耳に、「緋村さん!」と呼びかける、若者達の声がよみがえる。
彼らの瞳は奥深く輝いていて、無限の可能性を感じさせて、剣心には心地よかった。
無数の竹刀の音、飛び交う気合いの声音・・・手のひらにはまだ、ジンジンと剣戟の衝撃がほどよく残っている。
「・・・まさか、このような気持ちになろうとは」
口中で呟いて、彼は微笑を浮かべて空を仰いだ。
瞳に映ったのは、真っ青な空だった。どこまでも続く・・・奥深い青色一面の世界は、とても不思議な感じがした。
実際、夕暮れが迫っているせいで、青色からあかがね色に浸食されていく様は、心を掴んで離さない。
この広大な空のように、若者達が大きな夢を描いて生きていくことを、剣心は心から願った。そして新たに誓った。彼らの糧となるべくこの身を賭して生き抜かねばならないと。
それがたとえ、自分独りであったとしても。
若人達の未来を守りたい。
剣心は胸の前でグッと拳を握りしめた。この気持ちを強く、新たに刻み込むようにして。
「よォ、剣心」
ふいに、背後から呼ばれて剣心は振り返った。途端、剣心の視界は空色から人々の群れへと変わっていき・・・そうだった、自分は町中にいたのだと思い出して、少し苦笑した。
「どうした、こんなところで・・・ぼうっとしやがって」
「あぁ、何でもござらんよ。少し考え事をな」
「もう夕暮れだってェのに・・・買い出し、てわけでもなさそうだな?」
籠一つ持っていない手ぶらな剣心を見て、声をかけた主・・・相楽左之助は首を傾げた。
「前川道場からの帰りでござるよ。出稽古のな」
「出稽古?」
歩み出した剣心の傍らへ、左之助はスッと身を寄せて肩を並べて歩き出した。
「おめェが出稽古? 珍しいじゃねェか」
「拙者も、そう思う」
「嬢ちゃんか?」
「ご明察」
苦笑しながら剣心は答えた。
「雷十太の一件以降、しばらく休まれていたのでござったが、再開に当たって前川殿がどうしても、拙者に来てもらいたいと言っている、今回だけでいいから行ってくれないかと・・・」
「嬢ちゃんにせがまれた」
「あぁ」
「で、どうだったんでェ」
「前川殿の隣に座るだけという条件付きだったのでござるが、門下生達に・・・」
神谷道場の緋村剣心といえば、居候とはいえ、巷では名の知れた剣客となっていた。
大なり小なり、何か揉め事が起こった時には必ず、彼の存在がちらほらと見え隠れする。そのため、実際彼の強さを見たことのない人でも緋村剣心の名は知っていた。
しかも石動雷十太の一件で、前川道場の門下生の間では憧れの存在となっていた。引き分けという結果に終わったものの、前川師範に代わり竹刀を握った彼の姿は、門下生の脳裏に鮮明に焼き付いている。
緋村剣心の出現に、門下生が放っておくはずがなかった。
「相手をしてくれとせがまれて・・・何度も断ったのでござったが、どうにも熱意に押されて・・・」
「おめェ、押しに弱いからなぁ」
左之助はニヤニヤと笑いながら話を聞いている。
「やむを得ず、竹刀を片手に相手を、な。おかげで、良い刺激になったでござる」
「前川道場つったら、確か十五歳くらいの奴らが多いよなぁ? 弥彦とどうでェ?」
言葉の意味に、剣心は小さく頷く。
「あぁ、さすがに弥彦よりは年長者、一撃の重さはたいしたものでござるよ。その点、やはり弥彦はまだ軽い。が」
「が?」
「力量は、弥彦のほうがはるかに上でござるよ」
にっこり笑った剣心に、左之助は「ほ〜」と声を上げた。
「弥彦に言ったら喜ぶぜ」
「ハハ、言ってはならんよ。まだその時期では・・・いや、その辺りは弥彦自身が一番、わかっているでござろうがな」
京都での激闘を終え、東京へ戻ってきてしばらくが経った。旅の疲れが癒える頃、神谷流師範代・薫は弥彦を伴い、点在している他流道場へ出稽古へ赴いている。
ところが最近、弥彦がとみに稽古をせがむようになっていた。剣の道を突き進む彼にとっては、他流の者と交わることはこの上ない刺激になっているはずなのに、だ。
