「ふぅ」
一つ息を吐いて、剣心はたすきを外しながら縁側へと腰掛けた。ひやりと、冷たく固い感触が臀部に伝わる。
朝、目が覚めてからずっと、洗濯、掃除、買い出しと動き続け・・・気がつけばもう昼前、ようやく身も心も開放されたように感じた。思わず、
「やれやれ・・・」
と、言葉が洩れる。
つと視線を上げれば、厨で忙しく動き回る女性・・・薫の姿が垣間見える。午後からのことを考慮してのことなのか、昼餉の支度をするのだと勢い込み、一刻ほど前からバタバタと立ち回っていた。
おかげで、稽古の相手をしてもらえない門下生・弥彦はただ一人、道場で何度も何度も、素振りを繰り返している。声を上げるその一声、一声にこもる覇気が、剣心には心地よく染みる。
柔らかな陽の光が、仄かな温もりを伝えてくる・・・今日は洗濯物がよく乾くだろう。着物がはためく姿に目を細めると、剣心はそのまま後ろへと倒れ込み・・・大の字になった。
ふわりと吹きゆく風が、微量の冷気を孕んでいた。天気は良くて穏やかなれど、やはりまだ、春は遠いかと苦く笑う。それでも・・・
「春は・・・すぐそこ、か・・・」
聞くところによれば、湯島天神の白梅がほころびかけているという。自分が思っているよりは、もっともっと近くにまで歩み寄ってきているのかもしれない。
「・・・そういえば・・・」
自分がこの地へ流れ着いたのは、確か今時分くらいではなかったか。思い出すことが遠いように思われるが、それでもあの日のことは鮮明に覚えている。
今、忙しく厨で立ち回っている彼女に出逢うことがなければ・・・ここに自分がいることもなく、また・・・左之助と逢うこともなく・・・
不思議な運命だと、巡り合わせだと感じて剣心は、思わず唇を緩めて微笑んだ。
瞼を閉じて、一つの面影を浮かべてみる。
屈託のない笑顔と、黒曜石のような黒い瞳・・・純粋で、まっすぐな・・・
側にいるだけで、心が安らいだ。
ポンと肩を叩かれるだけで、胸が躍った。
指と指が掠めるだけで・・・想いが焼き付いた。
「今日・・・もし、左之が来たなら・・・」
唇がふと、洩らした時。
ギィ・・・
何やら軋む音がした。
それは木戸が開かれる音であることを剣心は知っていたのだが、大の字になったまま、目を閉じたまま・・・起きあがることもなく寝そべっていた。
木戸から入ってきた人物の、大方の予想は・・・
「・・・剣心?」
あぁ、やはり。予想していた人物であることを確信して、剣心は胸の内でくすりと笑う。けれども全く、微動だにせぬ。
そんな剣心を見て、男・・・左之助は、少しく首を傾げながら歩み寄ってきた。
「寝てンのか? 剣心・・・」
左之助は足を止めて目を丸くした。
なんてことだろう。この男が冷たい床板で大の字になっている。
束ねている赤髪も無造作に、先ほどまで使っていたであろうたすきを放り出し。
閉じた瞼は普段、感じさせぬ睫の長さを知らしめて。
ゆるく結ばれているはずの唇からは、白い歯が微かにこぼれ出ていた。
「・・・おい・・・」
見たことのない姿に左之助は一瞬、唖然とし・・・そして、熟視した。
自分でも気づかぬうちに、息を押し殺していた。
殺して、詰めて、そっと・・・距離を縮めながら・・・
左之助は剣心の側へと身を寄せていく。
不思議なことに、近づいていっても一向、剣心は目を覚ます気配を見せない。
いつもなら、この気配を察して目を覚まし、あの人なつっこい柔らかな笑顔を見せてくれるはずだ。それが・・・
・・・これだけ接近しているのに目も覚まさない。
よほど疲れているのか、あるいは寝不足なのか・・・。
いや、自分は彼を寝不足にさせるような真似はしていないと顧みる。何しろ互いに、肌を合わせたのは・・・少しばかり記憶をたぐらねばならぬほどに、時が経っていたのだ。
左之助は音を立てないように慎重に身を寄せて・・・剣心の傍ら、縁側へと腰掛けた。
「ふぅ・・・」
小さく息を吐いて。左之助は頭を掻いた。
腰掛ければわずかでも床板はたわむ。その微量の変化に気づかぬわけが・・・気配がわからぬわけがない。
なのにやはり、目を覚まさない。
いったい、どうしたことか・・・
ふと意識を済ませば、竹刀の音が聞こえてきた。道場でのやり取りが鼓膜を快く刺激する。
