脱衣所に飛び込むようにして入った剣心は、脱ぎゆく着物をたたもうともせずに足元へわだかまらせ、追い打ちをかけられるようにして湯殿へ入った。
桶を握り、何度となく身体に打ちかける。
身体が冷えている、ちょうど良い湯加減なのだろうが火傷するような熱さに感じる。
だが、剣心は臆さない。
何かに取り憑かれたように、何度も何度も飽くことなくその行為を続けた。
纏めていたはずの赤毛が、舞い上がる飛沫に濡れそぼり始める。
バシャッ、バシャッ、バシャッ
・・・まるで、井戸で行水を行っているような・・・
どこか不穏な空気が、剣心の裸体から漂っていた。
・・・やがて・・・
「・・・はぁっ、はぁっ、はぁっ」
湯を汲み上げるその手が、止まった。
止めて・・・恐る恐る己が身体を見遣った。
・・・蝋の淡い灯りの中・・・ぼんやりと浮かび上がる青白い肌。
それが、
小刻みに震えている。
震えて震えて・・・だんだんと、揺れが大きくなってきていた。
「あ・・・あぁッ」
ため息のような、絶望のような。
掠れた息を吐いて、剣心は湯船の中へ身を沈め。
グッと己が身体を掻き抱き。
「止まれ、止まれ、止まれ・・・ッ」
呪文のように繰り返し唱えた、低く、強く、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ・・・
・・・なのに。
どうして・・・
「止まらぬッ?」
湯の中に身を浸したのだ、ぬくもりが身体を包んでいるはずだ。
それが・・・どうしてこれほど冷たい、これほど凍えるッ? 震えが止まらぬというのだッ。
ぬくもりつつあるはずなのに・・・何が冷たいというのだろう、寒いというのだろうっ。
いや・・・違う、違うだろうッ? この震えは寒さからではない・・・寒さなどでは・・・ッ
「嫌だ・・・嫌だッ。止まれ、止まれ、止まれ・・・ッ!」
身体の中心から起こったその震えは、徐々に全身へと広がっていき・・・今や爪先から頭の天辺までが震えを起こしていた。
ぬくもらなければッ。
何ら解決策を見出せぬまま、剣心はゴボッ・・・と湯船の中へと潜り込んだ。
赤毛が、湯船の中へと舞い・・・浮遊する・・・
止まれ、止まれ、止まれ・・・ッ!
剣心は、胸の内で必死になって唱え続けた。
「遅い」
剣心の部屋にて、火鉢を抱えていた左之助はぼそり呟いた。
遅かった。あまりにも遅い。
湯浴みに行ったまま、剣心が帰って来ないのである。
彼はさほど長風呂をする男ではない。
どちらかといえば、こざっぱりと済ませて出てくる男である。
それが・・・
「・・・あれから、どれくらい経った?」
苛立つ。
我知らず、膝が貧乏揺すりを始めている。
・・・遅いっ。
「何をしてやがんだ、あいつはっ。いい加減にしねぇと上せちまうぜッ」
呼びに行こうと思った。
もう、これ以上は待てないッ。
実のところ、彼がどれほど長湯をしようと勝手なのだが、早く帰ってきてもらわねば寝床に潜り込めないのだ。
否、潜り込むことはできるのだが、やはり・・・独り寝は寂しいものだ。
「えぇいっ、畜生っ」
誰ともなく毒づき、左之助は・・・それでも足音を忍ばせて脱衣所へ向かった。
何かしらの不安が、彼にはつきまとっていた。
理由も根拠も何もない、それでも・・・
彼の心は、夥しい不快と疑念に彩られて渦を巻いている。
必然、
脱衣所へ向かうその身体、前へ前へと先走り、
それでもなお足を忍ばせてしまうのは、
剣心に、妙な心配をしたなどと笑われるかもしれないという恥ずかしさからだった。
が、脱衣所をそっと開いてみた瞬間、そんな恥ずかしさなど一蹴された。
「何だ、こりゃ・・・」
脱ぎ散らかされた着物が、そこにあった。籠などに入れず、まさしく脱いでそのままの状態でそこにあったのだ。
目が、点になる。
いつもの剣心ではないことは明白だった。
