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 辛い・・・辛い、
 辛くて、胸が痛い。
 左之助の腕に抱かれることは、かくも格別な瞬間であることは知っている。
 味わいすぎて、病に冒されたようで、
 もはや「左之助」がいなければ生きていけぬことも・・・知っている。
 この「温もり」なしでは、もう・・・
 それゆえに、

 辛い。

 彼の温もりが愛しすぎて・・・
 彼のやさしさに、慣れすぎて・・・

 いつまでも続いてくれれば・・・続いてほしい。
 続いて・・・

 ・・・続くわけが、ない・・・っ。

 「・・・左之・・・左之っ。左之は・・・どうして、拙者を求めるのでござるか・・・っ」
 「・・・何?」

 胸元をくつろげ袴を解き、貪るように唇を這わせていた左之助、聞き捨てならぬ台詞にむっくり、頭をもたげた。
 ・・・瞳が。異なる光を炯々と。

 「どうして、そんなことを訊くんだ」
 「拙者など・・・拙者など、年寄り同然でござる」

 鼓動が速く、呼吸が乱れ。
 剣心はうまく、言葉を発することが出来ない。
 滅多に表面化してこないはずの「感情」が荒ぶっているのだと、理性のどこかで認識しつつ。

 「また・・・また一つ、歳を経てしまった。左之助との距離は、一向に縮まぬ・・・縮むこともなければ、これ以上離れることもない・・・」
 「おめぇ、何を言って・・・」
 「お主ほどの男ならば、言い寄ってくれる女子はたくさんいるだろう? 拙者など・・・」

 「いい加減にしやがれッ!」

 左之助の右拳、空を斬ったその刹那が。剣心の網膜に、焼き付いた。
 一寸後、何かが炸裂した音、十字傷に激しい痛み。
 ・・・剣心は。
 唖然として左之助を見つめた。

 「馬鹿も休み休み言いやがれッ! さっきから何を、てめぇは頓狂なことを・・・」
 「左之、」
 「やかましいッ!」

 予兆もなく突然、狂い始めた火山のように。
 形相を修羅の如く染まらせて・・・豹変していた。
 怒髪天を衝く、まさしくその通りの。

 「何度、俺はおめぇを抱いてきたと思ってんだ? 数えられるかッ? 俺だって数えられるかよ、そんなもんッ。わからねぇぐらい、おめぇを抱いたんだからなッ」

 グッと。震える拳が剣心の襟を掴みあげた。
 組み敷かれていたはずの身体、微量に持ち上がり・・・
 眼前に。
 左之助の熱くたぎった瞳が剣心を、射た。

 「歳が縮まない? 女子だァ? 馬鹿野郎! 俺ァな、一度だっておめぇを『女』として抱いた覚えはねェぜ! 女が欲しけりゃぁ、それ相応の女を抱いてる! けどなァ、俺が欲しいのは、抱きたいって思うのは剣心、おめぇだけなんだよッ! おめぇだから抱きてェんだ! 散々言ってきただろッ? 剣心が欲しいんだよ! 歳なんざ関係あるかってンだ!」
 「・・・左・・・」
 「聞こえてないのかよ、俺の言葉が。何度も何度も、耳に蛸ができるぐれェ言っただろ、惚れてるって!惚れて惚れて、惚れ抜いてんのに、どうして歳の差を気にしなくちゃならねぇんだよ。女に目を向けなきゃならねぇッ? わかってねぇのかよ・・・俺の気持ちが、わからねぇのかッ!」

