昨日ほどの激しさはなかったが、今日も雨は降り続いている。
全身をびしょ濡れにしながらこの日も、左之助はひょっこり、神谷道場へ姿を見せた。
「どうして傘を差してこないのよ」
やや呆れたようにそう言って手拭いを差し出してきたのは、この神谷道場が師範代・薫である。しかめっ面で出迎えた彼女などとんと視界に入らないらしい、左之助は手拭いを受け取るなりごしごしと自慢の黒髪を拭った。
「今日も蒸し暑くて敵わねェ、いっそ雨にでも濡れりゃぁスッキリするかなと思ってよ」
手拭いの合間からにっかり笑って見せた左之助を、だが薫は深々としたため息の中で見つめる。
「どうしてそういう発想になるのよ。濡れるのは別に構わないけど、着替えはどうするつもりだったの?」
「そりゃぁ嬢ちゃん、何枚か男物の着物はあるだろ? そいつでも借りようかなって・・・」
「呆れた。どうしてあんたはそういう・・・」
「まぁ、小言はいいからよ。ちょいと貸してくれや、な、嬢ちゃん」
またしても白い歯を見せて笑った左之助に、もはやかけるべき言葉もない。薫は何度目かのため息を吐いて、奥へと引っ込んでいった。
借り物の着物に袖を通し、どうにか身繕いを済ませて当然のように、左之助はまっすぐに剣心の部屋へと赴いた。
「よぉ、剣心」
そう声をかけたのは、スパンと障子を開け放してからのことである。前もって声をかけないところが、この男の特技だ。だが、部屋の主は驚かない。
「左之、しっかり挨拶をしてから開けないか」
クツクツと忍び笑いをこぼしながら、剣心は左之助を見上げてたしなめた。
「何を言いやがる、人の気配なんざ感じ取ってるくせに。おめェに挨拶なんざ、必要ねェよ」
「なんとも、心外な言われようでござるなぁ」
障子を閉め、腰を下ろそうとする左之助の動きを目尻に写しながら、剣心は視線を手元へと流した。
「繕いモンか?」
「あぁ」
剣心は頷き、針を少しく己が髪の毛に通した。
「どうしておめェがやってるんだ」
「拙者のほうが仕上がりが綺麗だからと、弥彦が」
「へぇ、ご指名かよ。よく嬢ちゃんが怒らなかったなぁ」
「怒ったよ」
鮮やかな手つきで針を進めながら、剣心は仄かに笑った。
「女として見てくれていない、私を舐めないで、とかなんとか言って。それはもうすごい剣幕で」
「良かった、俺、その時にいなくて」
「いや、来てくれて良かったよ」
「へ?」
針を進めていた手が止まり、剣心の蒼い瞳が意味ありげに笑った。
「夕餉はお楽しみ、というわけでござる」
「あ!」
画然、事の重大さに気づいた左之助は全身を強張らせた。女として見てくれていない、そうなると・・・実証するべく、自信を取り戻すべく起こす行動は必然・・・
左之助はぺちん、額を手のひらで打った。
「・・・単純な嬢ちゃんが考えそうなこった。まいった、今日はやられたぜ。ここは早々に・・・」
「帰さぬよ、左之」
にっこりと笑った剣心の表情を、この時ばかりは憎らしく思ったのだろう、左之助の頬が凍てついた。
「剣心、おめェ・・・」
「弥彦も安心していることでござろ。一人でも多いほうが良いからなぁ」
「・・・畜生」
小さく舌打ちをして、左之助はゴロリと横になってしまった。背中を向けた彼に、剣心は再び忍び笑う。喉の奥で密やかに笑うその声は、左之助にとっては心地よくもあり、また、忌々しいものでもあった。
即ち、小さな意趣返しをたくらんでしまう。
「・・・なぁ、剣心」
「なんでござる?」
「今日は観念して嬢ちゃんの飯は食う。そのかわり、唇を吸わせろ」
「!」
ピタと指先が止まって。剣心は左之助を見遣った。
「・・・左之、」
「わかってらァ、嬢ちゃんも弥彦もいる。それ以上のことはしねェよ」
「・・・・・・」
剣心は思わず目を伏せ・・・顔を伏せた。
脳裏をよぎったのは、つい昨日のあの瞬間。
・・・左之助、お主は・・・
剣心が言い淀んでいると、いつの間にか左之助が間合いを詰めていて。頤に指先を当てられてからようやく、彼が近くまで来ていたことに気づいた。
「あ・・・」
「どうした、剣心?」
微妙な違和感を、左之助は嗅ぎ取っていた。こういう場合、必ず強い抵抗を見せるはずだった。時に言葉で、時に態度で。それがなぜか今・・・
「何を考えてる」
「別に、何も・・・」
「嘘つきだな」
ビク、と肩が震えた。無論、それを見逃す左之助ではない。
「言えよ、剣心」
