[ 表紙  1     ]



 ふと・・・その時。足が止まってしまったのは、なぜなのか。
 胸が騒ぐわけでもなく、
 怪しげな気配を覚えたわけでもなく。
 本当に・・・ふと。何気なく・・・
 そんな感じで、剣心は足を止めていた。
 午後から買い出しに出かけ、あれほど晴れていた空模様はいつしか重い、悲しみを湛えたかのような鉛色。
 早々に帰らねば、雨にたたられるに違いない。
 そう、思った矢先だったのだが。足早に駆け出そうとしていた矢先だったのだが。
 両手いっぱいの野菜やら何やらを抱えたままの状態で、爪先は動かなくなった。
 首はくるりと右側を向いている。視線の先には細い脇道があり、ゆるゆると闇の世界へと繋がっていて。その、光と闇の境の世界で、一人の男が凛と立っている。
 見覚えのある風体だった。剣心の距離からもはっきりとわかる、「惡」一文字。垂れ下がる赤いはちまきがわずかに闇に染まり、陰影を刻んでいる。
 彼の背中、広い背中。脇道いっぱいに広がるような背中。
 だから・・・よく見えなかったのだが。
 見えなかったのだが・・・背中の向こう側に人がいるのがわかった。
 地へと視線を流せば、男の脚の間から覗くのは赤い鼻緒の・・・明らかに、女の爪先。身動きせずに寄り添っている。
 あぁ、そういうことかと・・・少し頷いた。
 が、頭の中は冴え、心が荒々しく揺さぶられた。
 二人の脚から目が離せない。しっかり見たくもないのに、じっくりと見てしまう。
 ・・・光と闇の狭間の世界。
 微妙に揺らぎを見せるその場所で、じっと見つめる剣心の瞳が、女性の足が爪先立ったのを見た。
 しわで歪んだ「惡」一文字が、キュッと伸びた。
 「・・・・・・」
 何か、言葉が出そうになった。唇が薄く開いて喉の奥、ほろりと一滴、何かがこぼれ落ちそうだった。
 ・・・何を? 何を言う、何が言いたい?
 つと我に立ち返った瞬間、剣心は猛然とその場所から立ち去っていた。
 いつも以上に足早に、ぎゅぅと野菜を抱きしめたまま。
 言いしれぬ感情が渦を巻いていた、唇を噛みしめていることに彼は気づかない。
 ただ、ただ・・・歩を進めるだけ。
 赤毛が微かに震えて生温い風に靡く。
 小さな背中を追いかけてきたのは空からの雫。
 ぽつ、ぽつぽつ・・・と落ち始めたものはやがて、ざざぁと大河となって東京を覆い尽くしていく。
 今は水無月、梅雨の最中。
 空模様と同様の、同じ心が雫に染まった。






