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 「口実でござるな」
 「!」
 左之助、グッと言葉が詰まった。だがそんな彼など意に介さずに剣心、また一度茶をすする。
 「馬鹿野郎、本当だ! さっきそこで会って、様子を見てくれって・・・」
 「では、そこまでお主は来ておったのだな、拙者の所を目指して」
 「・・・・・・」
 事実であるだけに、今度こそぐうの音も出なくなった。
 胡座をかき、ぎゅぅと己が下袴を握りしめる左之助を目尻に映しながら、剣心はさらに続ける。
 「拙者は大丈夫でござる。何も心配はいらぬ。二人にもそう伝え、お主は早々に立ち去れ」
 「な・・・!」
 思わぬ冷淡な物言いに、さしもの左之助もカッと頭に血が上った。平然として茶をすする剣心に胸底が熱くなる。
 「てめぇ・・・!」
 バンッ、
 思わず剣心の両手を弾いた。
 ころろ・・・
 湯飲みが転がる。
 不思議なことに、茶はこぼれなかった。
 否、既に茶など中には入っていなかったのだ。
 その事実に気づいて、左之助は怪訝な表情で剣心を見た。
 「おめぇ・・・」
 剣心、サッと視線を伏せた。わずかに影を帯びた面差し、堅く結ばれた唇が蒼く染まる。
 左之助の胸に、不快な暗雲がたちどころに広がった。
 「何を・・・隠してやがる」
 左之助の右膝上がり、ダンと畳を踏み。
 「そんな、青ざめた顔をしやがって・・・こっちを向けよ、剣心」
 ジリリ、身体をにじり寄せ。剣心を部屋の隅へと追いつめていく。
 少しずつ、少しずつ後退していた剣心は、つい手元にあった逆刃刀を握りしめた。その動きが見えぬ左之助ではない、だが何も言わずにさらににじり寄る。
 「言えよ。何を隠してやがる。どうして俺を避ける。何が・・・おめぇをおかしくさせてやがんだよ」
 「・・・・・・」
 「・・・俺とのことが、関係してンじゃねぇのか。そうだろ」
 「・・・・・・」
 剣心は何も言わない。瞬きもせず、強い光を瞳に宿して直視してくる左之助を、だが剣心、真っ向から受け止めることができずにひたすら、目を伏せている。唇をきつく、噛みしめたまま。
 「俺を見ろ、剣心」
 「・・・・・・」
 「見ろってンだ!」
 右手、剣心の細い頤を捉まえてギュイ、己へと仰向かせた。
 震える瞳が、左之助を見た。
 「・・・何だよ、その眼は。おめぇ・・・脅えてんのか? まさか・・・俺が怖いのか・・・?」
 「・・・・・・」
 「怖いのかって訊いてンだよ、剣心! 答えろ!」
 自分でも驚くほどの声量が出た、瞬間のことだった。
 カキリ。
 左之助の下、何か音がした。この気配に一瞬粟立ったが、左之助の腹はすぐさま据わる。
 「・・・斬るか、俺を」
 「・・・・・・」
 「構わねェぜ、俺は。それを怖がってちゃぁ、おめぇに惚れたなんぞと言えるかよ」
 「・・・!」
 「ほら・・・斬ってみろよ。斬らねぇと、本当のことを言わねぇと・・・一昨日の茶屋の時のように、おめぇを淫らに抱くぜ」
 剣心の頬が朱に染め抜かれた。眼前で起きた変貌に、左之助の身体の奥、チリリと何かが火をつけた。
 「斬るか、言うか・・・それとも俺に抱かれるか・・・どうする・・・?」
 いつしか、剣心はすっかり部屋の隅へと追いやられてしまい、身動きがとれぬ状態となっていた。四方八方塞がりで、もはや逃げ場はない。
 「・・・左、左之・・・」
 畳の上についている手のひらが、べったりと汗ばみ・・・染み込んでいく。体重を支えているだけに、滑りそうになって意識が乱される。
 「どうした、剣心。・・・余裕、なさそうだな? 狼狽えてるじゃねぇか・・・眼ェ、泳いでるぜ」
 クックッと喉の奥で笑っているのが聞こえた。微かに動いた喉仏、半纏から見え隠れする脇腹・・・
 剣心、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
