コトコトと微かな音が、心地よい・・・鍋が煮えている。
蓋を開けるともうもうたる湯気が立ちこめて・・・
「・・・ふむ、良い加減でござるかな」
小皿につゆを少し取り、唇の先で啄むように味をみると、剣心は満足そうに微笑む。
「なぁ、今晩の飯はなんでェ?」
「はて、なんでござろうな」
蓋を戻して剣心は、微笑んだままに優しく受け流す。厨に立つ彼の背を、左之助はニヤニヤしながら見つめている。
「何をそんなに笑っているのでござるか、気持ちの悪い」
「よく言うぜ。わかってるくせによ」
「とんと、拙者にはわからぬよ」
苦笑をひそませると、それまで囲炉裏端で様子を見ていた左之助が、土間へと降りてきた。けれども剣心は何も言わない、トントンと沢庵を切りながら視線すら送らない。
「なぁ、何をこしらえてやがんだ」
「なんでござろうな」
変わらぬ返答をする剣心に、左之助は背後へ回ると己が肌、彼の背へと擦り寄せた。剣心は思わず笑ってしまう。
「こらこら、何をする。これでは支度ができないぞ、退いてくれぬか」
「連れねェなぁ」
「馬鹿、そういうことではない。ほら・・・」
背後から伸びてきた彼の両腕をやんわりと外しながら、剣心は顧みた。
瞬間、左之助の本能がスッと己が唇を寄せさせた。だが、心得ていたかのように剣心の指が、またしても押さえ込んできた。
ムッと顔を歪めると、緩やかに剣心は笑った。
「ならぬよ、左之」
「馬鹿言え、ここには俺とおめェの二人きり・・・」
「だからこそ、でござるよ」
左之助からうまく擦り抜けて、剣心は鍋の具合を再度見る。
「お主のことだ、それだけではすむまい。それとも・・・歯止め、利かせられるか?」
その一言に、左之助は言葉を失った。自分でもよくわからないが・・・止まらなくなる、と思ってしまったのだ。
「焦らずともよい、左之。心配せずとも・・・な」
鍋を見る剣心の頬に、薄く紅が差し込んでいた。
これは鍋が熱いからなのか、それとも・・・
ゆるく後れ毛のかかった彼の姿に、左之助の全身がカッと熱くなる。
「け、剣・・・」
「左之助。いつでも夕餉は食べられるが・・・まず食べるか、それとも風呂が先か?」
「へ?」
話題が反転、左之助の目が点になる。けれども剣心の面差しは変わらない。どちらかといえばさらに赤面させて・・・
「食べるが先でも、風呂が先でも・・・どちらでも良い、気兼ねはいらん。・・・今宵は、お主と拙者のみでござるから・・・」
背を向けたまま、剣心は口元をもごもごとさせた。左之助の心臓が、激しく高鳴る。
「な・・・何だよ、剣心・・・おめぇ・・・今日は何だか・・・」
何か憑き物が取れたように、あるいはただ素直なだけなのか。とにもかくにも、普段と違う剣心の様子に、左之助は純粋に戸惑った。
「その先は言うな、左之」
「剣・・・」
「拙者とて・・・些か戸惑っている。よくはわからぬが・・・多分・・・」
剣心の唇が不意に閉じられた。閉じて、ゆるく首を振る。
「よそう、この先を言うのは。どうにもなぁ・・・」
「なんだよ、気になるじゃねぇか」
「気にするな、左之」
「はぐらかすな!」
「はぐらかしたつもりはござらん。さ、夕餉が先か、風呂が先か?」
こうなると、もはやどんなに追求をしても口を割ることはないだろう。それは、今までの付き合いの中でわかりすぎているほどわかっている。
だったら・・・今の、ありのままの剣心を受け止めればいい。
左之助は頭を掻いた。
「まったく・・・しょうがねェなァ・・・じゃ、飯が先だ」
「よし、わかった。今日は鰈(かれい)が手に入ってなァ、親切な魚河岸の親父殿がわけてくださった。煮付けてみたんだが、お主の口にあえばいいが。あとはけんちん汁に・・・」
「剣心」
「ン?」
「食べた後は・・・一緒に風呂に入ろう」
「な・・・!」
突然の申し出に、剣心の面差しが強張った。左之助は一歩、歩み寄って静かに唇を寄せた。
「構わねェよな・・・?」
