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1月23日(火) 「硫黄島からの手紙」
昨年の今頃、「男達の大和」を観たときにも記したとは思うけれど。
戦争映画を観るときは必ず、それなりの覚悟を持って観るようにしている。
生半可な思いでは、そこに描かれている人々の気持ちを感じ取り、考えることが
できないからだ。戦争映画はいつだって、何かを訴えかけて終わっていく。
そういった意味では、この映画は実に意味のあるものだったのではないかと思う。
◎ 全体的に感じたこと。
総合的に感じたことは、この映画は「ドラマ」ではない。むしろ
「ドキュメンタリー」であるということだ。もちろん、出演されているのは俳優さんだから、
当時のそのままというわけではない。逆に、これは映画なのだから、それぞれが演じている
人物にある程度の、脚色も否めないだろうとも思っている。
しかし、それらをすっぱ抜いてみても、これは「ドキュメンタリー」に値するのでは、
と感じている。
そのため、いわば「泣くために」、もしくは「ドラマを求めて」観に行ったという
人の中には、思っていたよりは感動が少なかった、どこかしっくりこなかった、物足りない・・・
といった、どうにも微妙な感覚を得たのではないかと思う。
それはなぜか。
感情の表現の仕方にあるのでは・・・と、私なりには判断している。
そもそも、監督はあのクリント・イースト・ウッド。数々の名作を生み出した、
いまや俳優業より監督のほうが有名になったのではないかと思えるほどの活躍ぶりだ。
何が言いたいのかというと、彼はアメリカ人である。やはりそこには、アメリカ人には
わからない日本人の考え方や、あるいは視点の違いがある。
この映画の構成ならばおそらく、アメリカ人であれば悲しみや悲哀を呼び起こし、感じさせる
ことが可能なのかもしれない。けれども、あの表現力では日本人から見るといまいち、
悲哀や悲しみが伝わってこないのだ。
それぞれの人物に関連して背景を・・・家族や、硫黄島へ来るまでのエピソードを
盛り込んでいたりするが、いまいち感情表現に欠けている。あくまでそれらは
人物達が背負っている「事実」と「現実」でしかないのだ。
ここからは私の憶測だが、人物達のエピソードを監督がドラマ性のものとして
盛り込んでいたなら、やはりこれはアメリカ人と日本人の感性の違いだと
認識せねばならない。が、意図的に感情的な表現を抜いたと考え、事実と現実として
あのエピソードを盛り込んだのならば、これほど淡々と、かつ厳しいものをまざまざと
見せつけるものはないだろう。
そう考えると、感情的な表現を一切排除していることによって、観客一人ひとりが、
それぞれに解釈することができる。むしろ、そのようにしたのではないかとすら・・・
監督の意図的なものを感じたのである。
◎ 西郷(二宮和也氏)を通して。
主軸の一人として展開していく、西郷。彼の視点、思考は今の世代の若者達を
彷彿とさせる。私達から見れば彼だけが「正常」であり、あとの日本人はみんな、
「狂人」のように見える。それはたぶん、アメリカ人から見てもそのように
写ったはずだ。
栗林中将からは撤退の指令が降りたにも関わらず、「死んでもここから離れない」
という、いわば日本軍独特の思想に殉じようとした上官。その命令に逆らって逃亡を
図った時、同じ兵士である清水から銃口を向けられる。そんな彼を必死に説得して何とか、
生き延びる。次に、清水と一緒に投降を決意、二人一緒では怪しまれるからと
清水が先に投降する。続けて投降しようとした西郷は、結局機会を得られぬままに
投降ができなくなるわけだが、このすぐあと、投降したはずの清水がアメリカ兵によって
射殺されているのを発見してしまう。
数々の惨劇を目の前にしても。仲間が手榴弾での自決を図り、己が頬に血しぶきをあびて
も、西郷は泣かなかった。なのに。清水の死を前にして西郷は初めて涙した。
「生き抜くことに精一杯」「どう、生き抜くか」の気持ちの中にはもはや、
相手を思いやる気持ちは微塵もない。戦争のなせる業の一つだと思う。私が思ったのは、
彼の涙は清水に対してではない。日本兵として戦うも、捕虜になるも、どちらにしても
自分の先にあるのは「死」なのだという絶対的な結末が見えてしまったからだ。
逃げる道は、生き延びる道は断たれたと絶望したゆえの涙ではないかと思ったのだ。
どんな衝撃が彼の心に広がったのか、予想など、思うことなどできない。目の前が
真っ暗になる、なんて陳腐な表現ばかりしか出てこないだろう。
西郷の姿は、現代の若者・・・いや、生きる人々の精神であり、また極限に立たされた
