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 白き足跡 



 ・・・キュイ。キュイ。キュイ・・・
 踏みしめるたびに、足下から小さな声が洩れてくる。
 キュイ。キュイ。キュイ。
 一定の間隔、一定の調子・・・
 キュイ。キュイ。キュイ。
 紅い足袋、下駄の下・・・白銀の絨毯が一面に。
 キュイ。キュイ。キュイ。
 辺りに音の存在はなく、ただひたすら、彼の足音のみぞ響く。
 左腕を懐に、右腕は番傘を。
 特有の赤毛は無造作に一つ、ざっくりまとめ。後れ毛、甚だしくも背中へ気まま、流したまま。
 首元には襟巻き、尻尾は懐へと押し込んで。
 どうにか寒さを凌いではいるが、吐く息は格別に白く・・・
 空気へ、消ゆる。
 ・・・寒い。
 肌が断続的に粟立ち、どうにもならぬ。
 懐の左手、辛うじてぬくもっているにすぎない。
 早く道場へ帰らねば・・・。
 必然、歩みは速くなるが相変わらず、
 キュイ。キュイ。キュイ・・・
 音の間隔はさほど、変わらなかった。
 ・・・ふと。
 足を止め、番傘を傾け空を仰いだ。
 どんよりと、灰色の庭が一面に広がっていた。
 今にも落ちてきそうな程の重みを感じる。実際、その庭からは先刻より白いものが舞い落ちてきていた。
 「・・・やれやれ。やみそうにないでござるなぁ・・・」
 ふうっと息を吐いて再び空気を微かに染めて彼・・・緋村剣心は歩み出す。
 それは、今年初めての初雪であった。
 目が覚めてみれば、外は一面の銀世界。
 別段珍しい景色でもなかったが、今年初めてだと思えばこそ、その思いも感慨深くなる。
 剣心はしばらく眺めた後、自分がまだ寝間着姿であることに気づいて慌てて着替え、朝餉の支度に取りかかったのだった。
 ・・・が、だからといって決して雪が好きだというわけではない。
 雪は・・・胸の奥がちりちりと痛む。
 この季節・・・この雪を見ると・・・思い出すのは、かつての最愛の人・・・。
 記憶の奥底へ封印していた、白梅の香りとともに鮮明に甦る。
 あの・・・瞬間を。
 純白に飛び散る、鮮烈なる赤・・・ぬるやかな感触・・・。
 十字傷が、痛む。
 ・・・苦く、重い記憶を辿りながら彼は、今日半日、白銀の世界にて過ごした。
 こんな悪天候だというのに、宿主である薫は剣心に、前川道場への使いを頼んだのだ。
 居候の身分である剣心が、文句を言えるわけもなく・・・否、拒否する感情すら起きぬのだから、彼は易々と引き受けた。
 されども、この寒空の中を歩くのは少々難儀であった。
 一歩一歩、踏みしめるように歩を進め、たった一枚の襟巻きを頼りに、剣心は身を竦ませながら今ようやく、使いを終えて帰途についたところであった。
 「まだまだ、これから降るのかもしれぬなぁ。早く帰って暖でも取ろう」
 独りごち、剣心はさらに歩調を速めた。
 ・・・キュイ。キュイ。キュイ。
 雪の声が、儚く可愛い。
 心のどこかでその音を楽しみつつ・・・
 「!」

