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〜 昼 〜
「今日はね、すごい日なんだって、知ってた?」
八百屋の前、立ち話をする女性達の談話。
それらが決して、耳に入らなかった訳ではない。ただ、その時には気にも止めなかっただけだ。
「ご主人、この大根を一本下さらぬか」
女性達の傍ら、微笑を浮かべて言ったのは、この場に全く似つかわしくない人相風体の優男。
ゆるい着付けは胸元をほころばせ、世は明治だというのに細腰、刀を帯びている。
おまけに柔らかな頬の左側、見るにも忍びない痛々しい十字傷。
そんな異風なるいでたちは、だがそぐわぬほどに華奢で小柄な体格で。
そして珍しくもその髪、赤。
これほど怪しげな男も他にはいるまいに、なにゆえか彼の面差しを、瞳を見てしまうとたちどころ、胸に沸いていた訝しげな思いなど断ち消えてしまう。
もとより。
この町では少々名の売れてしまった男であり、かつ、八百屋にとっても彼は上得意の常連であった。嫌な顔を浮かべようはずもない。
「今日もご苦労なこったねェ、兄さん」
「それほどでもござらぬよ」
にっこりと微笑む赤毛の優男に、八百屋の主人は大根を手渡す。
優男もまた、代金を彼へと手渡した。
「え? ばれんたいん?」
その時だった、聞き慣れぬ言葉を耳にしたのは。
さしたる興味などあるはずがなかった。だが、彼は無意識のうちに談話を続けている女性達のほうへと、視線こそ向けぬものの意識は確実に集中していた。
「好いた者同士が、贈り物を交換する日なんですって。でもね、一番重要なのは、女性が男性へ、贈り物と一緒に想いを告げる日でもあるんですって!」
・・・優男は、ゆっくりと踵を返した。
チラリ。
女性達へわずかな視線を置き残し、
往来の中へと身を滑り込ませる。
視線は直線上、まっすぐに前方へと置かれ。
が、唇は無意識に呟いていた。
「・・・ばれんたいん・・・想いを、告げる日・・・今日・・・?」
想いを告げる。
想い・・・
立ち眩む。
何やら・・・甘美なる匂いが漂っているように思えて。
「想い、か・・・」
ふと・・・脳裏によぎるのは。
長身の、濡れたような漆黒の髪の男。背中に惡一文字を背負った男・・・
「左之・・・」
己が唇に宿った男の名に、優男は恥じらいを覚える。
目を閉じれば鮮やかに思い出させる。
いかなる仕種も、いかなる言葉も。いかなる・・・熱さも。
胸の奥が震えるのがわかる。
あの男を思うだけで、身体が疼くのがわかる。
どうして・・・これほどまでに過敏な反応をしてしまうのだろう。
「思えば・・・あの男はいつだってはっきり、自分の想いを口にする・・・」
こちらの返答など構うことなく、長身の男は時や場所を選ぶことなく、率直に想いを告げてくる。
それは、優男にとって羨ましくもあれば、妬ましくもあった。
「拙者はそれほど、素直にはなれぬ・・・」
本当は。
自分だって気づいている、あの男のことをどう想っているかなどとは。
けれど・・・
「口に出してしまうことが、恐ろしい・・・」
自分には過ぎる男だとも思っていた。
どうしてあの男は、女のほうへ目を向けず、自分のような男を相手にするのだろう。
求めてくるのだろう。
「欲しい」と、言えるのだろう。
「拙者には・・・言えない、言いたくとも・・・。しかし・・・」
甘んじているのかも知れない。
あの男が想いを寄せてくることが、自分に構ってくることが、ごく当然のこととして受け止めているような気がしてならない。
ならば、その確信はどこからくるものなのか?
いつまでも・・・ずっとこのままだと、断言できるのか?
今までこちらから一言も、想いなど告げたことはないというのに・・・?
「馬鹿な・・・左之が、拙者から離れる・・・?」
己の吐いた言葉に、優男は愕然とした。
可能性がないわけではない。
低くもなければ、高くもないだろう。
即ち、
いつ、どうなるかわからぬ危うさを秘めていることになりはしないか?
もしかすれば、この瞬間にでも・・・!
