[   2   ]

 二日目も、目を覆うばかりの晴天となった。
 未だ寒さも厳しいはずだというのに、縁側へ腰掛けていると、春も半ばになったのではないかと思えるほどの陽気。
 剣心は縁側へ座り込んで、ぼんやりしていた。
 彼にしては、珍しい姿である。
 神谷家での本来の姿は、四六時中家事にいそしむ姿なのであるが・・・
 「どうかしら、剣心! 真っ白?」
 どういう風の吹き回しか、薫が洗濯をしている。
 「あぁ、真っ白でござるよ、薫殿」
 にこやかに微笑んで返答すれば、薫は心底、嬉しそうに笑う。
 「今日はとてもいいお天気だから、きっと洗濯物も乾くわね!」
 指先に走るあかぎれなど何のその、薫は手際よく物干し台へと洗濯物をかけていく。
 「・・・どういうことだよ、剣心」
 その様を、弥彦も見つめていたのだが彼の表情、天空の青空とは裏腹に、曇り一色となっている。
 「薫が洗濯をしてやがる・・・。明日は雨じゃねぇだろうな」
 「さあて、それはどうでござるかな。拙者には何とも・・・」
 弥彦は剣心の側へと腰を下ろすと、両脚を投げ出した。
 「まぁ・・・いわゆる姫糊初めでござるからなぁ。自分でやってしまわねば、気が済まぬのでござろう」
 剣心の、何気なく言った言葉に弥彦、小さく首を傾げる。
 「ヒメ・・・何だ?」
 「姫糊初めでござるよ。女子が新年に初めて洗濯をすることでござる」
 「ふーん・・・」
 それきり、弥彦は何も言わなかった。さしあたって、疑問は解消されたのだろう。じっと、薫の一挙手一投足に視線を送っている。
 剣心もまた、弥彦同様に視線を送っていたのだが・・・
 表情は、浮かない。
 「姫糊初め、か・・・」
 弥彦にはあのように説明をしたが、実はこの言葉、漢字は違えど様々な意味合いを要している。
 無論、剣心にはそれらの意味合いについて、彼に説明するつもりは毛頭ない。
 時が来ればわかることを、剣心は自ずとわかっているからだ。
 「秘め、初・・・め・・・」
 自ら欲する意味合いとして呟いてみたとき、剣心の胸に湧き起こってくる人物の存在。
 危うく口に出しそうになって、剣心は慌てて唇を引き結ぶ。
 幸い、弥彦の視線は薫に向けられたまま。
 剣心の微妙な変化を気取るほど、弥彦はまだ成長していないとは思えど、時として大人顔負けの鋭い洞察力を発揮する。
 「ふぅ・・・」
 剣心は小さく、息を吐く。
 ・・・昨日から。
 実はあまり、眠っていなかった。
 あの時・・・左之助を送り出してから。
 おせち料理を食べ終えて、すっかり満足した薫と弥彦は、それぞれが寝正月を決め込んだ。弥彦としては稽古をしたかったのだが、初詣のために普段よりも早起きをしたこともあり、肉体が睡眠を欲していた。
 ゆえに、二人はそのままこっとり、眠ってしまったのである。
 残された剣心は、ただただ呆けたように私室にこもっていた。
 眠るわけでもなく・・・読書をするわけでもない・・・ただ、呆けたように・・・
 ・・・否、持て余していた。
 熱を宿してしまった己が肉体を。
 救えぬ、逃げぬ熱のやり場にほとほと困ってしまった。
 どうするべきか、剣心にはわからぬ。
