[ 表紙 1  ]



 耳に障る喧噪は・・・遠く、微かな幼子の声。
 笑い、語らい、遊びに興じるささやかな声。
 風に乗ってくるそれらに、陽に透ける赤毛を揺らめかせ・・・
 剣心は。
 そっと、耳を傾けている。
 傾けながら・・・ゆるり、ゆるりと歩を進めている。
 両手を懐に、腰には逆刃刀を。
 ややくつろげられた胸乳に風を孕ませ、
 左頬の十字傷、かすかに赤毛、くすぐる。

 少しばかり、時を持て余した。
 少しばかり用事もない。
 ある晴れた昼下がり・・・剣心はふらり、外へ出た。

 穏やかであった。
 待ち行く人々、
 飛び交う声・・・
 商売の香り、
 暮らしの気配・・・
 空気の中へ溶け込んでいるそれらが、肺一杯に満たされる・・・

 ・・・心地よい。

 ゆるりと微笑を浮かばせて、行く当てもなく歩んでいく。
 つらつら、つらら・・・
 ふわふわ、ふわり・・・
 風に流されるように、ゆるゆると。
 ふと・・・

 「・・・ん・・・?」

 何かの香りが鼻腔を掠めた。
 何だろうと視線を上げてみる。

 「あ・・・」

 思わず声が洩れた。
 視界いっぱいに広がったもの、それは・・・
 青い空の中、ぶわりと・・・いや、スッと立ち尽くしているように。
 そこには梅の木が、白梅があった。
 垣根から顔を出し、枝々を天に向かって伸ばしている。

 「なんと・・・」

 見事な梅だろう・・・白梅だろう。
 微かな香りとともに、凛たる姿でたたずんでいる。
 静かに・・・静かに、気配もなく。
 けれど・・・そこには確かな「感触」があった。
 「自分はここにいるのだ」という存在感があった。
 ひっそりとしていながら毅然と。
 そう、この白梅はまるで・・・

 「ちょいと、そこの剣客さん」

 突然声をかけられて、剣心は驚いて振り向いた。
 そこには、剣心の丈の半分ほどしかない老婆が、じっと彼を見上げているではないか。
 背筋がピンと伸びた姿はかくしゃくたるもので、腰に当てた両手が、無言の威圧感を漂わせている。
 「なんだい。剣客だってのに、あたしがいることに気がつかなかったのかい?」
 やや呆れた物言いをした老婆に、剣心は言い返す言葉もなく苦笑で濁した。
 「いや、面目ない。あまりにも見事な梅でござったから、つい・・・」
 そう言って、剣心は再び視線を梅へと戻した。
 時を・・・老婆の存在を忘れたかのように、食い入るように・・・。
 老婆は黙ったまましばし、剣心を熟視していたのだが・・・彼が微動だにせず、またこちらを顧みようともしなかったから、
 「やれやれ・・・」
と、大きな息を吐いた。
 これでは埒が明かない。この男、ずっとこのままでいるつもりなのだろうか。
 「まぁ・・・どうやら、集英組のモンでもなさそうだし・・・」
 「え?」
 「何でもない、こっちのことだよ。ところでお前さん、名は?」
 名を尋ねられて、剣心は改めて老婆に向き直ると、
 「緋村剣心と申す」
ぺこり、頭を下げた。だが老婆はそのままの姿で、
 「そうかい。あたしゃお六ってンだ。住まいは?」
 「本郷の神谷道場に居候を・・・」
 「おやまぁ、いい歳の男が居候かい? みっともないねェ」
 「ハハ・・・」
 明け透けな物言いに、剣心はただただ、苦笑を滲ませるのみ。もっとも、剣心から考えればそれらはすべて事実である。不快な思いをするはずもなかった。
 何より、この老婆からはあの男の・・・心を通い合わせている左之助の匂いがした。
 自分に正直なぶん、嘘はつけない・・・思ったことをすぐに口に出してしまう性分だろう。さほど言葉を交わしてはいないが、彼女の心根の清さが言葉の端々に感じられた。
 「ま、そんなことはどうだっていいやね。どうだい、剣客さん。うちでお茶でも飲んでいっちゃぁ?」
 「え?」
 「うちの前でそうやって突っ立っていられちゃぁ、こっちが迷惑なんだよ。その梅の木はうちのモンだ、好きなだけ眺めていっていいから、中にお入りな」
 「しかし・・・」
 「なんだい、文句があるってのかィ? せっかく人が親切に・・・」
 「あ、いや、わかったでござるよ。ハハ・・・では、お言葉に甘えて・・・」
 「そうやって最初から素直に応じれば話は早いんだよ。ささ、中へお入りな。すぐにお茶を煎れるから」
 老婆の威圧に気圧された形となったが・・・それでも、剣心は満更でもない気分で敷居を跨いだ。






