〜 元日 〜
元日。
眩い光りに包まれ、新たな年は訪れた。
真っ青な空が、新年を祝福してくれているかのように天高く澄んでいる。
身も心も清らかになるような、そんな錯覚さえ起こしそうになるというのに・・・
「ふぅ」
新年早々、ため息をついているのは剣心である。
お節料理に舌鼓を打ち、若水で沸かした茶を口にしながらも・・・なにゆえか、うかぬ顔。
「剣心、黒豆食わねぇのか? オレが食っちまうぜ」
しばしば箸が止まる剣心に、弥彦が怪訝そうな顔で見つめてきた。それが彼なりの気遣いであることを知っているから、剣心は慌てて笑顔を浮かべる。
「あぁ、構わぬよ。育ち盛りでござる、拙者の分のご馳走も食べてしまうといい」
「何言ってんだよ。剣心も食わねぇと意味がねぇだろ」
「そうでござるか?」
「そうだよ」
「ハハ・・・ありがとう、弥彦」
仏頂面で頷く弥彦に、剣心は苦笑をこぼした。
弥彦にまで気遣われるようでは、まだまだ自分も甘い・・・。そう、内心で自らを叱咤しながらも、この不具合をどうすることもできないでいる。
身体が重いのである。
「だるい」、とも言うだろうか。
この二、三日前から身体が重く、思うような動きがとれない。しかも・・・、
「それにしても・・・薫、戻ってこねぇな。誰なんだ? 客は・・・」
弥彦の言葉に、剣心の思考は中断した。顔を上げ、言葉を受ける。
「左様でござるなぁ・・・戻ってこぬでござるな」
先ほど、玄関口で呼ばわる声がしたため薫が出向いていったのだが・・・戻ってこない。一体誰なのだろう、様子を見に行った方がいいかもしれないと剣心、思い定めた時、
スッ・・・と障子が開いたかと思えば、
「剣さーんッ! 明けまして、おめでとうございますッ」
その場にて三つ指をつき、軽く頭を下げた女性の姿・・・牡丹の柄が艶やかな、紺色の晴れ着に袖を通し、黒髪を一つに纏め上げて簪一本、彩って。
一体誰なんだと剣心と弥彦、目を見張ってみれば・・・
「おぉ、恵殿でござったか。明けましておめでとうでござりまする。本年もよろしくお願い致すでござるよ。しかし・・・どこの娘さんかと思ったでござるなぁ」
途端、この一言に恵、容易く狂喜した。
「まぁ、嬉しい! ありがとう、剣さん! さあさ、一献差し上げましょう。ね?」
ずずいっと膝を寄せ、さっそくとばかりに銚子を手に取る恵を見て、すかさず薫の声が飛ぶ。
「ちょっと、恵さん? その役目、今まで私がやっていたんですけど」
「あら、別にいいじゃない? 私が引き継いだって、何の問題もないでしょう?」
「そうじゃなくて、」
「だったら何? 私は剣さんにお酌がしたいの。それじゃいけない?」
少しずつ険悪な空気に下降していくこの状況に、
「か、薫殿、恵殿ッ?」
おろおろとしながら見つめる剣心。対照的に、
「正月早々、啀み合ってんじゃねぇよ。別にいいだろ、どっちが酌をしたってよ」
出汁巻きをつまみながら、弥彦は冷静に言い放っていた。
薫、その言葉にわずかに正気を取り戻し、
「そ・・・それもそうよね。お正月早々、啀み合うもんじゃないわね。それに、お酌なんて私だったらいつでもできるわけだし。剣心はうちの居候ですからねー」
何気なく彼の所有権を知らしめながら、ここはひとまず薫のほうが折れた。
恵、もはや何を言われてもどこ吹く風。剣心を独り占めできるのならばそれでよいのだと、さらに膝を進めていく。
「ささ、どうぞ・・・剣さん」
カク、と猪口に銚子を当て・・・酒を注ぎ。
「かたじけない、恵殿」
剣心、クイッと飲み干した。
「お味はいかがです?」
「なかなか、美味しゅうござるよ」
「それは良かったですわ」
目と目で見つめ合う・・・というような光景に、やっぱり薫、腹の底が煮え立った。が、ここまできても怒りを爆発させないのは、偏に正月であるからという一念のみ。しかし、我慢も限界であった。
「ちょっと私、お茶を煎れてくるわねっ」
スックリ立ち上がると、急須を片手に居間から出ていってしまった。
それを見た弥彦、大きくため息を吐いた。
「おいおい・・・恵、薫を怒らせんなよ。せっかく上機嫌だったのによぉ」
「何、私のせいだって言うの? 冗談じゃないわよ。お正月にいい人の所に来て、何が悪いのよ」
「まあまあ、恵殿」
苦笑しながら、剣心は恵をなだめる。
「せっかくのお正月なのでござる、あまり目くじらを立てず・・・」
「そうですわね、剣さん。楽しく過ごさなくちゃ駄目ですわね」
「おいおい・・・」
ふぅと弥彦、再び息を吐き。おもむろに膝を立てた。
「仕方がねぇ、オレが薫のところに行ってきてやるよ。・・・だいたい、剣心も悪いんだぜ? 恵のことを褒めるから・・・」
「すまぬ、弥彦」
「いいよ、別に。・・・剣心も大変だな」
少年とは思えぬ大人びた顔つきでそう言うと、
ぱたん・・・。
障子が閉められ弥彦は消えた。
と、恵、二人きりになるや否や、
「剣さん」
つと、姿勢を正した。
何だろうと剣心、猪口を机上へ戻す。
「どうしたのでござる、恵殿?」