「・・・何でもないでござるよ、左之。気にするな」
にっこりと笑って見せたが、左之助には腑に落ちない。けれども彼はわかっている、これ以上言ってみたところで、剣心の返答は変わらないと。一度壁を作ると、容易く壊すようなことはしない。
左之助は、ふっと息を吐き出した。
「・・・一人で解決しようとすンなよ。煮詰まったら、必ず俺に話せよ、剣心」
「あぁ・・・わかったよ、左之」
ゆるやかに微笑んで見せたあと、剣心は思い出したようにこう言った。
「唇が欲しいのでござろ、良いのか、このままで」
「馬鹿。このままにするわけがねェだろ。俺ァ、おめェが嫌だって言っても、もらうもんはもらうんだよ」
「強引でござるなぁ」
「嫌なのかよ、おめェは」
「嫌なら、お主と寝るわけがないでござろ」
容易く言葉に詰まった左之助は、じっと剣心を見つめてしまった。どうしてこの男は、突然そういうことをさらりと言ってしまえるのか。いつもは決して口にしないというのに・・・
「・・・負けたぜ、剣心」
「いつ、お主が拙者に勝てた?」
「言ったな、押し倒してやる」
「それはまた、せっかちな。今でなくとも今宵があるぞ」
「この・・・!」
小さな肩を押して、左之助は剣心を畳へと組み敷こうとした。が、剣心はうまく身体を転がせて易々と逃れてしまう。
「事を急いては仕損ずる、とな、左之」
「剣心」
クツクツと笑う剣心を、左之助はどうにも悔しくて、されども愛しくて。今、この両腕に包み込みたくなってしまう。
膝を摺って身体を寄せようとする左之助を、剣心は笑いながら見つめた。
「お主が言い出したことでござる、唇だけだぞ、左之」
「わ・・・わかってらァ!」
「それなら・・・構わぬよ」
剣心の唇が、一瞬・・・濡れたように艶めいた気がした。左之助はたまらず己が唇を重ねていて・・・思いきり、柔らかく開かれた花びらを吸い込んだ。
剣心の手のひらが、左之助の背中に絡む。きゅぅと・・・掴んで。
その先は・・・宵の口から展開された。
障子の向こうは静やかな雨音。
障子の手前は、絡み合う吐息。
声を噛み殺す気配の中で、容赦なく厳つい手のひらが白い肌を嬲る。
一糸纏わぬ二つの裸体が、一つの褥の上でゆるやかにのたうつ。
灯りもない、声もない。
荒ぶる呼吸が・・・火照った身体が重なる音が、闇の空間へ溶けていく。
儚くも淫らな音が漂う漆黒の中、ぽつり、左之助がこぼした。
「今日は・・・やけに声を殺すじゃねェか・・・」
剣心は答えない。それとも答えられないのか。
俯せになり、赤毛を四方へ振り乱して背中へ張り付かせ、しきりと褥を握りしめている。
「・・・啼けよ、剣心」
途端、
「ひ、ぁ・・・!」
身体がわなないた瞬間、左之助の身体も小刻みに震えた。
放たれる左之助の温もりと感触を、意識のどこか遠いところで感じながら・・・剣心の心には、風穴がぽっかりと空いていた。
そこからざあざあと何かが落ちていく。
止めどもなく落ちていく。
止めようとするのだが、どうにもならない・・・
・・・どうにも・・・。
「左、之・・・」
緩やかに落ちていく意識の先は、底知れぬ闇色の世界だった。
晴れていようと、雨だろうと、左之助は足繁く神谷道場に顔を見せる。
変わらぬ笑顔と風体は、平々凡々、時の流れがゆっくりであることを感じさせる。
穏やかに、過ぎ去っていく・・・
・・・けれども。
風のようにやってきて、風のように去っていく左之助は、いつも決まった時間に顔を見せるわけではない。毎日とも限らぬし、長いときには七日ほど顔を見せないこともある。それはごくまれなことではあるが、昨日は来なかったな、と思えば必ず翌日には顔を出すのだ。
そんな左之助の懐から、時折良い香りが漂ってくることがある。
本人はそのことに気づいているのかどうか、定かではないが・・・彼の側へ寄ってみなければ嗅ぎ取れないほど、それは微かなもの。
ここ半月ほど、同じ匂いであることを剣心は嗅ぎ取っていた。
その度につと、視線を落とす自分がいることに気がついた。
思わぬ心の動きに、剣心は愕然とする。
「・・・いかんな」
あれからずっと。
自分ではないような気がしている。
頭の中に別の人格がいて、冷静に今を見つめて判断をしているのだ。
雨の日の昼下がり、剣心は私室にて寝そべり、天井を見つめて一人ごちた。
「このまま・・・」
・・・このまま・・・?
