・・・時として。
沸き上がってきた衝動に、何人たりとて抗えぬものだ。
漠然とそんなことを思ってしまったのは、他ならぬ理由がある。
「ハッ、ハッ、ハッ・・・」
自分でもどうして、全力疾走しているのかがわからない。
ただ、脳裏を間断なく流れていく面影は愛しき者、
胸を締め付けるはあまりに痛く、あまりに切ない感情の高ぶり。
それらに急かされるように背を押されるように、
ひたすら足を踏み出している。
雨上がり、土がぬかるんでズルリ、足下をすくわれそうになり。
それでも、辛うじて転倒は免れて走る、走る、走る。
長身痩躯、なにゆえか外見に似合わぬ米俵一俵、肩に担いだまま疾駆する。
待ちゆく人々の隙間を縫い、
奇異の眼差しなど振り払い、
額の紅はちまきを翻し、
背の「惡」一文字、往来にて風となる。
走る、走る、走る、
見慣れた居酒屋の目の前を。
走る、走る、走る、
川を渡す橋の上、そのど真ん中。
走り、走り、走り、
行き着く先はいずこへか。
走って、走って、走って、
ようやく見えてきた屋敷は「神谷道場」。
が、道場に用はない。
道場の入り口どころか、正門玄関すら目もくれず、まっすぐに目指したのは勝手口。
蹴り飛ばすようにして開けるなり、
「剣心っ!」
開口一番、ある男の名を発した。
「おろ?」
すぐに反応はあった。
眼前、スッと縁側の側の障子が開き、
「左之ではござらんか」
自分の名を呼んだ彼は、ゆるりと微笑んだ。
無造作に束ねられた、特有の赤毛が・・・陽の中に映えて眩く輝く。
眩しさに射抜かれたようにやや目を細め、だが左之助、しっかりと彼を見据えたまま、
「剣心っ」
と再び呼びつつ歩みを止めず、
ドサッ
米俵をその場に置き、
ダンッ
縁側へ上がり込むなり、
「どうした、左・・・」
剣心が問いただすよりも一瞬早く、左之助の両腕は剣心の、小柄な体躯を羽交い締めに・・・否、抱きすくめていた。
突然の抱擁に、剣心は目を白黒。何事が起きたのか理解できずにいたのだが、
「左之、離してくれ・・・苦しい・・・」
と、か細く呻いた。
同じ男でありながら、左之助の膂力たるは凄まじいもの。いわゆる「怪物」並なのだが、その自覚が少しばかり彼には足りない。
特に、理性の箍が外れかけたときには自覚など皆無だ。
「左之・・・?」
声をかけるのに何も言わぬ。
無言のまま、肩に顔を埋めてしまっている。感じるのは・・・着物を通してくる、彼の息づかい。
「左之・・・」
どうして何も答えぬのか、彼の沈黙を訝ったその矢先、
「左・・・ンッ」
剣心の唇、瞬く間に左之助の唇に奪われていた。
一体、何だというのか。
剣心は混乱した。
突然現れたかと思えば抱きすくめられ、あげくに唇を奪われている。
あまりに唐突すぎる、しかも・・・
「く、ぅ・・・ッ」
左之助、剣心の両膝を割り開くや、己が腰部を擦りつけてくるではないか。
彼の破天荒な行動に、剣心の左手が思わず、腰に帯びたる得物へと触れていた。
「グッ!」
鳩尾に走った激痛に、左之助は思わず膂力をゆるめた。
その隙を逃さず、剣心はスルリと身を滑らせて左之助との間合いを取った。
「どういう・・・つもりだ、左之助。昼間から・・・このような・・・っ」
ついつい口元を押さえて剣心、口調も強く左之助に詰問する。
口腔内に左之助の味が残っている。感触が生々しく甦ってくる。
何とか打ち消そうとするのだが、抗えば抗うほど、それは濃密さを増して剣心を苛ました。
唇を噛みしめ、眼光鋭く左之助を睨めば彼もまた、鳩尾を押さえて剣心を睨んでいた。
