二日目も、目を覆うばかりの晴天となった。
未だ寒さも厳しいはずだというのに、縁側へ腰掛けていると、春も半ばになったのではないかと思えるほどの陽気。
剣心は縁側へ座り込んで、ぼんやりしていた。
彼にしては、珍しい姿である。
神谷家での本来の姿は、四六時中家事にいそしむ姿なのであるが・・・
「どうかしら、剣心! 真っ白?」
どういう風の吹き回しか、薫が洗濯をしている。
「あぁ、真っ白でござるよ、薫殿」
にこやかに微笑んで返答すれば、薫は心底、嬉しそうに笑う。
「今日はとてもいいお天気だから、きっと洗濯物も乾くわね!」
指先に走るあかぎれなど何のその、薫は手際よく物干し台へと洗濯物をかけていく。
「・・・どういうことだよ、剣心」
その様を、弥彦も見つめていたのだが彼の表情、天空の青空とは裏腹に、曇り一色となっている。
「薫が洗濯をしてやがる・・・。明日は雨じゃねぇだろうな」
「さあて、それはどうでござるかな。拙者には何とも・・・」
弥彦は剣心の側へと腰を下ろすと、両脚を投げ出した。
「まぁ・・・いわゆる姫糊初めでござるからなぁ。自分でやってしまわねば、気が済まぬのでござろう」
剣心の、何気なく言った言葉に弥彦、小さく首を傾げる。
「ヒメ・・・何だ?」
「姫糊初めでござるよ。女子が新年に初めて洗濯をすることでござる」
「ふーん・・・」
それきり、弥彦は何も言わなかった。さしあたって、疑問は解消されたのだろう。じっと、薫の一挙手一投足に視線を送っている。
剣心もまた、弥彦同様に視線を送っていたのだが・・・
表情は、浮かない。
「姫糊初め、か・・・」
弥彦にはあのように説明をしたが、実はこの言葉、漢字は違えど様々な意味合いを要している。
無論、剣心にはそれらの意味合いについて、彼に説明するつもりは毛頭ない。
時が来ればわかることを、剣心は自ずとわかっているからだ。
「秘め、初・・・め・・・」
自ら欲する意味合いとして呟いてみたとき、剣心の胸に湧き起こってくる人物の存在。
危うく口に出しそうになって、剣心は慌てて唇を引き結ぶ。
幸い、弥彦の視線は薫に向けられたまま。
剣心の微妙な変化を気取るほど、弥彦はまだ成長していないとは思えど、時として大人顔負けの鋭い洞察力を発揮する。
「ふぅ・・・」
剣心は小さく、息を吐く。
・・・昨日から。
実はあまり、眠っていなかった。
あの時・・・左之助を送り出してから。
おせち料理を食べ終えて、すっかり満足した薫と弥彦は、それぞれが寝正月を決め込んだ。弥彦としては稽古をしたかったのだが、初詣のために普段よりも早起きをしたこともあり、肉体が睡眠を欲していた。
ゆえに、二人はそのままこっとり、眠ってしまったのである。
残された剣心は、ただただ呆けたように私室にこもっていた。
眠るわけでもなく・・・読書をするわけでもない・・・ただ、呆けたように・・・
・・・否、持て余していた。
熱を宿してしまった己が肉体を。
救えぬ、逃げぬ熱のやり場にほとほと困ってしまった。
どうするべきか、剣心にはわからぬ。
いっそ、己自身で慰めてしまおうかとも考えた。
が・・・それは、どうしても許されない行為のように思えた。
左之助の、自分に対する想いは痛いほどに嬉しかった。
仏すら信じぬあの男が、出所の知れぬ迷信を信じたいと豪語した。
この・・・自分のために。
「迷信・・・か・・・」
ふっ・・・と。剣心は眼差しを落とす。
左之助の言う、「迷信」。それは、年明け早々に契りを結んでしまうと、老け込みが早くなる、というものだった。
だからといって・・・
「この身体を、どうせよと・・・ッ」
結局、剣心はそのまま夜を迎え、まんじりと眠れずに夜を明かし。
気が付けば。
洗濯にいそしむ薫の姿を眺めながら縁側にて呆けている。
「剣心! もうすぐ終わるから、終わったらお茶にしましょう」
「ああ・・・」
「お茶は私が入れるからね、そこに座っててね、剣心」
晴れ晴れとした笑顔を向けられて、反射的に剣心、微笑み返す。
傍ら、
「・・・薫じゃねェ」
複雑な表情とやや毒を含んだ口調で、弥彦が呟いた。
「・・・こういうのも、悪くはない・・・」
小さく呟き、剣心は薫の動きを見つめ続ける。
自分の大切な人・・・薫。
この忌まわしい過去を持つ自分を求めて必要としてくれて・・・受け入れてくれた、女性。
自分に帰る家を与えてくれた女性・・・。
自分でも気づかぬうちに、薫という女性が心の奥深く、根を張ってもう、抜け出せない。
守ってあげたいと、心底願う人・・・。
・・・左之助とは違う場所に存在する、大切な人・・・。
では・・・
左之助は・・・?