このまま、何だというのだろう。
先に何かを望んでいるのか、あるいは絶望を見ているのか・・・
・・・絶望? どうして、絶望などと?
いや・・・何が「絶望」だというのか。
・・・わからない。
「・・・自分自身が、わからない・・・」
何を求めているのだろう、どうしてこんなに気分が鬱屈しているのだろう。
こんなことになるのは・・・こんな日がいずれ必ず来ることは、最初からわかっていたはずだ。
所詮は男、いつまでもこんな関係が成り立つわけがない。
それを承知で受け入れたのではなかったか・・・覚悟を決めて、左之助を受け止めたのではなかったか?
だから・・・この日が来ることは遅かれ早かれ、いずれ来るものと・・・
・・・わかっていたのに。
何を、拙者は・・・
剣心は目を閉じた。
・・・と。
「よぉ、剣心」
雨の日にも関わらず、その男は姿を見せた。
今度は傘でも差してきたのか、普段通りの半纏姿で、にっかりと笑って障子を開け放って立っていた。
「・・・左之」
「珍しいな、剣心。おめェが昼寝たァ」
スパンと障子を閉めるなり、ゴロリと剣心の傍らへ寝そべった。
剣心は少しく微笑んだが、何も言わなかった。
「昼寝・・・というわけでもござらんが。まぁ・・・何となく、な」
「ふぅん、なんとなく、ね・・・」
あ、と思ったら。左之助が剣心を覗き込んでいた。上体を起こして、上空から。
次の行動は、目に見えている。
「剣心・・・」
今日は薫と弥彦は出稽古の日、神谷家にいるのは剣心と左之助だけ。
誰に憚ることなく・・・と、左之助は踏んだのだろう。しかし、左之助を見る剣心の瞳は冷たく冴えていた。
「良い香りがするな、左之」
唇まであと少し・・・というところで。思わぬ剣心の言葉に、ピタリとその動きを止めてしまう。左之助は剣心へ目を向けた。
「そうか? どんな匂いだ?」
「・・・おそらくは・・・匂い袋・・・」
「匂い袋・・・?」
左之助の瞳が一瞬、泳いだ。わずかな隙をついて、剣心は己が身を滑り出す。
「気づいておらぬのだな」
「気づくって・・・」
「・・・時折、良い匂いがしていることに、気がつかなかったのか」
剣心の小さな背中が突如、鋼鉄の壁のようにそびえ立った。背後で、左之助の喉仏が鳴ったのを耳に汚す。
「・・・女がいるのか、て、言いてェのか」
「いや、そこまでは言わぬよ」
「え?」
剣心はくるりと身体ごと向き直り、やおら正座をして見せた。姿勢を正した彼の態度に、左之助の心が微妙な揺らぎを覚える。
「拙者が言いたいのは、良い女子がいるのなら、構わずその女子のもとへ行け、ということだ」
「な・・・!」
目の色を変えた左之助を、けれども剣心は揺るがない。じっと見据えたままに言葉を続ける。
「女子の匂いをさせて抱かれるのも心外だが、良い女子がいるにも関わらず忍んでくる、その図太さが何より気にいらん。女子に対しても拙者に対しても、裏切り行為だ」
「ちょ、ちょっと待て、剣心!」
「何を待てと? 言っておくが、これは悋気云々ということではない。男と情を交わせるよりは、女と情を交わせたほうが良いだろうと言っているんだ」
「・・・本気で言ってンのか、剣心」
「戯れ言を口に上らせると思うか、拙者が?」
ずぃと。左之助は身を乗り出した。瞳が、先ほどと違って仄かな揺らぎを見せている。
「俺にだって、女友達の一人や二人はいるんだぜ。そうとも考えねェのかよ」
「・・・考える以前の問題だな。拙者は見てしまっているから」
「え・・・?」
「暗い脇道で、お主と女子が抱き合っているのをな」