 ぶわっ。

 画然、番傘が宙を舞った。
 左の踵、重心がかかってクルリと反転、
 軽く退きながらも右手、閃光が走る。
 「グぁッ」
 見苦しくも唾液が迸った。
 赤毛がふわりと舞い上がり・・・
 番傘、雪の上へと無惨に落ち。
 蒼い瞳、捉えたものは・・・
 ものの見事、銅に打ち込んだ逆刃刀の姿。
 即ち、
 剣心の眼前には悶絶する浪人風情の男がいたのである。
 「何者だっ」
 誰何の声を上げたのは、悶絶した浪人風情に対してではなかった。
 いつのまにか、剣心の四方には無数の男達が姿を見せていたのだ。
 が、返答の気配はない。
 「でぇいッ」
 背後から男の咆吼、
 咄嗟に剣心、刃を返して身を翻し、懐へと飛び込んでいく。
 「ガッ」
 左脇腹から肩へかけて一線、斬り上げる。
 浪人風情はあっという間に気絶。
 だが気を許している暇などない。一人を斬り捨てたと思った途端、新たに左右から斬り込んできたのである。
 剣心は慌てなかった。一寸、呼吸を整えて視線を走らせ、男達の動きを読みながら握った愛刀、存分に振るう。
 その先々で、
 「ぐぅッ」
 「あ・・・ぐっ」
 と、無様な声が無数に広がっていく・・・水滴を落とした波紋の如く。
 襲いくる刃、刃をすべて薙ぎ払い、かつ急所を避けての斬撃は見事としか言いようがなく・・・
 たちどころに、
 剣心の周りには無数の、昏倒した男達が広がった。
 「やれやれ・・・あまり、見たくはない光景でござるなぁ」
 深々とため息を吐き、懐から奉書紙を取りだした。逆刃刀を包み込み、下から上へ一気に拭き上げたのち・・・
 「いつまでそこで見ているつもりでござるか。出てきてはいかがでござる?」
 手早く鞘へと愛刀を収め、剣心は誰ともなく声をかけた。
 ・・・ス。
 背後の気配に剣心は振り向く。
 やせ形の、小柄な男がそこには立っていて。灰色のスーツを着込んで漆黒のコートを羽織り、じっ・・・と、剣心を見つめていた。底の見えぬ闇色の瞳で。
 「失礼を致しました、緋村殿」
 知らぬ相手が自分のことを知っている・・・が、剣心は慌てない、相手を見据えたまま。
 「お手前は」
 「申し遅れました、私は貿易商を営んでおります、沢田安部衛と申します。このたびはとんだ失礼を致しました。どうしても緋村殿の力量が知りたかったものですから」
 剣心は黙したまま、男を見据えたまま。されど、相手が常に、自分の挙動に注意を払っていることに気づいていた。
 こちらが妙な動きを見せれば、即、攻撃に転じてくるだろう。
 如何なる武器を用いて仕掛けてくるのか・・・
 その、微妙な間合いをしっかり取っていることを剣心、見破っていた。
 「用件は」
 「はい。ぜひ、手前どもの用心棒を・・・」
 「お断りいたす」
 即答だった。考える余地もなく。
 そのことが、些か男の気に障ったようだ。微笑を刷いていた面差しが、不意に無表情となる。
 「・・・まだ、お話は終わっておりませぬが」
 「承知しているでござるよ。しかし、拙者の素姓を洗い、かつ力量を測るような輩が良識のある人間とは到底思えぬ。それどころか、拙者の力を求めるのでござるから、さしあたって良い用件とも言えぬでござろう」
 ・・・辺り、しんしんと雪が降る。
 音もなく・・・ただ、静かに。
 剣心の声音は冷えた空間を鋭く斬って、男の胸を抉り続けている。
 が、男も然る者。眉尻一つ動かさずに聞き入っていた。
 「申し訳ござらぬが他を当たられよ。拙者は貴殿に力を貸すつもりは毛頭ござらん。真っ当な商売をされるがよろしかろう」
 「・・・なかなかのご挨拶でございますな。そこまでお察しとは・・・さすがでございます。ならば、」
 男の目が、強い意志を孕んだ。
 「察してしまった以上・・・知ってしまった以上、無事ではすまぬと百も承知でございましょうな?」
 剣心、緊張が走る。
 「・・・それでも緋村殿、承知はして下さりませぬか?」
 「不承知」
 キュッ。
 踵が雪を踏みしめ、ゆるりと反転した。
 「ご心配には及ばぬ、他言は致さぬゆえ。とにかく、お天道様に恥じぬ商売をな」
 少しく振り返り、にっこりと微笑した剣心の面差しには一抹の濁りもなく。淀みない足取りで立ち去ろうとする。
 だがそれが、男の心を騒がせた。
 あの微笑の下、何を考えているのだろう。
 我知らず、ぶるぶると脚が震え始めた。
 彼の強さは、巷の噂で伝え聞いていた。だがしかし、実際目の当たりにしてあまりの強さに驚き、また胸の内で狂喜した。
 あの力、手に入れたい・・・!
 そうすれば、今の商売はもっとうまく進めることができ、また危ない橋をどんどん渡ることができるだろう。
 後に残るものは、莫大な富だ。
 これほど素晴らしいものはない!
 だが・・・
 彼は協力してくれないという。
 力は貸せない、と。
 それは即ち・・・
 あの力を敵に回した、ということでは?
 一番、敵に回してはならない人間を、敵に回してしまった・・・ということではッ?
 それは、つまり・・・
 もしかすると・・・この地面はもう、ないのではッ?
 この男と接触をしたことで、自らの足元をなくしてしまったのでは・・・
 彼の目に、背中で揺れる赤毛が映っていた。
 スッと睫を落として番傘を拾っている。

