〜 年の瀬 〜
きゅうっと身がすぼまるような冷気。
否が応にも意識が冴え渡る感覚は、とてつもなく爽快で。
屋敷内のすべてを開け放てば、さらに解放感に包まれる。
清々しい空気の中・・・
タッタッタッ
軽快な調子を刻むのは、足袋も穿かぬ素足の爪先。
タッタッタッ
一定の調子で軽やかに、廊下を往復していく・・・
華奢な両腕を前方へ伸ばし、
しっかりと雑巾を握りしめ、
クイっと頤を上げてついっと腰を掲げれば、
少しく赤毛を乱れさせてタッタッタッ・・・
廊下を滑り行く。
「・・・ふぅ〜」
この寒空であるというのに、身体中から湯気が昇りそうだ。
それほどまでに肉体は熱を帯びていた。
ふと、動きを止めて思わず額、汗を拭う。
「さて、と・・・」
桶の水に雑巾を浸し、ざぶざぶっ・・・、と洗う。
紅潮していたはずの身体が、一気に寒さに見舞われた。・・・凍てつくような水の感触は、常に笑顔を心がけているこの男・・・剣心の面差しをわずかに曇らせた。
やや骨張ってはいるものの、その白魚の指がしっかりと雑巾を握ってぎゅう・・・絞る。
絞れば即ち再度、廊下へ挑むべく一寸息を止め、
タッタッタッ・・・
軽やかに滑り出した。
時は師走、年の暮れ。
本日は神谷道場、大掃除の日であった。
早朝より始まった作業は、ドタバタ劇を繰り返しながら何とか進んでいた。
もうすぐ昼餉という頃合い、道場の主・薫は厨を、門下生であり居候である弥彦は客間の掃除を行っていた。
もう一人の居候である剣心は、専ら廊下ばかりを拭き渡っている。
現在の住人は、主を加えてもたったの三人。その三人で広い屋敷内の掃除を行うのである、人手はいくらあっても良いのだが・・・残念ながら、その見込みはない。
ひたすら、がむしゃらに頑張らなければ今日中には終わらないだろう。
何しろ、今日はもう二十八日なのだから。
早く片づけてしまわねば、お節料理の準備に・・・食材の買い出しに出かけられなくなる。
・・・という段取りは、実のところ薫ばかりが気にしていることであって。
弥彦は弥彦で新年が来ることへの、闇雲な期待が胸の中で膨らんでおり・・・
かつ、剣心は剣心で、全く別のことを考えていた。
「今日は・・・二十八か・・・」
廊下をひとしきり滑った後・・・ぽつり、言葉を落とした。
あれからもう、何日経ったのだろう。
雑巾と桶を手に、次は縁側を拭かねばと移動を始める。
「左之・・・」
見上げれば、縁の下から見えるのは真っ青な空。この季節には珍しいほどの、雲一つない晴天であった。眩い陽光に目を眇める。
「左之が来なくなって・・・どれくらい経ったのか・・・」
つと。剣心の思考が遠くへ飛んだ。
あれは・・・師走に入って間もなくのことだった。
いつものように道場へ顔を見せ、当たり前のように昼餉を食べ、のんびりと縁側で寝そべっていた男・・・左之助が突然、こう言ったのだ。
「俺ぁよ、剣心。ちょいとした職を見つけたんだぜ」
「え?」
薫と弥彦は出稽古のために留守。それを良しとばかりに、彼は剣心の膝を独り占めにしながら、覗き込んできた蒼い瞳にニヤリと笑った。
「この年の瀬だけなんだがよ、ある大店のダンナから、取り立て屋になってくれねぇかって頼まれたンでェ」
「取り立て屋?」
