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 敵わぬ男(ノーマルヴァージョン) 



 今日はすこぶる気分がいい。
 理由などない。
 ただ、町中をぶらついているだけで別段楽しいことも、嬉しかったことがあったわけでもない。
 それでも妙に心が弾んでいるのは、これから何かが起こる前触れなのだろうか。
 自らの心境に何ら疑問を抱かずに、むしろ鼻歌なんぞを交えつつ。
 足取りも軽く歩を進め、額のはちまき翻し、針の如く硬質の短い黒髪逆立たせ、男・相楽左之助は「惡」を背負って今日も行く。
 行き先は既に知れている、所在は本郷の神谷道場。
 この刻限であれば恐らく、道場主・神谷薫は前川道場へ出稽古へ行くべく支度に追われているだろう。
 そして自分が到着する頃には、門下生の弥彦を伴って留守となろう。
 残るのは、会うべき男、ただ一人。
 「何をしてっかな? 剣心の野郎・・・」
 ちょいと空を仰いで唇、紡ぎ。
 ふわりと微笑み視線、人混みへ戻し。
 左之助は行き交う人々の、それとなく寄せてくる好奇の眼差しなど相手にせず、颯爽と風を切り、歩を踏みしめていく。






 神谷道場の門を潜ると、やはり人の気配はしなかった。
 既に、薫と弥彦は出かけたようである。
 左之助、
 まずは中庭へと足を踏み入れた。
 「剣心」
 会うべく人の名を口にする。が、そこにいるはずの男がいない。
 左之助、思わずゆうるり首を傾げた。
 「ン? いつもならここにいるンだが・・・」
 無意識に四方を見渡してみるが、やはり間違いなく、男の姿はない。
 物干し台にはためく着物の音と、秋風にざわめく樹々の声ばかり。
 陽に輝く紅葉が眩い。
 「剣心・・・?」
 縁側から上がり、彼の住まう部屋を覗いてみる。・・・やはり、いない。
 どこに行ったのだろう? 買い出しにでも行ったのだろうか。
 ・・・いや、玄関に草履はあった、出かけてはいない。
 この屋敷内のどこかに居る。
 「剣心?」
 厨だろうか、と顔を出してみるが、姿はなく。
 「剣心?」
 風呂掃除かと見てみれば、ここにもいない。
 「剣心・・・? いったいどこにいるんだよ」
 まさか、道場のほうだろうか。
 薫も弥彦もいない今、道場など行っても用はないはずである。
 まして、竹刀などほとんど持ったことのない、何より一流の剣客であるならなおさらに。
 「まァ・・・行ってみっか」
 狐に包まれたかの如く少しく、頭を掻きむしり左之助、小さな吐息交じりに爪先、方向を定めた。
 ・・・かくして。
 目的なる、会うべき男はそこにいた。
 最も関係のあるようであり、
 最も縁遠い場所に赤毛の優男・・・緋村剣心の姿はあった。
 左之助、ようやく見出したる男の姿に満面の笑みを刷き、つい声を出しかけて咄嗟、やめた。

 何を、している?

 道場の中央にて神棚に向かい。
 両手をだらりと下げた、無形の位。
 ・・・瞑想している。

 何か・・・空気が違っていた。

 いつもの剣心ではない。
 これは・・・
 闘気・・・いや、剣気か?

 左之助にも理解しがたい、判別のつきにくい空気が、そこかしこに漂っている。
 充満している。
 道場内いっぱいに。
 人の存在を寄せ付けぬ、高貴な・・・
 知っている空気だった。
 嗅ぎ慣れた、感じ慣れた空気だった。

 が、その中に混じるは、微量な・・・

 何かを恐れる自分がいた。
 よく知っているものなのに、底知れぬ「何か」があることに気づいた。
 その「何か」に本能は、「恐怖」している。

 ・・・何だってェんだ、いったい・・・

 不甲斐ない自分を感じて左之助、
 「ケッ、こんなンは俺じゃねぇ。なぁに怯んでンだか・・・」
 小さく自嘲し、勇を起こして一歩、道場内へと踏み出そうとしたその、矢先。

