人混みの中に身を埋めていると、自然、瞳が懐へと流れていた・・・そんな時代があった。
今でも、時折そうした癖が・・・習慣、ともいうべきものだろうか。不意に体表を覆っていることがある。
けれど、そんな変化にすぐさま気づけるくらいに、明神弥彦は己自身を見据え続けている。たとえ世間話や物事にかまけていても、どこかしら、現時点での自分を冷静に見ている「自分」が居るのである。
そうした己の行動に気づいているのか、いないのか。弥彦は年相応の熱血漢でありながら、普段は冷静沈着を旨とした少年だった。
今日とて。
背中にしっかりと竹刀をくくりつけ、往来を堂々と歩んでいる。
道行く人々、皆が皆、白い息を吐きながら足早に。懐手にしたり、両手を揉みながらいそいそと歩んでいる。
年の瀬も近くなると、一様に同様の姿が見受けられるようになる。何かと忙しげに動く女、やや声を荒げて道行く男・・・
そんな、どこはかとなく忙しさの漂う空気の中で、のんびりと、まったりとした空気を纏っているのは恐らく、この男くらいなのかも知れない。
そう思って、弥彦はつと、視線を上げた。
目の前に。見たことのないような銅色の髪がある。臙脂色の着物と相まって、やや眩しさを覚えるような艶やかさだ。
無造作に一つに束ねていながら、にわかな風と、歩みの反動で揺れ動くその様は、稲荷の尾のようだと弥彦、ふと思ってしまう。そしてあの中に、指先を潜らせてみればどんなに心地良いだろうと一瞬、意識を巡らせた。
「・・・すまぬなぁ、弥彦。付き合わせてしまって」
彼の視線に気づいたのか、銅色の髪の毛が靡きざまに振り返った。
白粉でもしているのではないかと思える顔が、にこやかに微笑みながら弥彦を見る。
陽の光を背負うようにして微笑みを投げかけられて彼は、思わず視線を逸らした。
「別に、いいよ。・・・仕方ねぇだろ、薫は大掃除してやがるし、頼みの綱の左之助はいつ来るか、わからねぇんじゃよ」
「そうさなぁ。左之助がいれば良かったのでござるが・・・いつ来るか、わからぬからなぁ」
柳眉な眉を八の字に、そう言って苦笑する。
「本当は稽古をしたいのでござろうに。無理を言ってすまぬな、弥彦」
「だから、いいって言ってンだろっ。気にしすぎなんだよ、剣心は」
「そうか?」
「そうだよ。オレだって・・・剣心の手伝いくらい、してぇよ」
語尾を濁し、やや歩みの速度を落とした弥彦。・・・この時ばかりは己自身が見えていなかったらしい、その事実に気づかなかった。
銅色の・・・緋村剣心は、ポンっと彼の肩を軽く叩く。
「ありがとう、弥彦。助かるでござるよ。今日は重たい物も多いでござるし、人手が多ければ多いほどありがたい。しっかりと頼むでござるよ」
「おうっ」
弥彦、嬉しそうにニヤリと笑い、グッと拳を握りしめて見せた。
剣心が弥彦を伴ってきたのは、既に習慣となってしまった買い出しのためである。
時節は師走、日は二十四。そろそろ年越しのためと、様々な準備や支度に追われる頃合いである。
とりまく空気の冷たさと、吹き抜ける風の刃は心底、人々を凍えさせた。
しかし、新たに訪れようとしてる年の足音に、人々は一喜一憂していた。
無論、今日の買い出しは年の瀬に合わせて、ということもあったのだが、実は今宵、弥彦と剣心の居候先である神谷道場にて、酒宴を張ろうということになったのだ。
いわゆる、忘年会である。
言い出したのは、ほとんど居候しているような男・相楽左之助。
その当の本人が、いつ道場を訪れるのか全く、見当が付かない。
朝早く来たかと思えば昼を過ぎることもある。一日来なかったかと思えば、夕方にひょっこり、顔を見せたりする。