「ご挨拶じゃねぇか、剣心。・・・へっ、目ェ潤ませやがって・・・良かったんだろ」
「!」
たちまち頬が朱に染まる。
彼の反応が楽しいらしい、左之助はなおも言う。
「良かったはずなのに、何てことをしやがる・・・そいつで俺を小突くたァ、どういう了見でェ」
形の良い顎をしゃくり、左之助は剣心の得物を指し示す。あの細い柄頭が狙い違わず、この鳩尾に深々と突き込まれたのだ。
不覚といえば不覚かも知れないが、それでも左之助には少々、腹に据えかねる。
自分はただ・・・
「了見などと、それはこちらの台詞だ。どういうつもりでござるか、左之助。突然現れておいて・・・何を、考えて・・・」
「考える? 考える必要がどこにあるってェんだ。俺ァただ、おめぇが欲しくなっただけでェ。だからこうして、居ても立ってもいられず走ってきたんじゃねぇか」
「ほ、欲しいって・・・」
あからさまな左之助の言いように、たちどころに剣心は言葉を失った。何をどのように継いで良いものか、暗澹としてしまう。
やや目を伏せて唇を噛んでいると、
「なぁ・・・こうして向かい合っている時間すら、俺ァ惜しいんだよ。だから、さ・・・いいだろ・・・?」
明確な言葉は告げぬものの、左之助が何を求めているかなど、先刻より明らかだった。
剣心、慌てて面差しを振り仰ぎさらに、後方へと退いた。
「ばっ、馬鹿者! 何を考えて・・・」
「だから、言ってンだろが。俺はただ、おめぇが欲しいだけだって・・・」
「何が欲しいの? 左之助」
グルンっ。
左之助、反射的に背後を振り返る。
・・・そこには。
屋敷の主・神谷薫。
左之助、剣心から慌てて離れた。ただでさえ間合いを取っていたはずなのに、さらに離れて・・・それが返って、薫には不思議に見えた。
「どうしたの? 喧嘩でもしたの?」
「いや、その、喧嘩はしてねぇよ、嬢ちゃんッ」
頭を掻きむしりつつ、左之助は薫に苦し紛れに返答する。
助け船が欲しいと剣心に視線を流すのだが、全く反応を示さない。
示さぬばかりか、視線すら合わせぬ。
左之助、ムッとした。
だがそんな些細なやりとりに薫は気づかない。小さく嘆息した後、
「まあ、いいわ。それよりも剣心、私・・・あーッ!」
薫、何かに気づいて大きな声を上げた。
剣心と左之助、心の臓が縮み上がる。
「何よ! 左之助、泥だらけじゃないの! しかも何なの、この米俵!」
黒い瞳が左之助と、中庭に転がされたままの米俵を交互に見遣った。それは剣心とて知らぬことだから、薫と一緒になって左之助を見た。
「あぁ、米か? そいつァもらってきたんでェ。いつも飯を食うのはここだから、持ってきた」
「もらっていいのッ?」
「構わねぇよ。そのつもりで持ってきたんだからよ。・・・人助けはするもんだな、荒くれどもに絡まれてた親父をちょいと助けたらよ、米問屋の主人で、お礼代わりにってェんで米一俵、もらったんだ」
「偉い、左之助!」
「ハハハハ! まぁな」
気をよくした左之助に、だが薫は容赦しない。
「それで? どうして泥だらけなのよ」
「それは・・・ここまで走ってきたからじゃねぇかな。ほら、今朝方まで雨が降ってただろ、泥を跳ねて・・・」
「ふーん・・・まぁ、いいわ。じゃあどうして、そのまま縁側へ上がったのよっ」
「へっ?」
「見てみなさいよ! 縁側が泥だらけじゃないの! 一体誰が掃除をすると思ってンのッ?」
「いや、これは、その・・・」
たちまち口ごもった左之助。が、薫の言葉と表情は裏腹、満面ににこやかなもの。
「いいわ! 今日はお米をもらっちゃったことだし。大目に見て上げる! その代わり、今すぐ湯屋へ行きなさいっ。着物はお父さんのを貸してあげるからっ。いいわね、左之助!」