 「こ・・・こぉぉ・・・」

 剣心の・・・瞳、ゆっくりと開き。
 喉の奥の、底の底・・・腹の奥の、さらに深淵より・・・

 声・・・?
 いや・・・これは・・・ッ

 「こおぉぉォォッ!」

 画然、剣心の身体が大きく膨れ上がって見えた。
 途端、

 「うわッ?」

 夥しい空気の風が・・・否、塊が左之助を襲った。
 今まで培ってきた闘争本能が、彼に素早く防御を取らせた。
 両腕を眼前、交差させて顔を伏せれば、

 ジリリ、

 身体を固くさせて踏ん張っていた両脚、わずかに後ずさった。

 それはほんの、一瞬の出来事。

 されど、不明の風から身を守った両腕の袖は、無惨にもズタズタに切り裂かれていた。

 「ふいーっ・・・驚いたぜ」
 やれやれと吐息をつき、左之助は己が両腕を見遣りつつ言葉をこぼした。
 彼の音で、剣心はようやく、左之助の存在に気づいて目を上げた。
 「おろ? 左之ではござらんか。いつからそこに・・・」
 「てこたァ、相当集中してたな? 剣心」
 剣心にしてみれば、他人の気配を感取ることなど造作もないこと。
 それが、わずかな距離しかないにもかかわらず、存在に気づかなかった・・・
 「俺の気配にも気づかねェで、こんなところで何をしてやがる、剣心」
 「ハハ・・・見つかってしまったでござるな」
 屈託のない笑顔を満面に浮かべ、自分へと歩み寄ってきた左之助に剣心もまた、微笑で答える。
 「気を締めていたのでござるよ」
 「気?」
 「剣と闘気は切っても切れぬ関係。が、気を締め直さねばどす黒く染まってしまう。そうならぬように時々、早朝に出かけていたのでござるが・・・」
 くしゃりと笑みを崩し、次なる笑顔は「苦」。
 「突然、気が黒く染まるのを感じて・・・いてもたってもいられず、ここへ来たのでござる。まさか左之に知られてしまうとは思わなかった。燕殿には知られたが・・・今まで秘密にしてきたのでござるがなァ」
 「ふーん・・・秘密ねぇ。嬢ちゃんに心配させないためかィ?」
 「あぁ」
 赤毛の人は素直に、コクリとうなずいた。
 剣心にとって、薫が特別な存在であることを左之助はよく知っていた。
 男と女として、否、それ以上に・・・薫という存在は剣心に、生死を賭けさせるほどの重量感を占めている。
 ならば自分は、別の意味でこの男の中に重量感を生み出せないのか。
 今のような「友人」としてではなく、そう・・・
 「強敵」として。
 剣心の中に息づき、彼が自分を「倒したい」と思わせるほどの強さを伴い、自分は存在することができるのか・・・。
 闘争心のない剣心のことだ、「倒したい」と思うことはないかもしれない。
 されど、自分はあの薄くも情熱の渦巻く胸の中で、ともに肩を並べ、息づいていたい・・・。
 息づいて、ともに闘いたいッ!

 「左之?」

 不意に沈黙してしまった左之助を、剣心が小さく声をかけた。左之助、微笑にて彼を見遣る。
 「そうか・・・さっき俺が迷ったのは、おめェの気に黒いモンとやらが混じっていたからだな。それにしても、見ろよ。俺の一張羅がボロボロだぜ」
 そう言って、己が腕を突き出して見せた左之助はだが、嬉しそうである。
 反面、剣心の面差しはたちまち曇った。
 「おろ〜、これは酷い。拙者の剣気は下手をすると、鎌鼬になるゆえ・・・すまぬ、左之。すぐに繕うでござるよ」
 「そんなことよりもよォ、剣心。久しぶりに一丁、やらねェか」
 「やる? 何をでござる」
 首を傾げた彼に左之助、俄然、息巻いて見せる。
 「やるっつッたら決まってンだろッ? 喧嘩だよ、喧嘩ッ」
 「け・・・喧嘩?」
 ついついポカンと口を開いて剣心、左之助を見遣れば当の本人、彼の反応など全く眼中になく鮮やかに半纏、脱ぎ捨てた。
 「おめェの剣気、すげェ心地良かったぜ。あんなもの見せつけられちゃ、血が騒ぐってェもんよッ」
 タンッと軽やかに後方へと下がり、左之助は拳を握って構えた。
 有無を言わさぬその態度に、剣心はただただ、苦笑するばかり。
 「拳と剣で、どうやって喧嘩をするのでござるか」
 「いいじゃねェか、それで。お互い得意な得物で勝負するんだ、全然卑怯でも何でもねェぜ」
 「しかし・・・」
 「な、いいだろ? 久しぶりにおめぇと一戦、交えてぇんだ」
 「左之・・・」

