[ 表紙    2   ]



 翌日から、左之助は毎日顔をみせた。
 普段でも毎日とは言わない、二日に一度の割合だったのが、ここのところ本当に毎日、神谷道場の門を潜っていた。
 けれども、剣心に声をかけるでもなく、邪魔をするでもなく。ただじっと剣心の動きと姿を見つめては、夕餉を味わうとそのまま帰っていった。

 ・・・何を、しているのだろうな、拙者は。

 湯浴みをしながら、剣心はぼんやりと考えている。
 彼を突き放しておきながら、顔を見せてくれることにホッと安堵している自分がいた。
 顔を見せておきながら、全く話しかけることもなくただ見つめてくるだけの彼に、苛立ちと痛みを覚えた。
 そう・・・痛いのだ。心が痛くてたまらない。
 でも、今の・・・この状況を作り出してしまったのは他ならぬ、自分。
 そういった感情を抱くことすら、そもそも矛盾しているはずだった。
 そうとも。
 彼のためにと・・・左之助のためにと考えてのことだった。
 男の自分と情を交わすよりは、女と情を交わすほうが最も相応しい、自然なことだと思った。
 だから突き放したのに・・・
 なのに、なのに・・・
 「どうして、拙者はここにいる・・・?」
 湯殿に身を浸しながら、一人呟く。
 左之助を突き返してしまったなら、自ら絆を断ちきってしまったなら、もはやここにいる理由はない。
 無論、薫や弥彦のことは気になるが、悲しむことはわかっているが、流浪人であることを前提にしている、時が経てばきっと理解してくれるに違いない。
 ここへ居着くまでは・・・そのように過ごしてきたはずではないか。
 それが・・・これほど躊躇っているとは。
 名残惜しさを覚えているとは。
 「・・・未練、か・・・?」
 そんなバカな、と・・・ゆるく首を振る。

 薫に、久しぶりに出稽古の供をすると約束をしていた。
 弥彦にも、毎日稽古の相手をしてくれと頼まれている。
 そんな・・・小さくもたくさんの約束事があったから、果たすべくここに・・・
 ・・・でも・・・
 でも、本当に・・・?
 本当にそれだけか?

 この感情はいったい、なんだ。
 何に対して抱くものなのだ、わきあがるものなのだ?

 胸の中に渦巻く感情は、今までに経験したことのないものだった。理解しがたいそれは、でも確かに剣心を引き留める役目を果たしていた。
 「何を、拙者は・・・」
 何かを求めているのだろうか、無意識のうちに。
 ・・・無意識のうちに・・・?
 「ふ・・・ふふふふ・・・」
 つと、笑いがこみ上げてきた。額に手を当て、吐息をつく。
 「嘘つき、だな・・・拙者は・・・」
 馬鹿馬鹿しい。そもそもそのようなこと・・・
 「・・・拙者にあるまじき事だな・・・」
 小さな自嘲が、湯の水面に微かな波紋を広げていった。