不思議に思いつつも時間の合間を縫って相手をしていた剣心。それが、彼がどうしてあれほど強く、自分との稽古を切望しているのか、剣心はやっと今日理解することができた。
物足りないのだ。
彼の力量は既に同世代以上のものとなっていて、師範代、もしくはそれ以上の実力者が相手でなければ稽古にならないのだ。京都で「十本刀」を相手にしてきたのだから、無理もないといえば、無理もないだろう。
めざましい弥彦の成長ぶりに嬉しくなって、剣心は思わず満面の笑みを浮かべた。
「ま、弥彦もおめェの側にいりゃ、否が応にも強くなっていくだろうさ。これからが楽しみじゃねェか」
「あぁ。期待して、見守っていきたいでござるよ」
その言葉に左之助の目が丸くなった。彼の反応に剣心は思わず、立ち止まる。
「どうした?」
きょとんとして目を上げた剣心に、左之助は慌てて口を濁した。
「あ? いや・・・何でもねェよ。俺も同感だと思ってよ」
左之助は素直に驚いてしまった。
弥彦の今後を見守っていきたいという・・・。以前の剣心ならば、「先のこと」など触れようとせず、否、深入りすることはなかった。それが・・・
弥彦の稽古のことといい、今回の前川道場のことといい。こいつは本気で、ここに根を下ろす気になったか・・・
剣心の微妙な心境の変化を嗅ぎ取って、左之助は小さく息を吐いた。
二人はいつしか町を抜けて、土手に差しかかった。刻々と色が濃くなっていくあかね空を見つめながら、剣心はあることに気づく。
「そういえば、左之・・・」
「ん?」
「夕陽のせいかと思っていたのでござるが、どうもそうではないらしい。お主、顔が赤いようでござるが、酒を・・・?」
「おぅ、昼間からしこたま飲んだぜ」
「昼間から・・・」
剣心の声音がため息混じりに濁った。じっとりとした目で見つめる剣心に、左之助は慌てて弁解する。
「誤解すンな! 今日はお日柄も良くってンで、友達の祝言に顔を出してたンでェ! その帰りに、おめェとバッタリ会っちまったんだろ!」
「ほぅ、祝言でござるか。それはまた、めでたいことでござるなぁ。しかし・・・お主なら夜中まで飲んでいそうでござるが・・・」
「あぁ、誘われたけど断った。おめェのメシが恋しくなってよ」
にっこりと笑った左之助に、剣心はまたしても呆れ顔になった。深くため息をついて歩を踏み出す。
「拙者の飯などいつでも食べられるではないか。友人達との酒のほうが、大事なのではござらぬか」
「いいんだよ、しっかりつきあって飲んだくれたんだからよ。それに、夜までつきあってちゃ、俺の身がもたねェよ」
「左之助とは思えぬ台詞でござるなぁ」
これは驚きだとばかりに目を丸くし、継いでカラカラと笑い声をあげた剣心に、左之助はたちまちムッとする。
「いいだろ、別に。おめェのメシが恋しくなったのは本当なんだからよ」
口中で呟くようにそう言った左之助に。
剣心はふと、こう言った。
「いつまで、その台詞を言い続けるのでござろうな」
「え?」
「お主とて・・・いつまでも独り身というわけではあるまい」
剣心の思わぬ台詞に、左之助の心の臓がドックンと大きく脈打った。
止まりそうになった足取りを辛うじて止めなかったのは、剣心のあとについていかなければと咄嗟、思ったがゆえだ。
だが、左之助は彼の言葉に対して返答できなかった。喉に何かが詰まってしまったように、言葉が出てこない。黙したまま、剣心とともによどみなく歩き続ける・・・歩くことで精一杯だった。
脈が、速い。
左之助は混乱している自分に気づき、頭を大きく振った。
そして・・・ふと、あることに気づいた。
「・・・剣心」
「?」
「そう言う・・・おめェは、どうなんでェ・・・?」
剣心の面差しが強ばった。左之助へ振り返った彼の目はにわかに揺らいでいて、
「・・・それは・・・」
と、口ごもった。
あかがね色に焼けた空が、土手を行く二人の姿を染め上げていく。その面差しも、吐息の色も、何もかも。
そして、彼らの沈黙さえも・・・
・・・吹きゆく風が一抹、冷たいものを孕んでいた。
空に浮かんだ満月を、
