[ 表紙 1  ]



 「さて・・・と」
 ふらりっと立ち上がった左之助に、周りの者は一斉に声を上げた。
 「なんでェ、左之さん! もう帰るんですかィ?」
 「そりゃないですよォ、まだこれからじゃないですか!」
 口々に投げられる台詞の群に左之助は、苦笑に伏しながらヒラヒラっと手を振ってみせる。
 「すまねェなぁ。まぁ、また来っからよ。そン時ァ、よろしく頼むぜ」
 ニヤリと笑みを残して颯爽、背を向けた。癖のある「惡」一文字が男達の視界に痛く染みる。
 「勝ち逃げなんて許しませんから! 絶対にまた来て下さいよ!」
 「おぅ、首を洗って待ってなァ」
 その一言を残して、彼・・・左之助はトットットと玄関へ。
 するとどこからともなく、主がスッと歩を寄せてきた。年の頃合いは四十前半だろうか、妙に人なつっこい笑顔が印象的だが、何を考えているのか少しばかりわからない。ここへ出入りするようになって随分と経つが、未だに彼の腹が見えなかったりする。その点は剣心といい勝負かもしれないと考えたとき、我知らず笑みがこぼれた。
 「もうお帰りですか、左之助さん」
 「あぁ、久しぶりに楽しませてもらったぜ。また寄らせてもらうからよ」
 「そりゃぁもう・・・いつでも、お待ち申し上げておりますよ」
 主人は自慢の笑みを向けて左之助にそう言った。
 本心である。
 この男が立ち寄っただけでこの場所は・・・密かに営まれるこの賭場が、一瞬で活気づくのである。男達の間でも妙に人気があるこの男は、少しばかり喧嘩っぱやいところがあるがそれでも、義に叶ったところがあり、誰もが心をおいている不思議な客であった。
 とはいえこの半年近く、喧嘩らしき場面にお目にかかってはいない。
 それがなぜか、あの赤毛の剣客とつるみ始めてからだということを主人はわかっていたが、あえて口には出さなかった。
 荒くれ事が賭場からなくなったことは、それだけ場が和に保たれている証拠であり、主人とて無用に心を騒がせる必要はなくなったわけだから、願ってもない変化である。
 ただやはり、一抹物足りなさを覚えてしまうのは致し方ない。
 「ところで左之助さん、提灯などはいかが致します?」
 「あ? 提灯だ?」
 「はい」
 主人は頷きながら、提灯の支度をしようとする。
 「今宵は月も出ておりませぬし、そればかりか・・・」
 「あぁ、いらねぇよ、ンなもんは。夜道は馴れてっからよ」
 「いや、しかし・・・」
 主人が何か言いかけたのも構わずに左之助、からりっと戸を開いた。
 ひぅ・・・
 肌を刺すような冷たい空気が押し寄せてきた。ちょいとばかり爪先が怯んだが、構わずひょいっと表へ踏み出す。
 竦んだ肩の合間で、緋色のはちまきが揺れた。
 「お、冷えるねェ」
 「そりゃぁ冷えますとも。何しろ白いものが降っておりますのでねぇ」
 「あ?」
 主人の言葉に、左之助は初めて夜の空気に視線を定めた。
 ・・・そこには。
 ちらほらり、闇夜の中にひっそりと。音もなく舞い落ちるものがある。
 風もないその空間で、白き綿は緩やかに舞い降りている。
 いつから降っていたのだろうか、地面がもう、薄く白い。

 ・・・こんな季節なのか・・・雪が降る・・・

 ふと意識が遠ざかったその時、主人の声が現に引き戻す。
 「これでは足元も危のうございますよ。左之助さん、どうか提灯を・・・」
 「いらねェ」
 「左之助さん・・・」
 「いらねェって言ったら、いらねェんだよ」
 一変、左之助の声音が低く濁った。ビクッと主人の身体が一つ熾る。
 まだ・・・「喧嘩屋斬左」を名乗っていた頃の、あの張りつめた糸のような緊迫感を思い出す。切れたら最後、炸裂弾のように激しく荒ぶる・・・
 ・・・こんな時には、余計なことは言わない方がいい。
 主人はすっかり、心得た。
 「左様ですか。ではどうか、お気をつけなさって・・・」
 そ軽く頭を下げ、顔を上げたときにはもう、左之助の身体は闇夜の中へと溶け込んでいた。
 主人が見たものは闇に舞う白い綿。そして消えゆく「惡」一文字であった。






