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   − そう言う・・・おめェは、どうなんでェ・・・?

 「拙者は・・・」
 あの時、返答することができなかった、言葉が出てこなかった。
 左之助の、言わんとするところはわかっていた・・・が、それはつまり・・・
 「・・・伴侶、か・・・」
 脳裏に、かつて契りを結んだ女性がよみがえる。短かったけれど、満ち足りていたあの頃・・・そして、失った時の言いしれぬ絶望感。
 ・・・伴侶を得る、ということは・・・
 「・・・薫・・・」
 小さく、唇で紡ぐ。
 薫、初めて自分を暖かく受け止めてくれた人・・・見守ってくれる人。かつての伴侶とは、全く違う性質の女性ではあるけれど・・・
 「・・・伴侶・・・か・・・」
 考えなかった、わけではない。
 神谷道場へ・・・薫のもとで居候を始めてから、もうずいぶんと経つ。
 無論、彼女の自分に対する想いもわからないわけではない。むしろ痛いほどに伝わってきて時折、胸が痛くなる・・・
 京都まで、追いかけてきてくれた人。
 東京で、「おかえりなさい」と言ってくれた人。
 嬉しくて・・・「ただいま」と言ってしまった。
 そう・・・「ただいま」と言った以上は・・・
 ・・・しかし。
 「・・・巴・・・」
 黒い瞳の女性が胸の中で、じっと自分を見つめている。

 薫を・・・彼女のような目には遭わせたくない・・・いや、
 自分といれば不幸にしてしまうのでは・・・
 ・・・幸せにできるはずがない。拙者は、誰一人・・・

 「・・・男として、失格だ・・・」

 巴を幸せにすることができなかった。
 そして今、薫の想いを、受け入れることもできない・・・資格がない。
 それなのに・・・

 「・・・左之・・・」

 思わぬ名が、唇からこぼれ出た。
 脳裏にいた女性がふわりと溶けて、不敵に笑う精悍な男の姿が現れる。
 「左之・・・助・・・」
 いつまで独り身なのかと言った時の、あの左之助の面差し。自分の言葉が、どれだけの衝撃をもたらしたことか・・・
 剣心は深く、息を吐いた。

 ・・・いずれ、左之もまた、結ばれるであろう女性と出逢うときが来る。所帯を持つ日が必ずくる。
 それが、左之助にとって一番幸せなことであり、男として最良の本分なのだ。
 ・・・その日まで。

 「・・・拙者は、左之助に・・・」

 身も心もゆだねて、身体を許し続けるのか・・・?

 耳朶に、左之助の唇の柔らかさがよみがえる、吐息が絡んでいくのがわかる・・・
 この肌を、縦横無尽に巡っていく手のひらの感触が・・・浮かんでくる。

 「・・・それから、ともに、戦ったり・・・」

 背中を合わせ、己は逆刃刀を、左之助は拳を武器にして。
 市中を徘徊する悪鬼を相手に、軽快に・・・

 「・・・それはとても、快くて・・・」

 と、己が呟いた言葉の意味に気づいて、剣心は慌てて唇を押さえた。途端、笑い始める。

 「ふ・・・ふふふふ、何を馬鹿な・・・」

 夢を、見ている。
 それは今だけだ。左之助が側にいる今だけだ。この時の流れが、いつまでも続くはずがない、そんなことはわかっているではないか・・・
 ・・・ならば。