 「左之・・・」

 泣くのかと、思った。

 猛るばかりの怒りの中に、混ざり込んでいく痛烈な、悲しみ。
 肌を刺し、焦がして剣心は、身を滅ぼすような激痛に胸を押さえた。

 「左之・・・」

 左之助は、無言で顔を背けた。
 背けて、剣心から離れる。

 「・・・左之・・・」

 剣心の言葉を、視線を避けるようにして。
 左之助は背を向けて、あぐらを掻いた。

 空気、わななき・・・
 惡、一文字が。
 丸くなって声もなく、涙もなく。
 ただ、ただ、
 広い肩を落として・・・

 「・・・左之・・・っ」

 着物を掻き集め、剣心は身を起こした。
 己が心、悲哀と後悔で悲鳴を上げている。
 軋みを上げている。
 いたたまれぬ侘びしさに、剣心の心は砕かれそうだった。

 どうすればいいッ?
 どうすれば・・・こっちを向いてくれるだろう。
 何を、どう、すれば・・・?

 今までの思いが、剣心には止められなかった。
 限りなく沸き上がる不安に、つぶされそうだった。

 自分よりも若く、男気のある左之助。
 世の女性が、如何なる眼差しで彼を見ているのか知っている。
 知っているだけに、いつ、離れていくのか・・・怖くて・・・
 怖くて・・・!

 ・・・と。
 剣心の鼻腔が、吹き込んできた風にある、気配を覚えた。
 無意識のうちに、視線が外へ泳ぐ。

 雲が。
 黒い雲が。
 空の奥からもくもくと沸きいでて流れ込もうとしていた。
 つい今し方までの青空が、容易くも灰色の乱軍に支配されようとしていた。
 誰の目から見てもあれは雨雲であり、降雨からは逃れられないことを確信させた。

 そんな、剣心のわずかな意識の変化を敏感に感じ取ってのことだろうか。
 左之助、やおらすっくりと立ち上がり。

 「・・・洗濯物、入れてくらぁ」
 「あ、ならば拙者も・・・」
 「そんな形(なり)で、外へ出るもんじゃねぇ」

 ピシャリ、言い渡されて。
 剣心、二の句も告げず。

 左之助、中庭へと飛び出していった。

 「左之・・・」

 やりきれない想いが、
 切ない想いが、
 後から後から沸き上がってくる。
 真夏の空に昇る入道雲のように、果てなく無限に、大きく広がっていく。
 己が胸、狭い空域ではもはや、収容しきれぬほどに。

 「左之・・・左之・・・ッ」

 居ても立っても、いられない。
 身体が、熱い。

 如何なる想いなのか。
 如何なる、感情なのか。
 如何なる・・・

 ふと、眼差しを上げれば。
 既に雨は降り始めていた。
 小雨であったものが、次第に雨粒が大きくなっていく・・・。
 久しぶりに両腕を伸ばしていた木々の枝々を、
 精一杯背伸びをしていた花々を、
 雨粒は容赦なく叩きつけていく。
 その中を左之助が、必死になって洗濯物を取り込んでいた。
 目立つ体躯をしているのに、動きは驚くほど俊敏で。
 普段の倍以上もあったはずの洗濯物が、瞬く間のうちに取り込まれていく。
 縁側へ放り出しては、
 物干し台へ走り込み、
 物干し台より掴み取っては、
 縁側へと走り寄る。
 何度も、何度も同じ動作を繰り返し・・・
 泥を跳ねるほどになった雨の中を、
 自慢の髪をしおらせて左之助は、
 走った。

 「左之・・・ッ」

 剣心は、
 中庭へ飛び出した。

 彼が外へ躍り込んだときには。
 左之助はもう、洗濯物を取り込めていた。

 全身を、雨が穿つ。

 「左之・・・」

 左之助は、身支度も整えぬままに飛び出してきた剣心に背を向けた。
 振り向きたくは・・・ない。

 「左之・・・」

 頑なな彼の背に。
 剣心は、埋められぬほどの「傷」を知った。
 その傷は、自分が付けてしまったもの。
 彼の想いを・・・汚してしまった・・・

 「・・・すまぬ・・・」

 言うべく言葉もない。
 何を、どのように言えばいいのかなど・・・もう、わからない。
 剣心は、彼にゆっくりと歩み寄った。
 歩み寄って、面差しをしわくちゃにして、左之助の背中へ、埋めた。
 彼を抱きしめることすら許されないように思われて、顔だけを埋めた。