「あぁ、借金している奴等から、金を取ってきて欲しいってよ」
腕を伸ばし、剣心の左頬に手のひらを寄せながら、左之助はさも楽しそうに笑ってみせる。反面、剣心の面差しは少しく曇った。
「しかし・・・中にはやむなく借金をしている方もいるのでござろう? そういう方からも取り立てるのは・・・」
「わかってるさ、ンなこたぁ。だからよ、俺の場合は取り立てる相手が違うンでェ」
「違う・・・?」
「ダンナさえ手こずる相手・・・ま、言ってみりゃ荒くれどもさ。そいつらから、俺は金を取り立ててくる・・・てわけよ」
十字傷をスルリと撫で・・・指先、首筋を味わいながらゆるゆる降りてくる・・・
剣心、微かに眉根を寄せながら小さく微笑んだ。
「何やら・・・楽しそうでござるな、左之。何か良いことでもあるのでござるか・・・?」
「あぁ、あるとも」
手のひら、ポトリと懐へ落ち・・・奥深くへ潜り込む。ゆるやかであった懐がさらにくつろげられ、白い肌が陽の光を浴びて神々しく輝く。
「荒くれどもを相手にするってこたァ、少なくともひと暴れはできるってことだろう?おまけによ、そいつらから借金を取り立てりゃぁ俺の懐も温かくなる。そいつで俺のツケも払えるうえに、さらに儲けンだぜ? 一石二鳥なんてもんじゃねぇ、一石三鳥ってもんだ」
クックッと喉の奥で笑う左之助は、本当に楽しそうだった。面差しは子供のように無邪気。されど彼の腕、剣心の懐を嬲り続けている。剣心は・・・徐々に息を乱しながらも、そんな彼に苦笑をこぼす。
「全く・・・お主という男は・・・」
「だからよ、剣心。俺、もう少ししたらパッタリ、ここには来られなくなると思うんだ。しばらく顔を見せられねぇかもしれねぇが・・・勘弁してくンな」
「おろ、何を勘弁しろと? 別に怒ってはおらぬが」
「てめぇ」
嬲っていた手、きゅっと胸の華を摘んだ。あっと剣心の顔が歪む。
「俺が来なくなって、寂しくはならねぇのかよ?」
「寂しくなど。どうしてそのような感慨に浸らねばならぬのか」
「素直じゃねぇなぁ。おめぇを可愛がってやれなくなる・・・と、言ってんだぜ?」
「別に構わぬよ? 拙者は平気でござるゆえ。・・・寂しくなるのはむしろ、お主のほうでござろう」
「言いやがったなッ」
左之助、ガバリと身を起こすなり剣心の右腕ムンズと掴み、引きずるようにして背後にあった部屋へと連れ込んだ。
そこは剣心の私室、パシンと障子を閉めると有無を言わさず、唇を奪った。
「むッ」
驚く剣心など論外、左之助は巧みに彼の四肢を絡め取ると、無言のままにしばし、柔らかな羽を貪った。
「左・・・ッ」
どうにか左之助を払いのけようと、身体の隅々へ万力を込めたのだが一向、役に立たず・・・まるで吸い取られていくかの如く抜けていき・・・
「ン・・・ふぅ」
いつしか、畳に伏せられ赤毛を散らし・・・朦朧としていく意識の中で、自らも左之助の唇を味わうに至ってしまった。
・・・しばし。
溶け合う吐息が空気に染み込んでいく・・・
すっかり服従したと見て取ったのだろう、左之助は少しく唇を離すと・・・
「今から、俺の証を刻み込んでやる。独り寝が寂しくならねぇようにな」
不敵に、艶然と笑みを湛えた。
・・・あれから、十日は経っているのだろうか・・・?