そろそろ昼餉の刻限だが、あの様子ではそれすら気づかずしばらく、稽古に没頭していることだろう。
と、その事実に行き着いたとき・・・はたと。左之助は再び剣心へと視線を落とした。
変わらず、閉じられたままの瞼がそこにある。
緩やかな陽光を浴びて、白い肌が淡く輝き。やや長めの睫毛がくるりと天へ返して影を落とし。なだらかな鼻筋の先、きれいな湾曲を描いた唇が・・・微かな息をこぼしている。
時折吹き渡る風に、そよと揺れる赤毛の前髪が・・・左之助には格別なものに見えた。
コクと、己が喉仏が鳴ったような気がした。
右手がトン・・・赤毛に隠れる耳朶の傍らへと位置を占め。
ギシ・・・と肘の関節が音を立て・・・
白皙の肌を影で黒く染め抜いた。
少しだけ、瞼を落として。
少しだけ、唇を開いて。
微かな息をこぼし続ける桜色の花びらを、左之助は欲した。
「!」
何かが唇を押さえた、左之助はパッと目を開いてしまう。
見れば、剣心が意味ありげな微笑みを浮かべて左之助を見上げていた。彼の細い指先が、しっかりと左之助の唇を押さえ込んで。
「どういうつもりでござるか、左之」
グッと上体を起こしてきたものだから、左之助もまた身体を起こさざるを得なくなる。渋々起こすと剣心が、薄笑みを浮かべて左之助を見つめていた。
画然、左之助の胸に苦いものが広がる。
「てめェ・・・起きてやがったな」
舌打ちをしてそう言った左之助に、剣心はくぐもった笑いを響かせた。
「はて、なんのことでござるかな?」
「とぼけるんじゃねぇ、いつから起きていやがった?」
「どうでも良いだろう、そんなことは」
笑いながら縁側を降りて、剣心は左之助の傍らを擦り抜ける。
「不用心でござるなぁ、左之。道場には弥彦がいるでござるし、厨には薫殿。ここでは丸見えでござるよ、見つかったらどうするつもり・・・」
「今、なんて言った?」
「え?」
「嬢ちゃんが、どうの・・・」
「あぁ」
それまで浮かべていた薄笑みが、つと薄苦いものへと移り変わった。左之助、ピンと思い至って口走る。
「昼飯をこしらえてンのか?」
「御名答」
パン、左之助は手のひらで額を叩いた。
「なんだよ、そりゃぁ・・・俺はてっきりおめぇが・・・」
「拙者がこしらえていたのなら、こんなところで横になったりは致さぬよ。久しぶりにのんびりできたゆえ、ついつい寝そべってみたくなってなぁ」
クツクツと笑う剣心を、左之助はじっと見つめた。
妙に話が逸れてしまったが、先ほどの余韻が左之助の胸を駆け巡っているのだ。瞳が妖しく揺らいだ。
そんな彼の視線に気づいたのか、否か。剣心はくるりと背を向けた。
長く、赤毛の先端が跳ねた様を見て、左之助は無意識のうちにすぅと腕を伸ばしていた。
「剣、」
「ならぬよ、左之」
先を見越したかのように、剣心は背中で言い放つ。一瞬左之助の動きは止まったが、それでも諦めずになお、剣心を引き寄せようとしたところに、
「剣心ー! ちょっと、手伝ってちょうだい!」
薫の一声が飛んできた。
剣心はゆっくりと左之助へ振り返り・・・にこり、笑った。
「・・・チッ」
無言の返答に、左之助は退散するしかない。白い手を離すと、剣心は何事もなかったようにたすきを掛けて、
「あ、それからな、左之」
再び振り返るなり、満面の笑顔でさらりと言った。
「逃げてはならぬよ」
捨て台詞も鮮やかに、そのまま厨へと向かっていく。
「あー・・・もう、面白くもねェ」
先手を打たれた悔しさと、ささやかな想いが遂げられなかったことに、左之助は舌打ちをして軽く小石を蹴った。
その様をチラリと見遣ってから剣心は、厨へと入った。
「すまぬ、薫殿。そろそろ食べられるように準備を致さねばな」
「えぇ、お願いするわ。お椀、並べてくれる?」
「承知した」
にっこりと微笑んで手際よく椀を並べながら・・・剣心は胸の内で呟く。
左之が、来た・・・
ゾク・・・と身を焼いた悪寒に、剣心は唇を噛んだ。そして人知れず自嘲する。
「何を、拙者は・・・浅ましい・・・」
はぁと吐き出された息が、妙に熱っぽい。剣心は頭を軽く振って、昼餉の支度に没頭した。
胃の中を混ぜ返されるような感覚に、左之助は眉を顰めて縁側の上、寝転がっていた。
昼餉のものが確実に、胃臓六腑に害を及ぼしている。
そう確信してしまえるだけによりいっそう、気分は悪くなる。時折、
「むぅ」