 昨日ほどの激しさはなかったが、今日も雨は降り続いている。
 全身をびしょ濡れにしながらこの日も、左之助はひょっこり、神谷道場へ姿を見せた。
 「どうして傘を差してこないのよ」
 やや呆れたようにそう言って手拭いを差し出してきたのは、この神谷道場が師範代・薫である。しかめっ面で出迎えた彼女などとんと視界に入らないらしい、左之助は手拭いを受け取るなりごしごしと自慢の黒髪を拭った。
 「今日も蒸し暑くて敵わねェ、いっそ雨にでも濡れりゃぁスッキリするかなと思ってよ」
 手拭いの合間からにっかり笑って見せた左之助を、だが薫は深々としたため息の中で見つめる。
 「どうしてそういう発想になるのよ。濡れるのは別に構わないけど、着替えはどうするつもりだったの?」
 「そりゃぁ嬢ちゃん、何枚か男物の着物はあるだろ? そいつでも借りようかなって・・・」
 「呆れた。どうしてあんたはそういう・・・」
 「まぁ、小言はいいからよ。ちょいと貸してくれや、な、嬢ちゃん」
 またしても白い歯を見せて笑った左之助に、もはやかけるべき言葉もない。薫は何度目かのため息を吐いて、奥へと引っ込んでいった。
 借り物の着物に袖を通し、どうにか身繕いを済ませて当然のように、左之助はまっすぐに剣心の部屋へと赴いた。
 「よぉ、剣心」
 そう声をかけたのは、スパンと障子を開け放してからのことである。前もって声をかけないところが、この男の特技だ。だが、部屋の主は驚かない。
 「左之、しっかり挨拶をしてから開けないか」
 クツクツと忍び笑いをこぼしながら、剣心は左之助を見上げてたしなめた。
 「何を言いやがる、人の気配なんざ感じ取ってるくせに。おめェに挨拶なんざ、必要ねェよ」
 「なんとも、心外な言われようでござるなぁ」
 障子を閉め、腰を下ろそうとする左之助の動きを目尻に写しながら、剣心は視線を手元へと流した。
 「繕いモンか?」
 「あぁ」
 剣心は頷き、針を少しく己が髪の毛に通した。
 「どうしておめェがやってるんだ」
 「拙者のほうが仕上がりが綺麗だからと、弥彦が」
 「へぇ、ご指名かよ。よく嬢ちゃんが怒らなかったなぁ」
 「怒ったよ」
 鮮やかな手つきで針を進めながら、剣心は仄かに笑った。
 「女として見てくれていない、私を舐めないで、とかなんとか言って。それはもうすごい剣幕で」
 「良かった、俺、その時にいなくて」
 「いや、来てくれて良かったよ」
 「へ?」
 針を進めていた手が止まり、剣心の蒼い瞳が意味ありげに笑った。
 「夕餉はお楽しみ、というわけでござる」
 「あ!」
 画然、事の重大さに気づいた左之助は全身を強張らせた。女として見てくれていない、そうなると・・・実証するべく、自信を取り戻すべく起こす行動は必然・・・
 左之助はぺちん、額を手のひらで打った。
 「・・・単純な嬢ちゃんが考えそうなこった。まいった、今日はやられたぜ。ここは早々に・・・」
 「帰さぬよ、左之」
 にっこりと笑った剣心の表情を、この時ばかりは憎らしく思ったのだろう、左之助の頬が凍てついた。
 「剣心、おめェ・・・」
 「弥彦も安心していることでござろ。一人でも多いほうが良いからなぁ」
 「・・・畜生」
 小さく舌打ちをして、左之助はゴロリと横になってしまった。背中を向けた彼に、剣心は再び忍び笑う。喉の奥で密やかに笑うその声は、左之助にとっては心地よくもあり、また、忌々しいものでもあった。
 即ち、小さな意趣返しをたくらんでしまう。
 「・・・なぁ、剣心」
 「なんでござる?」
 「今日は観念して嬢ちゃんの飯は食う。そのかわり、唇を吸わせろ」
 「!」
 ピタと指先が止まって。剣心は左之助を見遣った。
 「・・・左之、」
 「わかってらァ、嬢ちゃんも弥彦もいる。それ以上のことはしねェよ」
 「・・・・・・」
 剣心は思わず目を伏せ・・・顔を伏せた。
 脳裏をよぎったのは、つい昨日のあの瞬間。

