・・・すうっ、と。
音もなく。
赤色の四枚羽は一瞬、躊躇いを見せた後、ぴたりと留まる。
危うげな小さな山を、細い足でしっかりと。
しばしの、休息。
なれど・・・
「ん〜・・・」
眼下に広がっていた、朱色の柔らかな稜線が突如として開き、
「はっ・・・ハックショイっ!」
つむじ風と見紛う突風が吹き出してきた。
赤色の四枚羽、慌てふためき再び、空へと舞い上がる。
「あぁ〜・・・? 何だ、鼻がむず痒いぜ」
やおら上体を起こし、鼻をすりあげたのは浅黒く、肌を焼いた長身の男。額に巻かれた赤いはちまきが、背中でひらりと舞う。
「アハハハ・・・」
微かに聞こえてきた笑い声に、男はふと、視線を上げた。
見れば、中庭にたたずむ一人の優男。赤毛をにわかに靡かせ、微笑を浮かべて洗濯物がはためく、物干し台の下にいた。
この時男は思い出す、自分が縁側にてすっかり、寝入ってしまったことを。
「お主の鼻に、蜻蛉が留まったのでござるよ。凄まじいくしゃみに驚いて、飛んでいってしまったがな」
「蜻蛉だぁ? ケッ、人の鼻に留まるたぁ、不届きな野郎だぜ」
忌々しそうに鼻をすりあげ、男はゴロリと再び、縁側へと転がった。
赤毛の優男、そんな彼の様子に苦笑をこぼしながら歩み寄る。
「こら、左之。そこを退いてくれぬと、洗濯物が取り込めぬよ」
「あぁ? 何でここなんだよ。そっちから上がりゃいいじゃねぇか」
「左之。幼子のようなことを言うものではござらぬよ」
背に陽光のすべてを負い、眉尻を下げて笑う赤毛の男。
彼ははにかんだ笑みを浮かべつつ、吹き込む風に落ちてくる鬢、指先で辛うじて押さえつつ男の・・・左之助の顔を覗き込んだ。
その距離、まさに冊子一つ分の厚さなり。
相手の、空よりも深い色の瞳の中、己が顔が映し出されているのを見て左之助、思わず息を呑んだ。
どこまでも・・・どこまでも吸い込まれていきそうな・・・包み込まれそうな・・・
深淵のわからぬ瞳。
帯びたる光、鈍色に輝いて・・・
まるで、湿気を孕んだかのように。
ゆらゆら、ゆらり。ゆら、ゆらり・・・
指の隙間をかいくぐり、泳ぐ赤毛の様など・・・
爪先が、痺れた。
「さあ、退くでござるよ、左之」
はにかんだ微笑みが、その台詞でたちまち苦笑へと変わる。
が、左之助の瞳に赤毛の人、妙な違和感を覚えた。
「左之・・・?」
自分を、見つめていることは間違いはない。
けれど・・・視点が定まっていないと感じるのは、果たして気のせいなのだろうか・・・?
