心の勘は察知していた。
 暖簾を潜って名を告げると、心得ていたかのように女将は中へと通した。
 外の喧噪など嘘のようで、料亭内からは、人々の談笑や三味線の音などが細々と聞こえてくるのみ。音が洩れないように何か工夫をしてあるのだろうか、人の気配が多いわりにかなりの静けさだ。
 いくつもの障子の前を通り過ぎ、奥の奥へ・・・。
 どこまで行くのかと思っていたら、ようやく、
 「こちらでございます」
 と、女将は障子の前で膝を折った。
 「お客様がお見えでございます」
 「おぉ、来たか。中へ入れてくれ」
 岡崎の、やや横柄な声が返ってきた。
 女将がすぅと障子を開けると、岡崎が上座へ座って一人、杯を重ねていた。
 いつもの警官としての出で立ちではない、袴姿での岡崎は、どことなく別人のように見えた。
 「思ってたよりは早かったな。まぁ、入れよ」
 「・・・失礼します」
 敷居を跨いで中へ入ると。
 「女将、酒はもう十分にあるから、ここには来なくていい。それから、客はこいつだけだから誰も寄せ付けないでくれよ」
 岡崎の言葉を、剣心は緊張した面持ちで胸に焼き付けた。
 女将は一つ礼を残して、障子を閉めると足音もなく、その場を去った。
 「ほら。立ってないで座れ、緋村」
 促されるままに。剣心は逆刃刀を腰から外して右手に持った時・・・ふと。このまま右側へ置いても良いものかと考えてしまった。
 脇差しを右側へ置くのは当然のことであり、礼儀でもある。右側に置くことで刀は抜けない、即ち敵意がない、和を保つことを意味する。あるいは、相手への敬意を表すものなのだが・・・