「・・・手放せぬ者・・・自分にはないすべてのものを所有して・・・かつ、この生き方を・・・過去も現在も、すべてを受け止めてくれた人・・・。否定も肯定もせず受け止めて、寄り添って・・・背を預け、預けられ・・・何もかもを、委ねられる人・・・」
「・・・剣心・・・?」
弥彦は、先ほどから何か、剣心がぶつぶつ言っていることに気づいていた。しかし、何を言っているのかが全く聞き取れない。
でも、その表情は悲観的なものではなかった。
彼の表情に広がっていたものは、かつてないほど穏やかな面差し。
人に見せるための笑顔ではなく、誰かに微笑みかける笑顔ではなく。
それは自分自身への笑顔ではないかと、弥彦は朧ながらにそう思った。
「さぁ、これで洗濯物は終わりっと! 剣心、弥彦! お茶にしましょう」
薫の張りのある声が、剣心と弥彦へ飛んだ。
・・・剣心の胸の内など誰一人知る者はなく・・・
時は無情に過ぎ去っていった。
ハッと気づけば、暮れ六ツ。
この時を待っていたかのように、どこかに身を潜めていたのではないかと思えるほどに、左之助は悠然と姿を現した。
「おぅ、邪魔するぜェ」
折しも、神谷家は夕餉の支度が整ったところ。
「まったく・・・あんたって人は、嗅ぎつけたように現れるわね」
薫、思わず呆れたようにため息を吐きながら左之助を見遣った。合わせるように、弥彦も言葉を継ぐ。
「薫、そりゃ当たり前だぜ。こいつの鼻は犬より勝ってるからな」
「・・・こら。俺を畜生と一緒にすんなっ」
と、ポカリ、弥彦の頭に軽く拳。
「へっ、本当のことだろ」
弥彦、頭を撫でながらも決してめげない。左之助、やれやれとどっかり、腰を下ろした。
「ん〜? 剣心は?」
「お茶の支度をしてるから、すぐに来るわよ」
「へぇ、そうかい。んじゃ、先に食って・・・」
左之助、伸ばした箸をピタリと止めた。開きかけた唇が、緩やかに青く染まっていく。
「・・・おい、嬢ちゃん」
「何?」
「昨日の残りモン・・・おせちってのは、まぁ、いいとすらァ。けどよぅ、この黒豆・・・」
「そうよ、私が作った黒豆」
「・・・伊達巻き・・・」
「それは私が今日、作ったの! 食べてみて」
「・・・五万米・・・」
「もちろん私よ」
「・・・里芋・・・」
「その煮物にはちょっと、自信があるかな」
一つずつ、丁寧に左之助は尋ねていったのだが、どこをどう聞いても、「剣心が作ったの」という台詞が出てこない。
これは、もしや・・・
「なぁ、嬢ちゃん。ひょっとして・・・」
「そう。私が作ったものしか、残ってないの」
ビシっ。
・・・何かが左之助の心を縛り付けた。箸を握ったままの、伸ばしたままの手が先ほどから微動だにしていない。
額に、脂汗が滲んだ。
「へぇ・・・嬢ちゃんが作ったモン・・・ばっかり、かぁ・・・」
「そうよ! さあさあ、召し上がれ」
「召し上がれって・・・」
「・・・・・・左之助」
「・・・何だよ」
「まさか、私が作ったものは食べられない、というんじゃ、ないでしょうねッ?」
顔は笑っているが、瞳は決して笑ってなどいない。左之助、ついついたじろぐ。
「弥彦は食べてくれているわよ。ねぇ、弥彦?」
薫に言葉を投げられ、弥彦は答える。
「おぅ。マズイが食えねぇことはねェ」
「一言多いっ」
・・・居候の身であるからして、弥彦は黙々と食べているのだろう。
だが、自分は居候の身ではない。無理に食べることは・・・