 「・・・拙者はなにゆえ、ここにいるのでござろうか・・・」

 深く息を吐いて、ゆっくりと瞼を閉じたとき。
 ガラッ。
 湯殿の引き戸が開いた音がした。
 「!」
 剣心がパチリと目を開いたときには、脱衣所の引き戸が開いて全裸の左之助が入ってきた。
 「左之!」
 「よぉ、剣心」
 にっこりと笑った左之助に、剣心は恨めしげに彼を睨んだ。
 「入ってきて良いとは、言っておらんが」
 「固ェこと言うなよ、いいだろ」
 「構わぬよ、拙者は出ようと思っていたでござるから」
 「そう言わねェで、な、ちょいと背中でも流してくれよ、剣心」
 屈託のない笑顔でそう言われて、剣心はつい、それ以上のことを言うのをやめてしまった。やれやれとため息をつくと、苦笑を滲ませる。
 「・・・仕方がない。今日だけでござるよ、左之」
 「さすが剣心、話がわかるぜ」
 「調子に乗るな」
 剣心は湯船から出ると、桶に湯を汲み上げて。腰を下ろした左之助の背中にゆるりとかけた。隆起した筋肉に湯が滑り落ちていく。
 剣心はぬか袋を手にすると、やや力を入れて、背中をこすり始めた。
 左之助はされるがままに背中を預けている。
 ・・・不思議と、互いに無言だった。
 何を話しかけるでもなく・・・黙々と。
 やがて、背中や首筋を洗い終えて剣心は、沈黙を破って声をかけた。
 「あとは自分で洗うでござるよ、左之」
 「何だよ、せっかくだから全部洗ってくれよ」
 「何がせっかくでござるか、甘えるのも大概に・・・」
 「ケチなこと言わねェでさ。な、剣心」
 左之助は自らくるりと身を反転させると、向かい合った剣心へぬか袋を手渡した。
 「左之」
 ムッとした表情の剣心に、左之助はニッと笑う。
 「やれやれ・・・」
 やむなく、剣心は左之助ののど元へとぬか袋を当てた。
 無言でのど元から鎖骨、胸板へとぬか袋を進めていく彼に、左之助は耳朶へ低く囁いた。
 「洗ってやろうか、剣心」
 淫靡な雰囲気が漂う声音に、剣心は弾き返すようにピシャリと言う。
 「拙者は先ほど洗ったゆえ、結構でござる」
 「・・・俺には、触られたくねェか」
 一瞬、剣心の動きが止まった。
 「剣心」
 剣心がゆるりと見上げると、左之助の唇が近づいてきて・・・二人の呼吸が、一つに合わさる。
 深く・・・深く、口づけた。互いの温もりを確かめ合うように。
 「・・・はぁ・・・」
 ようやく唇が離れ・・・剣心は小さく、吐息。
 少し潤んでしまった蒼い瞳を上げると、左之助が黙って、黒い瞳を向けていた。
 「左之・・・?」
 「風呂・・・入ろうぜ」
 いつになく穏やかな声音に、剣心は不思議に思いながらも言われるがままに、湯船へ身体を落とした。続いて、左之助も中へと入っていく。
 ざばぁと湯が溢れ、流れた。
 流れ落ちていく波を見つめながら、左之助は剣心の身体を背中から抱きすくめた。抱きすくめて、湿り気を帯びた赤毛へ鼻先を埋めてくる。
 「左之・・・?」
 なんだか少し、いつもと様子が違うような気がする・・・。いつもならすぐに指先が肌のあちこちに伸びてきて、場所柄もわきまえずに淫らなことをしでかしてくる。声を殺すことに必死になるのが、常なのだが・・・
 今日の左之助は、ぎゅっと剣心を抱きすくめたままだ。それ以上のことをしてこようとしない。
 胸元で腕を絡ませた左之助に、軽く手を寄せて。剣心はやわらかく問いかける。
 「左之・・・どうした。何やら元気がないようだが・・・」
 「そうか? 俺ァ元気だぜ」
 言うなり、左之助は己が腰部をググッと、剣心の臀部へ押しつけた。彼の高ぶりの熱さを感じ取って、剣心はわずかに頬を赤く染めた。
 「馬鹿者、そういう意味ではない。お主もわかっているでござろう」
 「・・・あぁ」
 「左之・・・」
 「いいだろ。今はただ、こうしていたいだけなんだからよ・・・」
 まるで、剣心を自分の一部にしようとするかのような、きつい抱擁・・・。そして、温もりを確かめるように肌をすりつけてくる。
 左之助が今、どんな表情をしていて、どのような心境でいるのか・・・
 彼の立場になれば、自ずとわかるような気がした。
 剣心は少し顔を伏せながら・・・言葉を吐いた。
 「左之。お主もその友人同様、早く嫁をもらうことでござるな」
 「!」
 左之助の身体が硬直した。強ばった肌が、剣心の背中を通じてびんびんに伝わってくる。
 彼はどのような返答をしてくるのだろう・・・。剣心は目を閉じた。
 「・・・嫁、か・・・」
 やがて、呟くようにそう言うと、左之助は答えた。
 「俺ァ・・・わからねェよ。嫁のことは考えたことがねェからな」
 「考えたことがない?」
 「あぁ。俺は、自分が思うように自由に生きたい、それだけだ」
 「・・・本当でござるか?」
 「え?」
 「お主とて・・・女のことを全く知らぬというわけでもあるまい。ならば、一度や二度、考えたことがあるはず」
 「そりゃぁ、まぁ・・・」
 剣心に言われて左之助は、今までのことを思い返してみた。
 確かに、今まで何人かの女性と情を交わしてきたことがあった。辰巳の方角へも遊びに行ったし、浮き名を流したこともある。しかし・・・
 「・・・おめェの言う通り、俺ァ女を知ってるし、悪かねェなと思ったこともある。けどよ・・・俺にはそれ以上に、仲間といたり喧嘩に明け暮れていたほうがずっと楽しいし、性に合ってる。誰かを守りながらの人生なんざ、俺の望むところじゃねェよ」
 「左之・・・」
 「ま、女に未練がないだけなのかもしれねェがな」
 そう言って笑い飛ばした左之助は、逆に剣心へと問いかけた。
 「おめェはどうなんだ・・・嬢ちゃんといずれは、だろ・・・?」
 抱きすくめたままに、左之助は背後から問いかけた。剣心は微動だにしないまま、しばらく沈黙・・・のち。
 「・・・わからぬよ」
ポツリと答えた。
 「わからねェ?・・・なぜ」
 「・・・そんな資格は、拙者にはないのでござる」
 「資格だァ? おかしなことを抜かしやがる。だったらなぜ、『ただいま』と言ってここへ戻った」
 「それは・・・」
 「嬢ちゃんと所帯を持つためじゃねェのか」
 「・・・」
 何かを押し殺すように・・・グッと。剣心が何かを堪えた。
 奥歯を噛みしめているのが、左之助にはわかった。
 湯の、水面。
 波紋一つ立ってない・・・
 そこに映し出されている剣心の面差し・・・
 眉間に深く刻まれたしわと、きつく閉じられた瞼。
 長い睫の奥で何を見据えて苦悶しているのか・・・
 ・・・左之助は、息をついた。
 「・・・おめェが何を悩んで、引っかかってンのかわからねェがよ。これだけは言えるぜ。おめェは薫を嫁に貰う」
 「左・・・!」
 「その気がないなら留まるな!」
 大きな波紋を刻んで振り返った剣心を見つめて、左之助ははっきり告げた。剣心は奥歯を噛んで、目を伏せた。
 「・・・ここが、おめェにとって居心地がいいこたァわかってる。だからつい、居座っちまうんだろうが・・・このままじゃ駄目だってことぐれェ、おめェにだってわかってンだろ」
 「・・・あぁ」
 うめくような声で、剣心はそれだけを言った。
 左之助は、目を伏せてしまった剣心の左頬へと手のひらを寄せた。大きな手のひらは十字傷をも覆い隠す。
 剣心は、そんな彼の手に自らの手も重ねた。湯よりも熱い左之助の手のひらに・・・剣心は心の中の、何かが少し、溶けたような気がした。
 やがて、閉じていた瞳を開くと、左之助の手をゆっくりと外した。
 「・・・左之、拙者は・・・」
 言いかけて、スっと唇を閉じた。何事かを深く思案しているらしく、左之助から視線が離れる。彼の鎖骨へ置かれている剣心の両手が・・・指先が、小刻みに震えている。
 左之助は黙って、剣心を見つめた。
 「・・・拙者は、嫁を貰う意味を・・・もう、知っているんだ・・・」
 「!」
 左之助の頭が真っ白になった。表情が強ばる。
 「だから左之・・・!」
 彼を見上げた剣心は唇を噛みしめて、苦渋の表情はそのままに声を絞り出した。
 「・・・だから、もう少し、もう、少し・・・」
 ・・・左之助は、瞬きすることすら忘れて剣心を見つめていた。己の高鳴る鼓動を聞きながら・・・
 剣心の表情が、見ていて辛くなるほどに痛々しい。彼の抱えているものは一体・・・
 左之助は、剣心の胸底深くにしまわれている過去が、深く絡んでいることを感じ取った。それが、剣心に迷いを・・・悩みを生じさせていると。
 その正体がいったい何なのかはわからないけれど・・・
 ・・・ただ、言えることは。
 左之助は・・・小さく苦笑した。
 「・・・馬鹿野郎。その台詞、言う相手が違うだろ」
 ハッとして、剣心の表情がほどけた。そして・・・目を伏せる。
 「・・・ふふ、全くだ。お主に言うべき言葉では、なかった、な・・・」
 左之助は黙って剣心を抱きすくめた。湯に浸っていながら、彼の肌は鳥肌が立っていてざらついて・・・今の告白がいかに、剣心にとって苦痛であったかを思い知らされた。