 左之助が毎日通ってくるようになって、既に七日余りが過ぎようとしている。

 梅雨にしては珍しい快晴で、剣心は朝から洗濯物に追われていた。洗い上げ、干し終わったのはもう昼餉に近い頃合いだった。
 さすがに剣心に頼ってばかりもいけないと考えたのだろう、この日の昼餉は薫が支度をしていたが、渋い顔をしていたのは弥彦と左之助。しかし文句を言うことは許されなかった。
 午後から薫と弥彦が出稽古に出かけてしまうと、屋敷には剣心と左之助の二人だけになってしまった。
 ・・・久しぶりの、二人だけの時間。
 意識しないほうがどうかしているのかもしれない。
 けれども、剣心は全くそれらをおくびにも出さなかった。
 縁側へ腰掛ける左之助へ黙って茶と茶菓子を差し出したあと、自分はせっせと洗濯物を取り込み始める。
 太陽の光を存分に吸った洗濯物は、仄かな温もりと柔らかさに包まれていた。自然に滲む微笑みを浮かべながら、剣心は取り込むことに終始夢中になっていた。
 だから、なのか。
 取り込み終えた瞬間、左之助の傍らを擦り抜けようとしたところ、にゅぅと腕が伸びてきて。剣心の腕を捕まえるとそのままグイッと引き寄せてしまった。
 わずかな隙を突かれ、小柄な剣心の身体は容易く力に負けて傾いてしまい、左之助の膝の中へと転がり込んでしまう。
 「!」
 見上げたときには左之助の瞳。吸い込まれそうな黒い瞳がそこにあった。
 途端、剣心の胸が一段と高く鳴り響いた、骨を突き破るのではないかと思えるほどに。
 「左・・・」
 これほど近くで左之助を見るのは本当に久方振りだった。つい、言葉を飲んでしまう。
 左之助は有無を言わさず唇を重ねた。・・・数日ぶりの彼の唇は湿っぽく、柔らかく・・・時折開かれる唇の奥に、いつしか剣心の身体の芯が震えを起こしていた。
 「・・・ん・・・ぅ・・・ぁ」
 微かにこぼされる吐息、混じる声音に左之助が、不意に薄笑みを浮かべた。
 「・・・どうよ、剣心。久しぶりに唇を吸われて」
 「・・・!」
 「その様子じゃ、まんざらでもねェだろ」
 剣心は慌てて左之助から離れた。転がるようにして離れた彼を、左之助は愉快そうに見つめている。が、剣心もまた負けずに睨み返す、わずかな隙を見せたばかりか油断してしまった己を強く恥じながら。
 「ふん・・・ずっと俺に見つめられっぱなしじゃぁ、気持ちも身体もどうにかなるだろうよ」
 「・・・・・・」
 「おめェが、俺に惚れてるいい証拠じゃねェか」
 「左・・・!」
 「違うってェのか?」
 ギラリ、左之助の双眸が異様な光を湛えた。
 「違うなら違うと、それなりのことを聞かせてもらおうか」
 「左、之・・・」
 背中に、見えない壁があった。
 退こうとするのに、身体がピクリとも動かないのだ。
 いつしか、額にびっしりと玉のような汗が吹き出ていた。
 「どうした、剣心? 言えねェのか?」
 じりじりと迫る左之助を、剣心はただただ見つめることしかできない。後へ引くこともできず、前へ進むことは憚られて。グッと唇を噛みしめて、剣心は胸の内で決意を固める。
 「お主に、惚れてなど、おらぬ」
 一言一句、言い含めるようにして剣心はゆっくりと、けれどもはっきりと告げた。
 一瞬、左之助の眉尻が痙攣を示したが、唇は薄く歪んでいた。
 「ふん、強情っぱりだな」
 「強情なのはお主だ。戯れ言は抜かさないで、素直にその千代とかいう女子と一緒になればいいだろう」
 「おめェがいるのに、どうして一緒にならなきゃならねェ」
 「拙者のことは構うなと言っただろう」
 「俺の心はおめェにある、千代を嫁にする道理はねェ」
 「しかし拙者は・・・!」
 「男だろ」
 絶句し、剣心は唇を止める。
 「ンなこたァ、端から承知なんだよ。知っていながら、俺はおめェに懸想した。おめェだから、欲しくなったんだよ」
 「そんな馬鹿なことが・・・!」
 「今さら馬鹿もへったくれもあるか、何度も抱いてンのに! おめェでなきゃぁ、誰が男に欲情なんざするかよ!」
 「よ、欲・・・!」