・・・幾度となく肌を重ねる間柄になったからとはいえ、ともに湯に浸る・・・なんていう状況には余り、恵まれていない。が、その数少ない経験から察するに、剣心が着物を脱ぎ散らかしたまま湯に入るなどということはまず、あり得なかった。
そう・・・あり得てはならぬことであったのだ。
伸びやかで一見、頼りなさそうに見える剣心という男は、その実、几帳面で繊細であり、あらゆる物事に敏感に反応する気概を持ち合わせていた。
そんな男が着物を放り出すなどと・・・
左之助、考えるよりも早く身体は動いていた。
「剣心ッ!」
ガラリっ、湯殿への扉を開いた。
「!」
左之助の胸が、凍りついた。
湯煙の中にひっそりと・・・
湯船、満ち満ちたる湯に漂っている見慣れているもの・・・
それは・・・赤毛。
「剣心ッ?」
湯殿へと飛び込むなりザブリ、両手を湯船へと突き込んだ。
当たるはずのない感触が、両腕に広がる。
ありったけの膂力が漲り、
ざばぁ・・・ッ。
水面を破って押し上げられた左之助の両腕、そこに・・・
ぐったりと。
目を閉じて横たわる剣心がいた。
「な・・・ッ、おいコラッ、剣心! 大丈夫か、目を覚ましやがれッ!」
檜作りの簀の子へ身体を横たわらせると、左之助は我を忘れて剣心を殴り飛ばした。
手加減なしの一発、それは無意味ではなかった。
「う・・・」
湯に濡れた唇が、緩やかに開くと吐息を洩らし、
「あ・・・左・・・?」
瞳が、薄く開いて見せた。
「馬鹿野郎ッ、何をやってやがんだ、てめぇはッ! 死ぬ気かッ?」
「・・・」
唇を幾度となく動かしたが、そこから凛とした声音は聞こえてこない。
それでも意識が戻ったことで、左之助はホッと安堵の吐息をついていた。
だがだからといって、安心をしたわけではない。
己が半纏脱ぎ捨てて、ひらりと裸体、振りかけて。
左之助は再び、赤毛の優男を抱き上げた。
ここへ置いておくわけにはいかないっ。
左之助は無言のまま、剣心を抱き上げたまま彼の私室へと戻っていった。
・・・幸い、この騒ぎに薫も弥彦も、気づいてはいないようだ。
シン・・・と、屋敷内は静まり返っている。
左之助はしばらく耳を澄ませていたが、空間が波立つ気配を感じなかったためようやく、心の底から息を吐き出した。
「はぁ・・・まったくよぉ・・・」
悪態もつきたくなる。
が、聞いてもらいたい当の本人は再び、意識を昏倒させてしまっていた。
用意していた布団が役に立った。
床に剣心を横たわらせ、左之助はじっと視線を注いでいる。
濡れたままでは風邪を引かせてしまう、さりとて肌を拭う手拭いはここにはなく・・・。
仕方なく、己が半纏で彼の水滴を拭い去り、ある程度綺麗になったところで掛け布団をかけた。・・・着物を脱がせることは得意なのだが、着衣させることは困難を極めた。ゆえ、剣心は肌をさらしたままの状態だった。
濡れたままの赤毛、このままではいけないと思い・・・またしても半纏で拭いながら、左之助は剣心から目を離さない。
何が、どうしてこんなことになってしまったのか・・・
左之助には全く、見当がつかなかった。
確かに、帰宅してからの剣心の様子は些かおかしかった。
何が原因でこんなことになったのか・・・。
剣心の口から直接聞かねば、わからぬことだろう。
考え事をしていて、ついつい上せてしまった・・・それならば良いのだが。
「剣心・・・剣心よぉ・・・何があったンでェ・・・」
半纏が濡れることなど構わずに、左之助は呟きながら赤毛、拭い続けていた。
・・・と・・・
「・・・う・・・」
微かな呻きが、左之助の耳に届いた。
「剣心っ?」
声音を落とし、それでも息せき切って面差し、剣心へと近づける。
「・・・あ・・・」
ゆるく瞳、再び開いて・・・今度こそしっかり、左之助を認識して捉えた。
視点が、左之助を捉えて嬉しそうに微笑む。
「・・・左之・・・」
「あぁ・・・よかった。気がついたかよ・・・」
ほうっと、息を吐き出すと同時に俄然、奮起した。
