・・・この世でわからぬものは、己が心である。
と、誰かに聞いたような、目にしたような記憶がある。
不意に掠めた仄かな記憶の断片に、左之助は少しく苦笑してしまう。
そう、まさにその通りのことが今、目の前に。
「どうして・・・こんなものを俺は、買っちまったんだ?」
歩みながら手のひら、ポーン、ポーンと小さな袋を弄び、
訝しげに顔をしかめ、独りごちたところで誰が、聞くわけでもなく・・・
左右へ過ぎゆく雑多の中、それは紛れていく。
「んー・・・まぁ、買っちまったもんは、仕方ねぇよなぁ」
頭を掻きむしりぼやいたそれも、雑多に溶けて誰一人、聞くわけもなく・・・
無論、寂しいと言えば少々、寂しい。
さりとて・・・
「フン。考えても埒があかねぇ。腹ァ据えて、行けばいいさ」
つと歩みを止め、空を仰ぎ見れば青、一色。
それは数日ぶりの快晴。
折良く天気もいい、きっと今日は、いいことがあるに違いない。
そう思い直せば、割り切ってしまえばもはや、こっちのもの。
自慢の髪の毛をさらに逆立たせ、男・相楽左之助、肩で風を切って再び、歩み出す。
・・・事の発端は一刻(約二時間前)ほど遡る。
日課のように通っている、神谷道場。左之助が姿を見せぬ日はない。
この日も、朝から我が物顔で姿を見せた左之助に、道場主たる神谷道場が師範代、神谷薫は言ったのだ。
「あら、左之助。今日は留守番、頼むわね」
「あ? 何だ、どっか行くのか?」
「えぇ、弥彦と一緒に前川道場へ稽古に行って来るわ。今日は他の道場からも門下生が来て、他流試合をするの。腕が鳴るわ!」
喜々として語る彼女、笑えばまだまだあどけなさの残る少女そのもの。が、竹刀を持てば東京内でも屈指の剣術使いとなる。女性の身としては一番の名乗りを上げてもおかしくはないだろう。
「弥彦も一緒に行くのか・・・で、剣心は? あいつは一緒に行かねぇのかよ」
「うん、誘ったんだけどね。ほら、久しぶりに晴れたでしょ? たまっている洗濯物を片づけるからって、断られちゃったわ」
「ふーん・・・」
途端、彼の脳裏に邪なる思いが去来したことを無論、薫が知る由もなく。
肩へ竹刀を担ぎなおし、彼女はゆるりと背を向けた。
「でも、できるだけ早く帰るわね。今晩、赤べこにでも行きましょう」
「へぇ? そいつは豪勢だなぁ」
「今日は剣心の誕生日ですからね。やっぱりみんなで祝ってあげなくちゃ!」
「・・・誕生日・・・?」
聞き慣れぬ言葉に、左之助はぽかんと口を開けてしまった。
彼らしからぬ表情。
薫、思わず吹き出してしまったが、門前で待ちかまえていた門下生・弥彦の声が飛んできた。
「薫、何してんだよッ。早く行こうぜッ!」
「今、行くわ! ・・・じゃ、左之助。あとはよろしくね!」
茫然自失となった彼をそのままに、薫と弥彦は姿を消した。
そして左之助、
たちまち途方に暮れたことは言うまでもなく・・・
「誕生日だァ・・・? チッ、こうしちゃいられねぇや」
道場の門を飛び出していく惡、一文字が翻り。
一陣の風、陽光の中へと舞い上がった。
・・・時として。この男には驚かされてしまう。
否、予想も付かぬ行動を起こされて、こちらが戸惑いを覚えるのだ。
だが、それらが決して不愉快ではないことに、緋村剣心は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「何を笑ってやがるんだよ、剣心」
眼前に。
畳の上、あぐらを掻いているのは相楽左之助。短い黒髪も美しい、されど現実のすべてを否定するかのように天を突く硬質。偏に、性格を物語っているような彼の髪質が、剣心は愛しく思うのだが一度たりとて、口に出したことはなく。
彼は湯飲みを手にして、煎れたばかりの茶をゆっくりと口にする。
