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「裸の逆刃刀」

 ふわりと漂う風が、生温い。
 こんな塩梅が一番、左之助は大嫌いだった。
 幸い、今日は目に染みるような陽の光。
 ・・・なのに。
 なんだというのか、この湿気の多さはっ。
 風に含まれる水の匂いに、左之助はついついしかめっ面をしながら歩を進め。
 それでも背を靡く赤いはちまきが少しく、誇らしく。
 下袴に手を突っ込み、彼は一定の調子で歩を刻む。
 歩き慣れた道、通い慣れた道。
 きっと目を閉じたままでもこの道を歩き、目的地まで到達することができるだろう。
 彼にはその自信があった。
 確信のない自信が。
 いつしか彼の胸の中、何やら浮き足立つものが沸き上がってくる。
 先ほどまでの不快はどこへやら、口元の歪みようは明らかに「笑み」で。
 ついには鼻歌までもが混じってくるのだから、心変わりの素早さたるは、俊敏たる風すらも及ばぬ。
 「あ〜、それにしても暑ィなぁ・・・。剣心、西瓜でも冷やしてねぇかな」
 少しく頭上、御天道様を恨めしく睨みながら左之助はぼやいた。
 やがて、視界の中に立派な門構えの屋敷が見えてきた。
 神谷活心流・剣術道場である。
 が、そんなところに用はない、とばかりにスッと素通り。
 まっすぐに歩き続けて角を曲がり、神谷家の正門を視界に捉えた。
 自ずと、足が速くなる。
 キュッと踵を鳴らしてクルリ、右へと曲がればそこはもう、神谷家の敷地内。
 「あっ、左之助ッ」
 最初に彼の姿を見つけたのは、神谷家に居候し、かつ門下生である明神弥彦。彼は肩に竹刀と胴着を担いでいる。
 「よぉ、弥彦。出稽古か?」
 「あぁ、そうなんだけどよ・・・」
 チラリ、弥彦は屋敷の奥へと視線を走らせる。
 「・・・薫が、まだ来ねぇんだよ」
 やや苛立ったように、彼はこぼす。
 「嬢ちゃんが? ハハ、出稽古だってェのに何をめかし込んでンだか・・・」
 「誰がめかし込んでる、ですってッ?」
 にゅっと。屋敷の奥から突如として姿を見せたのは、神谷道場が師範代・神谷薫その人。二人の会話をしっかり聞いてしまったのだろう、目尻の辺りがにわかにつり上がっている。
 「悪かったわね、遅くなってッ。女はね、いつだって支度には手間取るものなのッ」
 「ハッ、それならもっと早くから支度を始めりゃいいじゃねぇかっ。ほらみろ、そろそろ出ねぇと、また前川さんを待たせちまうぜっ」
 軽く笑い飛ばし、弥彦は強く言い放つ。・・・とてもではないが、師範代に向かって言う言葉ではない。
 「うるさいわね、わかってるわよ! それじゃね、左之助っ。行くわよ、弥彦ッ」
 左之助への挨拶もそこそこ、薫は弥彦を半ば引っ張っていくようにして屋敷を出ていく。
 待たされていたのは弥彦だというのにこの気性。弥彦もその点はわかっているのか、あるいは慣れてしまったのか。やれやれといった顔つきで薫に従って行った。
 「相変わらず、我が儘な嬢ちゃんだねェ」
 吐息とともにそう言うと、左之助は一寸ばかり忘れていた暑さを思い出す。じっとりとした感触に顔を歪め、ふと空を見遣る。
 陽が、眩しい。
 「・・・あ、西瓜があるのか、訊きゃぁ良かったなぁ・・・」
 己の愚かさをわずかに恨んだが、だからといって悔やんでいるわけではない。
 言葉には出さなかったが、屋敷には剣心がいる。買い出しに行くならこれからかもしれないが、行く必要がなければ私室にでもいるはずだ。もう少し時間が経てば、洗濯物も取り込むだろう。
 いずれにしても、何か腹の足しになるものは出してくれるはずだ。
 左之助は屋敷内に上がらずに、厨の近くにある井戸へと足を向けた。・・・西瓜があるなら、そこで冷やしているはずだからだ。
 案の定、井戸では西瓜がぽっかりと浮かんでその姿をさらしていた。
 どこから手に入れたのか、あるいは買い入れたのか、そんなことは左之助にとって興味はない。
 重要なのは、今、ここに西瓜がある、しかもよく冷えていて食べ頃である、ということだった。
 「こいつぁ、剣心にちょちょいっと切ってもらわなくっちゃなぁ」
 左之助は浮かれる心を抑え、屋敷の離れへ・・・剣心の私室へと足を向けた。
 チリン、チリン・・・と囁く風鈴の音が心地よい。暑さもスッと引くものだ・・・
 という風流なものの考え方ができるほど、左之助は情緒に溢れてはいない。
 縁側へ上がり、ヒヤリとした冷たさを足の裏で感じ取るとそのまま、
 「剣心ー」
 呼ばわりながら障子を開けた。
 「・・・・・・」