「てめぇッ、何を考えてやがんだッ! いったいどういうつもりでェッ!」
寒さ・・・というわけではないだろう。左之助の身体は、目に見えてわかるほどに震えていた。
それが・・・果てなき怒りからくるものだということを、剣心は未だ霞む意識の中で感づいていた。
「左之・・・すまぬ・・・」
「謝りゃいいってもんじゃねぇだろッ。てめぇ、死ぬ気だったのかよッ?」
「そんな・・・つもり、は・・・」
「だったら・・・ッ!」
「・・・抑えられなくて・・・」
「・・・何だって・・・?」
左之助の顔に、疑問符が浮かんだ。
剣心、左之助から視線を離さずにこう言った。
「さっき、一悶着あってな・・・その時、拙者の中の・・・そうだ・・・あれは、『抜刀斎』・・・」
「抜刀斎?」
「あぁ・・・そうとも、あれは・・・おそらく『抜刀斎』だ・・・」
思い起こすように視点をずらし、剣心は意識を少しばかり彼方へ飛ばす。
「あの時・・・薫殿や弥彦に危害を加えると言われた時・・・自分でもわからない、何か・・・衝動が・・・」
「衝動?」
「・・・血が・・・ざわめいた。血が・・・欲しいと思った、その瞬間・・・身体が震え始めて・・・止まらなくなって、刀を・・・逆刃刀を抜きたくて、斬りたくて・・・ッ。あの時は辛うじて抑えた、しかしッ」
「剣心ッ?」
「拙者の中には確実に、『抜刀斎』がいるッ」
ガバッと身を起こして左之助へと縋る。蝋の明かりの下、ぼんやりと青白く、白磁の肌が浮かび上がる。
素肌に触れた剣心の肌は、湯にぬくもったはずでありながら氷のように、冷たかった。
「こんなことで・・・こんなことで揺り動かされるとはッ。あの時・・・あの、奥義伝授の時、『抜刀斎』はもう一人の自分としてしっかり認識して・・・拙者自身のものにしたはずでござるのに・・・どうして、こんなふうに騒ぎだってくるのか、どうして・・・ッ」
「剣心・・・」
「どうしよう、左之助ッ。拙者・・・拙者の中で、血が・・・騒いで、血を求めて、どうにも・・・抑えられぬ・・・ッ」
自分に縋り、必死に訴えてくる剣心を、しかしながら左之助にはどうすることもできない。
むしろ、いまだかつて見せたことのない彼の狼狽えぶりに、左之助のほうが動揺を隠し切れないでいた。
「落ち着け、剣心っ。どうしたってェんだッ」
背に食い込む爪が痛みを走らせ、左之助は無意識のうちに顔をしかめながら何とかして、剣心を諌めようとする。
だが剣心、聞く耳を持たぬ。
左之助の腕の中、荒れ狂い始めた己が血に惑わされながら言葉を絞る。
「あぁ、血が・・・血が騒ぐ、血が・・・欲しい・・・ッ」
喉が乾いた。火照り続きにみまわれた大地のように、夥しい亀裂が走っているような印象を覚える。
痛い・・・辛い・・・ッ
と、剣心の眼が。
左之助の背中の向こう側、ある存在を見出して集中した。
・・・音もなく、気配もなく、そこにひっそりと・・・。
まるで息を殺しているかのように、それはいた。
「逆刃刀・・・」
つと、呟いた刹那だった。
剣心すらも信じがたい万力が全身に満ち溢れ、
ドッ、
左之助の身体を弾き飛ばしたのだ。
力の檻から解放された華奢な肉体は迷う事なく、成り行きを静かに見守っていた逆刃刀へと伸びた。
蒼い瞳、妖しげに輝く。
唇、歪んだ。
「剣心ッ!」
突然の事に驚いた左之助、だが彼の動きを敏感に察知してすぐさま身体を伸ばした。
さらに両腕を差し出し、細い身体を捕らえる。
剣心の指先は後少し・・・というところで逆刃刀から再び、遠ざかっていった。
「やめねぇか、剣心ッ」
「うるさいッ、俺は・・・ッ!」
「剣心ッ!」
裸の彼を羽交い締めにしてたちどころ、左之助は冷たい畳の上へ組み伏せた。
生乾きの赤毛が四方へ散りばめられ、肩で大きく息をする剣心が、苦悶の表情で左之助を見上げていた。
「何をしてやがんだ、てめぇはッ。なんてェ無様な・・・っ」
苦々しく言葉を吐き、左之助は瞳に怒りの情念を燃やして赤毛の男を睨め付けた。