 ・・・雨が、冷たい。
 その冷たさが、左之助の心の温度のように思えて、剣心は弾け飛びそうだった。

 自分は、取り返しのつかないことをしてしまった・・・

 「・・・剣心・・・」

 ビクっ。
 画然、心の臓が跳ね上がる。

 「俺も・・・馬鹿だった。おめぇの気持ち、考えてなかった。おめぇがそんなに悩んでたなんて、知らなくてよ・・・悪かったよ、殴ったりして」

 声が。低い声が。
 背中を伝わって響いてくる。
 剣心は・・・黙って聞いていた。

 「俺は・・・少し、頭に血が上ってたのかも知れねぇ。最初はよ、俺のこんな気持ち、拒否されると思ってたから・・・それを覚悟して腹ン中ァ、ぶちまけて・・・。おめぇが受け止めてくれた時ァ、そりゃ、嬉しくてよ・・・」
 「左之・・・」
 「気がつかなかった、おめぇが・・・そんな気持ちでいたことなんざ。俺の想いが・・・届いてなかったなんてよ・・・」
 「それは・・・」
 「俺は本気だ、剣心。俺の気持ちに、嘘偽りはねぇ。俺はいつだって、本気なんだよ」

 左之助は、
 ようやく振り返った。
 驚いたように目を見張る剣心を、左之助は見つめた。
 乱されたままの、肌も露わな剣心を。
 雨に濡れる、剣心を。

 「おめぇはどうなんだ。俺に、本気じゃねぇのか? 本気じゃねぇから、歳の差だの気にするんじゃねぇのか?」
 「そんなことはないっ。拙者も・・・本気だ」
 「だったら、どうして気にする必要がある。・・・関係ないはずだ」
 「それは・・・」
 「惚れているからおめぇが欲しくなる。欲しくなるから抱く。そうだろ? おめぇだって、俺が欲しいだろ」
 「左之・・・」

 露骨な言葉に、剣心は羞恥で顔を真っ赤にさせた。
 普段ならからかう左之助だが、今はそんな気分にはなれない。
 それどころではなかった。

 「心の底では、俺を求めているんだろ。俺が欲しくてたまらねぇんだろ? そうでなきゃ、どうして金平糖を見て俺だと言える? 昔から見つめてくれていたんだって言える?」
 「あ・・・」
 「素直になれよ、剣心。余計なことは考えるな。理屈抜きで、おめぇはどうしたいんだ?」
 「素直に・・・」

 雨の中、二人で向かい合い。
 静かに左之助の言葉を胸に刻み込む。
 剣心は・・・唇を開いた。

 「・・・不安だった、ずっと。闇雲な不安に襲われて・・・いつか・・・左之助と別れる日が来るのではないかと。漠然とした不安に苛まれて・・・」
 「それは、俺の想いが足らないってことか?」
 「違う、そうではない。拙者と歳は離れているし、何よりお主は・・・いい男でござるから・・・女子達が離さぬだろう、いつ、拙者から離れてもおかしくはないと・・・」

 刀を握るとは思えぬ手が、半纏の襟を掴んだ。
 捨てられた幼子が縋り付くように、それは切実で・・・

 「拙者は、左之に想いを告げられて本当にうれしくて・・・今だって、身が張り裂けそうで・・・でも、恐ろしかった。左之にやさしくされればされるほど、別れの日が来た時、自分がどうなってしまうのか恐ろしくて・・・左之を殺してしまうかも知れないと思うと、そんな激情が身を巣くっているのかと思うと、恐ろしくて不安で・・・」
 「・・・馬鹿野郎が・・・っ」