 岡崎は、仕掛けてくるだろうか。

 用意されていた膳の前にて素早い所作で正座をし。剣心は考えを巡らせる。

 いや・・・岡崎が興味があるのは左之助だ。おそらく、拙者に襲撃の件にて証言しろと言ってくるはず。ならば、仕掛けられることはない・・・

 「なんだ、足を崩せよ」
 岡崎の声に、剣心は淡々と答える。
 「いえ、このままで」
 「・・・俺が、上座にいるからか?」
 「妙なことを気にしますね、岡崎さんらしくもない」
 「そうか? ふふ・・・そうかもな」
 きゅっと杯を飲み干すと。岡崎は膳の上の銚子に手をかけた。が、既に空になっていたらしく、ゴロンと足元へ転ばせて。新たな銚子を手にすると、剣心へと差し出した。
 「一杯やれよ」
 「・・・・・・」
 「下戸じゃないだろ。それとも、俺の酒は飲めないか?」
 「・・・いえ、頂きます」
 膳から杯を手にすると、岡崎の手からトト・・・と、酒が注がれた。
 その様をじっと見ていた剣心は、一気に飲み干した。
 「いい飲みっぷりじゃないか。今日は飲み明かそうや、緋村」
 「いえ・・・ほどほどに頂きましたら、帰らせていただきます」
 「冷たいな。ま・・・お前は昔から、こういう席は苦手だったが。今でも苦手なのか」
 「苦手です。特に、あなたのような方を相手にする時には」
 「どういう意味だ」
 剣心は、コトリと膳へ杯を戻すと。背筋をピンと伸ばし、岡崎を正面へ見据えた。
 「腹の探り合いを仕掛けてくる、という意味ですよ。既におわかりではないんですか」
 「ふふ・・・はっきりと物を言う」
 剣心の言葉に、岡崎は笑いを洩らした。何度目の杯なのだろう、酒を干しながら。視線を剣心から外さない。
 「お前と俺の二人きりだ。含んだ物言いはしなくていいよなぁ、緋村」
 ダンッ。
 膳に、岡崎が力強く銚子を置いた。
 「なぜ、相楽を庇う。あいつは俺達を憎んでいるはずだぜ」
 「憎んでいますよ」
 「それを知っていながら、どうして庇うんだ」
 「庇うつもりは毛頭ありませんよ。いや・・・それ以前に何から庇うのか、全くわかりませんが」
 「何?」
 ピク、と岡崎の眉尻が動いた。
 「わからないだと? この期に及んで馬鹿なことを言ってくれるじゃないか」
 「わからないものは、わかりません」
 「じゃぁ、言ってやる!」
 岡崎の眼が殺気立った。
 「相楽が月岡と組んで内務省を襲撃したことはわかっているんだ! だが証拠も何もない。だから、お前の証言が欲しいんだよ」
 「そうはおっしゃっていますが」
 剣心は正座を崩さず、岡崎を見据えた。
 「拙者が左之助とどう関わったのか、そう言い切れる証拠はおありなんですか? その根拠はどこからくるんです」
 「お前・・・!」
 ギリッと歯ぎしりをした岡崎を。剣心の蒼い瞳が、底冷えをするような凍てついた光を宿して見つめていた。瞬きすらすることなく。睨め付けるようでもあるそれは、だが岡崎を全く怯ませない。むしろ口元へ、歪んだ笑みを呼び起こさせた。
 「フン・・・久しぶりに見たぜ、その眼。ゾクゾクするな・・・やっぱりお前は抜刀斎だな」
 銚子を剣心へ差し出す。剣心は無言のままに杯を受け、飲み干した。
 「何がそこまで、お前を熱くさせている。個人に執着するなど、抜刀斎だった頃のお前なら考えられないな。他人とは距離を置いていたお前が」
 岡崎が杯を差し出してきた。意図を察し、剣心は無言で銚子を傾ける。
 「もっとも・・・巴だけは別だったが」
 ピクリ。
 剣心の右手が反応した。だが表情は動かない。無表情のまま。
 「あるいは・・・相楽はそれ以上の存在か?」
 「巴を、引き合いに出すのはやめてもらえませんか」
 剣心の声音が一つ、高くなった。感情の揺らぎがわずかににじみ出る。
 「巴は巴、左之助は左之助だ。もとより、比べる対象となりえない、また、比べる必要もない」
 「へぇ・・・?」
 幾分、早口で吐露した台詞に岡崎は、喉の奥で忍び笑った。ますます鋭さを帯びた剣心の眼差しなどどこ吹く風、岡崎は胡座を組んでいた足を崩し、片膝を立てた。
 「熱くなったな、緋村。それほど、相楽が大事か」
 「どういう意味です」
 「俺の口から言わせる気か?」
 「左之は、俺のかけがえのない友人だ。友人を大事に思うのは当然でしょう」
 「友人、だと?」
 ぶわりと。見えない何かが岡崎の全身から立ち上った。
 剣心の身が強ばる。
 「友人が!」
 がしゃん!
 膝を立てていた岡崎の足が膳を払った、
 剣心は咄嗟に右手で逆刃刀を掴む、
 「こんなことをするのか、緋村!」
 岡崎の右手が剣心の胸倉を掴むや否や、勢いに任せてダンッ、畳の上へと打ち据えた。
 「ぐっ・・・」
 剣心が微かな呻きを上げたときには、岡崎はその細い身体へ馬乗りになり、顔を覗き込んでいた。
 しかし剣心もまた、掴んだ逆刃刀を鞘ごと岡崎の首元へ押し当てていた。岡崎の頤が天井を向いている。
 彼の動きを制した剣心ではあったが、頭の中は混乱していた。
 口論になることは目に見えていた、そうなるだろうと覚悟はしていた。
 だがどうして、岡崎が突如として、我をむき出しにして襲いかかってきたのかがわからない。

 なぜだ! 何を考えて岡崎は・・・!

