[ 表紙  1     ]



 「ふぅ」
 一つ息を吐いて、剣心はたすきを外しながら縁側へと腰掛けた。ひやりと、冷たく固い感触が臀部に伝わる。
 朝、目が覚めてからずっと、洗濯、掃除、買い出しと動き続け・・・気がつけばもう昼前、ようやく身も心も開放されたように感じた。思わず、
 「やれやれ・・・」
と、言葉が洩れる。
 つと視線を上げれば、厨で忙しく動き回る女性・・・薫の姿が垣間見える。午後からのことを考慮してのことなのか、昼餉の支度をするのだと勢い込み、一刻ほど前からバタバタと立ち回っていた。
 おかげで、稽古の相手をしてもらえない門下生・弥彦はただ一人、道場で何度も何度も、素振りを繰り返している。声を上げるその一声、一声にこもる覇気が、剣心には心地よく染みる。
 柔らかな陽の光が、仄かな温もりを伝えてくる・・・今日は洗濯物がよく乾くだろう。着物がはためく姿に目を細めると、剣心はそのまま後ろへと倒れ込み・・・大の字になった。
 ふわりと吹きゆく風が、微量の冷気を孕んでいた。天気は良くて穏やかなれど、やはりまだ、春は遠いかと苦く笑う。それでも・・・
 「春は・・・すぐそこ、か・・・」
 聞くところによれば、湯島天神の白梅がほころびかけているという。自分が思っているよりは、もっともっと近くにまで歩み寄ってきているのかもしれない。
 「・・・そういえば・・・」
 自分がこの地へ流れ着いたのは、確か今時分くらいではなかったか。思い出すことが遠いように思われるが、それでもあの日のことは鮮明に覚えている。
 今、忙しく厨で立ち回っている彼女に出逢うことがなければ・・・ここに自分がいることもなく、また・・・左之助と逢うこともなく・・・
 不思議な運命だと、巡り合わせだと感じて剣心は、思わず唇を緩めて微笑んだ。
 瞼を閉じて、一つの面影を浮かべてみる。
 屈託のない笑顔と、黒曜石のような黒い瞳・・・純粋で、まっすぐな・・・
 側にいるだけで、心が安らいだ。
 ポンと肩を叩かれるだけで、胸が躍った。
 指と指が掠めるだけで・・・想いが焼き付いた。
 「今日・・・もし、左之が来たなら・・・」
 唇がふと、洩らした時。
 ギィ・・・
 何やら軋む音がした。
 それは木戸が開かれる音であることを剣心は知っていたのだが、大の字になったまま、目を閉じたまま・・・起きあがることもなく寝そべっていた。
 木戸から入ってきた人物の、大方の予想は・・・
 「・・・剣心?」
 あぁ、やはり。予想していた人物であることを確信して、剣心は胸の内でくすりと笑う。けれども全く、微動だにせぬ。
 そんな剣心を見て、男・・・左之助は、少しく首を傾げながら歩み寄ってきた。
 「寝てンのか? 剣心・・・」
 左之助は足を止めて目を丸くした。
 なんてことだろう。この男が冷たい床板で大の字になっている。
 束ねている赤髪も無造作に、先ほどまで使っていたであろうたすきを放り出し。
 閉じた瞼は普段、感じさせぬ睫の長さを知らしめて。
 ゆるく結ばれているはずの唇からは、白い歯が微かにこぼれ出ていた。
 「・・・おい・・・」
 見たことのない姿に左之助は一瞬、唖然とし・・・そして、熟視した。
 自分でも気づかぬうちに、息を押し殺していた。
 殺して、詰めて、そっと・・・距離を縮めながら・・・
 左之助は剣心の側へと身を寄せていく。
 不思議なことに、近づいていっても一向、剣心は目を覚ます気配を見せない。
 いつもなら、この気配を察して目を覚まし、あの人なつっこい柔らかな笑顔を見せてくれるはずだ。それが・・・
 ・・・これだけ接近しているのに目も覚まさない。
 よほど疲れているのか、あるいは寝不足なのか・・・。
 いや、自分は彼を寝不足にさせるような真似はしていないと顧みる。何しろ互いに、肌を合わせたのは・・・少しばかり記憶をたぐらねばならぬほどに、時が経っていたのだ。
 左之助は音を立てないように慎重に身を寄せて・・・剣心の傍ら、縁側へと腰掛けた。
 「ふぅ・・・」
 小さく息を吐いて。左之助は頭を掻いた。
 腰掛ければわずかでも床板はたわむ。その微量の変化に気づかぬわけが・・・気配がわからぬわけがない。
 なのにやはり、目を覚まさない。
 いったい、どうしたことか・・・
 ふと意識を済ませば、竹刀の音が聞こえてきた。道場でのやり取りが鼓膜を快く刺激する。
 そろそろ昼餉の刻限だが、あの様子ではそれすら気づかずしばらく、稽古に没頭していることだろう。
 と、その事実に行き着いたとき・・・はたと。左之助は再び剣心へと視線を落とした。
 変わらず、閉じられたままの瞼がそこにある。
 緩やかな陽光を浴びて、白い肌が淡く輝き。やや長めの睫毛がくるりと天へ返して影を落とし。なだらかな鼻筋の先、きれいな湾曲を描いた唇が・・・微かな息をこぼしている。
 時折吹き渡る風に、そよと揺れる赤毛の前髪が・・・左之助には格別なものに見えた。
 コクと、己が喉仏が鳴ったような気がした。
 右手がトン・・・赤毛に隠れる耳朶の傍らへと位置を占め。
 ギシ・・・と肘の関節が音を立て・・・
 白皙の肌を影で黒く染め抜いた。
 少しだけ、瞼を落として。
 少しだけ、唇を開いて。
 微かな息をこぼし続ける桜色の花びらを、左之助は欲した。