 つと、言葉を失って左之助、その場に立ち尽くした。

 部屋の中には、確かに剣心が、いた。
 いたのだが・・・
 部屋の中央にて正座し、逆刃刀を抜いていた。
 懐紙を唇にくわえて。

 何を、しているのだろう。

 左之助は敷居を跨ぐことすらできず、身体の芯を凍らせてしまった。
 一歩を踏み出せない自分に驚くことよりも、剣心を取り巻いているその空気に、驚きを感じていた。
 ・・・見たことのない面差しだった。
 強いて言えば、「剣心」でも「抜刀斎」でもない・・・
 いや、男でも女でもない・・・

 何・・・だッ?

 ざわりと心、波立った時。
 刀身を見つめていた眼差しが、ふと左之助を捉えた。
 その面差しは既に、「剣心」のもの。
 左之助を見て剣心は、にっこり笑うと。近くにあった奉書紙を手にとって、刀身を挟み込むと下から上へ・・・切っ先へ向かってスッと拭きあげた。そしてもう一度、刀身を見つめ返すと手早く、黒鞘の中へとカタリ、収めた。
 ここでようやく、くわえていた懐紙を外し、
 「いつからそこにいたのでござるか? まったく気づかなかったでござるよ」
 何という失態だ、とでもいうように剣心は苦笑して見せた。
 「まったくだぜ。こうしていても気づかねぇみてェだからよ、いつ気づくか、ちょいとここで眺めていたのよ」
 「そのような意地悪を。・・・中に入らぬか、左之。そこでは暑かろう?」
 「あぁ、邪魔するぜぇ」
 普段の剣心の気配に、左之助はようやく身の強張りを解いた。ホッとわからぬように吐息を付いて、彼は重く感じていた敷居をひょいと跨ぐ。
 「何をしてやがんだ? 逆刃刀なんざ抜いて、物騒だな」
 「そうか? たまには手入れもしてやらねばなぁと思ってな。幸い、今日は買い出しに行かずにすんだでござるから。今のうちに、と思って」
 言われてみて気づいたのだが、確かに彼の近くには手入れの道具と思しきものが置かれてある。
 どうして気づかなかったのだろう。これらを見ていれば、彼の行為も合点がいっただろうに。我ながら観察力が足らぬと小さく自嘲したが、それも偏に、剣心のあの「気配」ゆえであったことを彼は気づかない。
 ・・・自分が、あの「気配」に呑まれていた、ということを。
 「じゃぁ、用は済んだんだな? それならよ、西瓜を切ってくれよ。あの井戸で冷えているやつ」
 「それはダメでござるよ」
 またしても満面の笑みを刷いて剣心、ためらいもせず一蹴した。
 逡巡もなく返答されたことに、左之助は思わずムッとする。
 「どうしてでェ。冷えて食べ頃じゃねぇか」
 「あぁ、そうだな」
 「あぁ、そうだなって・・・オイっ」
 「駄目なものは、駄目でござる」
 「だからどうして、」
 「あれは、出稽古から帰ってきた薫殿と弥彦が食べる西瓜でござるよ。お主が食べて良い代物ではござらぬ」
 「・・・なんだよ、そいつは」
 「まぁ、どうしても食べたいというのなら、二人が帰ってくるのを待つでござるよ。お主のことだ、夕餉も食べて行くのでござろう?」
 微笑みながらさらりと言いのけられて、左之助は二の句も継げぬ。
 それを見越してのことなのか、
 「さて、洗濯物でも入れてくるでござるかな」
 膝を立てると剣心は、仏頂面の左之助を捨て置いてゆるり、中庭へ降り立ったのだった。