「私の目は誤魔化されませんよ。剣さん、体調を崩していらっしゃいますね?」
艶やかさばかりが目を引く唇が、厳しさを宿して引き結ばれている。
剣心、面差しを崩して苦笑した。
「何のことでござるかな?」
「剣さん、誤魔化さないで。瞳に生気がないし、顔色も少し、蒼いようですよ?」
彼女の詰問にしかし剣心、答えない。穏やかに苦笑したままだ。
「・・・恵殿」
「何でしょう」
「拙者は本当に・・・」
「隠しても無駄ですっ」
凛とした声音、一歩も譲らぬという堅固たる態度。これではもう・・・。
とうとう、彼は恵の前に屈してしまった。
「・・・わかったでござるよ。しかし・・・その、黙っていてはもらえぬか、薫殿にも・・・弥彦にも。それから・・・左之にも」
「それでしたらなおさら、私にだけは症状を打ち明けて下さいな。これでも医者の端くれですよ、症状は知っておかないと」
ハハ・・・と剣心、軽く苦笑して。やれやれ・・・と唇を開いた。
「実は・・・二、三日前から身体がだるくて・・・微熱もあるようでござってなぁ」
「微熱? ・・・失礼しますよ、剣さん」
ぴたり。恵は剣心の額に手のひらを押しやった。
・・・なるほど、妙に熱い。
「別に、これ以上高くもならなければ、下がることもないのでござるよ。ただ、この状態がずっと続いていて・・・」
「風邪の前兆かも知れませんねぇ・・・」
自然、彼の首筋に手を当て胸元を見遣ると、医者たる動きに身を委ねながら恵、視線を隅々にまで走らせる。
「・・・わかりました。さっそく、薬を調合して持ってきますわ。それで構いませんね?剣さん」
「承知致した・・・よろしく頼むでござるよ」
・・・夜。
恵の調合した薬を飲み、寝床へ潜り込んだ剣心だったのだが・・・
「・・・熱い」
微熱が収まる気配は全くなかった。むしろ、ますます加熱していくようであり・・・
どうしてこんなに体が熱いのだろう・・・微熱が続いているのだろうと、自らの肉体を苛む正体不明の熱に、剣心は思い悩んだ。
思い起こせば・・・微熱が身体に灯ったのは・・・そう、左之助が不意に現れたあの日からだ。厳密に言えば・・・
「・・・左之の唇が、掠めたあの瞬間から・・・」
鮮明に思い出せる、唇の感触。
わずかに過ぎ去っていった、吐息の温もり・・・
ぽっ・・・と。
あの時、この身体の奥に熱が灯った。
冷めやらぬ、潰えぬ・・・炎が、微熱が。
「左之・・・」
今日は、あの男は来なかった。
取り立て屋としての仕事は終わったはず、だから顔を見せるだろうかと思っていたのだが・・・。
来なかった。
「・・・左之・・・っ」
・・・一つの言葉は、剣心を見えぬ綱で縛り上げた。
熱が、身体を巡る。
血が、沸き上がる。
芯が・・・じくじくと唸りを上げる。
「左之・・・左之・・・ッ」
闇夜に名を紡げど、そこに求める男の姿はなく。
脳裏に姿を止めている映像のみが、剣心の心を焼いた。
「左之、左之、左之・・・ッ」
微熱が高騰を始めた。
身体が・・・疼く。
この身体がこの心が、何を求めているのかはっきり、鮮明に理性へと知らしめる。
「左之助が欲しい・・・ッ」
夜の独り寝はもう、嫌だ。
あの温もりが欲しい、あの抱擁が欲しい、あの圧迫する胸が欲しい・・・
瞳が、吐息が、唇が、すべてが・・・ッ
「左之・・・左之助ぇ・・・ッ」
心が淫らに揺れた。
己を抱きながら、指先が下降を始める。
寝間着の上、胸元から腹部へ、さらに下・・・
裾を割って、下帯へ・・・そこに。
「・・・あぁ・・・ッ」
既に、明らかなる反応を指し示した高ぶりが、雄々しくも天を貫こうとしている。
最愛の者などここにはおらぬのに・・・なんと、はしたないことか・・・ッ
自らのあからさまな反応に心底、羞恥と情けなさを感じつつも・・・
触れてしまった指先は、堪えることができないと代弁するように蠢き始めていた。
下帯を解き、素肌・・・高ぶりを手のひらに捉え。
ひと撫ですればそれは瞬く間、左之助の指先に変貌した。
「はぁ・・・左之・・・」
もはや、それは自分の指ではない。左之助の指だ・・・
「ふっ、ぁ・・・左之・・・っ」
声が・・・どうしようもなく声が洩れた。
吐く息が白く、闇へと薄れていく。
剣心、もぞりと寝返りを打つと俯せになり・・・腰のみを天に掲げ、面差しを褥に突っ伏した。
声を、殺す。
「ふっ、くっ、むっ、左ぁ・・・っ」
渦巻く熱が、高ぶりに集中していく。
指の動きが、いっそう早く・・・激しくなり。
覚えのあるぬめり、手を濡らす。
「むッ、うぅ」
声、こもり・・・
掲げた腰が、布団を払って左右に大きく揺れ・・・
裾が大きく割れている。
画然、
剣心の耳朶に聞こえた一言。
− イけよ、剣心・・・ッ
「ンっ、む・・・うぅ・・・ッ!」
・・・手のひらに。
思いのすべてが迸り・・・指の間をしとどに濡らした。
「はぁ・・・はぁ、左之・・・」
身体に灯った微熱は・・・これで消えることはなく。
じくじくと火照って、剣心の内側にとどまった。
肌に滲んだ汗、冷える頃・・・
・・・温めてくれる存在は、やはりいなかった。