 「!」

 何かが唇を押さえた、左之助はパッと目を開いてしまう。
 見れば、剣心が意味ありげな微笑みを浮かべて左之助を見上げていた。彼の細い指先が、しっかりと左之助の唇を押さえ込んで。

 「どういうつもりでござるか、左之」

 グッと上体を起こしてきたものだから、左之助もまた身体を起こさざるを得なくなる。渋々起こすと剣心が、薄笑みを浮かべて左之助を見つめていた。
 画然、左之助の胸に苦いものが広がる。
 「てめェ・・・起きてやがったな」
 舌打ちをしてそう言った左之助に、剣心はくぐもった笑いを響かせた。
 「はて、なんのことでござるかな?」
 「とぼけるんじゃねぇ、いつから起きていやがった?」
 「どうでも良いだろう、そんなことは」
 笑いながら縁側を降りて、剣心は左之助の傍らを擦り抜ける。
 「不用心でござるなぁ、左之。道場には弥彦がいるでござるし、厨には薫殿。ここでは丸見えでござるよ、見つかったらどうするつもり・・・」
 「今、なんて言った?」
 「え?」
 「嬢ちゃんが、どうの・・・」
 「あぁ」
 それまで浮かべていた薄笑みが、つと薄苦いものへと移り変わった。左之助、ピンと思い至って口走る。
 「昼飯をこしらえてンのか?」
 「御名答」
 パン、左之助は手のひらで額を叩いた。
 「なんだよ、そりゃぁ・・・俺はてっきりおめぇが・・・」
 「拙者がこしらえていたのなら、こんなところで横になったりは致さぬよ。久しぶりにのんびりできたゆえ、ついつい寝そべってみたくなってなぁ」
 クツクツと笑う剣心を、左之助はじっと見つめた。
 妙に話が逸れてしまったが、先ほどの余韻が左之助の胸を駆け巡っているのだ。瞳が妖しく揺らいだ。
 そんな彼の視線に気づいたのか、否か。剣心はくるりと背を向けた。
 長く、赤毛の先端が跳ねた様を見て、左之助は無意識のうちにすぅと腕を伸ばしていた。
 「剣、」
 「ならぬよ、左之」
 先を見越したかのように、剣心は背中で言い放つ。一瞬左之助の動きは止まったが、それでも諦めずになお、剣心を引き寄せようとしたところに、
 「剣心ー! ちょっと、手伝ってちょうだい!」
 薫の一声が飛んできた。
 剣心はゆっくりと左之助へ振り返り・・・にこり、笑った。
 「・・・チッ」
 無言の返答に、左之助は退散するしかない。白い手を離すと、剣心は何事もなかったようにたすきを掛けて、
 「あ、それからな、左之」
 再び振り返るなり、満面の笑顔でさらりと言った。
 「逃げてはならぬよ」
捨て台詞も鮮やかに、そのまま厨へと向かっていく。
 「あー・・・もう、面白くもねェ」
 先手を打たれた悔しさと、ささやかな想いが遂げられなかったことに、左之助は舌打ちをして軽く小石を蹴った。
 その様をチラリと見遣ってから剣心は、厨へと入った。
 「すまぬ、薫殿。そろそろ食べられるように準備を致さねばな」
 「えぇ、お願いするわ。お椀、並べてくれる?」
 「承知した」
 にっこりと微笑んで手際よく椀を並べながら・・・剣心は胸の内で呟く。

 左之が、来た・・・

 ゾク・・・と身を焼いた悪寒に、剣心は唇を噛んだ。そして人知れず自嘲する。
 「何を、拙者は・・・浅ましい・・・」
 はぁと吐き出された息が、妙に熱っぽい。剣心は頭を軽く振って、昼餉の支度に没頭した。