彼の誇る万力を当てにしたいところで、いつ来るかわからぬ風来坊。全く予想不可能な左之助の行動は、先読みを得意とする剣心すら、皆目見当も付かないのだ。
ならば、一人でも多いほうがと剣心、弥彦を伴い町へと繰り出してきたのだった。
「さぁて、今宵は何をこしらえようか」
剣心、何気なく呟きながら懐手に歩を進め、脳裏に様々な料理を浮かばせては消えていく。
これが、本当に一流の剣客なのかとつい、弥彦は思ってしまう。
このご時世、廃刀令違反を堂々とやってのけている剣心も大した物だが、鉄の塊をぶら下げていながら、頭の中では今晩の品数・・・。
呆れて物も言えぬとはこのことかもしれないが、弥彦の網膜はこれまでの、剣心の闘いぶりが痛いほどに焼き付けている。
それらの懸隔が凄まじいと言えば凄まじいが、これが剣心なのだと思えば、妙に納得してしまうところがまた、悲しくなったりもする。
ゆえに、ついついため息。
「はぁ・・・何だかなぁ・・・」
「ん? 何か言ったか、弥彦?」
「いや、何でもねぇよ。それよりも・・・て、あれ?」
言葉を続けようとしていた弥彦、何やら異変に気づいて視線、泳がせた。
剣心の瞳が疑問符を浮かばせたその瞬間、弥彦が彼の背中の方を指さした。
「なぁ、剣心。あれって・・・左之助じゃないか?」
彼の指さす方向へ、剣心はおもむろに振り返ってみた。
・・・見れば。
先にある曲がり角の辺りにて、何やら人々が群がっている。
よくよく耳を澄ませてみれば、喧噪だの野次だの、人々の言葉が乱舞している。
そんな、無数の人々の隙間を縫うように。
ひらり・・・
「あっ」
剣心、思わず小さく声を洩らす。
間違いない。あれは・・・左之助だ。
常時、赤いはちまきをしている者などこの東京府下において、そう何人もいるものではない。
「やっぱ、あれって左之助だよなぁ? 何をしてんのかな」
弥彦の声に、剣心は「喧嘩だろう」と答えるべく口を開きかけたが、
「なぁ、ちょっと行ってみようぜ」
彼の小さな手に掴まれて、ぐいぐいと引っ張られてしまった。
「こ、これこれ、弥彦」
剣心の戸惑う声など聞く耳持たず、弥彦はどんどん剣心を引っ張って人の群に・・・人垣へと近づいていく。
「ハイ、ちょっくらゴメンよ」
剣心の手を握りしめたまま、弥彦は人々の隙間を縫って中央へと進んでいく。剣心は何とも抗えぬままにとうとう、苦もなく人垣を突っ切ってしまった。
前面に、出てしまう。
「あ、やっぱり左之助だぜ、剣心」
弥彦は何が嬉しいのか、ニッコリと笑って剣心に言った。
「おろろ、これは・・・」
剣心、思わず苦笑。
人垣の中央には、見慣れた男が一匹、不敵な笑みを浮かべて立っている。
上背誇る身体を仁王立ち、吹き抜ける風に赤いはちまきが翻り。
一種特有の、半纏の背に刻まれた「惡」が禍々しくも視線、惹きつけられる。
彼はこの寒空、半纏の下には何も、衣装を纏ってはいなかった。
ただ、晒しを巻いただけのその姿。
不思議なことに鳥肌一つ立たせずに、惜しげもなく肌をさらしている。
・・・この界隈で、彼の名を知らぬ者などいない。
相楽左之助、またの名を「喧嘩屋・斬左」。
もっとも、今では喧嘩屋などという血生臭い商売は廃業し、もっぱら「喧嘩野郎」として名を馳せている。
それでもかつての異名は一人歩きしており、時折「斬左」と呼ばれることも少なくない。
「さぁて、誰から相手をしてくれるんでェ?」
左之助は拳を握りしめ、四方を取り囲む男達に一瞥くれてやる。
ざっと十人くらいだろうか。
彼等は一様に殺気立ちながら、左之助を隈無く取り囲んでいた。
各々、懐に手を忍ばせたり拳を握りしめたりと、一分の隙も見せずに左之助を睨み据えている。
「何だ? おめぇらはそうやって、睨んでいるだけなのかィ? だったらまた今度にしてくんねぇか。俺ァ、これから行かなくちゃならねぇところがあるんでェ」