 薫とのことを思い、悩んでいる。
 根が真面目な剣心のことだから、「やはりな」と言うべきところか・・・
 ・・・それなら。
 正面から彼女のことを考えているなら。
 もしかして・・・こんな顔をさせている一因は、俺にも・・・?

 湯で熱く火照った己が胸乳へ剣心の頬を寄せ、左之助は静かに問いかけた。
 「・・・なぁ。俺に抱かれることは、お前にとっては酷なのか・・・?」
 耳朶に響いてきた左之助の言葉に、剣心は胸乳に頬を擦り寄せたまま。ただ・・・ドクドクと流れる彼の血潮に耳を傾けている。
 「・・・それは・・・左之が一番よく、知っているのではござらんか」
 左之助の脳裏に、放恣な姿をさらけ出している剣心が浮かんだ。表情は陶然としていて、時には薄く涙を浮かべて悦びに震える・・・
 左之助は小さく、息を吐いた。
 「・・・嬢ちゃんとのことを悩んでいるおめェにとって、俺とのことは酷なことなんじゃねェかって、障害になってンじゃねェかって、思ったんだよ」
 「左之・・・」
 「それでも俺ァ、おめェが欲しいけどな」
 顔を上げた剣心に薄く笑って見せた左之助は、どこか辛そうに見えた。
 剣心は彼の頬へ手を寄せて、少し唇を開いて・・・しかし。
 何かを言いかけて、やめてしまった。
 「剣心・・・?」
 「・・・左之、とりあえず、出よう。このままでは二人とものぼせてしまう」
 言いざま、剣心はざばりと身体を引き上げた。湯船から出ると脱衣所へ向かう。
 左之助はしばらくその背中を見つめ、見送って・・・
 湯殿の中で、立ちつくしていた。







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