 胃の中を混ぜ返されるような感覚に、左之助は眉を顰めて縁側の上、寝転がっていた。
 昼餉のものが確実に、胃臓六腑に害を及ぼしている。
 そう確信してしまえるだけによりいっそう、気分は悪くなる。時折、
 「むぅ」
と唸っては寝返りを繰り返すのだが、身体を動かすとさらにまた、胃の中で食したものが蠢き、さらなる不快を呼び起こした。
 「まったく・・・ちっともうまくならねぇなぁ、嬢ちゃんは・・・」
 ぼやきながら腹部をさすり、ふうっと息を吐いた。
 反面。
 自分がこの状態だというのにどうしてあの男は、あんなに平気な顔をして雑用をこなせているのか。左之助にはもう、不思議でたまらない。食するときですら、表情を全く変えないのだ。ある意味化け物ではないかと思ってしまう。
 自分も相当、胃は鍛えられているとは思うのだが、もしかすると一番鍛えられているのはあいつかもしれないと、中庭で立ち回る赤毛の人を見つめた。
 「大丈夫でござるか、左之?」
 洗濯物を取り込み終えて、剣心が心配そうに顔を覗き込んできた。だが、その顔は笑っている、左之助は憮然として答えた。
 「大丈夫じゃねェやィ」
 「おろ、それは困った」
 「困る? どうしておめェが困るんだ」
 苦笑を交えた剣心に、左之助はにわかに身体を起こしかけた。
 「夕餉をまともに食べられぬのではないかと思ってな」
 「おめェがこしらえるんだろ?」
 「あぁ、そうだが・・・」
 「だったら問題はねェ。食えるよ。いや、食いてェ!」
 「調子がいいな」
 やれやれと息を吐き、剣心は仄かに笑った。
 「では、動けぬわけではないのでござるな?」
 「うん、まぁ・・・何だ?」
 「湯船に水を張るか、薪を割るか、どちらかを手伝ってもらいたいのでござるよ」
 途端にゴロリと左之助、背を向けた。何の考慮もない、無言の即答に剣心は苦笑する。
 「やれやれ、仕方がない。拙者がするか」
 背中の向こう、歩み去っていく剣心の足音が聞こえた。つと・・・胸の奥が痛む。

 手伝ったほうがいいかな、やっぱ。

 そう思った矢先、頭上から鋭い声が。
 「手伝ってやれよ、左之助」
 見上げれば、竹刀を片手に仁王立ちになっている弥彦の姿。左之助は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
 「うるせェ。俺ァ、やりたかねェんだよ」
 「なんだよ。お前のためにあんなに頑張ってンのによ」
 「あ? そりゃぁどういうこった」
 左之助の眉がピンと跳ねた。
 「剣心がさ、自分一人だったら風呂も入らなくてもいいんだけれど、左之助が来たら焚かないと駄目だなって、夕べ言ってたんだ」
 「一人って・・・なんだ、そりゃ」
 「知らないのか、左之助」
 さも意外そうに目を丸くした弥彦を見て、左之助は何かあると身を起こした。
 「今から俺と薫は前川先生ンとこへ出かけるんだ。先生ンとこで祝い事があってさ、人手が足りないからって手伝いを頼まれたんだ。それで泊まり込みになることになっちまって・・・」
 「泊まり込みだァ?」
 今度は左之助が目を丸くした。この男は本当に何も知らなかったのだと、呆れたようにため息を吐いて弥彦はさらに続ける。
 「そうだよ。宴は夜からあって、朝には片づけが・・・て、それはともかく。だから、今日の昼は薫がこしらえて、朝のうちに剣心が買い出しに出かけたんだ。それだって、自分一人ならあるものですますが、左之助が来るならこしらえねばならないって言ってたんだぜ」
 瞬間、左之助の意識は冴え渡った。パァと顔が明るく太陽のように輝き、目元やら口元がほころんでいく。まるで桜の開花のような面差しだ。さきほどの、苦悶に喘いでいた男と同一人物とはとても思えない。
 弥彦の冷たい瞳が、左之助の変貌ぶりをじっと見つめていた。
 「何がそんなに嬉しいんだよ、お前は」
 「うるせェ! これが喜ばずにいられっか!」
 左之助は喜々としてそう言い放った。
 「・・・馬鹿じゃねぇか、こいつ」
 ぼそりと呟いた弥彦の一言が、けれども左之助の耳には届かない。否、聞こえてはいなかった。
 「弥彦ー! そろそろ行くわよ! 支度はできたのー?」
 どこからともなく、薫の声が呼ばわった。弥彦は声を張り上げた。
 「おー! 今、行く! ・・・じゃぁな、あとは頼んだぜ、左之助」
 タッタッタッと掛け去っていく弥彦など、もはや左之助の眼中になく。ただただ、頭の中を夥しく駆けていったものは・・・
 「ヘ・・・ヘヘ・・・」
 思わず薄笑みを浮かべながらもすぐさま立ち上がり、
 「剣心! やっぱ手伝うぜ!」
 勇んで飛び出していったのだった。




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