頭をボリボリと掻きむしり、左之助はやや退屈そうに表情を歪ませた。
と、
「うるせぇッ! やっちまえっ!」
お決まりとも言える台詞がどこからともなく叫ばれ、その一言が合図になった。
保たれていた均衡は容易く崩れ、一斉に左之助へ向かって襲撃をかけたのだ。
人垣を作っていた人々は一様に驚き、また固唾を呑んだが、彼等の中でも剣心と弥彦だけは、別段何事も無いかのように見つめている。
「あー、やっと動いてくれたぜ。遅せェんだよ、おめぇら」
やれやれとため息を付いて、左之助はようやく身体を動かした。
唇に、笑みが広がる。
「うおぉーッ」
と、雄々しい声を発しながら挑んでくる彼等に左之助の、
拳、顎を捉え。
「がっ」
蹴りが鳩尾に沈み。
「ぎゃっ」
スルリと交わしてトンっ、後頭部に一撃。
「ぐうっ」
軽やかとも言えぬが、左之助の足取りや身体捌きに余計な動きは微塵もない。身体を反転させていく間に三人が、口腔内に夥しい砂利や血反吐を、あるいは意識を混濁するに至った。
「おらおら、どうした? 俺はまだ全然、かすり傷も負っちゃいねぇぞ」
実際、その通り。
男達の動きが左之助にはゆっくりに見えるのか、半纏の裾にすら彼等の攻撃は触れてはいない。
これには周りから感嘆の息が洩れた。
弥彦も思わず、目を見張っていた。
「すげぇ・・・。やっぱ、何だかんだ言っても左之助、強ェなぁ、剣心っ」
「・・・あ? 剣心だって?」
弥彦の言葉が、何と乱闘中の左之助の耳に届いたらしい。
彼は攻撃を交わしながら人垣へと視線を走らせ、前面にたたずんでいた剣心の姿を発見すると、満面に笑みを浮かべた。
「よぉ! 剣心じゃねぇか!」
あからさまに嬉しそうな顔をされても、剣心はどう、答えて良いのかわからない。仕方なく、苦笑しながら左之助に応答する。
「何をしているのでござるか、左之。これでは町の人々に迷惑でござろう」
「そうは言ってもよぉ。俺のせいじゃねぇぜ? 絡んで来たのはあっちなんだからよぉ」
「こら、どこを見てやがる、斬左ッ」
ヒュッと飛んできた拳を軽々と受け止めて左之助、代わりに鋭く鳩尾へ。男はぐうの音も出ずにその場にもんどり打った。
「な? わかるだろ、剣心?」
「そうでござるなぁ・・・」
「こら、剣心ッ。何を悩んでんだよッ」
傍ら、弥彦がやや苛立ったように剣心の袖を引っ張った。
「迷惑だってンなら、加勢してやりゃいいじゃねぇか。幸い、おめぇはいつでも逆刃刀を持ってんだし、オレだってこれがある」
弥彦、自信ありげに背中の竹刀を握って見せた。
が、剣心はまたしても、苦笑にて濁してしまう。
「加勢したいのは山々なのでござるがなぁ。そんなことをすれば、左之助に叱られてしまうでござるよ」
「は?」
「何しろ、これは左之助の買った『喧嘩』なのでござるから」
身体をかわし、蹴りを繰り出し、拳を唸らせていた左之助は、飛び込んできた剣心の台詞に胸を弾ませた。
だらしなく頬を緩め、思わず手加減することを忘れて拳を一つ、
「うぎゃっ」
無様な悲鳴を上げたその男は、一瞬のうちに意識を消失させてしまった。
「わかってんじゃねぇかよッ。さすが、俺の剣心だなっ」
「はぁッ?」
画然、弥彦は左之助の最後の台詞に棘を含ませた。傍ら、剣心の表情が強張ったことなど露知らず。
「こらぁ、左之助! なぁにが『俺の剣心』だッ! それを言うなら、オレだって『オレの剣心』だっ!」
「こ、こらこら、弥彦・・・」
往来のど真ん中、人垣の中央にてしどろもどろになりながら剣心、慌てて弥彦を止めようとするが、制止など暖簾に腕押し。
「薫や恵だって、『私の剣心』て言うぞ! 抜け駆けは許さねぇからなっ!」