もはや、言い返す言葉もない。
左之助、やれやれとため息を吐いた。
その様子を剣心は愉快げに見つめ、クツクツと笑っていたのだが、
「では、拙者も付き合おう。ほら・・・いつのまにか、拙者の着物も泥だらけでござるよ」
恐らく、左之助が抱きすくめたときに泥が付いてしまったのだろう、彼の一張羅も汚れてしまっていた。
今度は薫が、やれやれとため息を吐いて。
「もう・・・。何をやってんのよ、あんた達は。ちょっと待ってなさい、二人分の着物を用意するから。私だって忙しいのよ、余計な手間をかけさせないで頂戴」
「申し訳ないでござる、薫殿」
「用意している間に、左之助! その米俵を厨の方へ運んでおいて頂戴ね」
薫はビシッと左之助を指さして言い置くと、そのまま母屋へと消えていった。
「どうしてわざわざ湯屋へ行かなきゃならねぇんだよ」
ふてくされたようにぼやいた左之助を、剣心は並んで歩きながら苦笑する。
「今日は湯船を乾かす日でござるよ。本当は昨日乾かす予定だったが、雨だったでござろ?」
「チッ・・・面倒臭い・・・」
「湯をもらっている身で、そのようなことを言ってはならぬよ」
忍び笑いながら、剣心は前髪をゆるく掻いた。
剣心は、腕に風呂敷包みを抱えていた。無論、二人分の着替えである。
それをちらりと横目で見ながら、左之助には先ほどから邪な思いが猛っている。
まさかこうして、二人して歩きながら湯屋へ行く日が来るとは思いもしなかった。
無論、屋敷にある湯殿は密室的で、誰も入ってこない、誰も見られないという「決まり」があった。ゆえに、場所が場所とはいえ、剣心も心を許してくれることもしばしばだった。
が。
「湯屋、か・・・」
赤毛の頭上、左之助はニヤリとほくそ笑んだ。
二人が向かった湯屋は、あまり目立たぬ小さな湯屋だった。
小さいとはいえ、煙突は大きく長い。空を貫くほどではないかと思えるほどだ。
「開いてるかィ」
左之助が先に、暖簾を潜った。
「おや、左の字じゃないか。随分とご無沙汰だったねぇ」
番台に腰掛けているのは、深いしわを刻み込んだ老婆。つぶらな瞳が左之助を見上げてニッコリと笑っていた。
「おぉ、悪ィな。他ンとこでもらい湯をしてたもんだからよ。俺が来なくて、寂しかったかィ?」
「ハハ、寂しいもんかね。お客はお前さんだけじゃないからねぇ。でもまぁ、あんまり顔が見えないと、ちょいと気にはなるねぇ」
左之助は二人分のお代を老婆に手渡し、中へと入っていった。
「なぁ、おつね婆! 俺達ァ一番風呂か? 客がいねぇぞ!」
脱衣所を覗き込んで、左之助が老婆に言葉を投げた。
負けずと老婆の声が返ってくる。
「一番風呂さ! こんな昼間っから誰が入りにくるんだィ? まだあと一刻ほどは、客はあんまり来ないだろうさ」
「ハハ、それもそうだな」
日の高い時刻から湯を浴びに来る者など、かなりの遊び人か手持ちぶさたな輩くらいなものだろう。仕事帰りの客を望むには、まだ一刻ほど待たねばならない。
「さぁて、入るか、剣心!」
無邪気に笑って衣装を脱ぎ捨てると、左之助はそのまま湯殿へと向かっていく。
剣心は吐息をつくと、とりあえず左之助の衣装をきれいにたたみ、ようやく自らの帯を解いていった。
湯気に煙る湯殿は、視界がよいとは言い難い。かつ、照明も充分とは言えぬからやや暗い。
左之助は適当な場所を見繕って腰を下ろすと、桶を手に取り湯を汲んだ。
「ン、いい湯加減だぜ」
満足げに呟くと、勢いよく右肩へと打ちかけた。