 ある日の、夕暮れ・・・
 ぽつぽつと。
 頬に感じた水の感触。
 「ん?」
 ふと視線を上げれば、
 「うわっ」
 まともに瞳の中、雫が入り込んできた。
 「なんでェ、雨かよ」
 小さく舌打ちし、夕闇押し迫る空を睨め付ける。
 刻限は恐らく暮れ六ツほどだろう、今から走れば夕餉にはまだ間に合うはずだ。
 ・・・そう、神谷道場でのうまい夕餉に。
 雨もぽつぽつ降り始め、腹の虫も鳴り始め。
 「さぁて、ひとっ走り・・・」
 空模様の怪しさに、待ちゆく人々も足早に通り過ぎていく。
 左之助もまた同様に、歩を進み出そうとしたその、矢先。
 「!」
 長身が鮮やかな身のこなしでタンッ、右側へ寄った。
 後から追いかけるように視線を流せば、
 「ヤッ」
 懐の下、突き上げるようにして鈍色に光る切っ先が。
 「おっと」
 左之助、余裕綽々と後ずさり、
 「俺を背中から襲うたァ、いい度胸をしてンなぁ、兄さんよ」
 ニッと笑って拳を握り、構えて見せた。
 「しかしまぁ、喧嘩を売るにしてもだなぁ、光り物はどうかと思うぜェ? 物騒でいけねぇや」
 軽く肩を竦ませて見せる左之助に、腰を低く睨み据えている男、無言のまま微動だにしない。
 歳の頃は、恐らく左之助とさほど変わりはないだろう、精悍な顔つきが目を引く。瞳の輝きも凄烈な、意志の強さを感じさせた。
 女どもが放っておかねぇだろうな。
 心の片隅でそんな感想を洩らしつつ、左之助は男をしげしげと見遣る。
 が、どんなに矯めつ眇めつしてみても、一向に思い出せない。
 自分に刃を向けてくるぐらいなのだから、きっとどこかで喧嘩の一つでも起こしているはずなのだが・・・
 「なぁ、俺とどこかで会ったか? どうにも思い出せねぇんだがよ」
 指先で頬を掻きつつ、首を傾げてみせる。
 しかし、それらの仕草すべてが、男にとっては挑発以外、何ものにも見えず。
 ギュッと。両手で握りしめていた匕首をさらに握りなおした。
 「斬左をやりゃぁ、名が売れるッ。それだけのことよッ」
 「あぁ、なるほどなぁ。だから見覚えがねぇんだ」
 と、納得し。
 左之助は、にぃ・・・不意に凄絶な笑みを浮かべた。
 「いいぜぇ、来なよ。そんなに欲しけりゃくれてやらァな。実力で持っていきな」
 ちょいちょい、指先で男を呼んだ。
 「こ、の・・・ッ」
 怒り浸透した男、両脚を蹴り上げるようにして加速した。
 切っ先、左之助の腹部に狙いを定め。
 「フン・・・」
 左之助は小さく鼻を鳴らし、まっすぐに飛び込んできた刃を寸前で、ひらりと交わし。
 「俺を殺すなら、」
 眼下に男の後頭部、左之助は右腕を振り上げ、
 「大砲でも持ってきやがれッ」
 ガッ。
 振り下ろされた右腕が、唸りをあげて後頭部にものの見事に直撃。
 雨粒、飛沫となって飛び散り・・・
 「ぐ、はぁ・・・っ」
 男は一瞬で意識を消失、その場にて昏倒した。
 「チッ・・・面白くもねぇ。せめて、もっと上手に喧嘩を仕掛けてこいッてんだ」
 半纏の襟をにわかになおし。左之助は忌々しそうに吐き捨てた。
 それにしても・・・
 自分に突きかかってきた時の男の眼差し。あれは殺気に溢れたものだった。
 刃を手にする者は、だいたいは同じ様な眼差しを宿すもの。なのに・・・
 「・・・あいつは違うよな・・・。逆刃刀を握る羽目になっても、殺気の欠片すらなくてよ・・・なのに、叩きのめす力がある・・・いや、殺せるほどの力がある。自ら封じているとは言ってもよ・・・あの、眼は・・・」
 足下に落ちた男を見つめながら、左之助の視界にはあの日の情景が浮かんでいた。
 愛刀の手入れをしている、赤毛の人の面差しが。
 ・・・雨が。
 土にまみれて転がった匕首を冷たく叩いていた。