剣心の瞳が微かに潤んだ。
それがわかったのだろう、咄嗟に目を伏せて・・・
「・・・馬鹿者」
小さく言った彼の姿が、左之助には酷く扇情的に見えた。
「こっちを向けよ、剣心」
背後からの声に、けれども剣心は答えられずにいる。相変わらずうつむいたままで小さく首を振り、
「できぬ」
とだけ、告げた。
「どうして」
「どうしても何も・・・このような恥ずかしいことをしているのに・・・まともにお主の顔、見られるわけがござらん」
そう言って、剣心は熱に浮かされたように息を吐いた。
「恥ずかしいこと、ねェ・・・」
背後で忍び笑う声が、羞恥に輪をかける。剣心の肌がいっぺんに、淡い桜色に染まった。
「いいじゃねェか。たまにはこうして、のんびり風呂に入るのもよ」
「お・・・お主にとってはよかろうが・・・」
「何だ、気に入らねェのか?」
「いや、そういう問題では・・・」
ますます恥じ入って、剣心は身体を縮こまらせた。
彼が恥ずかしく思うのも無理はない。湯船の中に男が二人、しかも剣心、背を向けて抱きかかえられるようにして座しているのだ。
屋敷の湯船といえども決して、広いとは言いがたい。
ただでさえ長身で、しかも身体つきのよい左之助が浸かるだけでも精一杯の広さなのに、ここへまた小柄といえども剣心が入れば・・・
肌と肌が否応なく密着することは自明の理であった。
剣心の背中には、左之助の鍛え抜かれた胸板がある。腋下からは両腕が生えていてしっかり、剣心を抱きすくめていた。
水面の下、この身体を捕らえている左之助の腕が、剣心には限りなく卑猥な光景に見えて仕方がない。何をするわけでもないのに、どうにも気恥ずかしくてたまらなくて、ついつい目をそらしたり、不用意に波紋を広げてみたりする。
燭台の心許ない灯りの下、鮮明に見えるわけではないのだが、この状況が剣心には耐え難い。
そんな彼の機微を感じてのことなのか、時折左之助はクスクスと笑いをこぼした。
「恥ずかしいことだっておめェは言うが・・・今までだって、散々恥ずかしいこと、やってきただろ」
「左・・・」
「いまさらだよなぁ・・・何をそんなに恥ずかしがるんだか・・・なぁ、剣心?」
「う・・・」
「なんなら・・・今、ここで実践してやろうか・・・」
耳朶の奥深く、左之助の声がしっとりと響きこんだ。ふぅっと、剣心の意識がわずかに遠のきかける。
「ば・・・馬鹿が。ここでは、ならぬ」
「だったら、どこならいいんでェ」
「そ、それは・・・」
「場所なんざ関係ねェよ。肌を貪るにはな」
左之助の唇が大きく開いて、剣心の耳朶を舐めくわえた。ぞりぞりと音を立てて侵食してくる舌先に、身体の髄を砕かれたような錯覚を剣心は起こす。
「あ・・・!」
ストン、と一気に力が抜けた。慌てて左之助の両膝を掴むが、間に合わない。
ゆるく波立ち、水中の光景はたちまち歪んだ。
「左之、駄目だ・・・」
「駄目じゃねェ・・・いいだろ」
「ならぬ・・・ならぬ、よ・・・ここでは、ならぬ・・・」
剣心を捕らえていた両腕が、静かに妖しく蠢き始めた。水面下、手のひらが白い肌を撫で、まさぐる。
「左之、嫌だ・・・ここでは・・・」
彼の両腕を阻止しようとするのだが、思うように力が入らない。
自分の体たらくな状況に、気持ちは焦るばかり。唇から洩れる吐息は加熱さを増していき、次第にあらぶっていく心の臓が感情を高ぶらせていく。
「く、あぁ」
声がこぼれる、抑えられない。左之助の顔が見えないが、背後で笑っているだろうと容易く想像しえて、なおも焦りなおも恥じ、なおも・・・高ぶっていく。
左之助の指は確実に、剣心の身体を変貌させていく。湯の中でしなやかに、柔らかく溶けていく。
彼の中で、剣心は身を悶え始めた。
「嫌・・・嫌だ、左之・・・あ、あぁ」
「嫌じゃねェ・・・いいんだろ、剣心・・・」
囁かれる言葉の端々に、左之助の情念を覚えて剣心の心は震えを起こす。
「あ、む・・・ン、左・・・!」