「あれ? そこにいるのは左之さんじゃないですかィ?」
不意に声をかけられて、左之助は視線を向けた。
「お。なんでェ、おめぇか」
相手を視認して、左之助は微笑する。
声の主は賭場仲間だった。憎めぬ笑顔を満面に浮かべ、湯船の中から左之助を見ている。
「昼間っから湯屋とは、おめぇも大したもんだな」
「ハハ、今日はちょいと大事な日なもんでね。肌ァ磨いていかねぇと、あいつが怒るもんで」
少しく照れを含ませて、男はぴょこりと右手の小指、立てて見せた。
「へぇ・・・? そいつァ初耳だぜ」
「ヘヘヘ・・・」
恥ずかしそうに小さく頭を掻く男。が、とうに左之助の視界には映っていない。無論、思考も他へ飛んでいた。
誰もいないはずじゃなかったのかよ。
左之助、思わず舌打ち番台の老婆を恨めしく思った。
これでは自分の想いを果たすことなど、到底不可能だ。何より剣心が・・・
このまま立ち消えてしまうのか。
「チッ・・・何てこったィ」
「・・・左之? あぁ、ここにいたのでござるか」
湯気のために湯殿が見渡せなかったのだろう、剣心のホッとした声が耳朶を突いた。
「おぉ、ここでェ。やっと来やがったか」
先ほどの思いなどどこへやら、左之助は笑みを刷いて剣心を手招いた。
剣心は黙って左之助の側へと腰を落とし、ふうっと息を吐く。
「気をつけねば、足を滑らせるなぁ。湯気もすごいでござるし、何より薄暗い」
「そうだなぁ。まぁ、それぐらい湯が沸いてるってこった。・・・なぁ、剣心。背中流してくンねぇか。背中を流し合うのも、たまにはいいだろ?」
「ハハ、それはいい」
剣心は納得して、背を向けた左之助へと手のひらを這わせた。じっとりと・・・肉厚な背の感触が伝わってくる。
ドキリ、と。剣心の胸がわずかに高ぶる。
が、おくびにも出さぬ。
糠袋を握りしめると、ゆっくりと背中をこすり始めた。
「なぁ、左之さん。今度はいつ、賭場へ来るんですかィ?」
湯船からの声に、左之助はやや苛立ちを覚えたが間延びした声で答える。
「そうさなぁ・・・気が向いたら行くよ」
「最近、左之さんが来ないんで、みんな寂しがってますよ?」
「寂しいだぁ? ハハ、よく言うぜ。まぁ、そのうち顔を出すって言っておいてくんな」
軽く手を振ってあしらっては・・・いるが。
実を言えば左之助、返答する余裕など無かったのだ。
背中を行き来する剣心の指先が・・・糠袋の動きが、気になって気になって、仕方がない。
気もそぞろでつい、過敏な反応をしてしまう。
彼の指先が胸の方まで流れてくるのではないか・・・あるいは、
脇腹から、下の方へ滑って・・・
様々な妄想を掻き立てられて、湯にも浸かっていないのにその身体、夥しい熱を宿してしまっている。
それらが剣心に気づかれないか・・・いや、もう気づかれているかもしれないと思うと、気が気ではない。
何度となく生唾を飲み込んでしまう自分が、無性に情けなかった。
「・・・左之」
「あ、あぁッ?」
背後から呼ばれて、柄にもなく左之助は狼狽してしまった。
その事実がまた、さらに左之助自身に追い打ちをかける。
「どうした? さっきから黙り込んで。何か考え事か?」
「いや、何でもねェよ」
咄嗟に答えたがもはや、理性に限界が来つつあった。
どうして、こんなにしどろもどろしなくてはならないのか。
いつから、こんなに初な反応を・・・ッ?
剣心が・・・欲しくてたまらなくなって、俵を担いだまんま走ってきて、それがどうだ? 本人を目の前にして、何も出来ずに背中を流してもらって・・・ッ
触れたい、撫でたい、掴みたい・・・抱きすくめたい!