 本能が、今しかない、と叫んだ。

 男の右手、ずぶりと己が懐深く、差し込まれ。
 素早く引き抜かれたそれは、拳銃。
 咄嗟に両足を踏ん張ってピタリ、銃口を小さな背中へ定めるなり、

 ガアァァンッ

 一発の銃声が虚空を貫いた。

 手首を揺るがす大きな振動、冷たい引き金。
 銃身は微かに温もりを宿し、
 ジュ・・・
 振りゆく雪を溶かした。
 くゆるように昇っていく硝煙・・・男の視界を一瞬閉ざし・・・

 「物騒な御仁でござるなぁ」
 「!」

 思いがけぬ声の存在に男は硬直してしまった。
 目の前には、倒れたはずの剣心が、番傘を持ったその姿で立っていた。
 面差しには微笑すら浮かべて。
 男の顔、強張った。

 「拙者、他言は致さぬ・・・と、申し上げたはずだが」
 「信用できないッ」
 「ならば、いかが致せと?」
 「死んでいただきたい、知ったからにはッ」
 「ふむ、大方の察しはついてはいるが・・・別段、知っているというわけでは・・・」
 「黙れッ」

 恫喝し、男はキッと剣心を睨んだ。

 「承知して下さらないのであれば、神谷の人々に手を下さねばなりませぬ、それでも・・・」

 ゴトリ。

 ・・・この時。
 剣心の胸の裏で音がした。
 何やら重いものが、急激な力を得て動いてしまった・・・そんなふうに。
 心の奥、耳障りな音で溢れ返り。

 何も、聞こえない。
 何も、見えない。
 何も、何も・・・
 ・・・いや。
 いや・・・見える。
 見えるもの、それは・・・

 「・・・・・・巴・・・」
 「!」

 ピタ。
 男の唇、止まった。
 否、止めざるを得なかったのだ。
 頤が仰向き、喉仏すら動かす事を憚った。
 なぜなら。
 顎のすぐ下には鈍色に輝く刃・・・逆刃刀があったのだ。
 即ち、
 懐の中には剣心が、いた。
 しかも、
 逆刃刀のはずが逆刃刀ではなく・・・そう、峰が垂直に喉元を捉えていた。

 「ヒッ」

 男は息を呑み、思わず視線を剣心へと向けた。
 が。
 剣心は「剣心」ではなかった。
 あの時、あの笑顔が・・・
 まるでまやかしであったかの如く消え失せていて。
 眼光が炯々と、白い面差しの中に浮かび上がっていた。
 ・・・表情が、ない。