 いっそ、己自身で慰めてしまおうかとも考えた。
 が・・・それは、どうしても許されない行為のように思えた。
 左之助の、自分に対する想いは痛いほどに嬉しかった。
 仏すら信じぬあの男が、出所の知れぬ迷信を信じたいと豪語した。
 この・・・自分のために。
 「迷信・・・か・・・」
 ふっ・・・と。剣心は眼差しを落とす。
 左之助の言う、「迷信」。それは、年明け早々に契りを結んでしまうと、老け込みが早くなる、というものだった。
 だからといって・・・
 「この身体を、どうせよと・・・ッ」
 結局、剣心はそのまま夜を迎え、まんじりと眠れずに夜を明かし。
 気が付けば。
 洗濯にいそしむ薫の姿を眺めながら縁側にて呆けている。
 「剣心! もうすぐ終わるから、終わったらお茶にしましょう」
 「ああ・・・」
 「お茶は私が入れるからね、そこに座っててね、剣心」
 晴れ晴れとした笑顔を向けられて、反射的に剣心、微笑み返す。
 傍ら、
 「・・・薫じゃねェ」
 複雑な表情とやや毒を含んだ口調で、弥彦が呟いた。
 「・・・こういうのも、悪くはない・・・」
 小さく呟き、剣心は薫の動きを見つめ続ける。
 自分の大切な人・・・薫。
 この忌まわしい過去を持つ自分を求めて必要としてくれて・・・受け入れてくれた、女性。
 自分に帰る家を与えてくれた女性・・・。
 自分でも気づかぬうちに、薫という女性が心の奥深く、根を張ってもう、抜け出せない。
 守ってあげたいと、心底願う人・・・。
 ・・・左之助とは違う場所に存在する、大切な人・・・。
 では・・・
 左之助は・・・?
 「・・・手放せぬ者・・・自分にはないすべてのものを所有して・・・かつ、この生き方を・・・過去も現在も、すべてを受け止めてくれた人・・・。否定も肯定もせず受け止めて、寄り添って・・・背を預け、預けられ・・・何もかもを、委ねられる人・・・」
 「・・・剣心・・・?」
 弥彦は、先ほどから何か、剣心がぶつぶつ言っていることに気づいていた。しかし、何を言っているのかが全く聞き取れない。
 でも、その表情は悲観的なものではなかった。
 彼の表情に広がっていたものは、かつてないほど穏やかな面差し。
 人に見せるための笑顔ではなく、誰かに微笑みかける笑顔ではなく。
 それは自分自身への笑顔ではないかと、弥彦は朧ながらにそう思った。
 「さぁ、これで洗濯物は終わりっと! 剣心、弥彦! お茶にしましょう」
 薫の張りのある声が、剣心と弥彦へ飛んだ。
 ・・・剣心の胸の内など誰一人知る者はなく・・・
 時は無情に過ぎ去っていった。

 ハッと気づけば、暮れ六ツ。

 この時を待っていたかのように、どこかに身を潜めていたのではないかと思えるほどに、左之助は悠然と姿を現した。
 「おぅ、邪魔するぜェ」
 折しも、神谷家は夕餉の支度が整ったところ。
 「まったく・・・あんたって人は、嗅ぎつけたように現れるわね」
 薫、思わず呆れたようにため息を吐きながら左之助を見遣った。合わせるように、弥彦も言葉を継ぐ。
 「薫、そりゃ当たり前だぜ。こいつの鼻は犬より勝ってるからな」
 「・・・こら。俺を畜生と一緒にすんなっ」