「何を剣呑に争っているのでござるか?」
スルリと障子を開き、ようやく剣心が姿を現した。
左之助を見た瞬間、剣心の瞳の奥でチラリ、光がわずかに輝いた。
それを無論、左之助が見逃すはずがないのだが、状況は決して甘美なものではない。
「左之助がね、残り物がすべて私が作ったものと知って、食べてくれないのよ」
薫、ややふくれっ面で剣心に申し立てた。
「おろろ。それはいけないでござるよ、左之。他家の敷居を跨いでお邪魔した限りは、相手側の持てなしに、失礼を働いてはならぬよ」
剣心にやんわりと窘められると、もはや左之助、言い返すことなどできない。
表情に諦めの色が浮かんだ。
「・・・わかった。食うよ」
「さすがは左之助。遠慮なくいただくでござるよ」
この時ばかりは剣心を恨めしく思ったが、左之助も男である、腹を括って目の前に広がる、おせちへと箸を伸ばした。
でも・・・
左之助の注意はもう、不味いであろう料理のことになく。
向かい側に腰を落とした剣心へと、視線を向けていた。
自分の視線に気づいているのか、どうか。
剣心は全く、左之助の方を見ようともしない。
いや・・・気づいているからこそ、見られないのか・・・?
見られない・・・それは・・・
「・・・ふぅん・・・なるほどね・・・」
「何か言った、左之助?」
「いや、何でもねぇよ」
薫にニッと笑いかけ、左之助は口一杯に料理を頬張った。
何という、視線を投げてくるのだろう。
夕餉を終え、剣心は片づけに没頭しながら震える胸を辛うじて抑えていた。
食事の間中、左之助は決して、自分から目を離そうとはしなかった。
痛いほどの、眼差し。
この一挙手一投足を、瞳の動きや唇の動き、指先に至る些細なことまで左之助が、追いかけていたことを知っていた。
火傷するような、眼差し。
「あの・・・戯け、が・・・ッ」
ぶるりと。爪先から頭の天辺へと悪寒が抜ける。
寒さの・・・ためではない、これは・・・
「くっ・・・左之助、め・・・っ」
それは薄くも、憎悪のこもった一言。
知っている・・・知っている・・・あの眼差しの意味するところ・・・
眼差しに秘められた、左之助の・・・
・・・左之助の、想い。
想いの、中の・・・
「左、之・・・っ」
食事の間中、剣心には絶えず聞こえていた。
左之助の睦言が・・・射るような眼差しの中の、鋭くも甘美な・・・
「はあ・・・左之っ」
とうとう、
膝から力が抜けた。
ガックリと弛緩して、土間に座り込んでしまう。
「あっ、ちょ、剣心ッ? どうしたのよっ」
運が良いのか悪いのか、厨に薫が姿を見せた。
彼女は慌てて土間へと降り、剣心へと駆け寄る。
「大丈夫? 剣心?」
「あっ、か、薫殿っ」
薫の気配にすら、気づかなかった。
剣心は自らの隙を心底恥じながら、慌てて立ち上がる。
「だ、大丈夫でござるよ。申し訳ござらん、まだ片づけが・・・」
「もういいわよ、剣心っ。それよりももう、休んだら? ここは私がやるから」
「しかし・・・」
「もうすぐ左之助が湯から上がってくる頃だから。剣心も湯に浸かって、あったかくして眠っちゃいなさいな。ね、剣心?」
「薫殿・・・」
なおも言いかけた剣心を、薫は首を振って否とする。つぶらな瞳を彩る眉を顰めて、彼女は眼差しを潤ませた。
「・・・遠慮はダメ、無理もダメ。お願いだから、剣心・・・」
薫の両手が、剣心の懐へ添えられた。・・・指先が、にわかに震えている。
剣心はクスリと微笑んだ。