「それは・・・それは、嫌でござる・・・!」
口中、低く呟き優男、苦々しく空を見上げた。
道場へ戻ると、ちょうど剣術小町と少年が、出稽古へ出かけようとする矢先であった。
優男の姿を認めた娘が、満面の笑みで彼を出迎える。真っ白な胴衣が陽の光に眩い。
「おかえりなさい、剣心!」
彼女の笑みに応えるように、優男もまた笑みを浮かべる。
「もう、出稽古へ行かねばならぬ刻限でござるか。早いでござるなぁ」
「ええ! 夕方には戻るから夕餉の支度、お願いね! あ、そう言えば左之助が来てるわよ。縁側のほうにいるみたい」
「左様でござるか。気をつけて行くでござるよ」
「うん! さあ、行くわよ弥彦!」
快活な声に、傍らにいた少年は拳を振り上げて返答する。
「おぅ! じゃあ、行って来るぜ剣心!」
「ああ。しっかり稽古をしてくるでござるよ」
・・・微笑みとともに、
二人の背中が門を出ていったのを見届けると・・・
優男は屋敷へ上がりまっすぐに、まず厨へと入った。買ってきたものをその場へ置くと、今度は縁側へと向かう。
歩みが、早くなっていることに優男、気づかない。
縁側を覗いてみると・・・いた。男。長身の男。細くも引き締まった身体が縁側にてゴロリと転がっている。
季節は如月。
風も冷たく、空模様も決して良いとは言えない。下手をすれば雪でも降ってきそうな気配である。なのに、彼は動じることなくいびきを掻いて眠っている。
「やれやれ」
吐息をついた優男の表情はだが、赤くほころんでいる。彼は苦笑しながら、長身の男へと身を寄せ、両膝を落とした。
「こら、左之。このようなところで眠っていると・・・」
「風邪を引くってか?」
画然、男の両目がパッチリ開いた。優男が驚く間もなく、一瞬の隙をついて太い両腕が彼の身体を抱き寄せた。
「左、之ッ?」
抗う隙すらなく。
「ンっ・・・」
唇は重なっていた。
随分長い間、縁側で寝そべっていたのだろうか。男の唇はカサカサに乾いていた。
優男は反射的に両手で突っぱねようとするが、両肩をすっぽりと彼の腕にくるまれてしまい、びくともしない。
抗うべく触れてしまった、男のはだけた胸乳。
この寒さであるにも拘わらず、熱く・・・
熱くて・・・
いつしか。
優男はうっとりと口づけに身を委ねていた。
小さな唇の音を残し・・・
二人、わずかに離れた。
優男は長身の男を直視することができず、自然と視線を逸らした。
「嬢ちゃん達がいねぇと、素直だねェ」
「ばっ・・・馬鹿ッ」
にやけた面差しが憎らしくて、優男は思わず彼の中から逃げ出した。
振り返って男を見遣る余裕すらなく、彼はそのまま厨の中へと飛び込んでしまう。
「へへ・・・可愛いねぇ。て・・・」
つと。
長身の男、小首を傾げた。
そういえば、あれではまるで・・・
「初な女みてぇじゃねぇか。今まであんな仕種、見せたことなかったってェのに・・・どうしたんだ? まぁ・・・いいけど」
軽く鼻を擦りあげ、男は余裕の動作で立ち上がる。唇に浮かんだ笑みは決して、嫌味なものではなく。むしろ幸福感を感じさせるような穏やかなものだ。
彼は悠然とした物腰で歩を踏み出した。無論、行き先は厨・・・。
「こんなことで、狼狽するなどと・・・」
自分らしくないと、心中毒づく。
あれではまるで、初な乙女ではないか。
「女」を知らぬ自分ではない。それどころか男の味すら覚えてしまった。そんな自分があのようなことをされて、言われて、逃げてくるなどと・・・
「・・・それほど、奴に溺れてしまったという証拠でござろうか・・・」
もう、腹をくくるしかないのだろうか。否、もはやそういうことを考えること自体が遅すぎているようにも思える。
色恋沙汰は、得意とする分野ではない。むしろ奥手の、苦手な方だ。