 と、ポカリ、弥彦の頭に軽く拳。
 「へっ、本当のことだろ」
 弥彦、頭を撫でながらも決してめげない。左之助、やれやれとどっかり、腰を下ろした。
 「ん〜? 剣心は?」
 「お茶の支度をしてるから、すぐに来るわよ」
 「へぇ、そうかい。んじゃ、先に食って・・・」
 左之助、伸ばした箸をピタリと止めた。開きかけた唇が、緩やかに青く染まっていく。
 「・・・おい、嬢ちゃん」
 「何?」
 「昨日の残りモン・・・おせちってのは、まぁ、いいとすらァ。けどよぅ、この黒豆・・・」
 「そうよ、私が作った黒豆」
 「・・・伊達巻き・・・」
 「それは私が今日、作ったの! 食べてみて」
 「・・・五万米・・・」
 「もちろん私よ」
 「・・・里芋・・・」
 「その煮物にはちょっと、自信があるかな」
 一つずつ、丁寧に左之助は尋ねていったのだが、どこをどう聞いても、「剣心が作ったの」という台詞が出てこない。
 これは、もしや・・・
 「なぁ、嬢ちゃん。ひょっとして・・・」
 「そう。私が作ったものしか、残ってないの」
 ビシっ。
 ・・・何かが左之助の心を縛り付けた。箸を握ったままの、伸ばしたままの手が先ほどから微動だにしていない。
 額に、脂汗が滲んだ。
 「へぇ・・・嬢ちゃんが作ったモン・・・ばっかり、かぁ・・・」
 「そうよ! さあさあ、召し上がれ」
 「召し上がれって・・・」
 「・・・・・・左之助」
 「・・・何だよ」
 「まさか、私が作ったものは食べられない、というんじゃ、ないでしょうねッ?」
 顔は笑っているが、瞳は決して笑ってなどいない。左之助、ついついたじろぐ。
 「弥彦は食べてくれているわよ。ねぇ、弥彦?」
 薫に言葉を投げられ、弥彦は答える。
 「おぅ。マズイが食えねぇことはねェ」
 「一言多いっ」
 ・・・居候の身であるからして、弥彦は黙々と食べているのだろう。
 だが、自分は居候の身ではない。無理に食べることは・・・
 「何を剣呑に争っているのでござるか?」
 スルリと障子を開き、ようやく剣心が姿を現した。
 左之助を見た瞬間、剣心の瞳の奥でチラリ、光がわずかに輝いた。
 それを無論、左之助が見逃すはずがないのだが、状況は決して甘美なものではない。
 「左之助がね、残り物がすべて私が作ったものと知って、食べてくれないのよ」
 薫、ややふくれっ面で剣心に申し立てた。
 「おろろ。それはいけないでござるよ、左之。他家の敷居を跨いでお邪魔した限りは、相手側の持てなしに、失礼を働いてはならぬよ」
 剣心にやんわりと窘められると、もはや左之助、言い返すことなどできない。
 表情に諦めの色が浮かんだ。
 「・・・わかった。食うよ」
 「さすがは左之助。遠慮なくいただくでござるよ」
 この時ばかりは剣心を恨めしく思ったが、左之助も男である、腹を括って目の前に広がる、おせちへと箸を伸ばした。
 でも・・・
 左之助の注意はもう、不味いであろう料理のことになく。
 向かい側に腰を落とした剣心へと、視線を向けていた。
 自分の視線に気づいているのか、どうか。
 剣心は全く、左之助の方を見ようともしない。
 いや・・・気づいているからこそ、見られないのか・・・?