 あからさまな物言いに、剣心の頬はたちまち朱を孕む。だが、当の左之助には全く悪びれた様子はない。
 「それが真実なんだ、俺が心底欲しいのはおめェだけだ、剣心」
 黒い瞳がまっすぐに剣心の蒼い瞳を覗き込む。心の奥底まで見透かそうとする視線の強さに、剣心は思わず目を伏せた。
 そうとも・・・強すぎるのだ。彼の眼差しは強すぎて、想いが強すぎて・・・受け止めきる自信が・・・
 「・・・とまぁ、そういうわけなんだよ、千代」
 「!」
 左之助の一言に、剣心はハッとして顔を上げた。この時にようやく気づいたのだ、中庭でたたずむ女性の姿を。いつからそうしていたのか、いつから中庭へ踏み入れていたのか。剣心たる者が、彼女の気配に全く気づいていなかった。
 この事実が、少なからず剣心を動揺させた。
 「一部始終、洗いざらい、全部見て聞いたな、千代」
 瞳を光らせて、左之助は鋭く女へと視線を投げた。既に中庭へ深く入り込んでいた彼女は、身体を小さくさせながらも左之助を見つめていた。
 「あ、あの・・・」
 「おめェ、俺の後を付けてきやがったな」
 「あ、ごめんなさい、その、つい・・・」
 「『つい』で、おめェは後を付けたばかりか、こんなに深く他人の家に踏み込んでくるのかよ」
 「それは・・・!」
 「失礼にも程があるぜ」
 「ご、ごめんなさい! ずっと左之助さん、会ってくれないものだから、その・・・」
 さらに身体を小さくさせて縮こまってしまった彼女に、だが左之助は容赦がない。縁側から降り、千代へとゆっくり歩み寄っていく。
 「言ったはずだな。俺の唇が欲しけりゃくれてやる、だが俺の心は動かねェ、それでもいいなら好きにしろってな」
 「左之助さん・・・」
 「確かに、おめェを破落戸どもから助けたのは、きっと何かの縁だったんだろうよ。引き合わせた何かがあったのかもしれねェ。だが俺には、それだけのことだ」
 「・・・左、」
 「おめェ、俺に言ったこと覚えてっか?」
 彼の言葉に、千代は思わず目を伏せた。左之助の声が、頭上から冷ややかに浴びせられる。
 「俺の唇を吸わせてくれりゃ、金輪際俺につきまとわねぇ。きっぱり諦める・・・そうだったな」
 「左之助さん、でも私は・・・!」
 「悪いが、おめェの気持ちなんざどうでもいいんだよ」
 「・・・!」
 「諦めるつもりが、もっと惚れちまう・・・そういうこともあるだろうよ。実際、おめェはあれから何度も俺ンとこへ来やがった。その頬を赤くして・・・眼で俺がほしいと訴えてきやがった」
 「・・・・・・」
 「おめェが誰かを一途に思うその気持ちはよくわかる、辛ェのもよくわかる。だがな、だからこそ言えるんだよ。俺のことなんざ忘れな。おめェのためだ」
 「左之助さん・・・」
 「俺はもう、見つけちまったんだよ。とんでもねェもんを、見つけちまった」
 チラリ、と左之助は縁側へと視線を走らせた。視線の意味合いを感じ取って、剣心の胸は大きく弾む。
 「俺にはこいつだ。おめェじゃねェ」
 「左・・・!」
 「帰ェんな」
 左之助の黒い瞳が千代を捉えた。それは濁りもなく、かといって澄んでもいない。今まで見たことのない底なしの闇色に、彼女は戦慄を覚えた。
 いつの間にか、千代の膝はガタガタと震えていた。震えながら立っていた。
 唇を噛みしめて、それでも左之助をしっかり睨み据えて。
 瞳にありありと浮かんできたのは怖いほどの強い、想いの色。
 が、左之助は怯むことなく、その眼差しを受け止めていた。
 「・・・でも・・・」
 ぽろり、と。それまできつく結ばれていた唇がこぼれた。
 「でも、男じゃないの!」
 凛とした声音が静寂を斬った。
 縁側で、ビクリと身体を痙攣させたのは剣心。ハッと気づけば、じっとりとした脂汗が全身から吹き出ていた。
 「お・・・男同士で、唇、を・・・」
 「だったらなんだ」
 「!」
 それまでの、左之助の声が一段と低く染まった。思わずジリリと千代が、無意識に後ずさった。
 「男同士だから? なんだってェんだ?」
 「ぁ・・・」
 「惚れてんだ、不思議はねェだろ」
 千代の瞳の色が変貌した。底のない闇に覆われて、今にも飲み込まれようとしている。