一番戸惑っているのは・・・自分自身の心だ。
奴に対する、想いだ・・・。
「よぉ、今晩の飯はなんでぇ?」
優男の複雑な心中など知らぬかのような間の抜けた声に、必然、彼の声音は刺々しいものとなってしまう。
「そんなもの、何でも良いでござろう」
「何だぁ? なぁに、怒ってやがんでェ」
「拙者は別に、怒ってなど・・・」
ヒタリ。
いつのまに忍び寄っていたのだろう。
長身の男は、優男のすぐ背後に立っていた。
彼の気配に、優男の背筋はゾクリと悪寒を走らせる。
「まぁ・・・怒った顔もまた、一段と・・・」
両腕、細い腰へと回されて。
唇、赤毛を掻き分け耳朶へ寄せられ。
「最高だがな」
低く囁かれて優男、思わずまな板に置いてあった大根を落としそうになってしまった。
にわかに肌を震わせながら、優男は恨めしげに男を小さく顧みる。
「どうして、お主はそうやって拙者に触りたがるのでござるか」
「そりゃぁ、決まってンだろ?」
ますます強く抱き寄せ、抱きすくめながら男、耳朶の裏に口づける。
身震いした優男の反応を心地よく思いながら・・・
「おめぇに、ほの字だからよ」
ズ、ン。
優男の中で何かが、寝返りを打った。
「それから・・・知ってっか?」
「・・・?」
「俺の好物は表向き酒だが・・・本当はおめぇなんだぜ、剣心」
心が、荒ぶる。
「この柔らかな赤毛も、戦場を潜ってきたこの肌も・・・声も、息も、何もかもが全部、俺は食い尽くしてぇ・・・」
そろり。
腰に絡んでいた両手、袴の脇を割り始めた。
ゾクリっ。
凄まじい悪寒が背筋を苛み。
だ、駄目だ・・・
抑え・・・きれない・・・ッ!
「さ・・・左之っ」
「ん?」
「こ・・・ここでは駄目でござるよ」
どうにか冷静さを保ちながら優男、やわらかく彼の手を振り解く。
「どうしてだよ。だって、嬢ちゃんも弥彦もいねぇんだぜ? せっかく二人きりだってぇのに・・・」
「とにかく、居間にでもいてくれぬか。夕餉の支度が出来たら、そっちへ行くから」
「なんでぇ、ここへ居てもいいだろ?」
「戸棚の中に、茶菓子がある。それでもつまんで・・・待っていてくれ」
「剣心っ」
「居間にいるでござるよ・・・左之」
二つの視線が。
真正面から、ぶつかる。
しかし・・・結局折れてしまったのは・・・
「・・・わかったよ。早く来いよ、剣心」
「あぁ」
腑に落ちぬといった、不満そうな面差しの男だったが、優男から普段と違った何かを嗅ぎ取ったのだろう。おとなしく、彼の言葉に従い姿を消した。
「・・・はッ、はぁ・・・っ」
男が姿を消した途端に優男、その場へと崩れ落ちた。
呼吸が、荒い。
どうして・・・
「これは・・・拙者・・・」
触れられたところが、痺れたように麻痺している。
囁かれた耳朶が、燃え出しそうなほどの炎を宿し。
瞳が意志とは裏腹、雫をあふれ出しそうになってしまう。
こんなこと、未だかつてなかった。
長身の男に触れられ、かつ、身体に火がつくなどと・・・。
囁かれ、触れられ、時間をかけられて初めて起こる反応が、
今、全身を凌駕している。
まさか・・・
「・・・欲情してい、る・・・?」
優男は。
呆然と立ちすくんだ。
〜 夕 〜
「珍しいなぁ、剣心が誘ってくれるなんてよ」
「たまには良いでござろう? 外で酒を飲むのも」
嬉々として言った長身の男に、優男もまた微笑を浮かべて返答する。
夕餉の支度が整った後、優男は酒でも飲みに行こうと誘いをかけたのだ。
長身の男から誘うことはあっても、優男のほうから誘うことはまず、無に等しい。否、初めてではないだろうか。
その事実に、男が嬉々としてしまうことは当然だった。
剣術小町と少年宛に、書き置きをしてきた。
二人でゆっくり、心ゆくまで飲めるはずだ。