ありとあらゆる衝動が湧き起こってくるが、どうすることもできない。
ここで顔見知りに会わなければ、すぐにでも剣心を・・・!
畜生ッ!
どうにも、我慢が出来ないッ。ならばいっそ、剣心に触れていたほうがまだ良いのではないか。
左之助の切迫した思考回路は突如、結論づけた。
「け、剣心っ」
「ん?」
「こ、今度は、俺が背中を、流してやるよっ」
「あぁ、よろしく頼むでござるよ」
剣心は素直に応じてくるり、左之助へと背を向けた。
よし、これならば大丈夫であるに違いない。何の根拠もなく彼はそう確信して、剣心の背中へ手のひらを這わせた。
ヒタリ・・・密着する己が手のひら。微々たる温もりと・・・艶やかさ。
左之助、つい視線を逸らして糠袋を握りしめた。
「左之、あんまり力を入れてはならぬよ? 左之は力があるでござるからなぁ、時々痛くてかなわぬよ」
湯気に紛れ、忍び笑う剣心の声音が漂う。
「おぅ、気ィつけるが・・・痛かったら言ってくンな」
冷静を装い、それだけを辛うじて伝える。
胸が、張り裂けそうなほどに痛かった。
身体中が火照り上がり、どうにもならぬ。
湯殿でなければ恐らく、周りから変人のように見られたに違いない。
それほど、左之助の身体は赤く変色を遂げていた。
糠袋が、狭い背中を降りていく。
糠袋が、狭い背中を昇っていく。
上・・・下・・・下・・・上・・・
剣心は、じっとしている。
何も言わない。
赤毛を軽く結い上げてはいるが、項からわずかにこぼれている。
・・・つい、
項に口づけたくなる。
けれど・・・
あぁ、もうッ! 結局さっきと変わらねェじゃねェかよ!
畜生、早く出て行けよ、邪魔なんだよッ!
賭場仲間へ無言の口上。
グッと唇を噛みしめて押し黙ったまま、左之助は糠袋を握ったまま擦り続けている。
・・・辛い、早く・・・早く、どっかへ行っちまえッ!
・・・と、
「さぁて、そろそろ俺は上がりますぜ。・・・ではごゆっくり、左之さん」
ざばっと湯船から身を上げたから左之助、
「おぅ、ありがとよ。おめぇもごゆっくりとなぁ」
間髪おかず、そう言って男を送り出していた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
不意に訪れた、静寂。
・・・これを、待っていたのではなかったか。
変わらず黙々と剣心の背を擦り続けながら、左之助は自問する。
・・・やるなら・・・やるなら、今だよなッ?
皮膚を通してドクドクと、血が流れていく音を左之助、鮮明に聞き取っていた。
そして・・・それはきっと剣心も。
何も語らずなすがままにされているが、剣心とて何も感じていないはずがない。
そうとも・・・きっとそうだ!