不思議そうに小首を傾げると画然、左之助の片腕がすうるり、伸びた。
「ん?」
何だろう、とわずかな疑問符を胸へ投げかけたことが、赤毛の人の最期の思い。
あっ、と思った時には・・・
「ん・・・っ」
左之助、しっかりと赤毛の人の頭部を捉えて離さず。己が力に物を言わせ、そのまま引き寄せるなり唇、重ねてしまった。
左之助の唇の奥で、一つの香りが漂った。恐らく、先ほどまで茶など嗜んでいたのだろう、仄かな香りが口腔に流れ込んでくる。
「うめぇ・・・」
一言洩らすなり、左之助はなおも、唇を求めて自らの舌先、最奥を求めて忍ばせていく。
一方赤毛の人、突然の彼の行為に抗わぬ訳がなかった。
左之助と密着することを恐れ、あるいは行為から逃れようと両腕を突っぱねるも、頭部をガッチリ固定されてびくともせぬ。
その間にも、彼の容赦のない唇が赤毛の人を惑わせていく・・・
「う・・・左、之・・・ぁ」
力、というものがこれほどまでに頼りないものだったのかと痛感するのはまさに、この時。如何なる時も、華奢な身体ながらも願えば万力、満ち満ちて思うがままに相手をあしらえた。
それがどうだ、目の前の、たった一人の男に抗うことすら、離れることすらままならぬとは・・・
「左之、こら・・・ぁ」
次第に抜け落ちていく力を何とか引き留めつつ、左之助から逃れようとする赤毛の人。
が、左之助がそれらを決して許すはずがない、一度吸い付いてしまえば離れぬことを良く知っているのは他ならぬ赤毛の人、自身だった。
それでも・・・
「左之・・・左之っ」
両の手のひら、彼の肩を掴んで渾身の力、込めてみる。何度も何度も、突っぱねた。
されども。
鋼鉄の壁と化したかのように左之助の身体、微塵も動かぬ。
ならばと両の拳、胸乳へと力強く叩き込んだ。何度も何度も、叩き込んだ。
されども。
岩石の山と化したかのように左之助の身体、微塵も揺るがぬ。
動かぬ、揺るがぬ、離れぬ・・・ッ
「左之っ、左ぁ之・・・っ」
無駄と知りつつも・・・悟りつつも抗い続けるのだから左之助にとって、これほどいじらしいことはない。
相手は少なくとも、最強の剣客であり男なのであるから、「いじらしい」という言葉は相応しくないだろうが、左之助の胸の中はそれらの思いでいっぱいだった。
最期の一瞬まで諦めず、赤毛の人は翻弄されつつも抵抗を続けて、いたのだが・・・
「ン・・・あぁ・・・」
とうとう、甘美な声を洩らしてしまった。
艶やかに湿った唇からこぼれた一言。
自分の声に驚きを覚え、赤毛の人、一瞬大きく身体を跳ねた。
跳ねた瞬間、互いの身体は離れてしまったがもう、左之助は引き留めるようなことはしなかった。
口辺にあふれた唾液、やや乱暴に拭いながら左之助、ニヤリとほくそ笑む。
「おめぇの唇は、やっぱ格別だなぁ。目覚めの一発、最高だったぜ、剣心」
彼の台詞に赤毛の人・・・剣心は、夥しい憎悪を瞳に宿らせ、眼差し鋭く睨み据えた。
「何が格別でござるかっ。全く・・・お主はいつも突然だ。どうして時と場所をわきまえぬっ」
「そりゃ無茶だぜ。俺だってどうすることもできねぇんだよ」
嘘偽りではない。
自分でも本当に、いつ、どこで、どうなってしまうのか予測も、見当もつかなかった。
突然、襲ってくるのだ。
・・・「欲情」は。
これも偏に・・・
「・・・おめぇが悪いんだぜ」
「え?」
「おめぇのすべてが、俺を惑わす・・・」
「左・・・」
「いいだろ・・・?」
・・・低い声・・・
永劫、聞き慣れた・・・繰り返されてきた言葉が剣心を、とろかせたわずかなる、隙に。
再び左之助、剣心へと片手を伸ばした。
指先がそっと・・・左頬へ触れようとする。
「今、誰もいねぇんだろ? だったら、別に構わねぇだろ・・・」
「何を、言って・・・」
「野暮だぜ、剣心」
左頬へ触れられて・・・誘導されていったその先は紛れもない、左之助への唇・・・。
躊躇っているのも束の間、剣心の唇は二度目、左之助の唇に塞がれた。
「だ、駄目でござるよ・・・左之、このような、ところでは・・・誰に、覗かれる、か・・・っ」