「・・・申し訳ない、薫殿。では、拙者は・・・」
「うん。ゆっくり休んでね、剣心」
この時ばかりは・・・さしもの剣心も胸が痛んだ。薫の満面の笑みに、心が悲鳴を上げる。
けれど・・・内面とは裏腹に、同様な笑みを浮かべて見せて安心させようとする剣心が、そこにはいた。
複雑な、思いだった。
剣心は、心に抱いている想いの存在にとっくに気づいている。
己が私室へ入り、湯浴みをすべく支度を整えながら剣心は考える。
薫への想いと・・・左之助への想いと・・・
「・・・拙者は、こんなにも・・・」
独りごちて、
唇を結ぶ。
言葉に出してはならない。
言葉という形にしてしまっては、きっと・・・とりかえしのつかないことになる・・・。
両手に寝間着を抱えて、剣心は私室を出た。
湯殿へ向かっていると、ちょうど脱衣所から左之助が出てきた。
ドックン。
心の臓が軋んだ。
「よぉ、剣心も風呂か?」
「あ、あぁ・・・。今、出たのか?」
わかりきったことを、なぜに問う。己が愚かしさを嘆きながら、剣心は左之助を直視できず、やや俯いてそう言った。
「いい湯加減だったぜェ! おめぇも早いとこ、あったまってきな」
「あぁ・・・」
剣心、意を決して一歩を踏み出した、拍子に。
左之助が冷然と。
「・・・今日ばかりは、念入りに肌ァ、磨いてこいよ」
両肩が震えたことを、剣心は隠し通せず。押し黙ったまま・・・
左之助は。身体を折り曲げて彼の耳朶、唇を寄せた。
「俺の身体、どこもかしこも、おめぇのすべてを欲しがってる・・・待ち遠しいぜェ・・・」
「左・・・」
「俺もよ、今日ばかりは身体の隅々まで洗ったぜ。おめぇにねぶられてェからな・・・」
「ぁ・・・」
剣心、思わず唇を押さえたが左之助はやめない。
「おめぇの肌と雫でまみれてェ・・・唇、貪りてェよ・・・」
「や、め・・・左之・・・ッ」
右手が左之助を振り払おうとひゅるりと伸びた。
ひょいっ
見透かしていたかのように、左之助は交わし。
「ハハハ、まぁ、ゆっくり湯に浸かってくるこった。また後でなぁ、剣心」
ニヤリと唇だけで笑い、左之助はあっさり背を向けて姿を消した。
剣心はそんな彼を見送ることなど到底、できなかった。
慌てふためいて脱衣所へと駆け込み、慌ただしく着物を脱ぎ去ると湯殿へ入るなり、桶を掴んで湯をバシャバシャと全身に浴びせた。
身体が、すっかり上気していた。
おそらく、耳の先端まで赤くなっていることだろう。
「あぁ、拙者は、何という・・・何という・・・ッ」
つい先ほどまで。
胸を苛んでいたはずの、薫への想いなど忽然と消えていた。
烈火の如く荒れ狂っているのは、
「左之助・・・ッ」
いつもの、言葉嬲り・・・ただ、それだけのはずだった。
はずだったのに、何たるこの身体、何たるこの、想い。
灰燼と化すのではと危惧するほどに、狂おしいほどの情熱。
・・・眩暈が、するっ。
「左之、左之、左之助・・・っ」
求めている、求めているのだ、この身体と心は。
理由などない、闇雲に欲しがっている、あの男をッ。
そうとも・・・理由など、ないのだ。ないのだから、仕方がないっ。
薫に反応する心と、
左之助に反応する心と、
どちらも強く認識して、大切に抱いている。
反応の仕方は激しく違うが、どちらも平等に想っている。
けれど・・・けれどこれは、都合がよいというのだ、世間では。
都合の良い男だと、都合の良い人間だというのだ!