 そのわずかな惑いが隙を生んだ、岡崎は逃さない。
 「しゃらくせェ!」
 岡崎、ぐるんと大きく首を振って逆刃刀を払った。流れに乗ってガキンと鞘へかぶりつき、剣心の右手を渾身の力でなぎ払って逆刃刀を手放せさせ。畳に滑らせ、得物を部屋の隅へと追いやった。
 この時初めて、剣心の瞳に焦りが浮かんだ。
 「胸に痣ァ散らせてよ。こんなことをさせンのか、友人て野郎に」
 掴み上げられた胸倉が、ほどなくしどけた。もともとゆるめであった懐は、他愛もなく岡崎の眼下へさらけ出された。
 明かりに浮かぶ胸乳は淡く橙を帯び。そこにはてんてんと、薄い紅が小さく広がっていた。
 「・・・口調が、昔に戻りましたね、岡崎さん」
 「そういうてめェも、『拙者』じゃなくて『俺』になってるぜ、緋村」
 剣心の両腕を己が両腕で押さえつけて。岡崎はニヤリと笑った。
 「正直驚いたぜ、おめェがあの野郎に口を吸わせているところを見た時はよ。かつてのおめェを考えりゃ、想像もつかねェ。いや、それだけの器量だ、手を出そうとした野郎はかなりいたが、ことごとく刀の錆になったっけなぁ」
 やはり、あの日の気配は岡崎であったかと剣心は確信した。だが、だからといってこの岡崎の行動は・・・何の・・・何を意味して・・・
 組み伏せられたままに、剣心は岡崎の言動に注視しながら目まぐるしく意識を回転させる。
 「緋村、おめェは知らないだろうが、俺だっておめェを狙ってたんだぜ」
 「!」
 剣心の両眼が見開かれる。今何を聞いたのかと、耳を疑う。強ばったような、あるいは感情の一片すら浮かべない面差しに、岡崎は笑いを洩らしながら続ける。
 「だが、さすがに命は惜しいわな。だから手を出さなかった。でもおめぇに絡んでないと、気持ちも身体も収まりがつかなかった。その白い肌を貪れば、さぞかしイイ声で啼くだろう、抜刀斎を俺の下にひれ伏させりゃイイ気分になるだろう、抜刀斎を犯したい、嬲りてェとそればっかり考えていた時代があったぜ。小生意気なおめェを屈服させりゃぁ、さぞたまらねェだろうからなァ」
 ぐぐ、と剣心へと面差しを近づけて。岡崎は彼の左頬へ息を吹きかけた。だが剣心は目をそらさない、燃えるような殺意を瞳に込めて睨み据える。
 「そこに巴が現れやがった。巴にしか心を許さなかったおめェがたまらなく憎かったが・・・相手は女だ。女に転ぶのは男の本能だ、仕方がない。さすがの抜刀斎も女には弱かった、そう諦めたもんだったが。それが・・・それがよぉ・・・」
 十字傷をべろりと舐めて。岡崎の唇は剣心の耳朶へと寄せられる。
 「相楽が、おめェを犯してやがった。この肌ァ食ってやがった! あれだけ、寄ってきた男どもを斬り捨ててきたおめェが、奴に・・・男に身体ァ売りやがって!」
 鼓膜が破れるかと思えるほどの声量に、剣心は思わず苦渋の表情をにじませた。それを見て、岡崎は満足そうな笑みを満たす。
 「あの頃から、おめぇを見ていたのは俺だ。おめェのことは何でも知っている、なのにどうして相楽なんだよ。あんなガキみてェな野郎によぉ! おめェを犯していいのは俺なんだよ、わかるか? あの頃、一番近くにいたのは俺だっただろうが、緋村ァ!」
 「違う」
 静かに、だがはっきりと。剣心は無表情でそう言った。
 「・・・何?」
 「あなたではない、岡崎さん。一番近くにいたのはあなたではない。また、巴でもありえない」
 「なんだと・・・?」
 「巴とは、本当の意味でわかり合えることはなかった。わかり合えたのは、ほんの一瞬だった。互いに互いが必要だった、確かに愛してもいた。でも、それだけだ。だが左之助は違う。左之は・・・」
 つと、言葉を切って。脳裏にあらゆる左之助の面差しが、口調が、温もりが巡っていく。その一つ一つを思いながら・・・剣心は言葉を続ける。
 「いつも、俺の心の側へ来ようとする。俺の何かに触れようとしてくる。共に歩み、同等であろうとし、俺のすべてを受け止め認めてなおかつ、光へ導いてくれる。俺が見ていなかったもの、見えなかったものを見せてくれる。だから俺は、左之にすべてをゆだねられるんだ」
 「この・・・!」
 「あなたは違う。今のあなたは俺を、欲情の対象としてしか見ていない。そんな者に、我が身を渡すわけがないでしょう」
 「緋村ァ!」
 両手首を握り締めている岡崎の握力が強くなった。剣心は顔を歪めそうになったが奥歯を噛み締め、堪えた。
 「俺は、昔からお前を知っている! お前の闇も狡さも、何もかもだ! 俺のほうがお前のことを・・・!」
 「知っているからと言って!」
 張りのあるその声に、一瞬岡崎が引いた。
 「知っていることと、受け止めることは違う! 受け止めて認めて、肩を並べて歩むことを、あなたは考えたことがあるんですか!」
 「黙れ!」
 「ぐ・・・!」
 荒々しく唇を重ねられて、剣心は力強く首を振って拒否を示した。が、それでも執拗に追いかけてくる岡崎の唇に、剣心は制裁を加えた。
 「っ・・・!」
 岡崎、思わぬ激痛に頭を跳ね上げた。唇の端からつぅと生温い鮮血が頤を伝う。
 ぺろ、と剣心が唇を舐めるしぐさを、岡崎は見てしまう。
 「・・・やりやがったな」
 手の甲で血を拭いながら言ったその眼は異様に血走り、殺意に満ちていた。しかし、剣心は組み敷かれていながらなおのこと凛として、言葉を発した。
 「あなたに、この身体を許すつもりは毛頭ない」
 「相楽ならいいのか!」
 「左之助でなくば駄目なんだ!」
 「貴様ァ!」
 「俺を、甘くみるなァ!」
 ガン、と力強く剣心は右膝頭を跳ね上げた。狙いたがわず岡崎の股間へ命中、深くめり込んだ。
 「ぐ、ぅ・・・!」
 声にならぬ叫びを口中にくぐもらせ、岡崎は剣心から手を離すとそのままつんのめった。この隙を逃さず、剣心は岡崎の胸倉を掴んで脇へと放り投げた。
 畳へ転がり、呻きながらも体勢を立て直そうとする岡崎を、視界の隅で常時捉えながら身体を転ばせた。剣心は部屋の隅へと追いやられていた相棒を手にした瞬間、片膝を立てて鯉口を切った。