 ・・・左之助、お主は・・・

 剣心が言い淀んでいると、いつの間にか左之助が間合いを詰めていて。頤に指先を当てられてからようやく、彼が近くまで来ていたことに気づいた。
 「あ・・・」
 「どうした、剣心?」
 微妙な違和感を、左之助は嗅ぎ取っていた。こういう場合、必ず強い抵抗を見せるはずだった。時に言葉で、時に態度で。それがなぜか今・・・
 「何を考えてる」
 「別に、何も・・・」
 「嘘つきだな」
 ビク、と肩が震えた。無論、それを見逃す左之助ではない。
 「言えよ、剣心」
 「・・・何でもないでござるよ、左之。気にするな」
 にっこりと笑って見せたが、左之助には腑に落ちない。けれども彼はわかっている、これ以上言ってみたところで、剣心の返答は変わらないと。一度壁を作ると、容易く壊すようなことはしない。
 左之助は、ふっと息を吐き出した。
 「・・・一人で解決しようとすンなよ。煮詰まったら、必ず俺に話せよ、剣心」
 「あぁ・・・わかったよ、左之」
 ゆるやかに微笑んで見せたあと、剣心は思い出したようにこう言った。
 「唇が欲しいのでござろ、良いのか、このままで」
 「馬鹿。このままにするわけがねェだろ。俺ァ、おめェが嫌だって言っても、もらうもんはもらうんだよ」
 「強引でござるなぁ」
 「嫌なのかよ、おめェは」
 「嫌なら、お主と寝るわけがないでござろ」
 容易く言葉に詰まった左之助は、じっと剣心を見つめてしまった。どうしてこの男は、突然そういうことをさらりと言ってしまえるのか。いつもは決して口にしないというのに・・・
 「・・・負けたぜ、剣心」
 「いつ、お主が拙者に勝てた?」
 「言ったな、押し倒してやる」
 「それはまた、せっかちな。今でなくとも今宵があるぞ」
 「この・・・!」
 小さな肩を押して、左之助は剣心を畳へと組み敷こうとした。が、剣心はうまく身体を転がせて易々と逃れてしまう。
 「事を急いては仕損ずる、とな、左之」
 「剣心」
 クツクツと笑う剣心を、左之助はどうにも悔しくて、されども愛しくて。今、この両腕に包み込みたくなってしまう。
 膝を摺って身体を寄せようとする左之助を、剣心は笑いながら見つめた。
 「お主が言い出したことでござる、唇だけだぞ、左之」
 「わ・・・わかってらァ!」
 「それなら・・・構わぬよ」
 剣心の唇が、一瞬・・・濡れたように艶めいた気がした。左之助はたまらず己が唇を重ねていて・・・思いきり、柔らかく開かれた花びらを吸い込んだ。
 剣心の手のひらが、左之助の背中に絡む。きゅぅと・・・掴んで。

 その先は・・・宵の口から展開された。

 障子の向こうは静やかな雨音。
 障子の手前は、絡み合う吐息。
 声を噛み殺す気配の中で、容赦なく厳つい手のひらが白い肌を嬲る。
 一糸纏わぬ二つの裸体が、一つの褥の上でゆるやかにのたうつ。
 灯りもない、声もない。
 荒ぶる呼吸が・・・火照った身体が重なる音が、闇の空間へ溶けていく。
 儚くも淫らな音が漂う漆黒の中、ぽつり、左之助がこぼした。
 「今日は・・・やけに声を殺すじゃねェか・・・」
 剣心は答えない。それとも答えられないのか。
 俯せになり、赤毛を四方へ振り乱して背中へ張り付かせ、しきりと褥を握りしめている。
 「・・・啼けよ、剣心」
 途端、
 「ひ、ぁ・・・!」
 身体がわなないた瞬間、左之助の身体も小刻みに震えた。
 放たれる左之助の温もりと感触を、意識のどこか遠いところで感じながら・・・剣心の心には、風穴がぽっかりと空いていた。
 そこからざあざあと何かが落ちていく。
 止めどもなく落ちていく。
 止めようとするのだが、どうにもならない・・・
 ・・・どうにも・・・。
 「左、之・・・」
 緩やかに落ちていく意識の先は、底知れぬ闇色の世界だった。






 晴れていようと、雨だろうと、左之助は足繁く神谷道場に顔を見せる。
 変わらぬ笑顔と風体は、平々凡々、時の流れがゆっくりであることを感じさせる。
 穏やかに、過ぎ去っていく・・・
 ・・・けれども。
 風のようにやってきて、風のように去っていく左之助は、いつも決まった時間に顔を見せるわけではない。毎日とも限らぬし、長いときには七日ほど顔を見せないこともある。それはごくまれなことではあるが、昨日は来なかったな、と思えば必ず翌日には顔を出すのだ。
 そんな左之助の懐から、時折良い香りが漂ってくることがある。
 本人はそのことに気づいているのかどうか、定かではないが・・・彼の側へ寄ってみなければ嗅ぎ取れないほど、それは微かなもの。
 ここ半月ほど、同じ匂いであることを剣心は嗅ぎ取っていた。
 その度につと、視線を落とす自分がいることに気がついた。
 思わぬ心の動きに、剣心は愕然とする。
 「・・・いかんな」