 見られない・・・それは・・・
 「・・・ふぅん・・・なるほどね・・・」
 「何か言った、左之助?」
 「いや、何でもねぇよ」
 薫にニッと笑いかけ、左之助は口一杯に料理を頬張った。






 何という、視線を投げてくるのだろう。
 夕餉を終え、剣心は片づけに没頭しながら震える胸を辛うじて抑えていた。
 食事の間中、左之助は決して、自分から目を離そうとはしなかった。
 痛いほどの、眼差し。
 この一挙手一投足を、瞳の動きや唇の動き、指先に至る些細なことまで左之助が、追いかけていたことを知っていた。
 火傷するような、眼差し。
 「あの・・・戯け、が・・・ッ」
 ぶるりと。爪先から頭の天辺へと悪寒が抜ける。
 寒さの・・・ためではない、これは・・・
 「くっ・・・左之助、め・・・っ」
 それは薄くも、憎悪のこもった一言。
 知っている・・・知っている・・・あの眼差しの意味するところ・・・
 眼差しに秘められた、左之助の・・・
 ・・・左之助の、想い。
 想いの、中の・・・
 「左、之・・・っ」
 食事の間中、剣心には絶えず聞こえていた。
 左之助の睦言が・・・射るような眼差しの中の、鋭くも甘美な・・・
 「はあ・・・左之っ」
 とうとう、
 膝から力が抜けた。
 ガックリと弛緩して、土間に座り込んでしまう。
 「あっ、ちょ、剣心ッ? どうしたのよっ」
 運が良いのか悪いのか、厨に薫が姿を見せた。
 彼女は慌てて土間へと降り、剣心へと駆け寄る。
 「大丈夫? 剣心?」
 「あっ、か、薫殿っ」
 薫の気配にすら、気づかなかった。
 剣心は自らの隙を心底恥じながら、慌てて立ち上がる。
 「だ、大丈夫でござるよ。申し訳ござらん、まだ片づけが・・・」
 「もういいわよ、剣心っ。それよりももう、休んだら? ここは私がやるから」
 「しかし・・・」
 「もうすぐ左之助が湯から上がってくる頃だから。剣心も湯に浸かって、あったかくして眠っちゃいなさいな。ね、剣心?」
 「薫殿・・・」
 なおも言いかけた剣心を、薫は首を振って否とする。つぶらな瞳を彩る眉を顰めて、彼女は眼差しを潤ませた。
 「・・・遠慮はダメ、無理もダメ。お願いだから、剣心・・・」
 薫の両手が、剣心の懐へ添えられた。・・・指先が、にわかに震えている。
 剣心はクスリと微笑んだ。
 「・・・申し訳ない、薫殿。では、拙者は・・・」
 「うん。ゆっくり休んでね、剣心」
 この時ばかりは・・・さしもの剣心も胸が痛んだ。薫の満面の笑みに、心が悲鳴を上げる。
 けれど・・・内面とは裏腹に、同様な笑みを浮かべて見せて安心させようとする剣心が、そこにはいた。
 複雑な、思いだった。
 剣心は、心に抱いている想いの存在にとっくに気づいている。
 己が私室へ入り、湯浴みをすべく支度を整えながら剣心は考える。
 薫への想いと・・・左之助への想いと・・・
 「・・・拙者は、こんなにも・・・」
 独りごちて、
 唇を結ぶ。
 言葉に出してはならない。
 言葉という形にしてしまっては、きっと・・・とりかえしのつかないことになる・・・。
 両手に寝間着を抱えて、剣心は私室を出た。
 湯殿へ向かっていると、ちょうど脱衣所から左之助が出てきた。
 ドックン。
 心の臓が軋んだ。
 「よぉ、剣心も風呂か?」
 「あ、あぁ・・・。今、出たのか?」
 わかりきったことを、なぜに問う。己が愚かしさを嘆きながら、剣心は左之助を直視できず、やや俯いてそう言った。
 「いい湯加減だったぜェ! おめぇも早いとこ、あったまってきな」
 「あぁ・・・」
 剣心、意を決して一歩を踏み出した、拍子に。