瞬間、合点がいったというようにアッと表情が開く。
「千代のことか」
「ほぉ、千代殿と申すのか。良い名だな」
「茶化すな。確かにな、あの時は抱き合っていたように見えたかもしれねェ。が、一方的に抱きついてきたのは女のほうだ、俺は指先一寸、触れちゃいねェ」
「唇を吸っていながら?」
「吸われたんだ、逆に」
「嬉しかっただろう」
「喜ばねェ野郎はいねェだろ。だがな、そいつは気持ちの問題だ。俺の心は常におめェにある」
「だから?」
「俺の大事なヤツはおめェだ」
途端、深く吐き出されたのは剣心のため息。ゆるりと首を振って静かに告げる。
「何度も匂いを漂わせてきたお主を知っているゆえ、今さらそんなことを言われても全く、実感が湧かぬな」
「剣心!」
「いずれにせよ」
真正面、左之助の眼差しを睨み据え、
「拙者では役不足だ、この際、女子へ情を移すといい」
凛然たる態度で言い放った。
左之助がグッと奥歯を噛みしめた。瞳が丸く見開かれる。
「剣心、いい加減にしねェと・・・」
「殴るか? 構わぬぞ、一向に」
「てめェ!」
ガッと左之助の左手が胸倉を掴み上げ、ぐわりと右拳、振り上がった。
来る!と剣心、反射的に身を強張らせたが・・・訪れるはずの痛みや衝撃が、頬に刻み込まれない。
瞬きもせずに見守っていた左之助の拳は、頬の寸前のところで止まっていた。
「どうした、左之。殴らないのか」
左之助は、わなわなと震えながら剣心を見ていた。その面差しを苦渋に染め抜いて。眉間のしわが、限りなく深かった。
「・・・なのか・・・」
「・・・何?」
「おめェは、平気なのか。俺が、女のところへ行っても」
「・・・平気だ」
「今まで、俺の独り相撲だったってェのか」
「そういうことだな」
「だったら! どうして身体を開いた!」
咆吼のような一声が、剣心の胸を貫いた。
されど・・・彼の表情は冴え冴えとしている。眉尻すら動かぬそれは、炎の中にありながら全く溶けぬ、氷のよう。
剣心は、淡々と告げた。
「・・・求められて喜ばぬ野郎はいない・・・そうだったな、左之」
「な・・・!」
「拙者にはな、左之。求められて拒む理由もなければ、去っていく者を引き留める理由もないのでござるよ・・・」
「剣・・・」
「忘れたか、左之。拙者は所詮、流浪人でござる」
「・・・・・・!」
ぶつ。何かが切れた。
ぱたた・・・と、生温かなものが剣心の十字傷を濡らす。
左之助の拳から、血が滴った。
握りしめるあまりに指先の圧力が限界を越え、爪が手のひらの皮膚を突き破ったのだ。
それを剣心は、表情もなく黙って見つめていた。
「・・・いいぜ、おめェがその気ならよ」
未だ拳を降ろさぬままに、鮮血を滴らせたまま、左之助は声を震わせて目を剥いた。
「俺は、俺の好きにさせてもらう」
ようやく拳を下げて、左之助は鮮血を舐め取った。パッと剣心の胸倉から手を離して解放し、すっくりと立ち上がる。
「俺に媚びてくる女は腐るほどいる。千代のように大胆にも行動で指し示そうとするヤツもいる。が、俺の心が動いた試しはねェ」
トト・・・と障子へと歩み寄り。左之助はパシンと開き、
「おめェが信じるも信じねェも、それは勝手だ。これで信じてもらえねェ俺が、いままで誠実じゃなかったんだろうよ」
「・・・・・・」
「出直してくらァ。あばよ」
再びパシンと音がして。綺麗に閉じ合わさった障子の内側にて、剣心は格子の影を見つめていた。
・・・雨は、しとしとと降り続いている。
頬を濡らした鮮血はまだ、温かい。