 あれからずっと。
 自分ではないような気がしている。
 頭の中に別の人格がいて、冷静に今を見つめて判断をしているのだ。

 雨の日の昼下がり、剣心は私室にて寝そべり、天井を見つめて一人ごちた。

 「このまま・・・」
 ・・・このまま・・・?
 このまま、何だというのだろう。
 先に何かを望んでいるのか、あるいは絶望を見ているのか・・・
 ・・・絶望? どうして、絶望などと?
 いや・・・何が「絶望」だというのか。
 ・・・わからない。
 「・・・自分自身が、わからない・・・」
 何を求めているのだろう、どうしてこんなに気分が鬱屈しているのだろう。
 こんなことになるのは・・・こんな日がいずれ必ず来ることは、最初からわかっていたはずだ。
 所詮は男、いつまでもこんな関係が成り立つわけがない。
 それを承知で受け入れたのではなかったか・・・覚悟を決めて、左之助を受け止めたのではなかったか?
 だから・・・この日が来ることは遅かれ早かれ、いずれ来るものと・・・
 ・・・わかっていたのに。
 何を、拙者は・・・
 剣心は目を閉じた。

 ・・・と。
 「よぉ、剣心」
 雨の日にも関わらず、その男は姿を見せた。
 今度は傘でも差してきたのか、普段通りの半纏姿で、にっかりと笑って障子を開け放って立っていた。
 「・・・左之」
 「珍しいな、剣心。おめェが昼寝たァ」
 スパンと障子を閉めるなり、ゴロリと剣心の傍らへ寝そべった。
 剣心は少しく微笑んだが、何も言わなかった。
 「昼寝・・・というわけでもござらんが。まぁ・・・何となく、な」
 「ふぅん、なんとなく、ね・・・」
 あ、と思ったら。左之助が剣心を覗き込んでいた。上体を起こして、上空から。
 次の行動は、目に見えている。
 「剣心・・・」
 今日は薫と弥彦は出稽古の日、神谷家にいるのは剣心と左之助だけ。
 誰に憚ることなく・・・と、左之助は踏んだのだろう。しかし、左之助を見る剣心の瞳は冷たく冴えていた。
 「良い香りがするな、左之」
 唇まであと少し・・・というところで。思わぬ剣心の言葉に、ピタリとその動きを止めてしまう。左之助は剣心へ目を向けた。
 「そうか? どんな匂いだ?」
 「・・・おそらくは・・・匂い袋・・・」
 「匂い袋・・・?」
 左之助の瞳が一瞬、泳いだ。わずかな隙をついて、剣心は己が身を滑り出す。
 「気づいておらぬのだな」
 「気づくって・・・」
 「・・・時折、良い匂いがしていることに、気がつかなかったのか」
 剣心の小さな背中が突如、鋼鉄の壁のようにそびえ立った。背後で、左之助の喉仏が鳴ったのを耳に汚す。
 「・・・女がいるのか、て、言いてェのか」
 「いや、そこまでは言わぬよ」
 「え?」
 剣心はくるりと身体ごと向き直り、やおら正座をして見せた。姿勢を正した彼の態度に、左之助の心が微妙な揺らぎを覚える。
 「拙者が言いたいのは、良い女子がいるのなら、構わずその女子のもとへ行け、ということだ」
 「な・・・!」
 目の色を変えた左之助を、けれども剣心は揺るがない。じっと見据えたままに言葉を続ける。
 「女子の匂いをさせて抱かれるのも心外だが、良い女子がいるにも関わらず忍んでくる、その図太さが何より気にいらん。女子に対しても拙者に対しても、裏切り行為だ」
 「ちょ、ちょっと待て、剣心!」
 「何を待てと? 言っておくが、これは悋気云々ということではない。男と情を交わせるよりは、女と情を交わせたほうが良いだろうと言っているんだ」
 「・・・本気で言ってンのか、剣心」
 「戯れ言を口に上らせると思うか、拙者が?」
 ずぃと。左之助は身を乗り出した。瞳が、先ほどと違って仄かな揺らぎを見せている。
 「俺にだって、女友達の一人や二人はいるんだぜ。そうとも考えねェのかよ」
 「・・・考える以前の問題だな。拙者は見てしまっているから」