 クイっ。
 剣心の頤、左之助の指に捻りあげられ。
 雨粒滴る唇へ、左之助は重ねた。
 ・・・吐息が。
 一寸刻みに絡み合い・・・

 「どうしたい・・・剣心。おめぇはどうしたいんだ。どうなれば、おめぇは満足する、不安じゃなくなる・・・?」
 「え・・・?」
 「聞かせろよ、本心を。おめぇの本音を。年齢なんざ、生い立ちなんざ関係ねぇ。肝心なのはおめぇの本心だ。・・・正直になってみねぇ」

 ・・・正直に?
 年齢など気にせず・・・いや、忘れて・・・
 今まで生きてきたこと、しがらみを一切捨てて・・・

 「拙者の、本心・・・」

 それは・・・

 「・・・左之・・・っ」

 己が腕、左之助へと伸べ。
 胸乳へ手のひら、這わせた。
 雨粒に滴る肌を滑り、脇腹を掠めて身を寄せて。
 ・・・剣心は。
 四肢を鋼の肉体へ絡めた。

 「拙者は・・・許される限り、お主の側に居たい。お主に・・・」

 最後の言葉は、掠れてしまって聞き取りにくく。
 が。
 耳朶を寄せるようにしていた左之助には、しっかりと聞こえていた。

 「・・・お主に、溺れたい・・・」

 ・・・左之助は。
 詰まる想いを耐えきれずにそのまま、剣心を抱きすくめた。
 丈のある背を折り曲げ、きつく、きつく・・・小さな身体を抱きすくめた。
 雫の滴る耳朶へ、唇を寄せて。

 「あぁ、いいぜ。思う存分、俺に溺れろよ。俺だって、おめぇに溺れて窒息しそうなんだからよ」
 「左、之・・・」
 「思う存分、縋りゃぁいいさ。菓子の金平糖より、生身の金平糖の方が何倍も甘いぜ」

 ・・・柔らかな微笑は。
 不敵なものへと変貌する。
 剣心は刻銘に、その様を瞳へ記録した。

 「それにな、食い物には食べ頃ってもんがある。生身の金平糖は、今が食べ頃だぜ?」
 「さ、左之っ」

 吐息に混ぜ込むようにして囁かれ、剣心の身体は力を消失していく。
 左之助は心地よいほどの彼の重みに、小さな肩へ唇を埋めながらほくそ笑んだ。

 「左・・・」
 「黙ってろ」

 ・・・果たして、何度目の口づけなのか。
 有無を言わさぬ威圧に言葉を飲んだと同時、剣心の唇は左之助の唇に重なって。

 「んっ」

 その、著しく熱を帯びた唇に剣心、驚きながらも肌、あい崩れ。
 指先に力を込め、半纏の襟を引きちぎらんばかりに。

 唇の合間から・・・
 雨粒が染み込んでくる。
 それは、褥で交わされる睦言よろしく、口づけよろしく・・・淫らな味がした。

 執拗なまでの口づけに、剣心は意識をつなぎ止めることがやっと。
 口腔内で荒れ狂う左之助の情熱に翻弄され、剣心には為す術もなく。
 流れ、漂わされて唇離れる頃・・・剣心、左之助の胸乳へと頬を突っ伏してしまった。

 「剣心・・・」

 雨音が、激しい。
 声が、よく聞こえない。
 剣心が黙っていると、左之助はなおも語りかけてくる。

 「嬢ちゃん達が稽古ってこたぁ・・・風呂、沸いてンな?」

 身体が、過剰な反応を示した。
 腕の中で震えた剣心の身体を抱きすくめ、左之助は思いの外、察知のよい情人に快さを覚える。

 「これ以上、おめぇを雨にさらしたくはねぇ。風呂ォ、行くぜ」

 左之助の、声音に多分に含まれる激情の凄まじさを想像して剣心、ますます顔を突っ伏してしまい・・・

 雨はまだ、止みそうにはない。

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