 修に誘われて久しぶりに賭場へ行ったのは・・・確か、暮れ六ツ(午後六時)を少し過ぎたあたりだったろうか。いや、その前か・・・? 記憶が判然とはしなかったが、ついつい時を過ごしすぎたことを左之助は後悔していた。
 彼の傍らに修の姿はない。彼はまだ賭場にいた。運が回りまくっていた左之助とは違って、修の場合は全く運が回ってこなかった。もう少し頑張るのだと、向きになって言っていた・・・
 程良いところで切り上げていれば、神谷道場でうまい夕餉にありつけただろうし、何よりこんな・・・
 「・・・へ、今さら何を・・・」
 わずかに自嘲して、左之助は唇を噛んだ。
 刻限は暮れ四ツ(午後十時)。通りには人っ子一人なく、シン・・・と静まり返っている。聞こえてくるものといえば、自分の足音くらいなものだろうか。
 この寒空にもかかわらず、左之助は半纏一枚であった。下には何も着込むことなく、晒しを巻いた腹部と強靱な胸板をあますことなくさらしている。
 彼は両手を下袴に突っ込み、ただただ、歩を進めていた。
 ・・・薄く白くなりつつある道。
 歩んできたその道のりが、刻銘に浮かび上がっている。

 確か・・・こんな日だった。隊長の・・・無惨な姿を目にしたのは。

 瞼を閉じれば、今でも鮮明に思い出すことができる・・・鮮血を首もとにまとわりつかせた、隊長の最後。
 無言の再会を。
 降りしきる雪が非情に冷たくて・・・
 指が凍えて、痛かった。

 どうしてあの時、追いかけなかったのだろう。

 隊長の言葉を無視してでも、あの時ついて行っていれば良かったのかもしれない。
 そうすれば最後まで、みんなと一緒にいられたのかもしれない。
 一矢、報いることができたかもしれない!

 「畜生・・・!」

 降りゆく雪が、疎ましかった。
 降りゆく雪が、憎かった。
 身にまとわりついては離れ、離れてはまとわりつく・・・その繰り返しで。左之助はそれらを払うように、見えぬように顔を伏せて歩んだ。
 時折吹き抜ける風が額の紅い印を靡かせる。
 背の「惡」一文字が、雪に濡れた。

 「・・・相楽隊長・・・」

 乾いた唇が堪らず、その名を呟いた。
 途端、頭の中で止めどもなく懐かしい面差しや風景、あの声音が席巻した。やさしく穏やかな声、時に厳しく自分を叱りつけた眼差し。見かけによらず喧嘩が強くて、誰にも慕われて男気のある・・・そのどれもこれもが・・・

 「隊長、隊長、隊長・・・!」

 足は止まり、堰を切ったように呼んだ、何度も何度も何度も、焦がれてやまぬ彼の人を。けれど・・・そこに会いたい人はなく・・・

 「どうして隊長が死ななくちゃならねぇ、どうして赤報隊が犠牲にならなくちゃならねェ! こんな世の中、何もかも嘘っぱちだ!」

 四民平等を夢見て闘っていたあの頃。
 少しでも良い世の中になることを信じて刃をふるったあの頃。
 みんな我が身を捨てて、すべては新時代のことだけを考えて見つめて邁進した! それが・・・それがどうだ、今の世の中・・・!