 「え・・・?」
 「暗い脇道で、お主と女子が抱き合っているのをな」
 瞬間、合点がいったというようにアッと表情が開く。
 「千代のことか」
 「ほぉ、千代殿と申すのか。良い名だな」
 「茶化すな。確かにな、あの時は抱き合っていたように見えたかもしれねェ。が、一方的に抱きついてきたのは女のほうだ、俺は指先一寸、触れちゃいねェ」
 「唇を吸っていながら?」
 「吸われたんだ、逆に」
 「嬉しかっただろう」
 「喜ばねェ野郎はいねェだろ。だがな、そいつは気持ちの問題だ。俺の心は常におめェにある」
 「だから?」
 「俺の大事なヤツはおめェだ」
 途端、深く吐き出されたのは剣心のため息。ゆるりと首を振って静かに告げる。
 「何度も匂いを漂わせてきたお主を知っているゆえ、今さらそんなことを言われても全く、実感が湧かぬな」
 「剣心!」
 「いずれにせよ」
 真正面、左之助の眼差しを睨み据え、
 「拙者では役不足だ、この際、女子へ情を移すといい」
 凛然たる態度で言い放った。
 左之助がグッと奥歯を噛みしめた。瞳が丸く見開かれる。
 「剣心、いい加減にしねェと・・・」
 「殴るか? 構わぬぞ、一向に」
 「てめェ!」
 ガッと左之助の左手が胸倉を掴み上げ、ぐわりと右拳、振り上がった。
 来る!と剣心、反射的に身を強張らせたが・・・訪れるはずの痛みや衝撃が、頬に刻み込まれない。
 瞬きもせずに見守っていた左之助の拳は、頬の寸前のところで止まっていた。
 「どうした、左之。殴らないのか」
 左之助は、わなわなと震えながら剣心を見ていた。その面差しを苦渋に染め抜いて。眉間のしわが、限りなく深かった。
 「・・・なのか・・・」
 「・・・何?」
 「おめェは、平気なのか。俺が、女のところへ行っても」
 「・・・平気だ」
 「今まで、俺の独り相撲だったってェのか」
 「そういうことだな」
 「だったら! どうして身体を開いた!」
 咆吼のような一声が、剣心の胸を貫いた。
 されど・・・彼の表情は冴え冴えとしている。眉尻すら動かぬそれは、炎の中にありながら全く溶けぬ、氷のよう。
 剣心は、淡々と告げた。
 「・・・求められて喜ばぬ野郎はいない・・・そうだったな、左之」
 「な・・・!」
 「拙者にはな、左之。求められて拒む理由もなければ、去っていく者を引き留める理由もないのでござるよ・・・」
 「剣・・・」
 「忘れたか、左之。拙者は所詮、流浪人でござる」
 「・・・・・・!」
 ぶつ。何かが切れた。
 ぱたた・・・と、生温かなものが剣心の十字傷を濡らす。
 左之助の拳から、血が滴った。
 握りしめるあまりに指先の圧力が限界を越え、爪が手のひらの皮膚を突き破ったのだ。
 それを剣心は、表情もなく黙って見つめていた。
 「・・・いいぜ、おめェがその気ならよ」
 未だ拳を降ろさぬままに、鮮血を滴らせたまま、左之助は声を震わせて目を剥いた。
 「俺は、俺の好きにさせてもらう」
 ようやく拳を下げて、左之助は鮮血を舐め取った。パッと剣心の胸倉から手を離して解放し、すっくりと立ち上がる。
 「俺に媚びてくる女は腐るほどいる。千代のように大胆にも行動で指し示そうとするヤツもいる。が、俺の心が動いた試しはねェ」
 トト・・・と障子へと歩み寄り。左之助はパシンと開き、
 「おめェが信じるも信じねェも、それは勝手だ。これで信じてもらえねェ俺が、いままで誠実じゃなかったんだろうよ」
 「・・・・・・」
 「出直してくらァ。あばよ」
 再びパシンと音がして。綺麗に閉じ合わさった障子の内側にて、剣心は格子の影を見つめていた。
 ・・・雨は、しとしとと降り続いている。
 頬を濡らした鮮血はまだ、温かい。

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