「安らぎのひととき」

 「でえぇい!」
 ガッ、と激しくぶつかり合う音が空気を震撼させ。
 「はぁ!」
 腹の底から沸き立つ声は耳朶を貫く。
 細くも筋の付いた両腕が、勇猛果敢に竹刀を振り上げ切り裂いていく。
 その様、一陣のつむじ。
 「うぉりゃぁ!」
 上段より大きく振りかぶって竹刀を降ろせば、
 「ほっ」
 反面、軽やかな声音を洩らしてもう一つの竹刀が容易く阻む。同時に揺れる赤毛、視界の片隅に映り。
 「やぁ!」
 鋭く突き込んでみても、
 「む、惜しい」
 またしても竹刀に阻まれ、軽く流されてしまう。
 「ク・・・!」
 全く隙がない、見えぬ壁がそこにあるかのような鉄壁の守りであった。
 「畜生!」
 次第にヤケになってきた。どうにも抗えぬ圧倒的な力が目の前にある。
 ・・・崩したい!
 ほんの一打でもいい、打ち込んでやりたい!
 「このぉ!」
 さらなる一打を振りかぶっていくのだが、
 「ほい」
 と、またしても流されて。
 途端、頭に血が上ったその時に、
 「ほらほら、感情的になってはならぬよ、弥彦」
 柔らかな声音にハッと我に返り、彼は思わず頭上を見上げた。
 にこやかに微笑んでいる面差しがあった。赤毛をにわかにこぼし・・・。その額には、汗の一つも滲んではおらぬ。
 反面、自分の姿たるは何と・・・。
 全身汗まみれで呼吸すら乱れて。しかも激情に流されかけた。
 突然、自分が恥ずかしくなった。
 「ハハ、まだまだだなぁ、弥彦」
 背後からの声に、名を呼ばれた少年はくるりと振り返った。
 「うるせェ! おめぇに言われたかねェんだよ、左之助! 毎日毎日、ここで蜷局を巻きやがって・・・!」
 縁側に腰掛けて、左手団扇で悠然と成り行きを見守っているのは精悍なる青年。額に結んである赤いはちまきが、薄く汗で滲んで紅色になっている。
 「へっ、負け犬の遠吠えにしか聞こえねぇぜェ」
 にやにや笑いながら、さらに少年を揶揄する彼に、赤毛の人は苦笑してたしなめる。
 「こらこら、左之。そんなことを言うものではござらぬよ。弥彦は稽古をしているのでござる、日々の鍛錬が一番大事な時期でござるよ?」
 「わかってらァ、そんなことはよ。ま、せいぜい頑張るこった、弥彦」
 「てめェ〜!」
 「あ〜、もう、やめるでござるよ、二人とも」
 苦笑交じりにそう言う赤毛の人、だが本気で止めようなどとさらさら思ってもなく。むしろ、そんな二人のやり取りに和やかすら覚えていて・・・剣心は。ふっと吐息をついて竹刀を降ろした。
 「剣心組」に突如降り注いだ一件、京都での出来事がすべて終わり・・・
 ・・・今は東京の空の下、神谷屋敷内。
 いつもの空気、以前と何ら変わらぬ気配・・・
 気づけば季節も移ろってセミの声、灼けるような日差しの中で・・・
 剣心が弥彦に稽古を付け始めたのは・・・いつからだったか。
 それが、当然のことのように・・・今や、日常の一幕になろうとしている。
 「剣心、もう一勝負! いくぞ!」
 返答など聞かず、弥彦は渾身の力を込めて竹刀を振り上げていった、滲む汗を散らせながら。

 激しく打ち合う二人に、左之助はじっと熱い眼差しを注ぎ続けている。
 特に剣心を、彼は熟視していた。

 剣心の面差しが柔らかいことに、左之助は気づいていた。

 そもそも、彼が弥彦に稽古を付けることすら珍しく・・・いや、大いなる心境の変化を物語っていた。
 ・・・「ただいま」と言って、再び東京に来た・・・自分達とともに。
 それがどんな意味を持っているか・・・
 団扇でパタパタと風を送りながら、左之助は剣心の一挙手一投足を追いかける。
 彼の、弥彦との稽古で見せる表情・・・