 中庭にある梅の木は。
 黙って静かに、剣心を迎えた。
 足元にまで近寄ってきた彼を・・・白梅は小さくも華やかな瞳を向ける。
 剣心は、無言で見上げた。
 「あぁ・・・」
 思わず、唇から感嘆の吐息が洩れた。
 青に映える白梅の。
 天を貫く枝々の。
 微かに薫る、その匂い・・・
 質素でありながらも密やかに。
 密やかでありながらもそこにいて。
 どこか・・・心の片隅に必ずいるような・・・
 ・・・そんな、白梅。

 剣心は、記憶の海に沈んでいた懐かしい名を口にして・・・
 白梅を、見る。
 幹へとそっと指を寄せ・・・
 瞼をおろし。
 手のひらをしずしずと這わせて・・・
 胸の中、無数の言葉を寄せていく・・・

 煎れたての茶を手にして、老婆は縁側に姿を見せた。
 そして、中庭にある梅の木へ、寄り添うようにして立っている剣心を見た。
 梅の木へ右手を寄せて、少しく面差し振り落とし・・・
 瞼を降ろしているその姿。
 ・・・老婆は、声をかけることをやめた。
 躊躇わず、やめた。
 彼女は縁側へ腰を下ろし、そっと・・・自分の湯飲みを手にして唇を寄せる。
 視線、彼から離すことなく。

 これほど美しい光景はないと、思った。
 あの梅の木には、自分の様々な思い出が秘められている。
 庭に立っているだけで、それだけで美しいと思ってきた。
 けれど・・・
 あの男は一体、なんなのだろう。
 まるで梅の木と語らっているかのような・・・

 二つの異質の者でありながら、
 一つの者のように見えた。

 老婆は・・・ただ黙って、茶をすする。

 ・・・耳を澄ませば・・・

 ・・・遠く、微かな幼子の声。
 笑い、語らい、遊びに興じるささやかな声。
 鳥、羽ばたき・・・さえずり・・・
 風、ふぅわり流れ行く・・・

 穏やかでありながら、濃厚な・・・
 贅沢な時間。

 今日はいい拾いものをしたものだと、老婆はつくづく剣心を眺めた。
 一目見たときに、彼が梅に対してひとかたならぬ想いを寄せていることはすぐにわかった。
 だからといって、赤の他人を自分の敷地内に招き入れることなど、彼女はついぞしたことがなかった。
 それが・・・よりにもよって無粋なる剣客を、しかも赤毛の優男で左頬に十字傷のある、いかにも胡散臭い男を。
 どうして・・・招き入れてしまったのか。
 つと、考えてみて老婆、すぐに思い当たる。
 あの・・・熱っぽい瞳に自分が惹かれてしまったのだ、と。

 そこまで結論付いたとき、ちょうど湯飲みの茶はなくなり・・・変わりに、
 「・・・ん?」
 何やら、玄関のほうで呼ばわる声がした。
 せっかく人がいい気分でいるというのに、誰なのだろう、訪うて来たのは。
 やや腹立たしく思いつつも老婆、よっこらしょと腰を上げると渋々、玄関のほうへと歩んでいった。