 この男の、この眼。

 剣心はよく、知っていた。
 好奇と、躍動と・・・闘気。
 喜悦を滲ませた、輝き。
 「闘い」に対する純なる思いが、瞳から、全身からみなぎっている。
 何度、この気迫を感じてきた?
 背を預けて闘うたび、感じてきたではないか。そう・・・

 もう、こうなっては誰も、止められない。

 喧嘩を一つの「遊び」と捉えている左之助を、どう止めるというのだ。
 剣心、吐息を一つ、諦めた。
 「・・・わかった、左之。相手になろう。ただし・・・」
 「バカ、おめェも本気にならねぇと面白くねぇだろッ」
 「・・・拙者が本気を出すと、お主、ただではすまぬよ」
 「それでもっ」
 「だから、左之」
 クツクツと忍び笑いつつ、剣心は続ける。
 「お互い、技を出すことは禁じ手としよう。お主は二重の極み、拙者は飛天御剣流の技、すべて・・・」
 「あ〜? それは・・・」
 「まぁ聞け。これは生死を賭けた戦いではござらん。単なる喧嘩でござる。ならば、技などなくともこの身体があれば、十分でござろう?」
 ・・・剣心の言うことは、一理もっともである。かつ、とろけるような笑顔で言われてしまうと、左之助には二の句も継げぬ。
 いつもこうやって、拍子抜けさせられる。
 勢いを殺がれる。
 それが剣心の思惑の一つでもあると思うと、少々むかっ腹が立つ。だが・・・
 喉の奥から笑いが染み出してきた。
 が、左之助、グッとそれを抑えた。
 「わかったぜ、剣心ッ。そうと決まりゃァ・・・行くぜッ」
 右肩が大きく回転し、腕の筋肉、音を立てて盛り上がった。
 左之助の長身、見かけとは裏腹な俊敏さを見せ一気に間合い、詰めた。
 剣心の表情から、

 微笑が消えた。

 「うおぉぉッ」
 まっすぐな闘気の塊が押し迫る。
 これほど汚れのない闘気を目の当たりにするのは、本当に久方振りだった。
 いつが・・・最後だったのだろう。
 頬の脇を、頭上を掠めていく拳を感じながら、剣心は思う。
 最後などと・・・その最後すら、左之助との戦いではなかったか。
 こんなに心地良い闘気を持つ者は、なかなかいないから・・・
 「オラオラぁ!」
 一寸の狂いもなく、左之助の拳は飛んでくる。
 自分との激闘の中で、様々な闘いの中で、この男は確実に強くなっている・・・初めて対峙し、剣を交えた頃とは比べものにならぬほど、左之助は成長していた。
 それが嬉しくもあり・・・悲しくも、ある。
 「・・・ふむ。かわしているばかりでは、面白くないな」
 「!」
 剣心の独り言を、左之助が耳敏く聞いた一瞬、
 彼の前から赤毛は、消えた。
 「何ッ?」
 直感が、背後にいることを告げていた。
 慌てて振り返ろうとするが、
 「ぐあッ」
 背中に鋭い強打。・・・逆刃刀によるものではない。それは予想外の蹴りだった。
 左之助の身体は容易く道場の床を転がったが、直ちに起きあがった反応には目を見張るものがある。
 その動きに剣心、つい嬉しくなって微笑した。
 が、左之助にとっては・・・
 「・・・この野郎ッ」
 思わず舌打ち、瞳に夥しい闘志を宿して睨めば、剣心、やはり笑っていて・・・
 それは彼がまだまだ余裕であることを示し、そして、この闘いを楽しんでいる何よりの証。
 きっと・・・今まで多く闘ってきたとはいえ、闘いを楽しむなんてことは初めてだろう。
 闘いの中で見せた微笑。
 左之助が初めて捉えた光景であり、左之助が自らの力で引き出した、剣心の新たな一面であった。

 嬉しくなった。

 「てめェ、笑いやがったなッ? その余裕、ぶち壊してやるぜッ」
 微量の優越感は狂喜に変わり、左之助、己が拳を振り上げていった。



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