夜の町は、シンシンと身に染みる寒さで覆われていたが、あちらこちらで酒の匂いや喧噪が立ちこめ、賑やかな空気で満たされていた。
光があふれ、楽しそうな声であふれ。
行き過ぎる人々の表情は十色に染まり。
瞳は「安心」の中にある・・・
優男の視線が。わずかに夜空を見上げた。
「・・・幕末のあの頃、このような光景などなかったでござるなぁ・・・」
しみじみと。
ぽつりと呟いた優男の言葉を、長身の男はただ黙って聞き止めた。
・・・不思議なぐらいに。
二人の間には言葉が存在しなかった。
先だって歩む優男を、長身の男が同じ歩幅で歩む。
優男が摺り抜けていくそのしざまを、男もまた、同様に。
どちらかが口火を切ることもなく。
歩みは衰えることなく。
そして・・・・滔々と時が流れたある、瞬間。
「左之。ここへ入ろう」
つと。優男が歩みを止めた一軒の店、それは・・・
「あ? 旅籠じゃねぇか。飲み屋じゃぁ・・・て、おい、こら剣心!」
男の言葉など聞こえぬのか、あるいは聞こえぬ振りなのか。
優男は無言のまま、旅籠の中へと姿を消してしまった。
長身の男は面食らいながらも、彼の背中を追いかけるしかない。
どうやら、優男とこの旅籠の女将とは顔見知りのようだ。
彼は女将と何やら言葉を交わすと、小さく男を顧みた。
「行こう、左之」
優男の表情が、よく見えなかった。
明かり加減ゆえに? それとも・・・故意に?
差しで酒が飲めると狂喜していた心中は、
だが、ただならぬ雲行きにたちまち苛立ちを見せ始める。
先の読めぬ展開が、一番腹に据えかねる。
しかも、
何もかも知り尽くしているはずの相手から、予測不可能な行動をされるとなおさらに。
いつしか、長身の男の面差しは翳りを見せ始めた。
女将に案内されてたどり着いたのは、旅籠でも最奥の離れであった。
宵の口であるというのに、ひっそりと静まり返っている。
その静けさが一抹、長身の男に不安を抱かせた。
「ごゆっくりどうぞ。ただ今、お酒をお持ちしますゆえ」
にこやかに微笑み、女将は姿を消した。
離れは、六畳ほどの広さ。
狭くもないが、広くもない。
二人が向かい合えばちょうど良い空間といったところだろうか。
世が世なら、密会には最適な場所であり、空間だった。
その中に。
行燈に灯された明かりが、二人の存在をかろうじて知らしめる。
「・・・あの女将とは知り合いなのかィ?」
ひんやりとした空気に一瞬、肌を粟立たせて男、優男へ声をかける。
「あぁ・・・極道に絡まれていたところを少し、な」
「ふーん・・・」
「左之」
「あ?」
「拙者、湯を浴びてくるゆえ、ここにいるでござるよ」
「はぁ?」
「拙者が出たら、次はお主。それでは・・・」
彼の返答などお構いなし、優男、そのままそそくさと部屋を出て行ってしまった。
ピシャリっ。
まるで、男が追いかけてくることを拒むかのような。
長身の男、思わず唖然。
「なっ・・・何だってェんだよ!」
怪奇な行動に、もはや男の理性は限界に近づいていた。
全くわからない、全く読めない。
こんなことは初めてだった。
ほんのわずかでも、彼の考えていることは見抜ける自信が男にはあった。
それが今日、この日、木端微塵に砕かれた。
「何を考えてやがんだ、剣心。今日のおめぇ・・・何か、変だぜ」
常に沈着冷静であり続けた、いつ、いかなる時も。
ただ唯一、豹変してしまう瞬間は・・・褥をともにした時だけ。
互いの肌に触れ合い、温もりを確かめ合い、睦み合った時間の間だけ・・・。
「あんな剣心・・・初めて見たぜ。まるで、俺と目を合わせようともしねぇ・・・」
一人悶々と苦悩する男の前に、やがて酒が運ばれてきた。
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