 「まぁ、ずぶ濡れじゃないのッ! そんな格好で上がらないで頂戴!」
 神谷道場へ足を踏み入れた途端、女性の甲高い声が左之助の鼓膜を貫いた。・・・言わずもがな、神谷薫である。
 「なんだよ。いいだろ、別に。堅ぇこと言うなよ、嬢ちゃん」
 「駄目よ! 誰が掃除をすると思ってンの! すぐにお風呂に行きなさい、沸いてるから! 着替えはあとで弥彦か、剣心に持っていってもらうわ。夕餉はそれからよッ」
 左之助の腹の虫は、先刻から既に鳴りっぱなし。空腹が空腹を呼んでもう、堪えられぬところまできていたのだが、この屋敷の主は薫である。逆らうわけにはいかなかった。
 不承不承、左之助は湯浴みを優先することにした。
 最初は苦い思いで引き受けたことではあったが、いざ湯を背中にかけるとなかなかに気持ちがよい。
 あっという間、上機嫌になってしまった。
 糠袋を手に、冷えてしまった身体にこすりつける。
 「たまには、こういうのもいいかもしれねぇなぁ」
 鼻歌交じりに、独りごちた。
 湯気がもうもう、室内に漂い始め・・・視界が薄くかげった頃合いに。
 「左之助、湯加減はいかがでござる?」
 待ちわびていた声が、脱衣所の方から飛び込んできた。・・・剣心だ。着替えを持ってきてくれたのだろう。
 「剣心か? いい湯加減だぜェ」
 「それは良かった。ここに着替えをおいておくから、ゆっくりするといい」
 「なぁ、剣心。おめぇも一緒に入れよ」
 戸板一枚、向こう側。
 密やかに、剣心の息が詰まる気配がした。
 冗談めかして言った言葉ではあったが、何やらそのようには聞こえなかったらしい。
 が、それならそれで嬉しいものだと左之助、内心期待に胸を膨らませ・・・
 「何を戯れ言を。馬鹿なことを言ってないで、温まったら出てくるでござるよ。夕餉の支度を整えておくから」
 スッと。立ち去ろうとする気配を感じて、左之助は行動に移っていた。
 戸板をタンッ、開いたのだ。
 両眼を見開いた剣心の面差しが、視界いっぱいに広がった。
 「つれないことを言うな、剣心」
 湯露に濡れた肌のまま、左之助は華奢な身体を腕の中へ取り込む。
 臙脂色の衣装、全身にまとわりつき・・・
 たちどころに、艶やかな唇を奪っていた。
 「んッ・・・!」
 剣心の身体が震えた。
 震えを抑えるように左之助、なおもきつく抱きすくめて。
 瞬時のうちに唇を割り開き、新たな意志を持った舌先、踊らせるようにして侵入させた。
 ・・・あまやかな感触が、口腔内に広がる。
 「ふ、ぅ・・・」
 微かな吐息、滑らかな唇・・・
 「左・・・っ」
 唇、離せば。
 儚い呼吸を繰り返し、瞼を軽く落とした剣心の面差し。
 腕の中にて、力を失いすべてを預けていた。
 それほど、長く口づけていたつもりはなかったのだが・・・
 「・・・左之・・・?」
 左之助の眼差しに気づき、剣心はにわかに身を起こす。

 ・・・ここにいる剣心は、あの時の剣心じゃねぇ・・・

 男でも・・・まして、女でもねぇ剣心・・・もう、見られねぇかな・・・

 左頬へ手を寄せて。左之助は無言のままに彼を見つめ続ける。
 ・・・あれから、数日。
 こうして突然、腕の中へ取り込んでも。
 唇を貪るように奪っても。
 脱力感に支配され、夢現な状態であっても。
 剣心の面差しは「あの時」にはならない。

 ・・・もう、見られないのか・・・会えないのか・・・

 「左之・・・どうした・・・?」
 ぷっつりと言葉を消失してしまった左之助を、剣心は見上げる。
 「剣・・・心・・・」
 身体の奥が、カッと熱くなった。
 何がきっかけだったのか、定かではない。
 ただ・・・
 闇雲に剣心が、欲しくなった。
 「左之・・・っ」
 ある種の感覚が、剣心を襲ったのだろう咄嗟、左之助から逃れようと両腕を突っぱねた。
 が、遅く。
 左之助は彼を抱えると湯殿へ引き込み、戸板をタンッ。閉めてしまった。
 「左、左之助っ! 戯けたことを・・・ッ」
 「うるせぇ」
 「左之ッ」
 「抱かせろ」

 言葉など、飲み込んでやる。
 言葉などいらない、欲しくはない。
 欲しいのは・・・欲しいのは、

 あの時の「剣心」・・・ッ

 「んぁ・・・ッ」
 簀の子の上、組み伏せられた時。
 剣心の袷から荒々しく、左之助は手のひらを潜り込ませていた。
 素早く胸の華を探り出すなり、思うように弄り始めてしまう。
 途端、華奢な身体は上気し始め呼吸、乱れた。
 「左・・・左之っ、やめ・・・ッ」
 「黙ってろ。嬢ちゃん達に知られたくなけりゃな・・・」
 重く沈んだ声の中に、夥しい劣情。
 ギラギラした双眸、
 妖しいまでの・・・淫靡さ。
 剣心の身体に、小さな炎が宿った。
 「左、之・・・っ」
 小さく呟き。
 剣心は、瞼を閉じた。

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