「・・・け・・・剣心っ」
左之助の声に、剣心の身体が一つ震えた。
水面へ落ちた雫の音が・・・聞こえ。
湯気が肌へとまとわりついた。
「なぁ・・・俺、もう・・・我慢、できねぇよッ」
「我慢・・・とは・・・?」
「しらばっくれンじゃねぇ。わかってンだろ・・・?」
左之助は糠袋を手放すなり、勢い良くその背中に湯を浴びせた。
雫が流れて迸り、白磁の肌が目に触れた途端、
「あ・・・ッ」
やや甲高い声が一声。
「こら、左之・・・やめぬか・・・っ」
剣心の抗いの声など、何のその。左之助は彼の項を強く吸い上げていた。
「あ・・・嫌、左之・・・ッ。やめ・・・っ」
「やめねぇ・・・やめてたまるかっ。そもそも、俺がおめぇに会いに来た理由は、おめぇが欲しかったんだぜッ? こんな、目の前に裸を突きつけられておいて、今更止められるかッ」
「左・・・ッ!」
拒否の言葉など、聞くつもりは毛頭なかった。
左之助は、背後から剣心を羽交い締めにするなり胸の華、きゅるりとねじり上げた。
剣心、背中を反らせて思わず息を呑む。
「何だよ・・・声、出さねぇのか? 聞かせろよ・・・なぁ?」
「ば・・・馬鹿者っ。このようなところで・・・ッ」
「だから、今は誰もいねぇんだよっ。今のうちだぜ? なぁ・・・この湯殿いっぱいに、おめぇの声を俺ァ・・・響かせてェんだ・・・」
語尾が掠れて耳朶の奥・・・。
低音が、脳の奥にわりなく響いた。
「左之・・・っ」
「おめぇも・・・気づいてンだろ・・・? 俺の身体ァ、さっきから熱くなってンのをよ。なぁ・・・頼むよ・・・鎮めてくンな、俺の身体・・・」
「・・・左・・・」
「もう・・・止まらねぇぜ」
「左之・・・ッ」
再び項へ口づけて、左之助は剣心の華を指先に委ねきった。
もはや、彼から離れるつもりも、解放するつもりもなかった。
ここで想いを果たすことのみを、ひたすら願い続けて・・・
・・・いや。それはもう願いではない。
「欲情」だ。
「剣心・・・剣心・・・ッ」
鼻先で生え際を掻き分け、耳朶の後ろへ口づける。湿った吐息を吹き付け、唇が耳朶の皺をなぞり。
「あ、あぁ・・・っ」
唇を噛んで殺していたはずの声が、剣心の本心とは別に滲む、洩れる、こぼれる。
時を追うごとに熱を帯びていく声に、左之助は身の内を震わせた。
「あぁ、剣心・・・おめぇが欲しい・・・ッ」
はっきりと告げられた欲の言葉に剣心、画然くるりと向き直り。
左之助を跨ぐようにして身を縋らせた。
わずかに驚いている左之助、その隙に。
「少しだけ・・・だぞ・・・?」
唇、合わさってしまった。
「む・・・っ」
思わぬ大胆な行動に、左之助は狂喜する。
寄せられた身体を離すまいと、彼の肢体に腕を絡みつかせた。
花びらのように柔らかな唇を割り開き、舌先を荒ぶらせ・・・
「ふぅ・・・、ん・・・っ」
少しく戸惑ったように眉根を寄せた、剣心。だが、それのみだった。
彼もまた、同様に両腕を絡ませ・・・しっかりと、抱きすくめる。
寄せ合った肌と肌の狭間、にわかな水音が洩れ。
急激な呼吸の乱れ、無数の吐息・・・
・・・剣心は、唇と唇に橋を架けながら左之助に囁く。
「左之・・・来い・・・このまま、来い・・・」
「剣心・・・ッ?」
予期せぬ申し出に、さしもの左之助も戸惑いを見せた。
少しく肌を離して面差し、見ようとする左之助の仕草を敏感に悟り、剣心はキュッと彼にしがみついて視界から逃れた。
「このような所・・・いつ、誰が来るかわからぬ・・・だから、だから左之、早く・・・ッ」
「い・・・いいのかよ・・・? まだ、おめぇの身体は・・・」
「かまわぬ・・・かまわぬよっ。拙者とて・・・っ」
胸乳と胸乳の隙間に、剣心の右手が潜り込んできた。
やや熱を孕んだ指先が、巧みに左之助の高ぶりを探り出すと絡みつき。
左之助、わずかに息を呑む。