雑巾を絞りながら、剣心はとろとろと考えていた。
独り寝が寂しくないように・・・などと。
何と、戯けたことを抜かすのだろう・・・あの男は。
今まで寂しいなどと、思ったことなど・・・
不意に、あの日の左之助の熱さが肉体に甦るようで、剣心は慌てて首を振った。
今は、こんなことを考えているときではない。早く掃除を済ませてしまわねばッ。
剣心、心を改めると敢然、廊下へと挑んでいった。
・・・その日の、夕刻。
どうにか大掃除も終わり、夕餉も済み・・・ゴトゴトと縁側の雨戸を閉めているときだった。
昼間と打って変わって北風の吹きすさぶその中で、肌を竦ませながらも剣心、何かしらの気配を覚えた。反射的にふっ・・・視線を向けたその先に。
「よぉ」
軽く手を挙げ、勝手口を開けて入ってくる男の姿・・・左之助であった。
夜の闇が押し包み、空気もさらに冷気を宿しているというこの頃合い。晒しを巻いた上半身に半纏一枚。見ているこちらが寒くなるような出で立ちに、しかし、剣心は思わず顔をほころばせていた。
「左之ではござらんか。どうした、このような刻限に」
中庭へと降りながら、剣心は歩み寄ってくる左之助へと自ら進んでいった。吹き抜ける北風などなんのその。全く苦には思わなかった。
「なぁに、ちょいとこっちのほうまで来たもんだからよ。つい、おめぇの顔が見たくなっちまって・・・。剣心、寂しくはねぇか?」
漆黒の、短い髪を掻きながらそう言った左之助が微笑ましくも・・・剣心の面差しは一切、本心を滲ませない。
「ハハ、寂しくなど。ここには薫殿も弥彦もいるでござるからな」
「チッ、可愛げのねぇ」
フンっと鼻を鳴らしながら、彼の瞳は赤毛の優男から離そうとはしない。しっかりと彼を見据えながら、ぼそりと言う。
「・・・もうしばらく、ここには来られそうもねェ。それだけ、言いたくってよ・・・」
ズクンっ
剣心の胸、痛みを走らせた。
まだ・・・会えない。
ゆっくり・・・会えない・・・
巡り行く複雑な想いに、彼はすぐに言葉を刻むことができなかった。一つ呼吸を置き、ようやく言えた言葉は、
「・・・そうか・・・。しっかり、お役目を果たすことでござるな、左之」
苦笑交じりにこれだけであった。
この時。
明らかに左之助の表情にありありと、落胆の色が燃え広がった。瞳、わずかに濁る。
・・・左之助はもうそれ以上、剣心を見ようとはしなかった。
「まぁ・・・そういうこった。年が明けたらまた来るからよ、いい年を迎えてくンな。じゃあな、剣心」
左之助、クルリと踵を返した。
ところが、ここから先のことは剣心にとっても予想外であった。
幾度となく彼のことを考えてはいたが、寂しいなどとは露ほども思わなかったものである。それが、「惡」一文字を見た途端、
「左之っ」
彼の半纏を、裾を掴んでしまったのである。
剣心は心底驚いてしまって硬直、動けなくなってしまった。
・・・止まった視界の中で。
左之助・・・ぴたっと足を止めてゆるり・・・顧みた。
「ど・・・どうしたんでェ、剣心・・・?」
左之助、目を見開いて剣心を見つめ。
剣心もまた、戸惑いを隠しきれないまま左之助を見ていた。
どうしたと言われても・・・
どうしてなのか自分でもわからないのだ。なにゆえ・・・左之助を引き留めてしまったのか。
「あ、いや・・・何でもござらぬよ、左之。左之も・・・いい年を迎えてくれ」
パッと手を離して懐へ隠し、剣心は瞳を伏せた。
・・・赤毛、靡いて彼の頬を押し隠す。
少しく・・・沈黙が流れた。
剣心は顔を上げることができず、左之助の足先ばかりを見つめていた。
左之・・・どう思ったのでござろう。きっと・・・おかしな風に捉えて・・・
「・・・剣心」
「ん?」
呼ばれて剣心、反射的に面差しを振り仰いだその途端、
「!」
左之助の唇、剣心の唇を掠め取っていた。
目が、点になった。
「さ、左之ッ?」
「ハハ、またなぁ、剣心っ!」
ニヤリと笑って踵を返した左之助は、綺麗に「惡」一文字を見せつけながらそのまま、勝手口へと走っていき・・・姿を消した。
まさしく風来坊、風の如し。
「さ・・・左之・・・」
網膜に焼き付いて離れぬはずの彼の姿、だが、現実の視野から消え失せたとき・・・剣心の心にぽっかり、風穴が空いた。
・・・しかし。
「左之・・・」
指先、唇へ寄せる。
そこには確かに、彼の唇の感触が残っていた。
軽くも・・・そっと触れて去っていった左之助の唇・・・。
もっと・・・触れていて欲しかった・・・
「・・・左之・・・」
星が瞬き始めた空の下、剣心は唇に触れたまま微動だに動かなくなっていた。