 嬉しそうな、楽しそうな・・・

 いままでどこか孕んでいた、
 「陰」たるものはどこにも見受けられない。
 何か悪いものが落ちたような、すっきりした表情で・・・

 「あの野郎・・・」

 口元をほころばせて左之助、独りごちた。

 「弥彦、弥彦ー!」

 と、ひょっこり姿を見せたのは薫。普段とは違う、やや上物の着物を纏っての登場に、弥彦は不意に動きを止めた。
 「どうしたんだよ、薫?」
 「どうしたじゃないでしょ、今日は私の供をしてくれるって約束だったでしょ」
 彼女の言葉に弥彦、ハッと面差しを凍てつかせた。
 「あ、いけねェ、前田先生のところだったか?」
 「軽く汗を拭ってらっしゃい、すぐに行くわよ!」
 薫の言葉に弥彦、ぐるりと剣心のほうへ向き直ると、
 「そういうわけだからよ、剣心、稽古はここまでにしておくぜ! でも、また明日も頼むからな! 絶対だぞ、剣心!」
 ビシッと指を差して、弥彦は念を押すと竹刀を降ろした。
 「それじゃ剣心、出かけてくるわね。夕刻までには戻るから」
 彼女の微笑に、剣心もニッコリと答える。
 「あぁ、わかった。気をつけて行ってくるでござるよ、薫殿」
 「ありがとう! じゃあ、あとはよろしくね」
 薫は弥彦を伴うとそのまま、姿を消した。
 「ふぅ・・・やれやれ」
 吐息をついて竹刀、肩に担いだ剣心を。
 「何がやれやれだ。ちっとも疲れてないくせによ」
 縁側から毒づいてきた男に、彼は苦笑をこぼす。
 「茶化すな、左之」
 「へっ、本当のことだろうが」
 剣心、縁側まで歩み寄るとトン、腰を下ろした。竹刀を傍らに置いて・・・
 「弥彦と稽古をするのは楽しいよ。弥彦を見ていると・・・先が明るいような気がして・・・その、心地よくて・・・」
 「・・・剣心」
 左之助、おもむろに彼の肩を抱き、寄せ付けた。・・・その右手、包帯が巻かれて痛々しい。
 何だと面差し上げた剣心に、彼はすかさず唇を重ねた。
 「ん・・・」
 ・・・剣心は、甘んじて受け入れた。
 彼の唇は久しぶりだったから・・・京都から帰ってきて、本当に久方振りだったから・・・
 つい・・・受け入れてしまった・・・
 抗えるわけが・・・いや、抗いたくはなかった。
 頬に感じるほのかな呼吸・・・伝わり合う、温もり。
 それは夏の温度よりも遙かに高くて。
 とても・・・とても、甘やかであった。
 唇、離れると・・・
 「・・・左、之・・・」
 少しく言葉を洩らして彼の肩、面差しを預けた。左之助、ニヤリと笑う。
 「こっちのほうが、心地いいだろ」
 「馬鹿者・・・妬いているのか・・・?」
 「まさか。ちょいと、言ってみただけでェ・・・」
 剣心は面差しを預けたまま動かなくなった。じんわりと・・・左之助の温もりを味わっている・・・
 煩うものなど何もなかった。
 これほどまでに、心が和やかであることなど・・・
 「・・・剣心」
 「ん・・・?」
 「おめェ・・・今、満たされてっか・・・?」
 「え・・・?」
 「その・・・何て言えばいいのか・・・幸せか、と言えばいいのか・・・」
 「・・・幸せ・・・」
 剣心は目を閉じた。目を閉じて、耳を澄ませてみる。
 ・・・風の音に、蝉の声・・・
 ざわめく草、はためく洗濯物・・・
 そして・・・

 左之助の、鼓動。

 その中に、己が心を騒がせる気配は何一つなくて・・・

 「そう・・・だな。そうかもしれぬ。これが幸せなのだと・・・満たされている、というものなのかもしれぬな・・・」
 「剣心・・・」
 「今まで・・・こんな気持ちになったことがないでござるから、正直わからぬが・・・」
 蒼い瞳が左之助をゆるりと見上げた。唇がふわり、笑っている。
 「満たされているでござるよ、左之・・・拙者は、満たされている・・・」
 「・・・そうか・・・」
 左之助は剣心の肩をさらに強く抱き・・・沈黙した。
 今は・・・ゆるやかに微笑している剣心を見つめていたかったから・・・
 これほど穏やかに、心の底から微笑している剣心など初めてだったから・・・
 そっとしておきたかった。
 いつまででも、見つめていたかった・・・

 ジワジワと鳴きゆく蝉の声、
 ゆるゆると吹き渡る熱い風・・・
 互いの息づかい、互いの鼓動・・・

 あとにはもう、何も・・・

 それはある日の夏、ある日の一幕。

 とうとう、とうとうと・・・

 ただただ、
 流れゆくのみ。




     了


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〜 HP「フル・スロットル」さまへ捧ぐ 〜





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 拝啓 〜 「安らぎのひととき」編

 なんとなく、京都編後の落ち着いた頃の剣心が書きたくて、 書き上げたような記憶があります。
 と、言うよりは。
 幸せになってほしいなぁと願ったいたような気もします。
 日常の、ほんの些細なことさえも。彼にとってはとても大切で 大事なことで、そんなところに幸せを感じるのではないかと。
 微妙なところなんかうまく書けてなくて、表現し切れてないですが(涙)、 ほんわり和やかさが伝わっていればなぁ・・・と思います(^^;)

03.03.15 寄稿
06.07.02 UP