「卑怯者だと言うのだ、拙者のような人間はッ。なのに、なのに拙者はこんなにも・・・ッ」
身体を見れば、一目瞭然だった。
男たる象徴が、剣心たる部位が、あからさまな反応を自己へ見せつけている。
剣心の想いを煽り、かつ、奈落の底へ叩き込む光景だった。
「・・・拙者は・・・いい加減な人間だ・・・。いい加減な人間だと、卑怯者だとわかっているのに、左之助を求めるこの想いを、止めることができぬ・・・」
やりきれなさと、切なさと、愚かしさと。
混濁した感情が入り交じってくる。
二十と八、生きてはきたが、これほど心の中が荒れ狂うことは初めてだった。
「左之・・・左之ッ。拙者を・・・拙者を、壊してくれ・・・ッ」
グッと己を掻き抱いて。
剣心は唇を噛みしめた。
湯から上がると、屋敷は既に雨戸を閉めていた。
夜を迎える準備は整っているということだが・・・あまりに早い。この短時間に雨戸を閉められるなどと・・・
剣心、私室へ入る前にまず、居間へと顔を見せてみた。
案の定、薫がいた。
「薫殿、もう雨戸を閉めたのでござるか? 待っていてくれれば、拙者が閉めたものを」
「ううん、いいのよ。剣心、体調があまり良くないんでしょ? 早く休むといいわ。それに、雨戸は左之助も手伝ってくれたから、早く片づいちゃったの」
ニッコリと笑って、薫は火鉢の火を始末する。
「左之助が・・・?」
「えぇ。こんな寒い日は、早く眠ってしまうに限るって」
「・・・そうか・・・」
「さあ! 剣心も部屋に戻って。もう休みましょう」
「あ、あぁ・・・おやすみでござる、薫殿」
・・・そして、
居間から出たときには、もう、剣心の脳裏から薫は消えていて。
― ・・・剣心・・・
頭の奥で、自分を呼ぶ声がする。
剣心は、ゆっくりと・・・一歩を踏みしめながら私室へ向かう。
普段はさほどに思わぬ距離が、果てなきものに思われた。
・・・部屋には、左之助がいる。
心の臓が、早くも早鐘を打ち鳴らし始める。
ギシ、ギシ・・・
廊下の微かな軋みが、無音の中に響く。
ギシ、ギシ、ギシ・・・
重なるように、
ドクン、ドクン、ドクン・・・
鼓動が、ざわめく。
・・・部屋からは、灯りが洩れていた。
きっと、左之助が行灯に火を入れてくれたのだろう。
剣心、障子に手をかけた。
・・・少しの・・・逡巡。そして、
ス・・・。
障子を開けた。
けれど、決心は定まらない。顔を上げることができない。
そのまま敷居を跨ぎ、パタリ。後ろ手に閉めて。
ゆっくりと・・・顔を、視線を上げた。
「あ・・・」
わずかに声を洩らしたのは、目の前に一式の布団が用意されてあったから。
無論のこと、
枕は二つ。
だが・・・
「・・・左之・・・?」
いるはずの、男がいない。
剣心、思わず視線を泳がそうとしたその刹那、
背後に、気配を覚えた。
「!」
振り返ろうとしたが、遅かった。
「あッ」
背中から、やにわに両腕が絡みついた。
あまりの圧迫感に剣心、声を失った。
「剣心・・・」
「うッ」
耳朶に、ことのほか掠れたような声音で囁かれる。それは紛れもなく、左之助の声・・・
「俺の気配にも気づかなかったか・・・? それだけ・・・興奮してるってェことか・・・」
「左・・・っ」
左之助の腕が、くるりと剣心の身体を回転させた。
目の前に、黒曜石の瞳が飛び込んでくる。
「んっ、ンン・・・っ」
言葉をこぼす余裕など、隙間などない。左之助の唇が荒々しく剣心の唇を割り開き、濡れた舌先を潜り込ませた。
「むぅ・・・んッ」
抗う暇すらなかった。
否を叫ぶ一瞬の時さえも。
いや・・・もう、先刻から・・・昨日、左之助と別れたあの瞬間から、剣心には「否」を叫ぶ意思は微塵もなかった。
荒ぶる魂そのもののように、左之助は膂力のままに剣心の身体を抱きすくめる。
右手で彼の小さな頭部を固定し、逃れられぬように。
左手は彼の細腰に絡みつき、なおも己へと引きつける。
剣心、呼吸すらままならぬ。
「左ぁ・・・ッ」
名も、呼べぬ。
喘ぐことも、悶えることも、何も。
ただ・・・剣心は彼の背中へと両手を回すのみ・・・
しがみついた。
そして気づいたのだ。
この男・・・既に全裸・・・ッ?