左之助はぼんやり見ていた。一人、縁側へ腰掛けて。
雲一つない夜空は、果てしなく澄み渡っているように感じられ・・・彼は思わず、息を吐いた。
夜空には月しかないように。
彼の心中もまた、一点のことしかない。
・・・あれから、ずっと。
神谷道場へ来てからも。
薫や弥彦達と夕餉をともにしても・・・
胸の中は同じ色で染まったまま。
悩んでいる、というわけではないが。
ただ・・・気になる。
気になるものだから、ついつい、考えてしまう。
あかがね色に染まった剣心の横顔を・・・面差しを、左之助は忘れられない。
どこか遠くを見据えているようなあの眼差しは、いったい何を捉えていたのだろう。何を思い・・・考えていたのだろう。
左之助はグシャグシャと頭を掻いた。
− お主とて・・・いつまでも独り身というわけではあるまい。
どうして突然・・・
・・・どういう心境で、どういう意図で言ったのだろう。
左之助には、その部分がわからない。
わからない、が。
「・・・いずれ、奴は嬢ちゃんを貰う」
満月を見据えたまま、左之助はぼそりとこぼした。
そう・・・いずれ必ず、剣心は薫を娶るに違いない。弥彦の先のことを思う剣心のことだ、薫のことも考えていると判断していい。
何より、あの激戦を越えた京都から、はるばる東京の神谷道場へ戻ってきたのだ。
身を固める気持ちがあると考えるべきだろう。
「・・・男と女しか、いねェもんな」
世の中にはこの二種類しかいない。まして、一つ屋根の下で剣心と薫は暮らしているのだから、実のところいつ、男と女の関係になってもおかしくないはずなのだ。
だから・・・
「・・・そうさ。夫婦になるこたァ、最初からわかりきっていることだったじゃねェか。俺は、それを承知の上で、剣心を抱いている」
左之助は小さく舌打ちをした。
薫の、剣心への想いを知っている。真摯な想いを知っている。
なのにこの心と身体は、剣心を求めて獣になってしまう。
緋村剣心に惹かれて、理性を失う。
・・・彼は、「男」だというのに。
・・・こんな俺は・・・
「・・・最低、だ」
左之助は己が額を押さえてククク・・・と小さく笑った。
夜陰に、彼の微かな笑声が紛れていく・・・
男としても、人としても最低じゃないかと左之助は思った。
だが・・・頭ではそうだと理解していても、感情はついてこない。
・・・これじゃぁ本当に、獣じゃねェか。
俺はこのまま、剣心を抱き続けていくのだろうか。
左之助はゆるりと満月を見上げた。
「でも・・・」
ふと、左之助は気がついた。
嬢ちゃんとの将来を漠然と気づいているのが俺なら、剣心は?
奴のことだ、いずれ俺にも女ができると考えているはずだろう。
「・・・俺が、嬢ちゃんと剣心とのことを思うように・・・」
剣心もまた、俺にも女ができて、いずれ離れていくのを承知の上で・・・?
「・・・なんなんだよ、あぁ、もう」
ここまで考えたとき、左之助の頭は混乱を来した。もう、何が何やらわけがわからなくなって、頭を掻きむしる。
「えぇぃ、畜生!」
左之助はスックリ立ち上がった。
満月をギッと睨み据えるとうめくように呟く。
「うだうだ考えるなんざァ俺の性に合わねェ。考えるぐれェなら、俺の思いのままに動く、それだけだ」
フンと鼻を鳴らすと、左之助は縁側を降りて、下履きを履いて。スタスタと歩き出した、月光に染まる中庭を・・・湯殿に向かって。
湯でも浴びればさっぱりするだろう・・・
左之助は何度目か、頭を掻きながら。胸を渦巻く得体の知れぬものに、強制的に終止符を打った。
・・・一方。
左之助の胸中と同様に、剣心もまた、ぐるぐると様々なものを渦巻かせていた。
今日の夕暮れ、土手の道。
左之助との語らいを思い出しながら、じっと天井を見上げていた・・・湯殿の、鈍く濡れた梁を。
湯船の縁に頭を預けて、剣心はぼんやりと考えていた。
・・・左之助の言葉がよみがえる。
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