 左之助が冷然と。
 「・・・今日ばかりは、念入りに肌ァ、磨いてこいよ」
 両肩が震えたことを、剣心は隠し通せず。押し黙ったまま・・・
 左之助は。身体を折り曲げて彼の耳朶、唇を寄せた。
 「俺の身体、どこもかしこも、おめぇのすべてを欲しがってる・・・待ち遠しいぜェ・・・」
 「左・・・」
 「俺もよ、今日ばかりは身体の隅々まで洗ったぜ。おめぇにねぶられてェからな・・・」
 「ぁ・・・」
 剣心、思わず唇を押さえたが左之助はやめない。
 「おめぇの肌と雫でまみれてェ・・・唇、貪りてェよ・・・」
 「や、め・・・左之・・・ッ」
 右手が左之助を振り払おうとひゅるりと伸びた。
 ひょいっ
 見透かしていたかのように、左之助は交わし。
 「ハハハ、まぁ、ゆっくり湯に浸かってくるこった。また後でなぁ、剣心」
 ニヤリと唇だけで笑い、左之助はあっさり背を向けて姿を消した。
 剣心はそんな彼を見送ることなど到底、できなかった。
 慌てふためいて脱衣所へと駆け込み、慌ただしく着物を脱ぎ去ると湯殿へ入るなり、桶を掴んで湯をバシャバシャと全身に浴びせた。
 身体が、すっかり上気していた。
 おそらく、耳の先端まで赤くなっていることだろう。
 「あぁ、拙者は、何という・・・何という・・・ッ」
 つい先ほどまで。
 胸を苛んでいたはずの、薫への想いなど忽然と消えていた。
 烈火の如く荒れ狂っているのは、
 「左之助・・・ッ」
 いつもの、言葉嬲り・・・ただ、それだけのはずだった。
 はずだったのに、何たるこの身体、何たるこの、想い。
 灰燼と化すのではと危惧するほどに、狂おしいほどの情熱。
 ・・・眩暈が、するっ。
 「左之、左之、左之助・・・っ」
 求めている、求めているのだ、この身体と心は。
 理由などない、闇雲に欲しがっている、あの男をッ。
 そうとも・・・理由など、ないのだ。ないのだから、仕方がないっ。
 薫に反応する心と、
 左之助に反応する心と、
 どちらも強く認識して、大切に抱いている。
 反応の仕方は激しく違うが、どちらも平等に想っている。
 けれど・・・けれどこれは、都合がよいというのだ、世間では。
 都合の良い男だと、都合の良い人間だというのだ!
 「卑怯者だと言うのだ、拙者のような人間はッ。なのに、なのに拙者はこんなにも・・・ッ」
 身体を見れば、一目瞭然だった。
 男たる象徴が、剣心たる部位が、あからさまな反応を自己へ見せつけている。
 剣心の想いを煽り、かつ、奈落の底へ叩き込む光景だった。
 「・・・拙者は・・・いい加減な人間だ・・・。いい加減な人間だと、卑怯者だとわかっているのに、左之助を求めるこの想いを、止めることができぬ・・・」
 やりきれなさと、切なさと、愚かしさと。
 混濁した感情が入り交じってくる。
 二十と八、生きてはきたが、これほど心の中が荒れ狂うことは初めてだった。
 「左之・・・左之ッ。拙者を・・・拙者を、壊してくれ・・・ッ」
 グッと己を掻き抱いて。
 剣心は唇を噛みしめた。






 湯から上がると、屋敷は既に雨戸を閉めていた。
 夜を迎える準備は整っているということだが・・・あまりに早い。この短時間に雨戸を閉められるなどと・・・
 剣心、私室へ入る前にまず、居間へと顔を見せてみた。
 案の定、薫がいた。
 「薫殿、もう雨戸を閉めたのでござるか? 待っていてくれれば、拙者が閉めたものを」
 「ううん、いいのよ。剣心、体調があまり良くないんでしょ? 早く休むといいわ。それに、雨戸は左之助も手伝ってくれたから、早く片づいちゃったの」