「一寸たりとて、居たくはない・・・このようなところを誰かに見られでもしたら・・・っ」
「わかった・・・焦らせちまって、すまねぇなぁ・・・じゃぁ、遠慮なく入らせてもらうぜ」
屈強な両腕が、にわかに・・・剣心の下肢を持ち上げた。
何度となく味わってきたはずの瞬間を思い出し、腕の中で白い肌が震えた。
「ゆっくり・・・いくからな・・・」
剣心の身体を・・・火にあぶられた塊が入っていく。
左之助、瞬きすることなく彼の面差しを凝視し。
剣心、苦痛に顔を歪めながらも彼の眼差しを凝視し。
やがて・・・
「はあぁ・・・。入った、ぜ・・・剣心・・・」
「左、左之・・・っ」
「大丈夫か・・・痛くはねぇか・・・?」
「ん・・・少し、痛い。だが・・・」
両手でそっと、男の頬を包み込む。
剣心の両眼が、薄く雫を滲ませていた。
「お主が、拙者の中にいる証拠・・・嬉しくないはずが、ござらぬ・・・」
「へッ・・・嬉しいこと、言ってくれるぜ・・・剣心ッ」
やや、下卑た微笑みを見たのが、剣心の正気の最後。
左之助、やにわに腰を貫いた。
「あッ!」
湯殿いっぱいに鋭い声音、一つ。
背が弓なりに反った剣心を、左之助の腕が支え。
喘いだ彼を、だがさらに追い立てていく。
「やっ、あっ、あぁ、左之・・・ッ」
左之助は、没頭した。
「あぁ・・・剣心っ。いいぜェ・・・っ」
待ちに待ったこの、感触・・・感覚。身体の芯から溶けだしてしまいそうな、消滅してしまいそうなほどの快美の荒波。
表情をとろけさせ、だがしっかり彼の華奢な腰を固定して、己が熱き鋼を下から上へ強く突き上げる。
身体の中心は、愛しい者の中。
その存在が、赤毛の人を極楽の世界へと誘おうとしている。
「はっ、アァ・・・ッ、左之ぉ・・・っ」
屈強な身体に貫かれながらも、剣心はしっかりと膝できつく、左之助の身体を捕まえていた。
「左之・・・左之っ。あぁ・・・このままでは、のぼせてしまう・・・ッ」
「まだ湯にも浸かってねぇのに、のぼせちまうのかィ? 気が早ェなぁ」
蠢く腰を止めもせず、左之助はニヤリと笑って揶揄する。
「バ、カ・・・っ。拙者は、本当に・・・っ」
「心配するな。そン時ァ俺が、連れて帰ってやっから。着物も俺が着せてやっからよ。安心して、昇天しねェ」
「何を・・・馬鹿なことばか、り・・・ッ」
「俺ァ本気だよ、剣心」
舌なめずりをして、左之助はうっとりと囁いた。
湯に煙る赤毛の人は、
この上なく艶美だった。
霧の向こうに立ち尽くしているような、儚げな空気が漂うも・・・
湯露を四方に散らし、華麗な舞を見せている姿は、露を孕んだ薊(あざみ)。
否が応にも手折りたくなるというものだ。
「剣心・・・おめぇ、腰が動いてるぜ・・・?」
「あ・・・っ、言うな・・・ッ」
「ヘヘヘ・・・」
赤毛が降り乱れ、湯を吸い上げて白い肌に張り付く。
その一端が己が肌に張り付くと、左之助は嬉しそうに笑う。
髪の毛までもが俺を欲しているのか、と。
「・・・思っていた、通りだぜ・・・」
「・・・え・・・?」
視界を朦朧とさせつつも、剣心は左之助の呟きを耳にする。
もう、これ以上は無理だった。
絶頂が近いことを告げようとした、矢先、
「おめぇは、湯に濡れるとたまらなく艶美になる・・・ッ」
「あ、左之、左・・・ッ」
「クッ・・・」
二人が共に、極楽を垣間見てしばし・・・。
脱衣場のあたりがにわかに騒がしくなりつつあることを、左之助はぼんやりと気づき始めていた。
「大丈夫か、剣心?」
傍らで歩む赤毛の人に、左之助は心配そうな眼差しで彼に問う。
このざまに仕立て上げたのは、他ならぬお主ではないかと言いたかったがそこはそれ、剣心、道行く往来、人の目もあるため憚った。
気が付けば、脱衣場で既に着衣した状態だった。
いつのまに、と思って身を起こしてハッと気づく。