 「理屈じゃねェんだよ」
 ガッと千代の胸元が掴み上げられた。キャッという小さな悲鳴が洩れる。
 「左之!」
 彼の動きを危ぶんだ剣心が一声投げた刹那、
 「てめェはすっこんでろ!」
 左之助の怒号が響いた。
 「引っ込んでなど・・・!」
 「これ以上、俺を怒らせンなよ、剣心」
 ゾワリ。剣心の全身が総毛立つ。左之助の双眸に宿る炎の色に、その気迫に明らかに気圧されていた。
 剣心の表情が強張り押し黙る。それを認め、左之助は再び千代を見遣る。
 「確かにあいつは女じゃねェ、俺が守らなくたって滅法強い、何があっても心配はいらねェ最強の男だ。だが、そんなあいつに俺は、心底惚れてンだよ」
 にぃ・・・と、左之助が笑ってみせる。唇を歪ませた、これまでにないくらい冷たい微笑だった。
 「あいつと共に闘いたい! 共に闘うために側にいたい! 俺は、あいつの生き様に惚れた! 意志の強さに惚れた! あいつの生き様に俺も交わりてェんだよ、同じ空気を吸って! 同じ時間を過ごして! 俺はあいつの一部になりてェ! いつまで続くかわからねェが、俺はあいつの一部になりてェんだ!」
 「あ、あぁ・・・」
 「・・・おめェじゃ無理なんだよ、千代」
 千代は真っ青になっていた。それを認めていながら、左之助はなおも続ける。
 「惚れ抜いた女を守り抜く人生、それもいいだろうよ。だが俺は、そんなものァまっぴらゴメンだ。いつだってこの拳を振り上げたくてたまらねェ、何もかもをぶち壊したくてうずうずしてる。闘いの中でしか生きられねェのよ。俺には、あいつだけなんだ。共に闘って生きたいと思う、剣心しかいねェんだよ」
 スッと胸元を離して。左之助は千代を解放した。彼女は少しよろけたが、辛うじて立位を保持している。
 「わかったら帰りな。スパッと俺のことは忘れて別のイイ男を見つけるこった」
 「左・・・!」
 「・・・それからな、千代」
 左之助の瞳が急激に眇められ・・・
 「俺とこいつのことをバラしてみろ。俺ァ、速攻でおめェをぶっ殺す」
 両眼に宿る並々ならぬ意思と輝きに、千代は腰が抜けそうになった。
 「帰れ、千代」
 ガックリと膝から力が抜けかかり、千代は慌ててよろけかかった身体に力を宿す。彼女は、足取りをふらつかせながらよろよろと、勝手口から出ていった。
 「・・・ふん」
 小さく鼻を鳴らして、左之助は少しく半纏の襟を正し。くるりと再び剣心へと振り返った。剣心は縁側へ腰を落としたまま、微動だにすることなく。ただその面差しを伏せて、蒼い瞳も仄白い顔も、隠し通していた。
 「・・・左之」
 「なんでェ」
 掠れた声音が、伏せられた面差しから聞こえてくる。
 「何も・・・あんなふうに、脅さずとも・・・」
 「脅しじゃねェ、本気だ」
 「何・・・?」
 「俺は本気だぜ」
 思わず顔を上げると、左之助の漆黒の瞳とぶつかった。瞳に浮かぶ殺意に、剣心の心が凍える。
 「本気などと、お主・・・!」
 「俺は別に構わねェんだぜ、おめェとの仲がバレたって」
 「!」
 ゴク、と生唾を飲み込んだ。躊躇いもなく言い放つ左之助が、剣心にはにわかに信じられない。
 「俺は構わねェが、おめェが困るだろ」
 「え・・・?」
 「俺との仲がバレりゃ、一番に傷つくのは嬢ちゃんだ。おめェが一番恐れてるのは、それだ」
 「左・・・」
 「俺はな。おめェが絡んでくることには全力で事を成す。障害となるものは力ずくで排除するし、必要なものがあるなら必ず手に入れる」
 「・・・・・・」
 「刀じゃぁおめェには敵わねェが、それ以外なら、おめェに負けないものがたくさんある、別の意味で助けていける、力になれる」
 どっかりと縁側へ腰を降ろして。左之助は剣心の頤へ手を寄せて、強引に面差しを引き上げた。
 蒼と黒の瞳が、ガッチリとぶつかり合う。
 「言っておくぜ、剣心」
 見開かれた蒼い瞳を見据えながら、左之助は無表情で告げた。
 「おめェの魂胆はわかってる。が、俺に女は必要ねェ」
 「・・・・・・」
 「俺にとっておめェは親友・・・いや、恋人でも夫婦でもなんでもねェ、それ以上のモンだ。全く特別のモンなんだよ」