 ニッコリと笑って、薫は火鉢の火を始末する。
 「左之助が・・・?」
 「えぇ。こんな寒い日は、早く眠ってしまうに限るって」
 「・・・そうか・・・」
 「さあ! 剣心も部屋に戻って。もう休みましょう」
 「あ、あぁ・・・おやすみでござる、薫殿」
 ・・・そして、
 居間から出たときには、もう、剣心の脳裏から薫は消えていて。

 ― ・・・剣心・・・

 頭の奥で、自分を呼ぶ声がする。
 剣心は、ゆっくりと・・・一歩を踏みしめながら私室へ向かう。
 普段はさほどに思わぬ距離が、果てなきものに思われた。
 ・・・部屋には、左之助がいる。
 心の臓が、早くも早鐘を打ち鳴らし始める。
 ギシ、ギシ・・・
 廊下の微かな軋みが、無音の中に響く。
 ギシ、ギシ、ギシ・・・
 重なるように、
 ドクン、ドクン、ドクン・・・
 鼓動が、ざわめく。
 ・・・部屋からは、灯りが洩れていた。
 きっと、左之助が行灯に火を入れてくれたのだろう。
 剣心、障子に手をかけた。
 ・・・少しの・・・逡巡。そして、
 ス・・・。
 障子を開けた。
 けれど、決心は定まらない。顔を上げることができない。
 そのまま敷居を跨ぎ、パタリ。後ろ手に閉めて。
 ゆっくりと・・・顔を、視線を上げた。
 「あ・・・」
 わずかに声を洩らしたのは、目の前に一式の布団が用意されてあったから。
 無論のこと、
 枕は二つ。
 だが・・・
 「・・・左之・・・?」
 いるはずの、男がいない。
 剣心、思わず視線を泳がそうとしたその刹那、
 背後に、気配を覚えた。
 「!」
 振り返ろうとしたが、遅かった。
 「あッ」
 背中から、やにわに両腕が絡みついた。
 あまりの圧迫感に剣心、声を失った。
 「剣心・・・」
 「うッ」
 耳朶に、ことのほか掠れたような声音で囁かれる。それは紛れもなく、左之助の声・・・
 「俺の気配にも気づかなかったか・・・? それだけ・・・興奮してるってェことか・・・」
 「左・・・っ」
 左之助の腕が、くるりと剣心の身体を回転させた。
 目の前に、黒曜石の瞳が飛び込んでくる。
 「んっ、ンン・・・っ」
 言葉をこぼす余裕など、隙間などない。左之助の唇が荒々しく剣心の唇を割り開き、濡れた舌先を潜り込ませた。
 「むぅ・・・んッ」
 抗う暇すらなかった。
 否を叫ぶ一瞬の時さえも。
 いや・・・もう、先刻から・・・昨日、左之助と別れたあの瞬間から、剣心には「否」を叫ぶ意思は微塵もなかった。
 荒ぶる魂そのもののように、左之助は膂力のままに剣心の身体を抱きすくめる。
 右手で彼の小さな頭部を固定し、逃れられぬように。
 左手は彼の細腰に絡みつき、なおも己へと引きつける。
 剣心、呼吸すらままならぬ。
 「左ぁ・・・ッ」
 名も、呼べぬ。
 喘ぐことも、悶えることも、何も。
 ただ・・・剣心は彼の背中へと両手を回すのみ・・・
 しがみついた。
 そして気づいたのだ。
 この男・・・既に全裸・・・ッ?
 「んっ、むッ、ふぅん・・・」
 鼻にかかった息づかい。
 閉じられている瞳。
 眉間に薄く刻まれた、しわ。
 その一部始終を、左之助は瞳をカッと見開いて見定めている。
 剣心の身体は、燃えるように熱かった。
 それは何も、湯上がりだからという理由だけではないような気がする。
 自分に縋り付こうとする彼を愛しく思いながら、左之助はなおも唇を貪り続けた。
 「あ、左之、ま・・・待って・・・」
 ・・・ようやく。
 唇に隙間ができたことを幸い、剣心は絶え絶えになりながら左之助に言う。