 シュッ!

 空を裂く音が鼓膜に響き、岡崎の額にたちまち汗が吹き出た・・・
 中腰のまま、頤を天へと向けて。
 頤の下には逆刃刀の切っ先が。鋭くきらめいて喉笛に狙いを定めてぴたり、停止していた。
 岡崎は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
 「これ以上の手出し、無用に願います」
 剣心の声音が冷たく冴える。
 「・・・やらせてくれないんだな、どうしても」
 「何度も言わせないで頂きたい」
 「・・・しょっ引くぜ、相楽を。内務省襲撃未遂事件の主犯としてな」
 「どうぞご勝手に。言ったはずです、庇うつもりは毛頭ないと」
 「へぇ・・・?」
 「とはいえ」
 瞳が。激しい殺意を宿した。
 「今、道を外させるわけにはいかない。左之助への手出しは無用に願います。もし、手を出したそのときは、この刃を逆さに返してご挨拶に参りますので、お覚悟を」
 ・・・カチン。
 鍔と縁が当たる音に、岡崎はようやく、天井を向いていた面差しを真正面へすえることができた。
 逆刃刀を腰に佩いた剣心が、無言のままに岡崎を睨め付けている。
 「いいのか、殺さなくて。生かしておくと、お前のためにならないぜ」
 「構いませんよ。こいつを抜けばいいだけの話です」
 クンと、左手に握った相棒を示した剣心に岡崎は、強い、憎悪にも似た炎を瞳に燃やした。
 空気がピンと、硬直する。
 二つの眼光が見えぬ火花を散らしたその時、

 「剣心!」

 スパン!

 障子が開いたその先を、剣心と岡崎は同時に見やった。
 剣心の目が丸くなる。
 「さ・・・左之・・・」
 そこにいたのは、息を切らせている左之助。うろたえている女将を背後に従え立っていた。
 「剣、おま・・・」
 言葉にならないのか、左之助の声がにわかにかすれていた。
 しかし剣心には見えた、左之助の瞳が激しく収縮を繰り返したのを。そして、その全身から殺気がほとばしったのを。

 いかん!