「血が騒ぐ? 血が欲しい? 馬鹿野郎がッ、たかがそれくらいのことで惑わされてンじゃねぇッ!」
「う・・・っ」
剣心の唇から苦痛が洩れた。瞳が揺れる。
「『抜刀斎』も『剣心』も、どっちもおめぇじゃねぇかっ。一時的な衝動に流されてンじゃねぇよッ。それを抑えてこそ・・・いや、抑えられるからこそ『緋村剣心』なんじゃねぇのかよッ」
「左之・・・」
「大丈夫だ」
冷たくなっている眼下の肉体を、言葉の荒々しさとは裏腹に左之助、そっと膝の上に抱き上げて・・・ぐうぅっと、抱きすくめてやった。
再び捕らえた身体は一瞬硬直したものの・・・ふうっと、力を抜いた。
「おめぇならできる。今までだって制御できてたじゃねぇか。それが・・・ちょいとしたきっかけで、脆くなっただけだ。なぁんにも、心配はいらねぇ」
耳朶へ囁きかける様は、心へ直接語りかけるようであり、声音も穏やかであった。
剣心は無言のまま、じ・・・と、左之助の温もりに包まれたままに目を閉じていた。
「大丈夫・・・大丈夫だ。おめぇなら、抑えられる」
さらに膂力をこめて、左之助は押し潰さんとするように彼を抱く。
剣心はふるふると身をわななかせていたが・・・やがて、止まった。
「・・・左之・・・」
自分の名を呼んだその声音が、さきほどまでの彼とは違うことに気づき・・・左之助は、ようやく剣心から少しく、肌を離した。
「落ち着いたか・・・剣心・・・?」
温もりがわずかに離れ、名残惜しげに肌を寄せようとしていた剣心は、やや上目遣いに左之助を見上げた。
「・・・すまぬ、左之・・・取り乱した・・・」
眉根を寄せ、瞳に情けなさを漂わせた彼の面差しを、左之助は一笑に伏す。
「構わねぇよ、ンなこたぁ。でもよ・・・嬢ちゃん達には見せねぇほうがいいぜ。狼狽えちまってどうにもならねぇだろうからよ」
「あぁ・・・わかっている、だから・・・湯殿へ直行したのだが・・・」
すっ・・・と自ら肌を寄せ。剣心は唇を彼の胸乳に押しつけた。
「止まらなかった・・・震えが、衝動がっ。どうにかして止めようかとしたのだが・・・駄目だった・・・」
声を殺すように、喉をつぶして言葉をとぎらせた。
いつものように理性が働き、冷静になればなるほど、自ら起こした行動が恥ずかしくてたまらないのだろう、合わせる顔がないとばかりに伏せ込んでしまった。
なぜ、あのように取り乱してしまったのか・・・。
普段であれば、何とも思わぬ事であるはずなのに、どうして・・・。
考えれば考えるほど、自らの行動が情けなくてたまらない。
こんな姿、左之助に見られたくはなかった・・・
今だって、できることなら突っぱねてどこかへ隠れてしまいたかった、
なのに。
こうしてしがみついていなければ崩れ去ってしまいそうな自分がいて。
この腕を、振り解けないでいる。
なんて・・・弱い自分なのだろう。
己が闇の部分すら制御しきれないとは・・・愚かな・・・ッ
「・・・剣心?」
顔を伏せたままぴくりとも動かなくなった彼を、左之助は少しく不安になって肩を抱き。肌を離して面差し、仰向かせた。
「・・・馬鹿が」
左之助の面差しが、苦笑とおかしさを混ぜた。
さらされた剣心の面差しは、眉を寄せて唇を噛んだ、瞳を伏せた面差しだった。
彼の胸中、何が去来しているのか・・・手に取るようによくわかる。
やれやれ・・・と頭を掻いて、左之助は薄く笑みを刷いた。
「そんなに不甲斐ねぇか、自分自身を抑えられなかったことがよ・・・」
「・・・」
「そんなことはなァ、誰だってあるんだよ。気にするもんじゃねェ」
「しかし左之、拙者の場合は、」
「おめぇだって人間だろっ」
「・・・!」
「・・・完璧なヤツなんざ、存在しねェ。抜刀斎だろうが元人斬りだろうが、人であることに変わりはねぇだろッ。いつもうまく抑えていたとしても・・・たまには、うまくいかない時だってあらァな」
「左之・・・」