「んっ、むッ、ふぅん・・・」
鼻にかかった息づかい。
閉じられている瞳。
眉間に薄く刻まれた、しわ。
その一部始終を、左之助は瞳をカッと見開いて見定めている。
剣心の身体は、燃えるように熱かった。
それは何も、湯上がりだからという理由だけではないような気がする。
自分に縋り付こうとする彼を愛しく思いながら、左之助はなおも唇を貪り続けた。
「あ、左之、ま・・・待って・・・」
・・・ようやく。
唇に隙間ができたことを幸い、剣心は絶え絶えになりながら左之助に言う。
「まだ・・・まだ、早い・・・まだ、薫殿や、弥彦が、起きて・・・」
「関係ねぇ」
ぞんざいに、左之助の右手が剣心の懐へ滑り込んだ。
「ひぅ・・・」
唇を噛みしめ、慌てて声を止める。
「さっきの俺の言葉、覚えてねぇのかよ・・・? もう一度、言ってやってもいいんだぜ・・・」
「左、左之・・・っ」
「俺は・・・おめぇの肌と雫でまみれてぇんだよ・・・」
画然、左之助の左手が剣心の裾を割り開き、息づき始めていた高ぶりを手のひらに包み込んだ。
「あぁ、左之、駄目・・・ッ」
「何でェ・・・おめぇもすっかりその気じゃねぇか・・・だったら焦らす必要、ねぇだろが」
「だから、まだ、起きて・・・」
「おめぇが声を出さなきゃいいのよ」
「そ、そんな馬鹿な・・・」
「俺だっておめぇの声が聞きてぇが・・・なぁに、心配はいらねぇよ。夜はまだまだこれからだもんなぁ。今は啼けなくとも、あとで思いっきり啼けらァな。・・・お楽しみはあとで、てな」
「左之・・・ッ」
「ごたごた抜かしてっと、手加減、してやらねぇぞ」
「・・・うっ・・・」
絶句してしまい、剣心は顔を伏せる。けれど・・・けれど、そんな左之助の言葉に嬉しさを噛みしめている自分がいることを、剣心は気づいていた。
この男は・・・この男は、自分の中に潜む理不尽さを壊してくれる・・・
そんな、淡い期待を抱いていた。
「左之、左之・・・っ」
剣心は再び左之助に縋っていく。はだけてしまった己が姿態など目もくれずに。
「・・・来い・・・左之っ」
艶を刷いた瞳に、左之助は背中に悪寒を走らせた。
快なる、悪寒だった。
「剣心・・・っ」
左之助、剣心の帯を解き。
そのまま褥へと崩れ込む。
「あっ・・・あぁ・・・」
ため息のように声を洩らして、剣心は左之助を抱きすくめる。
左之助は己が手のひらを彼の右頬へ当て、ざらりと赤い鬢を掻き上げる。
項が、こぼれた。
無意識に、武者震いしていた。
「あぁ・・・これだぜ・・・どんだけ、拝みたかったか・・・ッ」
歓喜に打ち震え、左之助は喉を鳴らした。
ぼんやりと。行灯の中に浮かび上がる白磁の項。わずかな後れ毛が、左之助の呼吸にゆらり・・・ゆらりと反応している。
「剣心・・・ッ」
剣心の耳朶の裏、左之助の唇が落ちた。
「んっ、くうぅ・・・ッ」
首筋を、肩口を蠢く左之助の唇に剣心は、沸き上がる声をどうすることもできない。彼を抱きすくめていたはずの両手は、いつしか己の唇を押さえ込む役割と成り果て。
それらを知っていながら、左之助は愛撫をやめない。
唇が、舌先が、得も言われぬ感触を伴って肌を縦横無尽に這い回る。
「うぅ・・・む、ン・・・っ」
息を止め、唇を噛み、剣心は必死になって声を抑えようと躍起になる。だが、必死になればなるほど、身の内側には荒れ狂うばかりの情熱が猛っていく。
情熱・・・欲情が・・・快感が。
「剣心・・・剣心っ・・・」
唸るような、吐息のような声が、剣心の肌を彷徨う。その声のすべてが自分に注がれているのだと思うと、剣心の胸はたまらなく締め付けられる。
「左之・・・左之・・・っ」
華奢な身体からゆっくりと、力が抜けていく。強張っていた、若木のようなしなやかさから、つきたての餅を丸めたときのような、何とも言えぬ柔らかさへと変わっていく。