 「まだ・・・まだ、早い・・・まだ、薫殿や、弥彦が、起きて・・・」
 「関係ねぇ」
 ぞんざいに、左之助の右手が剣心の懐へ滑り込んだ。
 「ひぅ・・・」
 唇を噛みしめ、慌てて声を止める。
 「さっきの俺の言葉、覚えてねぇのかよ・・・? もう一度、言ってやってもいいんだぜ・・・」
 「左、左之・・・っ」
 「俺は・・・おめぇの肌と雫でまみれてぇんだよ・・・」
 画然、左之助の左手が剣心の裾を割り開き、息づき始めていた高ぶりを手のひらに包み込んだ。
 「あぁ、左之、駄目・・・ッ」
 「何でェ・・・おめぇもすっかりその気じゃねぇか・・・だったら焦らす必要、ねぇだろが」
 「だから、まだ、起きて・・・」
 「おめぇが声を出さなきゃいいのよ」
 「そ、そんな馬鹿な・・・」
 「俺だっておめぇの声が聞きてぇが・・・なぁに、心配はいらねぇよ。夜はまだまだこれからだもんなぁ。今は啼けなくとも、あとで思いっきり啼けらァな。・・・お楽しみはあとで、てな」
 「左之・・・ッ」
 「ごたごた抜かしてっと、手加減、してやらねぇぞ」
 「・・・うっ・・・」
 絶句してしまい、剣心は顔を伏せる。けれど・・・けれど、そんな左之助の言葉に嬉しさを噛みしめている自分がいることを、剣心は気づいていた。
 この男は・・・この男は、自分の中に潜む理不尽さを壊してくれる・・・
 そんな、淡い期待を抱いていた。
 「左之、左之・・・っ」
 剣心は再び左之助に縋っていく。はだけてしまった己が姿態など目もくれずに。
 「・・・来い・・・左之っ」
 艶を刷いた瞳に、左之助は背中に悪寒を走らせた。
 快なる、悪寒だった。
 「剣心・・・っ」
 左之助、剣心の帯を解き。
 そのまま褥へと崩れ込む。
 「あっ・・・あぁ・・・」
 ため息のように声を洩らして、剣心は左之助を抱きすくめる。
 左之助は己が手のひらを彼の右頬へ当て、ざらりと赤い鬢を掻き上げる。
 項が、こぼれた。
 無意識に、武者震いしていた。
 「あぁ・・・これだぜ・・・どんだけ、拝みたかったか・・・ッ」
 歓喜に打ち震え、左之助は喉を鳴らした。
 ぼんやりと。行灯の中に浮かび上がる白磁の項。わずかな後れ毛が、左之助の呼吸にゆらり・・・ゆらりと反応している。
 「剣心・・・ッ」
 剣心の耳朶の裏、左之助の唇が落ちた。
 「んっ、くうぅ・・・ッ」
 首筋を、肩口を蠢く左之助の唇に剣心は、沸き上がる声をどうすることもできない。彼を抱きすくめていたはずの両手は、いつしか己の唇を押さえ込む役割と成り果て。
 それらを知っていながら、左之助は愛撫をやめない。
 唇が、舌先が、得も言われぬ感触を伴って肌を縦横無尽に這い回る。
 「うぅ・・・む、ン・・・っ」
 息を止め、唇を噛み、剣心は必死になって声を抑えようと躍起になる。だが、必死になればなるほど、身の内側には荒れ狂うばかりの情熱が猛っていく。
 情熱・・・欲情が・・・快感が。
 「剣心・・・剣心っ・・・」
 唸るような、吐息のような声が、剣心の肌を彷徨う。その声のすべてが自分に注がれているのだと思うと、剣心の胸はたまらなく締め付けられる。
 「左之・・・左之・・・っ」
 華奢な身体からゆっくりと、力が抜けていく。強張っていた、若木のようなしなやかさから、つきたての餅を丸めたときのような、何とも言えぬ柔らかさへと変わっていく。
 手のひらの中で、重なった肌の下で如実な変化を遂げていく剣心に、左之助の心はどんどん、傾向していく。どこにも逃がさぬように腕に巻き込み、胸乳に滲む紅色の蕾へ唇、寄せた。
 「あっ、左之・・・ッ」
 色の声が、冷たい空を斬った。