「笑うに決まっておろう。何しろ、このようなものがお主の懐から転がり出てきたのだから」
クツクツと忍び笑いを洩らす剣心が、左之助には忌々しい。照れ臭さも相まって、小さく舌打ちして顔を背けてしまう。
左之助の瞳、剣心の面差しから移り変わって視界、障子の開け放された光景、蒼天の空。
時折吹き込んでくる風がにわかにぬるく、微量に含まれる水の気配に左之助、眉を顰めてしまう。
時節は、水無月。
久しぶりの快晴。
つい昨日までは雨の神が降臨していたのだろう、御天道様の姿など拝めることが叶わなかったが、今日は数日ぶりのお出ましとなった。
「・・・これで、洗濯物が乾いてくれれば良いのだが」
左之助の視線の先を追い、剣心は小さく呟いた。
「フン、どうだかな。今は梅雨だぜ、この空がいつ曇るか、わかったもんじゃねぇや」
すっかり臍を曲げてしまったのか。左之助、剣心の方など見ようともせずに毒を吐いた。
剣心、ただ小さく苦笑するしかない。
左之助が神谷道場へと姿を見せたのは、つい一刻ほど前の、午の刻。
ちょうど昼時ということもあり、彼は昼食を楽しみに訪れたのだがあいにく、そのような支度はなされていなかった。
「なんでぇ。昼飯はねぇのかよ?」
不満そうな彼の言葉に、剣心はやんわりと答えた。
「今日は一日、薫殿と弥彦が前川道場へ行っていて不在なのでござるよ。ならば拙者一人、少々昼餉など抜いたところで差し障りはないし・・・」
「俺が、差し障りがあるんだよ」
道場主と門下生が、どこへ稽古に行こうが何をしようが、左之助にとっては関係のないことだった。重要なのは、昼食を食べられるのか、否か。
目もとに険を含んだ左之助に、剣心、微笑とともにあっさり、彼の意図を読んでしまうとあり合わせのもので、トントントン、昼食を瞬く間、整えてしまった。
彼のあまりの手際の良さに、左之助が舌を巻いたことは言うまでもない。
剣心の部屋にて昼食を済ませてしまうと、それから自然に、茶菓子を摘むことになったのだった。
「たまっていた洗濯物を、ようやく干せたのでござる。今日一日、降ってもらいたくはないでござるなぁ」
「知るかよ、そんなこたァ」
「やれやれ・・・すっかり臍を曲げてしまったでござるなぁ」
「誰が臍を曲げたってッ?」
「左之」
「・・・・・・」
断言されてしまい、左之助は再び顔を背けてしまった。
だが、機嫌を害することは至って、当然の事とも言える。
昼食後、何を思ったのか左之助、懐から小さな袋を取り出すなり、剣心へと突き出したのである。
不思議そうに開いてみれば、何とそれは、金平糖。
赤や黄色、色とりどりの金平糖が小さな体を寄せ合って、袋の中で眠っていた。
剣心、
どうにも辻褄の合わぬような面差しで左之助を見遣り。
左之助、
彼もまた、自分らしからぬ代物に狼狽すらしていたのだが、顔を赤らめながらもぼそり、告げた。
「別に、意味はねぇが・・・誕生日だろ」
瞬間、
目が点になってしまった剣心、一寸後にはたまらず笑い出してしまったのだった。
この男にしては、似合わぬほどの声量で。
・・・左之助が臍を曲げてしまうのも無理はない。
「それにしても金平糖とは・・・どうして、これにしたのだ」
「だから、意味はねぇって言っただろ? ただ・・・何となく、だよ」
「そうか・・・しかしそんなことよりも、よく拙者の誕生日など知っていたものだと感心してしまった」
「なんだよ、そりゃぁ」
剣心は一度、左之助が道場に来たことを知らない。
そのことは左之助にはありがたかったのだが・・・妙に、
納得できない。
「・・・ヘッ」
鼻を鳴らし、しかめっ面をして見せた左之助。
が、剣心にはますますもって、愛らしい。
・・・恥じらっていることがよくわかる。