 「ほぉら・・・早くしねぇと、また俺の思い通りになっちまうぜ? 俺の思うがままに・・・この身体、嬲られるぜェ・・・」
 頤を捉まえていた右手が離れ・・・指先にて首筋をなぞり落ち。くすぐるような感触に剣心、息を殺すと右手は・・・懐奥深くへと入り込んでいく・・・
 「・・・ふーん・・・やっぱ、まだ・・・痕、残ってンなぁ・・・」
 チラリと視線を流した左之助は、白磁の肌に浮かぶ徒花を見てニヤリと笑った。彼の笑顔に淫らさの余韻を覚え、剣心はとうとう、彼から視線を逸らした。
 「俺から眼ェ逸らすなって言ったろ」
 「左・・・」
 「文句があるなら、本当のことを言ってから言え」
 「・・・・・・」
 「・・・また黙りか? ・・・いいんだな、このまま抱いちまっても。泣いても叫んでも・・・許さねぇぞ」
 「う・・・」
 「幸い、今は俺とおめぇの二人きりだからな」
 彼の台詞に剣心の、血が唸った。
 「・・・おめぇとのあの時間・・・忘れられねェ・・・」
 「・・・!」
 「昨日の今日だってのに・・・昨夜一晩の独り寝がどんなに堪えたか・・・わかるか、剣心・・・?」
 徐々に、徐々に・・・己が肌、寄り添わせ。
 懐の手のひら、脇腹を撫で上げた。
 ゾクッ・・・剣心の身体が震える。
 「夢を見たぜ・・・おめぇの夢をよ・・・。この肌を貪って、印を付けて・・・俺の塊を埋め込んで、喘がせて・・・」
 「左、之助・・・」
 「たまらねぇ、いい声で鳴きやがる・・・なぁ、剣心・・・あの声が・・・俺の耳にこびりついて離れねぇんだぜ・・・」
 今だって鮮明に思い出せる、思い描ける・・・あの時の情景、あの時の声音・・・
 身体に、心に剣心のあらゆる事柄がしっかりと刻み込まれて・・・
 ちょっとやそっとで、消えるわけがない。
 「剣心・・・」
 間近で見る剣心の肌・・・白く眩く映えていて。
 胸元を見遣れば・・・ほんのりと桜色。
 微量に汗ばんで・・・艶めかしい。
 呼吸、乱れてきて・・・
 あぁ、もう・・・
 「・・・欲しいぜ、剣心・・・」
 喉を鳴らして唇を落として・・・柔らかな稜線に吸い付こうとしたその、矢先。
 「だ・・・駄目だ、左之!」
 画然、剣心の両腕が左之助の身体を強く突っぱねた。油断していた左之助は、堪らず後方へと身体を落とした。
 「剣心・・・?」
 なぜだ?
 左之助の両眼に強い叫びが込められ。
 それがわからぬ剣心ではなかった、左之助から眼を離さぬままにゆうるりと首を振って見せた。
 「だ・・・駄目でござるよ、左之・・・」
 「剣心」
 「頼む・・・頼むから、今日のところは・・・帰ってくれ、左之・・・!」
 きゅっと剣心が目を閉じた。何か強い思いを秘めている・・・即座に感取った左之助、パッと両腕を伸ばして彼の両肩を捕らえた。
 「左・・・!」
 「言えよ、剣心! おめぇ・・・何を考えてやがる?」
 知りたい、彼の胸の内を。
 何を考え、何を思っているのか。
 一昨日、そして昨日とあんなに自分の中で乱れていたはずの剣心が・・・どうしてこれほどまでに頑なな姿勢をとるのか。
 あれほど強気で・・・揺るぎない意思と姿勢で自分に肌を許してくれた剣心とは、まるで別人のようだった。
 明らかに何かに脅え、恐れている・・・
 なぜだ?
 左之助には全く、合点がいかなかった。
 「何だよ! 言いたいことがあるならはっきり言えよ! 俺に不満があるのか、それとも・・・それとももう、俺には抱かれたくはねェのかよ! 抱かれることが怖いのかよ!」
 違う、違うと剣心、激しく首を降り続ける。ただただ「否」を示すばかりで・・・
 埒が明かない。
 「・・・帰らねェぞ、剣心」
 つと。左之助は低い声音で言い放った。
 剣心の面差し、強張る。
 「納得のいく答えを聞き出せるまで、おめぇの側から離れねぇからな」
 「左、之・・・」
 乱れてしまった懐を正しつつ。剣心は・・・面差しを伏せた。