 左之助の唇より、唾液が滴る。
 「左之・・・くぅ・・・ン、ぁ」
 両膝を立てれば自然、身体の中央には左之助が陣取る形となる。
 が、剣心はもはやそれどころではない。足の親指に力を込めて褥を突っ張り、左之助の背に爪を立てて快楽に堪えようとする。
 「剣心・・・剣心、堪えンな・・・声、聞きてェ・・・」
 「バ、カ・・・ッ。そんなこと、したら・・・」
 「構わねェ・・・構うもんかよ。俺ァ・・・聞きてェんだよ・・・」
 「無茶を、言う・・・な、あぁ・・・」
 隙間の空いた桶のように、艶やかな唇からは声がこぼれる。
 どれほど唇を閉ざそうとしても、抜け穴を知っているかの如く、溢れてくるのだ。
 どうしようもない。
 それでも、堪えねば。
 苦悶の表情を浮かべつつも、剣心の意識は己が声のみに集中される。
 ゆえに、
 左之助の行動に、気づかなかった。
 「剣心・・・」
 「あっ」
 声の波動は、剣心をあっけなく頂点へ誘おうとした。それを、寸前のところで左之助の手が止める。
 「な、何を、して・・・」
 おずおずと、剣心は己が下腹部へと視線を走らせる。
 左之助は、褥に寝そべるようにして剣心の、内股へと顔を埋めていた。無論、その奥にはすっかり息づいてしまった高ぶりがある。
 彼は薄笑みを浮かべながら、手中へと剣心の高ぶりを納めていた。
 「・・・っ」
 あまりの光景に、剣心は声を失った。陽炎のように、その場面が儚く揺れ動く。
 「すげぇ・・・な、これ・・・」
 左之助、微睡むようにそう言って。
 業火のような赤い口腔へと、剣心を飲み込んでいった。
 「・・・ッ」
 キュッと。思わず目を閉じた。
 ぬるやかな壺の中に、身を投じているかのようで。
 剣心は、腹の底から息を吐いた。
 喉の奥までしっかり迎え入れた左之助は、彼の反応に気をよくしながら舌を絡めていく・・・
 「ふぅ・・・ン、はああぁ・・・」
 吐息と喘ぎとがない交ぜになったかのような・・・
 切なげな、儚げな、そんな呼吸を。
 剣心は・・・薄く、瞳を開けた。
 「!」
 じっ・・・と。
 瞬きもせずに。
 闇の中、忽然と双眸が浮かび上がっていた。
 左之助の、両眼だった。
 「左ぁ・・・」
 見られている。
 今の自分を逐一洩らさず・・・この顔を、動きを、反応のすべてを見られている・・・ッ!
 じっと・・・視線を逸らさずに、見ている・・・見られて・・・っ
 「うぅ・・・ぁ」
 音が・・・響いていた。
 決して耳慣れぬ音が、左之助の唇より発している。
 「左之・・・左之っ」
 瞳が笑っているように見えた。錯覚か、それとも・・・
 「んっ、ふっ、左之、左之っ」
 褥を掴んでいたはずの指先が左之助の、髪を掴み、
 褥に擦りつけていたはずの臀部がわずかに浮いて、左之助に向かって押しつけた。
 「あぁ、左之・・・もっと、もっ・・・ッ」
 赤毛が、鮮烈に舞い。
 青い瞳が左之助を捉え続け・・・
 唇、湿り。
 「ふぅん・・・あ・・・ッ」
 鼻にかかるような、吐息。
 剣心の脳裏は、ちらりちらりと白熱した光が弾け始めていた。
 もうすぐ・・・もうすぐで、一線を越え・・・ッ

 「!」

 左之助の動きが画然、止まった。
 何事かと、剣心の思考が呆けたわずかな一瞬、左之助は素早く身を起こして行灯の明かり、吹き消した。
 「左・・・」
 彼を呼ぼうとすると、左之助は剣心の唇を塞いだ。
 何かが、おかしい。
 ようやく、剣心のとろけた思考の中にこの疑問が浮かんだ時だった。

 「・・・剣心・・・?」

 それは、薫の声だった。


[   2   ]