臍を曲げることも、本当は照れ臭くて、どのような反応をして良いのかわからず戸惑っているのだ。
純粋な・・・
「左之と、金平糖・・・か」
一粒手にして、左之助と金平糖を見比べる。
見比べつつ・・・
両者が、結びつかぬようでいて・・・結びつくような・・・
「きっと甘いだろうな・・・金平糖は・・・」
「あ? なぁに当たり前のことを言ってやがる」
こちらの言葉、すべてに棘を含ませる左之助が。
それでも愛しいと思えてしまうのは、なぜだろう。
そんな、自らの些細な思いを感じて剣心、薄く自嘲。
良いのだろうか、本当に・・・
これほど純粋な、汚れのない魂の傍らに自分のような・・・浅ましい者がいても。
まっすぐな心根の側に寄り添っていても・・・
「懐かしいな・・・金平糖、京都にいた頃はよく、目にしていた・・・」
ころり、ころりと手のひらで弄んだあと、剣心は唇へと放り込んだ。
甘い・・・甘い・・・
染み出すように、舌の上へと広がっていく。
口腔内へ、漂っていく。
惚けてしまいそうなほどの、甘い香りが・・・
ゆっくりと・・・包み込んでいくように、
溶けていく・・・
それは何かに、似ていた。
どこかで感じたことのある感触だった。
何だろう・・・?
忘れるわけがないのに・・・
「・・・左之助」
「ん?」
庭にはためく、眩いばかりの洗濯物。
風に身を委ねている彼等から視線を離し、左之助は赤毛を捉えた。
赤毛の人は、ゆるやかな微笑を浮かべていた。
「どうして左之が金平糖を選んだのか・・・わかったような気がする・・・」
枝先のような指が、金平糖をつまみ上げ。
左之助へと見えるようにスッ、差し出す。
「これは・・・左之だ。金平糖は左之助だ。この棘・・・まるで、左之の頭のようだ」
突然何を言い出すのだろう。
左之助はやや呆気にとられてしまったが、剣心の、頬を淡く染めた表情に瞳を奪われてしまう。
つい・・・
剣心の面差し、微動だにできず見つめてしまう。
差し込む陽の光に、肌が透く。
そのしざま、京人形のようにたおやかにして、しなやか。
「金平糖が左之だとすると・・・お主との出逢いは、古来からの縁であったのやもしれぬ。京都の・・・人斬りの頃から、金平糖は拙者の側にあった。付かず、離れず・・・。左之は、ずっと昔から拙者の側に居てくれたのだ・・・」
「剣心・・・?」
「甘くて・・・でも、少し固い・・・まるで左之助のような金平糖・・・。だが、拙者はその金平糖に甘えているような気がする・・・。口に含めば含むほど、甘味が増してくるようで・・・その甘味に頼り切っているような気がする・・・」
ガリッ。
奥歯を噛みしめたのは、故意であったのか。
狭間にあった金平糖、無惨に砕ける音がした。
・・・ふと。
剣心の表情が、翳った。
「拙者は・・・この甘さを手にして良いのでござろうか。この甘さに・・・無意識のうちに縋っている拙者を、許して良いのでござろうか・・・」
「剣心・・・?」
「拙者は、お主の側にいることが辛い。お主は・・・あまりに眩い。拙者とは違う。お主の魂に翳りはない。純粋な思いで満ちている。されど拙者は・・・」
もう一つ、金平糖を口にして・・・
「拙者のような者が、お主の側に居て良いはずが、ない。拙者は・・・どす黒い衣で身を焦がしている・・・」
「それは・・・おめぇ自身が決めたことだろ」
いつしか。
左之助の膝、畳を擦るように。
見上げた剣心の目と鼻の先に、いた。
「俺の側に居ていいはずがないだと? 馬鹿なことを言いやがる」
眉間にしわを刻み、左之助は毒を吐いた。
・・・真摯なる、怒り。
激烈にして静かなる怒りであることが、剣心には痛いほどわかった。
それだけに、苦笑にてすませてしまう自分がふと、物悲しい。