そう、ここは縁側。いわば屋敷の裏側。裏口があるのもここ。
下手をすれば、こちらのほうからの来客もある。
ごく親しい人物となれば、なおさらだ。
ごく親しい人物・・・
剣心の脳裏に、様々な人物の顔が浮かんでは、消えていく。
それらすべて、ほとんどが屋敷の主・薫と縁のある人物ばかりだが、中には剣心とのつながりの深い人物もかなり含まれている。
もしや、そのような人物が今、この場に現れでもしたら・・・
剣心、気が気ではなくなってきた。
「左之、左之っ。頼む・・・ここでは・・・あっ」
唇を解放された瞬間、剣心の唇から飛び出してきた台詞は、切なる哀願。
予想していた言葉とは違っていた内容に、左之助の落胆ぶりは甚だしい。
「いいだろう? どこだってよ。・・・誰も来ねぇよ」
「そ、そんなこと言っても・・・本当に、誰が、来るか・・・ここではすべてが見えて・・・」
「構わねぇ」
「さ、左之っ」
「・・・素直に抱かれりゃ、すぐに済むんだよ」
「そ、そんな・・・」
「おめぇは、俺が欲しくねぇのか? 身体はもう・・・イイ感じなんだがなぁ?」
「イヤ・・・っ」
やおら懐をまさぐられ、前触れもなく胸の突起を摘まれて剣心、全身をわずかに強ばらせた。
左之助の言うとおり、そこには屹立してしまった胸の華がある。
触れてもいないのに、だ。
彼に摘まれたことで、快感を通り越して鋭い痛みが走った。
「ほぉら・・・正直だぜ、おめぇの身体は。すっかりその気になってやがるぜ・・・?」
「左之・・・」
「いいだろ? 洗濯物なら、俺が後でパッパッパッと取り込んでやらぁ。何だってしてやる、だから・・・」
「馬鹿者、そういう問題では・・・」
「どういう問題だってぇんだよ?」
押し問答を続けているその間にも、左之助の指は器用に蠢き、剣心の着物をくつろげていく。
陽光の下、たおやかにて艶やかな肌が、さらされていく・・・
「だっ、駄目でござるよ、左之ッ」
ほんの、一寸のことだった。
いくつもの偶然が重なったに違いない、左之助の膂力、わずかにゆるんだその隙を逃さず剣心、スルリと抜け出した。
咄嗟に足を踏み出し、縁側を走り抜けねばと思い至った矢先、
右足が、
不動の力にて封じられた。
顧みれば、足首をしっかり握りしめている左之助の姿。
・・・漆黒の瞳が。
妖しげに揺らいだ。
「こ、こら、左之・・・っ」
「どこへ行くつもりだ?」
「ど、どこって・・・」
「逃がさねェよ」
剣心の視界が歪んだ。
圧倒的な力に引き寄せられ、考える暇すらなかったわずかなる間に彼の身体、床板へと横たわり。
赤毛を四方へと散らして、剣心は自分を覗き込む左之助を見つめていた。
「左、左之? そ、その・・・本当に、ここで・・・」
「ちょっとからかってやるつもりだったんだが・・・おめぇが逃げようとしたから、やめだ。ここでやってやる」
「そ、そんな・・・っ」
「恨むなら、おめぇ自身を恨むんだな」
「左・・・」
もはや、剣心の言葉など聞こえていなかった。
左之助の意識は剣心の着物を脱がすことに、肌をいかに侵略していくかに集中されていく・・・。
空を巡る小鳥のさえずりなど、
往来を駆け抜けていく幼子の歓声など、
終わりゆく時節の流れ、それでも精一杯、最後の瞬間まで鳴き続けている蝉など、
もはや・・・
もはや、聞こえぬ。
聞こえるものは・・・
「聞かせろよ、剣心・・・聞きてぇんだよ。おめぇの・・・あの声がよぉ・・・」
「左・・・」
「もう、おめぇの言い分は聞かねぇからな」
「ひゃぁっ」
いつ、解かれたのか。
剣心の袴はゆるやかにほころび。
隙間を縫って左之助の指先、容易く侵入を果たしていた。
無論、その奥にて息づいているものは・・・
「だ、駄目でござるよ、左、之ぉ・・・ッ」
身体の奥深く。何かを求めてまさぐってくる左之助の指。
一つだけではない、無数に蠢く虫のように、それは剣心へと分け入ってくる。
肌を滑り、撫で、擦りながら・・・確実に、奥へと・・・
「あっ、ああぁぁ・・・っ」
吐息のように喘ぎつつ。
睫、わななき。