顔を真っ赤にさせてそう言った弥彦を、もう剣心はどうすることもできない。
荒事を簡単にこなしていた左之助は、思わず大声で笑ってしまいながらも、
「あぁ、わかったよ! とにかく、そこで待っててくンな。もうすぐ終わるからよっ」
ガンッと鋭い蹴りを見舞いながら、左之助はニッと笑みを投げた。
男三人が、それぞれに米だの大豆だの、味噌だの醤油だの、両手に背中に抱えている姿というのはあまり、好ましくないように思える。
しかも、その男三人の風体がまた、あからさまに怪しいのだから、人々の視線を惹きつけずにはいられない。
かといって、それらの視線を気にするほどの神経など、彼等は持ち合わせてはいない。
「左之助。お主確か、この間も絡まれたなどと言って喧嘩をしてはおらなんだか?」
味噌と醤油を抱え、剣心は傍らを歩く左之助を見上げた。左之助は両肩に米を担ぎ上げていたが、額に汗の一つも滲ませず、余裕綽々として歩を進めている。
「あぁ? そうだっけか? まぁ、そういうこともあったかもしれねぇな」
「左之・・・」
「最近、多いんだよ。俺に絡んでくるだけなのか、恨みがあるのか知らねぇがな、気が付いたら喧嘩になっちまっててよ。困ったもんだぜ」
「そう言いながらお前、全然困った顔をしてないぜ」
両手に山のような食材を抱えていた弥彦、ニヤリとほくそ笑んで左之助に突っ込む。
「そりゃそうさ。俺ァ、もともと喧嘩屋だぜ? 売られた喧嘩は買わなきゃ損だろうが」
「やれやれ・・・」
剣心、呆れたように一つ、ため息を吐いた。
男が三人、雁首そろえて神谷道場に帰ってみると、薫は既に大掃除を済ませており、厨にこもって夕餉の支度などを始めていた。
にこやかに笑いながらも、吐く息は白い。差し伸べられる手指は、毎日の水仕事のためだろう、無数のあかぎれが走っている。
「おかえりなさい! 待っていたわよ。さっそく今晩の支度を始めましょ! 剣心、手伝ってね」
「あぁ、わかったでござるよ、薫殿」
剣心の返答が終わるか否か、薫は背後に控えていた男二人にも容赦のない言葉を浴びせる。
「弥彦! あんたはお風呂の方をお願いね。左之助! もうひとっ走りして、お酒を買ってきて頂戴」
途端、不満げな声が間髪入れずに噴出する。
「あぁ? 何でオレが風呂焚きなんか・・・」
「今、初めて来たってぇのにまた使いかよ、嬢ちゃん」
が、薫もただの女ではない。
「つべこべ言わない! 今晩、楽しく騒ぎたくないのッ?」
・・・あくまでも。
この屋敷の主は、神谷薫である。
たとえ、弥彦から見て剣術の師匠であり、否、気性の荒い姉御肌であろうとも・・・。
たとえ、左之助から見て食費の恩人であり、否、人使いの荒い小娘であろうとも・・・。
この屋敷の主は、神谷薫である。
逆らえるわけが、なかった。
即ち、
二人は不承不承、それぞれ納得のいかぬ面持ちなれど、言いつけられた用事を果たすべく、各々踵を返していった。
ある瞬間に剣術師範代の顔が覗くのだろう、凛とした声音はさすがだなぁと剣心、まるで他人事のように見つめていれば、
「剣心! ぼうっとしてないで、ほら、大根でも洗って頂戴っ」
「ハイでござるっ」
瞬く間に声が飛んでくるのだから、おちおちしていられない。
だが、そうして薫にどやされながらも満更ではないと思っている辺り、
「拙者も、焼きが回ったでござるかな・・・」
「え? 何か言った?」
「何でもござらぬよ」
剣心は微笑して答え、買ってきたばかりの大根を手に取った。
やがて刻々と時は過ぎ。
それぞれの役目が終わりかけた頃合い。
神谷道場には、医者の道をひたすら歩み続ける高荷恵、赤べこで働いている少女、三条燕が顔を見せた。