「おめぇが俺の側に、と言うがな。それは俺の台詞でもあらぁ。俺は、おめぇの側に居たい。ただそれだけだ」
「しかし・・・」
「四の五の抜かすな」
左之助の腕が伸びた。
あっ、と思った時には・・・
逞しい腕の下に、いた。
たちまち立ち上る、畳の香り・・・
「おめぇは理屈が多いんだよ。だからなんだってぇんだ? そんなことで側に居るだの、居ないだの、決めなくちゃならねぇのかよ?」
真上から顔を覗き込んでくる左之助。
顔を背けることも、逸らすこともできない。
が、直視することはあまりにも耐え難かった。
左之助の瞳は、夜空の星々を彷彿とさせて光り輝いている。
澄んでいて・・・眩い。
剣心は思わず、瞳を落とした。
「・・・少なくとも・・・拙者には、重要なことでござる」
「黙れ」
一寸、夥しい殺意。
目の覚めるような思いで瞳、開いた時には。
「ん・・・ッ」
薄い胸に渦巻く言葉など、
到底聞きたくはないのだと言わぬばかりに唇、自由を奪われていた。
つい、
渾身の力で両手を突っ撥ねた。
しかし、
膂力に関しては一枚も二枚も上手の左之助、細い両手首を捉えるなりダンッ、畳へと叩きつけた。
重なっていた唇、
衝撃とともによりいっそう深く交わってしまって剣心、胸の内で苦虫をつぶした。
されど・・・
心はともかく身体は、反応を示してしまう。
唇を解放された頃にはすっかり、弛緩してしまっていた。
抗いたくとも、力が出ぬ。
心地よい脱力感が、身を占めた。
「これでもまだ、おめぇは馬鹿なことを抜かすのかよ」
剣心の両手を握りしめ、しっかりと指を絡ませて。
左之助はそっと、苦渋の表情を浮かべている愛しい人へ、唇を降らせる。
「・・・けれど・・・左之・・・」
この胸を苛む疑問を掻き消そうと、彼は己が胸を貸してくれる。
熱い抱擁とともに、慈しんでくれる。
「自分」という人間を、包み込もうとしてくれる。
それは今までにない快感、今までにない至福の感覚。
でも、それが・・・
痛い。
痛くて、痛くて・・・
どうしてこんなに、痛むのだろう。
左之助に言葉を、言いたいことを言おうとするのだが喉が支え、思うように、言えない。
いや・・・言いたくないのか・・・?
・・・そんなことは、ない。
言わなければ・・・言わなければならない。
このままで良いはずがないから。
「拙者は・・・左之・・・」
「許さねぇよ・・・」
「え・・・?」
「それ以上のご託は、たくさんだ」
耳を塞いでしまいたい。
左之助の瞳が、訴えていた。
何が不満だというのだろう。
何が、そんなに剣心を苦しめているのか。
左之助にはさっぱり、理解できなかった。
慈しんでいるつもりだ。
心の底から想いを寄せ、常にぶつけているつもりだ。
知らないわけがない、わからないわけがない。
剣心が、理解できないわけがない。
全身を攻め立ててどうにもならない、この想いを。
「馬鹿な考えはやめろ。おめぇは・・・本能に従ってりゃぁ、いいんだよ」
「左之・・・」
半ばぶっきらぼうに言い放ち。
無骨な手のひら、眼下に広がる白磁の胸乳へ伸ばされる。
緩んだ着付け、懐より垣間見える麗しい肌。
神聖な代物のように感じさせるほどの・・・
「あっ」
あえやかな声が、天井を一瞬、貫いた。
胸乳に誇る華を探り当てられ、剣心はわずかに身を捩る。
「剣心・・・」
低く、脳髄が痺れるような声・・・
剣心は慌てて、麻痺していくことを恐れてしきりに頭を振る。
何かに捕らえられてしまうことから、逃れるように。
「左之・・・左之・・・」
湿り気を帯び始めた声音に、だが、多分に悲哀が滲み出していた。
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