 ・・・どうすれば・・・よいのだろう。
 どうすれば・・・

 今、心にあるのは限りない恐怖だった。
 今、心にあるのは限りない欲望だった。
 彼にすべてを委ねたい・・・
 されども、
 怖い・・・
 この先を知ることが、この先に進むことが・・・!
 どうすれば、どうすれば・・・!

 「・・・剣心」

 ズイッと身体を寄せて、左之助は。再び剣心と向かい合った。
 戦慄く瞳が、左之助へと流れる。

 「おめぇ・・・そんなに自分のことを話すことが嫌いか? 本当のことは話せないのか? 本音を話すことが・・・嫌か、恥ずかしいのか?」
 「・・・あ・・・」

 あぁ・・・
 刹那、この男には敵わないと剣心は悟った。
 理由はよくわからない。
 けれども心の底から、これからは決して、この男に勝てることはないだろう・・・勝つことはないだろうと思ってしまったのだ。

 そうとも・・・素直になればいい・・・
 素直に話せば・・・それで良いではないか。
 何を躊躇って・・・言えずにいたのだろう・・・
 あぁ、左之助・・・
 敵わない・・・この男にはもう、敵わない・・・

 自分が、奈落へ落ちていくのが見えた気がした。

 「・・・左之・・・」
 「何でェ」
 「拙者、拙者は・・・」

 左之助の半纏に、剣心は縋った。両手で握り、ついには身を寄せて。自分の面差しを見られまいとするように、彼の胸乳へ頬を寄せて。

 「・・・怖いのでござるよ」
 「・・・は・・・?」

 つい左之助、間抜けな声を出してしまった。
 その意図を感づいてのことだろう、半纏の襟を握る剣心の両手が、ますます力を帯びた。

 「・・・怖くて、怖くて・・・仕方がないのでござる」
 「怖いって・・・何が」
 「・・・何もかも、でござるよ」
 「何もかもって・・・」

 剣心が何を言いたいのかがよくわからない。
 そもそも何を怖がっているのかがよくわからない。
 すべてが怖いとは・・・いったい、どういうことなのか。

 「拙者はお主に言った、己が心を見定めるべく、拙者を抱けばいいと。拙者も・・・どうしてお主にならば肌を許せるのか不思議で、疑問で・・・見定めるべく、肌を許してみた。そうしたら・・・」

 剣心の両手がぶるぶると震えた。左之助が驚いて目を見張る、この間にも剣心の本音は吐露され続けていた。

 「お主の熱さが、拙者を虜にしていて・・・どうにも離せなくなって、離れたくなくて・・・心の底から初めて、『お主が欲しい』と実感して・・・」
 「な・・・!」
 「この感情は予想外でござった。まさか、こんなことになるとは・・・」

 熱っぽく吐いた息が、左之助の肌へ・・・胸乳へ吸い込まれていく・・・。
 左之助の身体、にわかに熱くなる。

 「これは・・・以前にも覚えがある。けれど・・・この感覚はもう、拙者には必要のないものだと・・・得てはならぬものだと思っていた。これまで多くの命を奪っていながら、そんな拙者が手にして良いものではない、と・・・そう、思って・・・。だが、理性ではそうだと戒めているのに、この感情が・・・どうにも止まらなくて・・・!」
 「剣心・・・」
 「止まらぬ、止まらぬのだ、左之助。お主へ向かおうとする己が心が止められぬ! だが、だが拙者は知っているのだ・・・お主を知るということが、お主を得てしまうということがどんなに・・・どんなに素晴らしいことで反面、恐ろしいことかを・・・!」

 脳裏で激しく浮き沈みを繰り返す、かつての愛しき者・・・。
 剣心の心は掻き乱され、言葉の奔流を止めることができなくなっていた。さらに身体を左之助へと擦り寄せ、自らしがみつきながらどんどんどんどん言葉を、濁流の如き凄まじさで放出し始めたのだ。

 「この世でかけがえのない者を! 唯一無二の者を! この手にするということは・・・自分のものにしてしまうということは・・・その人といれば何もいらぬ、その人さえいれば充分だと思える、そのことの素晴らしさがどれほどのものか! 何ものにも代え難きそれを手にして・・・手に、してしまえば・・・あぁ・・・」
 「・・・剣心・・・?」
 「・・・それを、失ったとき・・・失ったとき・・・身も心もズタズタになって、何も見えなくなる、何も聞こえなくなる、何も・・・何も感じなくなる・・・! 己の不甲斐なさを呪い、泣いても泣いても飽きたらず、呪っても呪っても飽きたらず、ついには心をも捨てる! そのほうが・・・そのほうがいっそ楽だから・・・心など誰にも開かずに! そうすれば・・・こんな暗闇の中で過ごすことはない・・・唯一無二のものをなくす、そんな悲しいことにもなりはしない。拙者は、拙者は・・・」
 「剣、」
 「もう嫌なんだ! 心を許して相手を失うなんてことは、もうたくさんなんだ! もう二度とあんな思いをするのは嫌なんだ! でも欲しい、欲しくて欲しくてたまらない、この想いが止まらない! だが、そんなことをしていいはずがない、拙者にはそのような資格など・・・」
 「黙れ!」