彼の腕を掴み、何としてでも侵攻を阻もうとする。
大腿に力を込め、膝をすぼめ、折り曲げて・・・
・・・踵が。
床を擦ってキュウと鳴り。
が・・・
剣心の潤んだ瞳に。
左之助の、唇の端に浮かんだ不敵な笑み。
「観念しな」
「あっ・・・!」
袴の下の、さらに下。
震える華奢な腕、倍の太さの腕を掴むものの儚くて。
剣心の身体、左之助の手のひらへと陥落せり。
「うっ・・・ぁ」
「へぇ・・・? 拒んでいたわりにゃぁ、え? 何だよ、これは」
グッと、炎のような塊を握られて剣心、息を殺して左之助へとしがみつく。
襟を握った指が、哀れなほどにわなないている。
「熱ィじゃねぇか・・・待ちくたびれてる・・・そんな感じだがなぁ・・・? まさか、口を吸ったときからこんなにしてたんじゃ、ねぇだろな?」
「ば、馬鹿、左之っ」
「馬鹿とは、ご挨拶だなぁ。その口、利けないようにしてやらぁ」
「んっ・・・」
唇を塞がれたときには、もう・・・
剣心の理性は無きに等しかった。
左之助の温もりが、
左之助の声音が、
左之助の感触が、
すべてにおいて剣心の、感覚と肉体を脅かし果ては・・・食い尽くしていく・・・
「剣心・・・声、出せよ」
「んぁ・・・左之・・・」
耳朶にふりかかる吐息、煙となって染み込んでくる。
脳の中、それらは繰り返され・・・
剣心は、陶然と微睡んでいく・・・
「あ、あぁぁ・・・左之・・・ん、はぁ」
「すっかり、出来上がってんなぁ・・・? いいのかぃ、ここは縁側だぜェ?」
「・・・左之っ」
そう言いつつも、左之助の動きは一向、止まる気配など見せない。
むしろ、彼の動きに呼応するかの如く、剣心の肢体は淫らに放恣に、陽光の中へと歪んでいく・・・
「あっ、左之、嫌・・・っ」
・・・熱の宿らぬ床、凍てつくことを知らぬ肢体。
左右へとくつろげられた袷の奥より見いだしたり、白き胸乳。
飢えた咆吼をくぐもらせ、ひたすらに貪る男・・・
背に触れる床の感触が、冷たく固く、痛みを覚える。
が、勝るとも劣らぬ男の、快い膂力と吐息の絡みが・・・
赤毛の人を、闇夜の桃源へと誘い始める。
「左之・・・くぅ・・・ぁ」
もどかしい。
せり上がってくる声が、思うように出せぬ。
・・・出したい、声を。
肉体を穿ち、支配から逃れるように声を、
出したい。
「左之・・・左之っ。はぁ・・・こ、ここでは・・・」
「何だ・・・まだそんなこと言ってんのか? おめぇの身体・・・火照ってきたぜぇ?」
半纏の下、素肌へと手のひらを忍ばせつつ剣心、苦痛と艶の含んだ面差しで左之助を見遣る。
・・・普段の、誰彼かまわず振りまく笑顔がそこにはない。
愛想笑いでも、滲む微笑でも、
苦笑でもなければ、怒りの表情でもなく・・・
・・・あるのは。
左之助の喉が。無意識のうちに音を鳴らしていた。
「もう・・・堪えられぬよっ。このままでは、嫌でござる・・・っ」
「へへ、そうだろなぁ。このままじゃ、辛いよなぁ」
「だから、せめて・・・左之、そこの部屋に・・・頼む、から・・・っ」
「ハハ、そいつは駄目だって言ったじゃねぇか。言ったはずだぜ? ここでやるってな」
「左、左之・・・ッ」
「・・・二言はねぇよ」
ニヤリと笑った左之助の顔が焼き付いたとき。
剣心は、彼の意志が本物であることを知った。
本当に・・・自分はここで・・・縁側で・・・
激しい羞恥心が彼を襲う。
もたらされる快楽以外の感覚が、肉体を凌駕しようと血が走った。
「左、左之っ」
「怖がるこたぁねぇさ。・・・おめぇが素直になりゃ、それで済むのよ」
「そっ、そんな・・・」
戸惑い。
躊躇い。
だが・・・
もう、火照り上がったこの身体をどうすることもできなかった。
鎮められるのは・・・左之助のみ・・・
「左之・・・っ」
「・・・来な、剣心・・・」
凛々しい眉に彩られた瞳が、剣心を貫く。
・・・逆らえない・・・
剣心は・・・少しく目を伏せて、
眼前にて息づく胸乳へと、唇を寄せていった・・・
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