 「・・・変わっちゃいねェ、何も。結局、徳川ってェ頭をすげ替えただけのことじゃねェか。なァ、隊長・・・隊長だったら今の世の中・・・明治政府をどう見ますか、非難しますか・・・」

 下袴の中で両拳が唸りを上げた。ぶるぶると震え、力一杯握りしめて白く、変色するほどに・・・

 「金原さんも大木さんも、みんなみんな、新時代を夢見ていた! それなのにどうしてここにみんながいないんだ! どうして死ななくちゃ、殺されなくちゃならなかったんだ、どうして・・・!」

 悲痛なる叫びを聴く者はない。ただ・・・雪、あるのみ。

 「俺は・・・みんなと一緒に新時代を迎えたかった、見ていたかった。みんなと一緒に・・・ただそれだけが、俺の夢だった・・・それだけだったんだ・・・」

 風が逆巻いた、天へ向かって。
 降りゆく雪が一瞬、天へ昇る。まるで・・・左之助の猛りをそのまま押し上げるように・・・






 ふるり、という身の震えに剣心はゆるりと目を開いた。
 思わず、傍らを見遣る。
 「・・・左之」
 ・・・と、そこまで至ったとき、剣心は思わず苦笑をこぼした。
 いるはずがないではないか。何しろ今日は、左之助はここへは来なかったのだから。
 当然のように存在を確認しようとした自分が、妙に恥ずかしく思えた。
 今・・・刻限はどれくらいなのだろう。
 瞳に映るのは闇ばかり、辺りはシン・・・と静まり返っている。
 その静けさが今宵に限ってどうも、気になった。
 もぞりと起き出す。
 解いていた赤髪がハラリと両肩を覆う。
 空気の冷たさに肌が一瞬強張ったが、すぐに溶けた。
 すぅ・・・と障子を開いてヒタリ、板の間を踏む。
 温度のない床が、足の裏を冷たく凍らせた。
 剣心は構わず、素足のまま雨戸へ手をかける。
 ゴトゴト・・・一枚をゆっくり引き・・・

 「・・・あ・・・」

 冷気を宿した空間が頬を撫でたとき。ふわふわ・・・舞い落ちる白き存在がそこにはあった。寒いはずだ、静かなはずだ。
 「・・・雪、か・・・」
 風もない停滞した夜空から、それは気配もなく降りてくる。
 さんざめくわけでも、囁き合うわけでもなく・・・ただ、降りてくる。
 はらはらと踊り落ち・・・
 ふわふわと舞い落ちて・・・
 ・・・剣心は。つと・・・一つの面影を胸裡によぎらせた。

 「・・・あの時も・・・こんな、つもり始めた頃合いだった・・・」

 土に、雪に、飛び散った鮮血が斑となって模様を描き・・・雪を、少しく溶かした。
 転がってしまった身体を抱き上げて、抱きすくめて・・・
 笑顔を、見た。

 「・・・巴・・・」

 降りゆく雪の中で見せた笑顔は、これから死を迎えようとしている者とは思えぬ笑顔で・・・輝いていて。
 温もりに満ちていた。

   − これで良いんです・・・だから泣かないで下さいな・・・

 耳朶の奥深く、清廉な声音が今でも響く。

 何が良かったというのだろう。
 どうして、良かったと言ったのだろう。
 いや・・・言えたのか。

 今考えても、剣心にはあの時の不条理さが沸々とこみ上げてくる。

 彼女の幸せも未来も、何もかもを奪ってしまった・・・
 あの時死すべきは巴ではなく、この俺。
 巴が死んでよい道理はどこにもない、
 死すべきはこの、俺だったのに・・・!

 「巴・・・あの時俺が、刀を振り下ろさなければ君はきっと・・・」

 ぎゅっと目を閉じて、最後となった彼女の笑顔を思い出す。
 どうしてあの笑顔を・・・守ることができなかったのか。
 どうして彼女を守りきることができなかったのか・・・!