 画然、左之助が怒声を発した。
 剣心の身体は身震いし、ピタリと唇を止めた。

 「おめェ、自分で何を言ってンのかわかってンのか!」

 左之助の右手がにゅうと伸び、剣心の額を掴んで、

 バンッ

 壁へと押しつけた。剣心の視界は閉ざされ闇と化す。

 「確かによ、おめェに手を出したのは俺のほうだ。だがなぁ、そのあやふやな気持ちに白黒つけさせたのはどこのどいつだ! おめェだろうが!」
 「左・・・」
 「ふざけるな。今更何をほざいてやがる。おめェから俺にとどめを刺しておいて、怖いだと? 資格がないだァ? ハッ、笑わせンな!」

 ギリ、右手の握力が微量に増した。
 剣心のこめかみに、左之助の指が食い込む。
 その下で、赤い唇が震えながら強く噛みしめていた。

 「自分でとどめを刺しておきながら、今度は逃げるのかよ、えぇ? 俺に、おめェに惚れてるって気づかせておきながら逃げるのか! 自分から逃げるのかよ!」
 「左、之・・・」
 「だったらどうしてあの時、俺のところへ来た! こっちへ踏み込んできやがった! そうやって怖がるくらいなら、端から踏み込んで来なきゃ良かったんだ、俺なんざ放っておきゃぁ良かったんだ!」
 「う、ぁ・・・」

 苦しみに喘ぎ始めた剣心を、だが左之助は許さない。

 「腹ァ決めやがれ! 今度はおめェからしでかしたことだ、白黒はっきりつけやがれ!」

 剣心の視界が突如、光を取り戻した。眩さに少しく目を細めた・・・その先に。
 左之助が、仁王立ちになって剣心を見下ろしていた。
 部屋の隅で固まるようにしていた剣心は、にわかな脅えを滲ませて彼を見上げた。

 「・・・今度は、おめぇの番だ」

 いいざま、左之助はひらりと半纏、脱ぎ捨てた。
 しなやかで隆たる肉体が、惜しげもなくさらされる。

 「今度はおめェが、自分の気持ちを見据える番だ」
 「左之・・・」
 「怖いから、資格がないから踏ん切りをつけるか。あるいは・・・欲望のままに、この俺を手に入れるか」

 しゅる・・・剣心の眼前、左之助の帯が解かれた。彼が赤面をする間もなく、左之助は下袴を脱ぎ捨てて下帯一つとなり。その下帯すら解いて、
 パサ・・・。
 陽光の淡い光りに包まれた室内に。
 左之助の裸体は圧倒的な存在感を伴って浮かび上がった。
 剣心の胸が一つ、大きく高鳴った。

 「今から、おめェを抱く」
 「!」
 「おめぇが俺にしたように、俺もおめぇを抱いてやる。抱かれながら、その心を見据えてきっちり、白黒つけるこった」

 ミシ。
 左之助、一歩を踏み出す。
 逃げ場などないのに剣心、思わず退く。背中、壁ばかりを捉えた。

 「逃げたきゃ逃げな。もがいて足掻いても俺は構わねぇよ。ただし、これだけは言っておく」

 スッと片膝を落とすと。左之助は剣心の両眼を見据えた。

 「おめェがどんな結論を出そうが、俺がおめェに惚れていることに変わりはねぇ。俺はおめェの側にいて、離さねェ」

 左之助の両手が剣心を捉え、
 彼を畳へと組み伏せた。
 袷を掴んで左右へ割り、袴の帯をシュルと解き。
 左之助は、にやりと笑った。

 剣心の、瞳に戦慄が走った。

 「や、やめろ・・・離せ!」

 左之助は何も言わない。ドンドンと胸を叩き、腕を突っぱねて動きを阻止しようとする剣心を、彼は他愛もなくねじり上げ。華奢な両手を握り込み、

 「諦めろ、剣心」

 艶然たる笑みとともに、左之助は荒々しく唇を奪った。




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