薫は二人を待ってましたと出迎え、準備は整ったと大広間の方へと案内していった。
「ほぉら、飲め飲めェ!」
やんや、やんやと囃し立て、左之助は湯飲み茶碗を弥彦へと押しつけている。
中には波々と注がれた酒。掴んでいる親指までもが浸ってしまうほど、酒がたっぷりと。
弥彦、思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。そっと両手で受け取りつつも心なしか、額には脂汗。
「男だろッ? だったらくぅ〜ッといっちまいなァ!」
両手を鳴らしてニヤニヤ笑う左之助は、既にもう理性が無いように見ゆる。頬を朱に染め抜き、湯飲み茶碗を握りしめている弥彦を面白そうに見つめていた。
「これ、左之助。そんなに勧めるものではござらんよっ。弥彦にはまだ、早いでござるっ」
と、制止の声を投げる剣心もまた、仄かに頬を染めている。普段、酒を嗜んでいてもさほど面差しに示さぬ彼にしては、珍しいことだ。
が、この言葉がいけなかった。
「なっ、何をッ? オレはもぉ、酒ぐらい、飲めらァっ!」
弥彦、カッとなって湯飲み茶碗、
グッ、ゴクッ、ゴックン。
碗が一瞬、天へと掲げられたらば、ゴロリと床へ転がしざまにグイっ、と手の甲にて口を拭い、
「はあぁ〜・・・っ」
と、腹の底から大きな息を吐き出して弥彦、キッと左之助を睨み据えた。
「どぉでぇ、左之助ェ。これでもまぁだ・・・早いって言うのかァ?」
「いや、早いって言ったのは拙者で・・・」
「左ぁ之助! 次はおめぇだッ」
弥彦の目が、据わっている。
今までに見たことのない、凄まじい目つきである。
しかも、誰の言葉も耳に入ってはおらぬ。
これはいけない、と剣心、弥彦を制すべく左之助へと視線を送ったのだが、
「おぉ! いいぜぇ、飲んでやらァなっ」
差し出された湯飲み茶碗に酒をつぎ、これまた溢れるほどに注いでものの見事、一息に飲み干した。
天晴れともいうべき顛末であるが、もう、剣心はどうして良いのかわからなくなってしまう。
「こ、これはいかんっ。薫殿、二人を止め・・・」
「えぇ〜? 何ですってぇ〜?」
傍らにて、女同士が寄って雑談に花を咲かせていた薫の、肩を軽く叩いた途端に剣心、またしても青ざめた。
振り返った薫の面差し、既にいつもの彼女ではない。顔面が赤らんでいることはもちろんなのだが・・・
「キャハハハハッ! なぁにぃ? 弥彦、左之助を相手に飲んでンのぉ? やぁねぇ、師範代を差し置いて飲むなんてェ。まずはぁ、師匠たるアタシに、一献差すってェのが筋じゃないのかしらァ?」
「か、薫殿・・・っ? あ、あの恵殿、薫殿は・・・」
「あぁ・・・どうやらまた、悪酔いしちゃったみたいね。いいじゃない、久しぶりのお酒なんですもの」
恵もまた、酒を嗜んでいるのだがさほど、酔ってはいないらしい。剣心、思わずホッと安堵する。
「燕殿も・・・楽しんでいるでござるか? どうも・・・」
言葉の語尾を濁すと、すかさず燕、言葉を投げた。
「剣心さんっ、私も・・・ここにいられるだけで、楽しい・・・です」
「アハハ・・・かたじけない」
お世辞でも本音でも。そう言ってもらえて良かったと剣心は思った。
今宵の宴、言い出したのは他ならぬ左之助だったが、もてなしたのはこちら側なのである。夕餉の・・・酒の肴の支度をしたのは自分達なのだから、客の反応が気にならないと言えば、嘘になる。
自分は居候の身なれど、それでも、彼女達の言葉は剣心を安堵させるのには十分だった。
「おぉ! 弥彦、やるじゃねぇかっ。それでこそ男だぜェ!」
不意に、左之助の言葉が剣心の耳に飛び込んだ。
顧みれば弥彦、耳の先まで真っ赤になってあぐらをかき、左之助を睨み据えたまま。
しまった、あれから幾度、杯を重ねたッ?