 眼を、合わせてはならないっ
 しかし・・・
 眼が、離せられない・・・ッ

 「神谷の・・・何だと・・・?」

 明るさの漂う、飄々とした声音は抜けていた。耳朶を貫いたのは、外気よりも凍り付いた冷涼な音。

 「もう一度、言ってみろ」

 喉元に突きつけられている刃が、なにゆえか小刻みに震えている。
 それがいつ、斬り込んでくるかと思うと男、全身から熱い飛沫を迸らせた。

 「言えぬのか・・・?」
 「ひッ、いィ」
 「神谷の何だと、訊いているんだ」

 キリッ、刃が更に頤へと差し迫る。

 「ぐ、ぅっ」
 「言えぬということは・・・俺の聞き間違いであったかな・・・?」

 剣心の言葉に、男は視線で激しく肯定を指し示した。
 彼の必死の形相に・・・剣心の唇が薄く、笑ったように見えた。

 「そうか・・・聞き間違いであったか・・・」
 「う、うぅッ」
 「手を出せるものならば・・・出してみるがいい」

 蒼い瞳、限りなく眇められた。

 「この刃を、味わいたければな」

 底冷えするような声音が、心の臓を凍てつかせた。
 両眼に宿る輝き、鋭さを帯びて突き刺さる。
 男は、正気を失いかけた。

 「ヒッ、はッ、あぁ・・・ッ」

 聞き苦しい嗚咽を漏らした男を一瞥して。
 剣心はスッと男から離れた。
 踵を返し、
 一歩を踏み出し。
 コト・・・愛刀を収めて。

 キュイ。キュイ。キュイ・・・

 番傘を開いて再び歩き始めた・・・神谷道場への帰路。
 背後の男など、存在を忘れてしまうかのように。

 雪は、音もなく降り続けている。






 神谷道場が主・薫は、剣心の帰りをひたすら待っていた。
 使いを頼んだのは自分なのだが、あまりに時刻が遅い。
 逆刃刀を帯びている彼の事である、何があっても大丈夫だと思うのだが・・・
 わかっていても心配をしてしまうあたり、乙女たる性なのかもしれない。
 夕餉もすっかり冷めてしまった。
 弥彦と、飄々と顔を出した左之助はとっくに食べてしまい、残るは剣心、ただ一人。
 この寒さだ、弥彦は早々に布団へ、左之助は風呂へ、薫は居間にて火鉢を抱えて待っていた。
 ・・・と。
 トントントン・・・
 聞きなれた足音に、薫はパッと立ちあがって障子をパァンっと開け放した。
 「お帰りなさい、剣心ッ!」
 気配には気づいていたが、こうも突然に開かれると、さすがの剣心も面食らってしまう。一瞬キョトンとしてはいたが、にっこりと微笑を浮かべた。
 「ただいまでござる、薫殿」
 この笑顔に彼女が最も弱い事は百も承知していた。だがその顔を浮かべても、最近の彼女は強かで、一瞬安堵の表情を見せつつも攻撃の手を緩めない。
 それは、薫の剣術・・・技量をそのまま現しているかのようで、剣心にはとても小気味よい。
 「今までどこで、何をしていたのッ? こんな時刻になるまで、私がどれだけ・・・」
 「相済まぬ、薫殿」
 苦笑しながら、剣心は頭を掻く。
 「先方に引きとめられてしまって・・・夕餉を馳走になっていたのでござるよ」
 「・・・本当?」
 「誠でござるよ」
 ・・・こういう、苦笑混じりでも穏やかな面差しの時には要注意なのだ。
 女の勘が、彼に何かあったのだと感づいていた。
 しかし・・・
 「そう・・・それならまぁ、いいけど」
 あえて、追求はしないことにした。
 彼が「必要ない」と判断したから、自分に話さないのだ。ならば・・・それを信じていればいい・・・。
 些かの不安もないと言えば嘘になる。
 が、一度こうだと決めると梃子でも動かぬのが剣心だ。・・・その時になれば、話してくれるかもしれない。
 ・・・と、思いつつも場合によってはいつでも問いつめてやると、胸の内に誓う薫であった。
 「じゃあ、お風呂に入ってね、剣心。剣心で最後だから」
 ふっと息を吐き、彼女はふわりと笑みを浮かべた。
 「今、左之助が入っているけど、もうすぐ出てくる頃合いだと思うわ」
 「あぁ・・・わかったでござる、薫殿」
 剣心はもう一度、にこりと笑うと障子、パタリと閉めた。
 ・・・閉めてから。
 彼は我知らず、足早になって私室へ向かった。
 いや・・・我知らずではない。
 ただただ、「急がねばならない」という闇雲な衝動に駆られていた。
 今、この場から立ち去らねば・・・この自分を誰にも見せてはならない、
 そんな危機めいた予感が華奢な体躯を縛り上げようとしている・・・。
 ドッ。ドッ。ドッ。
 胸が、鼓動が、全身に揺さぶりをかけてくる。

 何だろう、これは・・・

 クッと胸元を押さえながら、剣心は表情も険しく私室へと滑り込んだ。
 「おぉ、帰ったかィ、剣心」
 眼前に短髪の、漆黒の髪の毛。
 空を貫く硬質の、さりとて柔らかな感触の・・・
 背を向けていたそれが、面差しのみを返してにやりと笑い。
 が、不意の登場に剣心はまたしても面食らった。
 「さ、左之・・・っ」
 気配を感取るはずの自分が感取ることができなかった。
 よくよく見てみれば、行灯にも火が入っているではないか。
 この事実が、今度は剣心に動揺を招いた。
 驚いたのは左之助、剣心の思わぬ反応にしかめっ面を示した。胡座をかいたその姿勢、臀部を軸にくるりと振り返る。
 「どうした、剣心? 何を驚いてやがんだ」
 「いや、別に・・・」
 「それが別にってツラかよ」
 図星を指されながらも、剣心には言うべき言葉が見つからない。
 しかし、先刻より騒がせている衝動は、常に「逃げろ」と警告を発していた。

 この場から逃げろッ。
 この自分を、誰にも見せてはならない・・・ッ

 剣心、軽く目を伏せて返答する。
 「今日は冷え込むでござるな。拙者、湯を頂いてくるでござるよ」
 声音をできるだけ普段通りにと務めながら、何食わぬ顔をして湯浴みの支度を手早くすませた。
 すませると即座に、背を向けて。
 「では、行って参るよ」
 左之助には目もくれず、そのまま私室を出ていった。
 そんな剣心の一挙手一投足に、左之助は呆気にとられたまま見送ってしまった。
 「な・・・なんだ、ありゃぁ」
 頭をボリボリと掻きむしり、左之助は一言ぼやいた。




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