 この十年、何度となく考えてきたことであった。
 心の片隅で燻っていたことであった。
 雪を見るたびに・・・胸が痛んだ。

 「もしもあの時、刀をふり下ろさなければ・・・」

 あの一瞬が、手応えが・・・手のひらに生々しく甦る。
 思わず、拳を握りしめた。

 「俺は守ると・・・君だけはどんなことがあっても斬らないと約束した。なのに・・・!」

 目が見えなかったからとはいえ、どうして巴の気配を感じ取れなかったのか。
 いや、感じ取ったときにはもう遅かった、刀をふり下ろしてしまっていた。
 巴を、この手で・・・
 あの時目が見えていたなら、
 あの時巴を認知できていたならこんなことには・・・

 ・・・でも。

 剣心の胸裏にぽつん・・・黒い染みが広がる。

 仮に、目が見えていて巴の存在を認知していたとするならば。
 俺は・・・刀をおろさなかっただろうか・・・?
 巴は大切な人だった。
 そして新時代も、大切なことだった。

 ・・・待て、考えてはいけないような気がする、この先のことは。
 だが、この十年俺は考えようとしなかった、見つめることを恐れてきた、避けてきた。なのにまた・・・また、逃げるのか。逃げて・・・あの瞬間から目をそらすのか?
 俺はいつまで逃げていれば気が済むのか・・・!

 画然、
 剣心は部屋へとって返すなり逆刃刀を握りしめ、再び外へと踊り出た。
 降り続く雪は、ゆっくりゆっくり、中庭を白く染め変えつつある。
 彼は無言で腰を落とし鞘を握ると、すぅ・・・眼を閉じた。

 「・・・!」

 スラッと鞘走りさせるなり逆刃刀は、鈍く輝いて綿を斬り裂く。
 土が擦れ、雪が滲み、凍てついた空が刃となって剣心の頬を刺す。
 そこにあるのはかつての敵。その影を追いかけながら、剣心は無心になって刃を振るった。
 ・・・が。

 「く・・・!」

 剣心の両手は、凍てついて動かなくなった。
 ふり下ろすことも、納めることもできなくなったのだ。

 「くぅ・・・!」

 両腕どころか両脚も動かない。足の裏がべったり土に張り付いて、微動だにしない。
 たちどころに額にはびっしりと、玉の汗が滲み出た。
 柄を握る手がカタカタ鳴った。
 剣心は、呻いた。

 「俺は、俺はここから先、前へ進まねばならん! そのためには・・・!」

 刹那、剣心の意識が冷たく冴え渡り息を呑んだ。
 あまりのことに心が悲鳴を上げ、瞳孔が開く。
 胸が、焼けた。

 「何を・・・何をやっているんだ、俺はァ!」

 慌てふためくようにして逆刃刀を手放した、触れてはならないものに触れた、そんな仕草で。
 ゴト、雪の中へと刀身は埋まる。
 呼吸が酷く乱れた。

 「何を考えた、今? 何をしようとしていた!」

 あの、瞬間。
 俺は確かに、巴の命と俺のこれからを天秤に掛けていた・・・
 どちらが重いかを比べてしまっていた!
 どうしてそんなことをした!
 それは・・・『人斬り抜刀斎』の存在価値を、存在意義を知ってしまっているからだ。
 自分がどれほどの存在位置なのかわかっているからだ!
 その重みをその価値を、俺は、俺は・・・!

 なんて汚い!

 いつからこれほどずるくなってしまったんだ!
 あの時は純粋に巴の奪還だけを、巴の幸せのみを願っていた! 守りきると!
 そうとも・・・己が心を確かめるまでもない、あの時は自分の立場や状況など考えたことなどなかったではないか!
 ただ、頭の中にあったのは巴のことだけで・・・
 巴を助け出すことだけでいっぱいで・・・!
 俺の命などくれてやるほどに!
 それを、それを俺は・・・!

 「俺はただ、あの時のことを見つめることが怖かっただけなんだ! 受け入れることが怖かっただけなんだ! 見つめ直す勇気がなかっただけ、それを・・・!」

 その時、剣心の意識は背中へと走った。ビリビリと痺れを覚えて素早く振り向く。

 「さ・・・左之」

 降りしきる雪の中でじっと・・・瞬きすることなく見つめる左之助がそこにいた。
 いつからいたのか、いつから見ていたのか。髪や肩に薄く、雪がつもっていた。
 剣心は合わせる顔がなくて咄嗟、俯いた。




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