 剣心の直感が叫んだ。
 「左之!」
 「岡崎ィ!」
 左之助、岡崎へ猛然と迫るなりガシィ、右手で彼のこめかみを押さえ込んだ。
 勢い余り、岡崎の身体はそのまま壁へと叩きつけられる。彼のつま先は畳になど触れずにぶらんと漂ったまま、後頭部は壁へと貼り付けられた。
 一瞬の、凄まじい出来事に女将は悲鳴を上げそうになった。そこを、剣心の鋭い眼光が飛んで黙らせた。今、悲鳴など上げようものならばたちまち騒ぎになる。ただでさえ自分と岡崎との口論などで騒ぎになっているはずだ、何とか事態を収拾しなければならない。
 剣心が左之助へと駆け寄ろうとしたとき、
 ミシ。
 岡崎のこめかみから嫌な音がした。
 「やめろ、左之!」
 剣心の声に、だが左之助は答えない、そればかりか右腕の血管がふつふつと浮かびつつある・・・握力をあげているのだ。
 岡崎は両手で左之助の右腕を握り、外そうと必死になった。彼は足をばたつかせ、もんどりうつようにして身体をひねりながら抵抗する。蹴り上げて左之助の腹部や脚を狙うが、たとえ当たったとしても眉尻一つ動かさない、揺るがない、びくともしない。
 やがて、
 「う・・・ぁ、ぁ・・・」
 嗚咽にも似た呻き声をもらし、汚らしく唾液を垂れ流し始めた。
 顔面が、赤い。
 「殺すつもりか、左之助!」
 駆け寄った剣心は、左之助の右腕を掴んだ。彼の右腕は途方もない熱を帯び、まるで焼けた石のようだ。左之助の身体は怒りに染め抜かれていた。
 「左之!」
 「殺す」
 冷淡に、ためらいもせず。低く左之助はそう言った。剣心のほうなど見ようともしない、瞳にゆるぎない殺意をこもらせ岡崎を睨んでいる。
 「剣心に手ェ出すなんざぁ、いい度胸してンじゃねェか。えぇ? 岡崎さんよォ」
 「どうして、それを・・・!」
 「こいつの唇、血が止まらねェじゃねぇか」
 「!」
 「理由は、それだけで十分だ」
 途端、
 「ぐぁ・・・!」
 岡崎の声に苦痛が増した。さらに握力をあげた左之助を、剣心は制そうとする。
 「こんな男のために、手を汚す必要はない!」
 「こいつはおめェを汚した!」
 「左之!」
 「そんな目でおめェを見ていたのかと思うと、虫唾が走るんだよォ!」
 右腕が宙を舞い。
 ダンッ。
 岡崎を畳へと叩き伏せた。
 身体が大きく弾み、ぐったりと横たわる。
 こめかみから左之助の手は離れたが、そこにはくっきりと指の痕が浮いていた。
 「てめェは剣心の何を見てやがった! 仲間だったんだろ! そんなふうにしか、こいつを見ることができなかったのか、あぁ?」
 胸倉を掴み、身体を揺さぶる。口がきけず意識朦朧としている岡崎に、なおも左之助は怒りをぶつける。
 「てめぇらにとって剣心は何だったんだ! ただの汚れ役か、ただの慰みもんか! 何もわかっちゃいねぇ、何も剣心をわかっちゃいねぇ! 剣心は・・・剣心はなァ!」
 「左之!」
 殴りかかろうとした左之助を、剣心は全身で止めた。彼の腰へすがりつき、動きを制する。
 「もういい、もう十分だ! それ以上叩きのめしてなんになる! 本当に死ぬぞ!」
 「剣心!」
 「頼む、頼むから! もうやめてくれ・・・やめるんだ、左之助」
 染み入るような声音に、ようやく左之助の怒りが鎮まり始めた。岡崎に対する眼光の鋭さは消えないが、殴りかかろうとしていたその身体を、ゆっくりと押し戻す。
 怒りで身体は小刻みに震えていたが、理性でどうにか抑え込んでいるようだった。
 「・・・俺ァ、逃げも隠れもしねェ。しょっ引くんならしょっ引きな、どこでも行ってやらァ。だがな」
 左之助はギロリと岡崎を睨んだ。
 「剣心に手ェ出してみろ。殺すぞ」
 岡崎が、その言葉を聞けていたのかどうか定かではない。左之助と剣心を見てはいたが、視点が定まらず少し、呆けているようにも見える。
 岡崎はぐったりと弛緩してしまって、呼吸もやっとの有様だった。
 左之助は踵を返し、堂々と「惡」一文字を見せつけて。
 「おら、行くぞ、剣心!」
返答など聞かぬまま、剣心の手を掴んで引きずるようにしていく。
 剣心はチラリと岡崎を見たが、何も言葉をかけぬまま、左之助の腕に引かれるままに従った。
 「騒がせたなぁ、女将。ここの勘定やら弁償やらは、その岡崎さんが持つからよ。あとはよろしくなぁ」
 ひらひらと手を振って、左之助は不敵な笑みを残すと。剣心を伴って深川の夜の町へと姿を消した。


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