人間の姿を映し出しているものだと思う。
◎ 惜しむらくは。
日本人的感性の捉え方をすっぱ抜けば、これほど完成度の高い戦争映画はないだろう。
いや、ドキュメンタリーはないのではないだろうか。ただ少しだけ、「ここが惜しい!」という
ところがあった。
当時、硫黄島をアメリカ軍は一週間足らずで陥落させられると予測していた。
が、実際は約1ヶ月もかかっている。映画を見ているとこのあたりの時間的な
流れがわかりにくい。どれくらいですり鉢山が落ちたのか、などといったあたりを
うまく挿入していけば、凄まじさと過酷さがよりリアルに伝えられたのでは・・・と思った。
もう一点は、戦略について。栗林中将の作戦が功を奏したからこそ、
硫黄島陥落までにかなりの時間を要した。が、「硫黄島」について、地理的な説明は
ほとんどなく、栗林中将が無言で地図を見つめている場面や、日本兵に戦略を
説明している場面のみであった。
地理的な説明、および外郭を認識できるのは冒頭部分のみであったため、
後半、バロン西や西郷がどのあたりで戦っているのかよくわからず、
撤退するといってもどこからどこへ合流するのか・・・
などといった部分が不明瞭でわかりにくかった。
だが、冒頭部分であれほど地図を見せたのは逆に、よく覚えておくようにと、
観客へ無意識に浸透させようとしたのでは、と少し思ってしまった。
とはいえ、今回の映画は人間としての本質、そしてドラマへ重点を置かれている、
ゆえにこれは「戦争映画」ではない。そういった観点から、今、私が挙げた点は
意図的に挿入しなかったのではないか・・・と考えている。
◎ 総括として。
まぎれもない、これは「反戦映画」だ。
日本軍がどのように戦ったのか、アメリカ軍がどのように陥落させたのか、
そういうことが重要ではなく、そこで繰り広げられていた現実はどのような
ものであったのか、を強く激しく謳いあげている。いや、「謳いあげる」
という表現は的確ではない、「訴えている」と表現したほうが近いかもしれない。
両軍とも、善でもなければ悪でもない。互いに、相手の弱点だと思える部分を、
情け容赦なく突いて戦っている。日本兵はアメリカ軍の衛生兵を狙えと命令され、
アメリカ兵は上官の見えないところで日本兵の捕虜を射殺する。
戦争によって、人間の何が出てくるのかを描き抜いている。
これは、人間の業を、本質を真正面から描ききった作品だと言えるだろう。
そして、日本人もアメリカ人もない、どちらも同じ人間であることを
切なく、痛烈に叫んでいる。作品全体からその思いはにじみ出ているのだ。
何より、評価すべきことは全編、日本語で通してあるということだ。
出演者はみんな、日本人だけれども英語をしゃべるだろうと、
アメリカで製作されたのだから英語をしゃべるだろうと思っていたのだ。
字幕だろうと思っていた。
ところがどうだ、冒頭とエンドロールのみが英語で、日本人の俳優はみな、
日本語で話し通していたのだ。
字幕が出てきたのは、アメリカ兵が話すか、栗林中将といった、英語を扱えた
日本人のみだ。
ここに、イーストウッド監督のこだわりが見えたような気がした。
「アメリカ人が製作した日本映画」。かつて、アメリカ人から見た日本人は
おかしな解釈の仕方をされて、妙な具合に映画に登場してきたものだが。
ここまで深く日本人に対して理解を深め、また当時の日本軍、ひいては
日本兵の思いについて追求してきたアメリカ人、とりわけ映画監督は
いなかったのではないだろうか。
すでに退くところもなく、あとは玉砕あるのみとなったとき、
「天皇陛下、万歳!」と日本兵は叫び、「靖国で逢おう」と言い、
小さな神棚へ一人ずつ、頭を下げていく。
かつて、ここまで日本人を描いたアメリカ人がいただろうか?
この映画は、限りなく真実に近いドキュメンタリー映画だ。
すべての物事が、淡々と進む中で見えてくるのは、命の重さと儚さだ。
日本兵、アメリカ兵、それぞれの背中にある家族や大切な人。思いを
強く寄せても戦火の中であっけなく消えてゆく。戦場の中において、
皆が皆、同等に重く、同等に儚さを持っているのだ。
一度は必ず眼にしておくべき映画だと思う。「アメリカ人が製作した
日本映画」。今後、この先、たとえアメリカ人の誰かが日本映画を
製作したとしても、ここまでのものは出てこないに違いない。
戦争の悲劇と、人種を越えて理解しあう心の大切さを教えてくれた、
クリント・イーストウッド監督に心から、頭を下げたいと思う。
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