手のひらの中で、重なった肌の下で如実な変化を遂げていく剣心に、左之助の心はどんどん、傾向していく。どこにも逃がさぬように腕に巻き込み、胸乳に滲む紅色の蕾へ唇、寄せた。
「あっ、左之・・・ッ」
色の声が、冷たい空を斬った。
左之助の唇より、唾液が滴る。
「左之・・・くぅ・・・ン、ぁ」
両膝を立てれば自然、身体の中央には左之助が陣取る形となる。
が、剣心はもはやそれどころではない。足の親指に力を込めて褥を突っ張り、左之助の背に爪を立てて快楽に堪えようとする。
「剣心・・・剣心、堪えンな・・・声、聞きてェ・・・」
「バ、カ・・・ッ。そんなこと、したら・・・」
「構わねェ・・・構うもんかよ。俺ァ・・・聞きてェんだよ・・・」
「無茶を、言う・・・な、あぁ・・・」
隙間の空いた桶のように、艶やかな唇からは声がこぼれる。
どれほど唇を閉ざそうとしても、抜け穴を知っているかの如く、溢れてくるのだ。
どうしようもない。
それでも、堪えねば。
苦悶の表情を浮かべつつも、剣心の意識は己が声のみに集中される。
ゆえに、
左之助の行動に、気づかなかった。
「剣心・・・」
「あっ」
声の波動は、剣心をあっけなく頂点へ誘おうとした。それを、寸前のところで左之助の手が止める。
「な、何を、して・・・」
おずおずと、剣心は己が下腹部へと視線を走らせる。
左之助は、褥に寝そべるようにして剣心の、内股へと顔を埋めていた。無論、その奥にはすっかり息づいてしまった高ぶりがある。
彼は薄笑みを浮かべながら、手中へと剣心の高ぶりを納めていた。
「・・・っ」
あまりの光景に、剣心は声を失った。陽炎のように、その場面が儚く揺れ動く。
「すげぇ・・・な、これ・・・」
左之助、微睡むようにそう言って。
業火のような赤い口腔へと、剣心を飲み込んでいった。
「・・・ッ」
キュッと。思わず目を閉じた。
ぬるやかな壺の中に、身を投じているかのようで。
剣心は、腹の底から息を吐いた。
喉の奥までしっかり迎え入れた左之助は、彼の反応に気をよくしながら舌を絡めていく・・・
「ふぅ・・・ン、はああぁ・・・」
吐息と喘ぎとがない交ぜになったかのような・・・
切なげな、儚げな、そんな呼吸を。
剣心は・・・薄く、瞳を開けた。
「!」
じっ・・・と。
瞬きもせずに。
闇の中、忽然と双眸が浮かび上がっていた。
左之助の、両眼だった。
「左ぁ・・・」
見られている。
今の自分を逐一洩らさず・・・この顔を、動きを、反応のすべてを見られている・・・ッ!
じっと・・・視線を逸らさずに、見ている・・・見られて・・・っ
「うぅ・・・ぁ」
音が・・・響いていた。
決して耳慣れぬ音が、左之助の唇より発している。
「左之・・・左之っ」
瞳が笑っているように見えた。錯覚か、それとも・・・
「んっ、ふっ、左之、左之っ」
褥を掴んでいたはずの指先が左之助の、髪を掴み、
褥に擦りつけていたはずの臀部がわずかに浮いて、左之助に向かって押しつけた。
「あぁ、左之・・・もっと、もっ・・・ッ」
赤毛が、鮮烈に舞い。
青い瞳が左之助を捉え続け・・・
唇、湿り。
「ふぅん・・・あ・・・ッ」
鼻にかかるような、吐息。
剣心の脳裏は、ちらりちらりと白熱した光が弾け始めていた。
もうすぐ・・・もうすぐで、一線を越え・・・ッ
「!」
左之助の動きが画然、止まった。
何事かと、剣心の思考が呆けたわずかな一瞬、左之助は素早く身を起こして行灯の明かり、吹き消した。
「左・・・」
彼を呼ぼうとすると、左之助は剣心の唇を塞いだ。
何かが、おかしい。
ようやく、剣心のとろけた思考の中にこの疑問が浮かんだ時だった。
「・・・剣心・・・?」
それは、薫の声だった。