 剣心が老婆の存在を思い出したのは、彼女が縁側から姿を消して間もなくのことであった。
 彼の耳に、何やら妙な物音が聞こえてきたのである。
 「・・・なんでござろうな?」
 まるで梅の木に語りかけるようにして呟くと、剣心は声のするほうへと歩を踏み出した。
 何事だろうと、もと来た道を遡っていくと・・・
 「・・・何度言ったらわかるんだい! ここは私の土地と屋敷なんだ! あんたらにくれてやるモンじゃないんだよ!」
 「やかましい、ババア! とっくにここの土地と屋敷はなぁ、集英組のモンになっちまってるんだよォ! 見ろ、証文だってここに・・・」
 「証文だって? ハッ、笑わせるねぇ! そんな証文、うちの父ちゃんが書くわけがないんだよ!」
 「やかましい! よぉく見な、ここにダンナの名前があるだろうが!」
 「馬鹿も休み休み言いな! 父ちゃんは字が書けなかったんだよ! それがどうして名前なんざあるのさ! どうでもいいから、さっさと帰っておくれ!」
 何とも、剛毅な言葉が飛び交っているではないか。
 剣心の歩みが必然、早くなった。
 「今日はもう、勘弁ならねぇッ。この屋敷、ぶっ壊してやっからな!」
 「あぁ、いいともッ。そんなことが出来るモンならやってみな!」
 「この・・・!」
 「相待った」
 「!」
 一触即発、というこの空気の中にゆらり、柔らかな風が吹き込んだ。
 無数の視線を浴びながら、剣心はその場に凛と立つ。
 玄関には、老婆を前に五、六人の男達が居並んでいた。
 人相風体から察するに、堅気の商売をしているとは到底思えぬ。
 柄の悪い着物は崩れているし、頬や額には傷跡が、何より手にしている得物が無粋の塊であった。
 「やれやれ・・・ご老体を相手に仕込み杖や木槌とは、穏やかではござらぬなぁ」
 苦笑をこぼし、こぼし・・・剣心、老婆の前へと身体を置いた。
 「何事でござるか、これは」
 「てめぇには関係ねェ、すっこんでろ!」
 「そうは参らぬ。無関係というわけではござらぬゆえ」
 「あ・・・?」
 「お六殿には、梅の花を心ゆくまで堪能させていただいた。その恩義がござるよ」
 「てめぇ、何を言って・・・」
 そこまで言いかけたとき。男はつと、気がついた。
 赤毛に・・・左頬の十字傷。華奢な身体に・・・よくみれば、不格好とも言える脇差しを帯びて・・・
 あッ、と男は息を呑んだ。
 「お、お前、まさか・・・緋村剣心・・・」
 「いかにも」
 途端、その場に居合わせた男達の顔色が変わった。
 「それじゃぁ・・・お前が組長が言っていた・・・」
 「組長・・・?」
 ハテ、と剣心は首を傾げた。いつから自分は、極道の世界にまで名を知られるようになったのだろうか。そもそも、そのきっかけなどあったか・・・?
 少しく疑問に思い、尋ねようとしたその矢先、
 「えぇいっ、畜生めッ。引き上げるぞ!」
やけにあっさりと引き下がっていくではないか。
 争い事は起こさぬに限る、剣心は安堵して満面の笑みを浮かべると、
 「相待った」
再度待ったをかけた。
 「何だ、まだ文句が・・・!」
 「その証文、ここで破り捨ててはくれまいかなぁ」
 「何ィッ?」
 さらりと流れた一言に、背を向けかけた男の目がギロリと剥いた。
 が、ぶつかったのは鋭い眼差し。先ほどまで滲んでいたはずの微笑は消え失せ、冷酷な眼光が彼を見据えていた。
 「ク・・・!」
 胸が、居すくんだ。
 二の句が継げぬ。
 「う、うぅ・・・」
 男は呻き、砕けてしまうほどに奥歯を噛みしめると、ぶるぶると手を震わせて証文を勢いよく破ってみせた、一回、二回・・・
 やがて、細かくしてしまうと投げつけるように捨て去り、
 「おい、帰ェるぞ!」
 嘘のような・・・無の空間、音なき空間。しばし・・・
 「やれやれ・・・どうやら、諦めてくれたようでござるな」
 にっこりと笑って剣心、背後を振り返ると呆然としている老婆の姿。ぽかんと口を開けて剣心を見つめていた。
 「な・・・なんだい、いったい・・・」
 いままで何度も怒鳴り込んできた荒くれどもが、この剣客が姿を見せた途端、大人しく引き下がっていった・・・この状況が、老婆にはにわかに信じがたい。
 「あんた、いったい・・・何者なんだい」
 「何者と言われてもなぁ・・・ただの流浪人でござるよ。もっとも、今では神谷道場に厄介になっている身ではござるが」
 カラカラと笑って見せた彼に、老婆はすっかり舞い上がってしまった。
 「何てこったい! あいつらが大人しく帰ったことなんざ、これまで一度だってなかったんだよッ? それが、あんたのひと睨みで・・・凄いねぇ! よっぽどお強いんだねぇ、あんた!」
 諸手をあげて喜びそうな気配の老婆に、剣心は苦笑で濁してばかり。
 「あいつら、あたしの父ちゃんを騙して金を巻き上げておきながら、借金だと抜かして肩代わりに、この土地と屋敷を引き渡せってしつこくてねぇ・・・」
 老婆はこれまでの経緯をものすごい勢いで語り始めた。先ほどまでの毒舌などどこへやら、熱弁を振るう彼女の言葉には、剣心への感謝の思いに溢れていた。
 「あー、久しぶりに胸がスッとしたよ! 何かあんたにお礼をしなくちゃねぇ・・・何か欲しい物はあるかい?」
 「え?」
 老婆のほころんだ面差しを目の前に、だが剣心は微かに首を振った。
 「ハハ、いやいや、どうかお気遣いは無用に願うでござるよ。拙者、そんなつもりでは決して・・・」
 「いいや、駄目だよ! それじゃあたしの気が済まないんだからね。さぁさ、何でもいいから言ってごらんな!」
 それからしばし、老婆との押し問答が繰り広げられていたのだが、どうにもこうにも、彼女は折れようとしない。納得しようとしないのだ。
 これでは埒が明かぬと剣心、とうとう自分が折れるに至ってしまった。
 「わ・・・わかったでござるよ、お六殿。では・・・お言葉に甘えることに致すよ」
 「そうそう、そうやって人の好意は素直に受けておくもンだ。・・・で、何が欲しいんだい?」
 「左様でござるなぁ・・・」
 わずかに視線を逸らし、しばし考えを巡らせていたのだが・・・つと。
 脳裏に浮かんだ一つの物が。
 「・・・では、もしよろしければ・・・」
 老婆、身を乗り出して彼の言葉を逐一洩らさず聞き届け、
 「なんだい、そんなことかい? お安いご用さ!」
ポンッと己が胸を叩いて見せたのだった。




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