と唸っては寝返りを繰り返すのだが、身体を動かすとさらにまた、胃の中で食したものが蠢き、さらなる不快を呼び起こした。
「まったく・・・ちっともうまくならねぇなぁ、嬢ちゃんは・・・」
ぼやきながら腹部をさすり、ふうっと息を吐いた。
反面。
自分がこの状態だというのにどうしてあの男は、あんなに平気な顔をして雑用をこなせているのか。左之助にはもう、不思議でたまらない。食するときですら、表情を全く変えないのだ。ある意味化け物ではないかと思ってしまう。
自分も相当、胃は鍛えられているとは思うのだが、もしかすると一番鍛えられているのはあいつかもしれないと、中庭で立ち回る赤毛の人を見つめた。
「大丈夫でござるか、左之?」
洗濯物を取り込み終えて、剣心が心配そうに顔を覗き込んできた。だが、その顔は笑っている、左之助は憮然として答えた。
「大丈夫じゃねェやィ」
「おろ、それは困った」
「困る? どうしておめェが困るんだ」
苦笑を交えた剣心に、左之助はにわかに身体を起こしかけた。
「夕餉をまともに食べられぬのではないかと思ってな」
「おめェがこしらえるんだろ?」
「あぁ、そうだが・・・」
「だったら問題はねェ。食えるよ。いや、食いてェ!」
「調子がいいな」
やれやれと息を吐き、剣心は仄かに笑った。
「では、動けぬわけではないのでござるな?」
「うん、まぁ・・・何だ?」
「湯船に水を張るか、薪を割るか、どちらかを手伝ってもらいたいのでござるよ」
途端にゴロリと左之助、背を向けた。何の考慮もない、無言の即答に剣心は苦笑する。
「やれやれ、仕方がない。拙者がするか」
背中の向こう、歩み去っていく剣心の足音が聞こえた。つと・・・胸の奥が痛む。
手伝ったほうがいいかな、やっぱ。
そう思った矢先、頭上から鋭い声が。
「手伝ってやれよ、左之助」
見上げれば、竹刀を片手に仁王立ちになっている弥彦の姿。左之助は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「うるせェ。俺ァ、やりたかねェんだよ」
「なんだよ。お前のためにあんなに頑張ってンのによ」
「あ? そりゃぁどういうこった」
左之助の眉がピンと跳ねた。
「剣心がさ、自分一人だったら風呂も入らなくてもいいんだけれど、左之助が来たら焚かないと駄目だなって、夕べ言ってたんだ」
「一人って・・・なんだ、そりゃ」
「知らないのか、左之助」
さも意外そうに目を丸くした弥彦を見て、左之助は何かあると身を起こした。
「今から俺と薫は前川先生ンとこへ出かけるんだ。先生ンとこで祝い事があってさ、人手が足りないからって手伝いを頼まれたんだ。それで泊まり込みになることになっちまって・・・」
「泊まり込みだァ?」
今度は左之助が目を丸くした。この男は本当に何も知らなかったのだと、呆れたようにため息を吐いて弥彦はさらに続ける。
「そうだよ。宴は夜からあって、朝には片づけが・・・て、それはともかく。だから、今日の昼は薫がこしらえて、朝のうちに剣心が買い出しに出かけたんだ。それだって、自分一人ならあるものですますが、左之助が来るならこしらえねばならないって言ってたんだぜ」
瞬間、左之助の意識は冴え渡った。パァと顔が明るく太陽のように輝き、目元やら口元がほころんでいく。まるで桜の開花のような面差しだ。さきほどの、苦悶に喘いでいた男と同一人物とはとても思えない。
弥彦の冷たい瞳が、左之助の変貌ぶりをじっと見つめていた。
「何がそんなに嬉しいんだよ、お前は」
「うるせェ! これが喜ばずにいられっか!」
左之助は喜々としてそう言い放った。
「・・・馬鹿じゃねぇか、こいつ」
ぼそりと呟いた弥彦の一言が、けれども左之助の耳には届かない。否、聞こえてはいなかった。
「弥彦ー! そろそろ行くわよ! 支度はできたのー?」
どこからともなく、薫の声が呼ばわった。弥彦は声を張り上げた。
「おー! 今、行く! ・・・じゃぁな、あとは頼んだぜ、左之助」
タッタッタッと掛け去っていく弥彦など、もはや左之助の眼中になく。ただただ、頭の中を夥しく駆けていったものは・・・
「ヘ・・・ヘヘ・・・」
思わず薄笑みを浮かべながらもすぐさま立ち上がり、
「剣心! やっぱ手伝うぜ!」
勇んで飛び出していったのだった。