いっそ、このままここで・・・という思いが芽生えたが、けれどもやはり・・・と、思いとどまる。
剣心は、最後の力を振り絞って左之助へと振り向いた。
「頼む・・・頼むから、左之・・・ここでは勘弁してくれ・・・」
「どうしてそんなに拒むんだ。別に構わねェだろ」
「そうかも、しれぬが・・・拙者は、やはり・・・ここでは・・・」
「剣・・・」
「お主が嫌だとか、そういうわけではない。ただ・・・その、自力で帰る自信が・・・」
「!」
あぁ、参った・・・左之助の頭に血が上る。どうして、この男はこんな・・・
軽く頭を振り、ぼそりと呟いてしまう。
「誘ってンだろ、本当は」
「え?」
「いや、何でもねェよ」
無意識なのか、確信的なのか・・・いまだによくわからない。いや・・・無意識だったとしても、これほど罪深いことはないのではないかと、左之助はしみじみと思ってしまった。
「仕方がねェ・・・今は、潔く身を引くか」
「かたじけない、左之」
「礼を言うのは早いぜ、剣心。後でどうなっても、知らねェぜェ」
左之助の瞳が異様な輝きを放ったのを認めて、剣心は顔を伏せた。伏せざまに、
「さ、先に上がるでござるよ」
ザバリと立ち上がって湯船から出ようとする、と、膝からかっくり、力が抜け落ちた。水を跳ねて身体を落としてきた剣心を、左之助は悠然と抱き留める。
「手伝ってやろうか、剣心」
「い、いらん」
忍び笑う左之助をまともに見ることができずに、剣心は渾身の力を込めてようやく、湯船から脱することができた。腰に力が入らなかったが、そんなことを悟られてはおしまいだと、気丈なまでに歩み去った。
湯殿から消えていく赤毛の人を見て、左之助は一人、ほうっと息を吐く。
「あ〜・・・参ったぜ、本当・・・なんだかこっちの調子が崩れっちまう・・・妙に可愛いというか、素直というか、なんというか・・・」
今までに見たことのない姿は、左之助を十分に戸惑わせるものだった。少々、意地悪をしたくなるというものだ。
「・・・やっぱ、ここで抱いちまったほうが良かったかなぁ・・・多分、もう二度と、あんな剣心は拝めねェだろうし・・・」
とはいえ、まだまだこれから夜が長いのだと思うと、我知らずに頬が緩む。
「ま、もう少しあったまってから出るとすっか」
脳裏にて先ほどの艶美な姿を反芻しつつ・・・意識は、今宵に向かって飛翔していった。
一方、脱衣所にて身支度を整えている剣心といえば、弄ばれた身体が余韻を残してしまっていて思うように力が入らず、着衣に手間取っていた。
そんな自分が情けなくて、恥ずかしくて、少しくおろおろしながら帯を結んでいる。その指先すら力が入らず戦慄くのだ、もうなんともならない。
「あぁ、もう・・・やはり湯の中であのようなことをやらかしてしまっては・・・」
先ほどの己が姿態を思い出し、頬を赤らめながら強く悔いる。
いくら今宵は自分と左之助の二人だけだからといっても、こんなに浮かれてはいけないのだと、剣心は自らを戒めていた。
しかしながら結果的に、左之助との時間を楽しんでしまう自分がいることを、剣心は痛感してしまった。
数日前、薫と弥彦が留守にすると聞いたとき、心が弾んだことは嘘ではない。左之助にも黙ったままでいたのは、彼が来るかどうかを賭けてみたかったから。来なければそのままに、もし来てしまったら・・・。
・・・たまには、彼を想う気持ちに素直になってみようかと考えた。
流れ着き、居着いてからの時の流れは甘美なことの連続で・・・
この者がいればこその時間で・・・。
だから、少しは彼の気持ちに報いてやらねばと考えたのだが・・・
「迂闊・・・で、ござったなぁ・・・」
つるりと顔を撫でてから、剣心はほうと息を吐いた。
「まさか、拙者のほうがこんなに・・・」
想いを・・・止めることはできぬ。この身体の奥に灯った炎を、消すことなどもはや・・・
「左之・・・」
一つ、呟いて。剣心は脱衣所を後にした。