 「左之助・・・」
 「これだけ言っても、まだ女のところへ行けってェのか?」
 左之助の口からこぼれた言葉の奔流は、いつのまにか剣心の心を絡め取ってしまっていた。
 いったい、自分が何にこだわってこの男を突き放そうとしていたのかさえ、もう思い出せない。
 剣心は・・・無意識のうちに、左之助の襟を力の限り握りしめていた。
 彼の頤を捉えたまま、左之助はニヤリと笑った。
 「いい答えだな、剣心」
 左之助はゆるりと唇を寄せた。
 「・・・ン・・・」
 どちらからともなく、小さな声がこぼれた。
 「ふぅ・・・ぁ」
 唇が開かされ、奥深くへ潜り込んでくる舌先に、剣心の意識が猥雑に乱れる。一気に駆け昇ってくる血潮の滾りが、蒼い瞳を潤ませ肌を火照らせた。
 「ん・・・んぅ・・・はぁ・・・」
 合間にこぼれる吐息を惜しみなく、剣心はいつしか、浮かされるようにして身を縋らせていた。襟を握りしめ自らへと引き寄せながら、唇をさらに押し込んでいく。
 左之助の身体に、熱風が吹き上がる。急激に高まっていく想いが理性をも凌駕する。
 「・・・剣心!」
 縁側の板張りへ、そのまま剣心を押し倒し。なおも唇を離さぬままに貪りながら、左之助の手のひらがゆるく広がっている懐へと差し込んだ。ビクリと白い肌が弾む、わずかに汗ばんで。
 鋭敏でありながら甘い感覚に、剣心の視点が不意にぼやける。
 けれども、まだ彼の理性は辛うじて保たれていて・・・
 「・・・之、左之・・・!」
 彼に縋りながらも呟くように何度も名を口走る。口走りながらその思いを吐露していく・・・
 「・・・駄目、だ・・・左之、もうすぐ・・・帰って・・・弥・・・と、薫殿・・・」
 絶え絶えの息づかいに告げられる、訪れる先の現実に、けれども左之助は否を示す。
 「うるせェ・・・今さらやめられるかよ・・・」
 「左之・・・!」
 「おめェだって、たまらねェんだろうが・・・」
 「ぁ・・・!」
 胸乳の華を痛く弄られて、剣心は思わず唇を噛んだ。左之助のくぐもった笑いを耳にして、剣心は頭の天辺まで赤くなった。
 「なら、ぬ・・・ならぬよ、ここではならぬ・・・!」
 「・・・へェ・・・?」
 袴を解きにかかっていた手が、ふと動きを止めて面差しが上がった。
 「ここではならねェ・・・? じゃぁ、場所を変えりゃぁ、おめェはいいんだな」
 「!」
 しまった、と思ったときには後の祭り。どんなに臍を噛んだところでどうにもならない。きつく左之助を睨み据えたが、頬を朱に染め抜いて瞳を潤ませてなどいれば、思惑通りの効果などあろうはずもない。むしろ火に油だ。
 「・・・そんな顔もできンのかよ、おめェ・・・」
 ゴクリ、喉仏が動いた。鮮明に聞こえたその音は、剣心にもしっかりと聞こえていた。
 「畜生・・・我慢ができねェ・・・」
 はぁと吐き出された息が、生臭いように感じた。のそり、身体の上を左之助の大きな体躯が支配し、四つん這いになって見下ろしてくる。
 左之助の目が、炯々と輝いていた。
 「左、之・・・」
 声が掠れている。喉はいつの間にか干からびてしまっていた。
 飢えた獣が餌を捕獲し、今まさに貪り食おうとしている・・・そんな情景が脳裏に浮かんで、剣心は思わず目を閉じた。
 と・・・
 「ただいま〜」
 聞き慣れた女性の声が遠くのほうから聞こえて次いで、
 「ただいま!」
 少年の凛たる声音が同じ方角から聞こえてきた。
 ピクリと、剣心と左之助の耳朶が同時に反応を示した。
 「左・・・」
 目を見開き、彼を見ようとしたときには既に姿はなく。そうかと思えばグイっと身体が引き上げられた。腕を引っ張られて引きずられるようにして中庭へ降り、
 「草履!」
 左之助の小さくも鋭い声音が飛んだ。反射的に草履を履き、縁側へ置いてあった逆刃刀を握りしめて。それを認めた左之助が、再び剣心の手を取ったかと思うとそのまま、全力で駆け出した。

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