下帯をしていない。
ちらりと傍らを見遣れば、やや照れ臭そうに笑みを浮かべている左之助がいた。
そこで、自分が湯殿で上せて気を失い、その後の諸事をすべて、左之助がこなしたのだと知ると、顔面から火が出た。・・・着物を着付けることは出来ても、下帯までは出来なかったのだ。
剣心は慌てて左之助と共に湯屋を後にしたのだが、足下がどうもおぼつかない。これではまるで、酒を飲んできましたと告げているようなもの。まさしく千鳥足という足取りだから、ますます剣心、不機嫌になる。
否、左之助の希望だからと叶えてやったものの、よくよく考えてみれば、随分と自分はこの男に甘いものだと反省した。
かといって、そんな自分の態度が改まるわけでもないとわかっているから、余計に始末が悪い。
どうのこうのと文句を付けてはみるが、詰まるところ、すべては自分の詰めの甘さ。
何ということかと剣心、吐息ばかりが口をつく。
反面、左之助。
彼は剣心と肌を重ねられた嬉しさを噛みしめていた。
無論、剣心の不機嫌が気にはなるが、左之助の脳裏は湯殿での情事を反芻していた。
「なぁ・・・剣心。怒ってンのかよ?」
「・・・怒ってなど・・・ただ、お主に甘い拙者が、情けないだけだ」
「へぇ?」
「お主の要望だと、ついつい拒めぬ。駄目だとわかっていながら拒絶できず、あるいは・・・この身体が応えてしまう・・・」
「剣心・・・」
つと、歩を止めて。
剣心は左之助を見上げた。
湯当たりのためだろうか、やや頬が朱に染まっている。
左之助、まじまじと剣心を見つめた。
「仕方ござらぬよなぁ。こいつは・・・惚れた弱みでござろうしなぁ・・・」
「け、剣心っ」
「おっと」
抱きすくめようと腕を伸ばしてきた左之助を剣心、巧みにひょいっとかわしてしまった。
左之助の腕、虚しく空を斬る。
「ここは天下の往来でござるよ? 少々控えてもらわねばなぁ」
「なんでェ、俺の要望には応えちまうんだろ? だったらそんなの・・・」
「時と場合による、でござるよ」
にっこりと微笑み、剣心は再び歩み出す。
「しかし・・・左様でござるなぁ・・・それほど求めてくれるならば・・・今宵、拙者がお主の長屋へ行ってやらぬでもない」
何気なく、風に紛らせるように小声で呟いたその台詞、よもや左之助、聞き逃すはずがなかった。
「なっ、何だってッ? 今、何て言ったッ?」
「はて? 何と言ったでござるかなぁ? 拙者、最近物覚えが悪くなって・・・」
「てめぇッ」
先をゆく剣心を、千鳥足の剣心を、左之助は追いかける。
互いに互いの面差しは見えぬ。
されど、
互いに互いの面差し、容易く想像することが出来た。
時は暮れ六、逢魔が時。
互いの心に何が住み着くも、彼等の心根に敵うものなど、おらぬだろう。
了
背景画像提供:「 Kigen 」さま http://www.sobunet.co.jp/
拝啓 〜 「抑えがたきは、この・・・」編(改訂 06/03・16)
HP「フル・スロットル」さま二周年のお祝いに差し上げた一編です。が・・・。
こうして改めて振り返ってみると・・・。
若いなぁ、自分(笑)!!!
文体も、なんだけれど、何が若いって・・・なんだこの物語は、
メチャメチャ自分の欲の塊じゃないか(笑)! 左之助の欲情の仕方も若いし!
銭湯でヤっちゃってるし(笑)!!
・・・今の自分では決して書かない、いや、書けないであろうシチュエーションで
ヤっちまってるよ・・・(笑)。あぁ、この頃の若さとパワーが懐かしいなぁ(^▽^;)♪
でも、今のぢぇっとを形成するに当たって一つの要素となっていることは、
逃れようのない事実ですね(笑)。
あぁ、恥ずかしい・・・(><)!!
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