これは、マズイ。
「さ、左之助ッ? それ以上弥彦に飲ませてしまっては・・・」
「あぁ? 邪魔をするってェのか、剣心っ」
「馬鹿、拙者が相手になると言っておるのだ」
すかさず話題をすり替えた途端、左之助の顔色が一変した。
誰が見てもわかるほどに喜色に染め変え、クルリと方向、反転させた。
即ち、あぐらをかいたその姿勢、臀部を軸にして回転したのである。
「へぇ? 剣心が相手をしてくれるってか。嬉しいねェ」
ニコニコ笑いながら、左之助はまたしても、湯飲み茶碗を剣心へ。
「さぁて、どっちが潰れっかなぁ?」
いと、楽しげである。
コプコプ・・・
酒を注いでいく・・・
その間に。
恵、スックリと立ち上がった。
音もなく弥彦の元へと歩み寄り、いつの間にか、畳の上へ転がり天井をぼうっと睨んでいる彼の首筋へと指をあてがう。
「・・・脈がかなり速いわね。燕ちゃん、お水を持ってきて頂戴。水を飲ませて寝かせておけば・・・大丈夫よ、剣さん」
何気なく、剣心の視線に気づいていたらしい。
剣心、思わず苦笑した。
「かたじけない、恵殿」
「おら、剣心ッ」
溢れるほどに注ぎ込んだ湯飲み茶碗を荒々しく、剣心へと突き出す左之助。
恵、剣心との会話に水を差されてたちまち仏頂面、赤い唇、口火を切った。
「ちょっと、左之助? 剣さんと話しているのは私なの。邪魔、しないでくれる?」
「何をっ? こちとら酒の勝負が控えてんだ、口出しすんじゃねぇよ、恵ッ」
「何ですってッ?」
にわかに険を帯び始めた二人の空気に、またしても剣心はしどろもどろ。
どうしてこうも、ここの人達は絡み合うのか。
剣心には不思議でならないが、いくら酒を体内に入れても酔えぬ自らの肉体が、少しく悲しくもあった。
酔わねば、酔えねば、絡むことすらできない・・・否、絡むということを知らぬのだから。
「二人とも、そんなに啀み合わずとも・・・」
「あぁ、ほら! 剣心、とにかくこいつを飲めっ」
「左之・・・」
もはや、こちらの台詞など聞こえてはおらぬらしい。やれやれとため息を吐き、剣心は一息に酒を、飲み干した。
左之助、ほおっと感嘆してしげしげと剣心を見つめ。
「おい・・・おい、剣心」
「ん?」
「ちょいと耳、貸せや」
何だろうと剣心、薄く上気させてしまった身体を左之助へと摺り寄せ、耳朶をそっと、彼へと向ける。
左之助はクツクツと笑いながら唇を寄せ・・・
「今晩、忍んでいくからな」
「!」
画然、剣心は爪先から頭のてっぺんまで蒸気を駆け抜けさせた。
それを恵、逐一洩らさず見ていたものだから、
「なぁに? どうしたの、剣さん? 全身が真っ赤よ?」
しかし、彼女の言葉など聞こえてはいない。
「なっ、ななな、何を突然、言うのでござるか、左之ッ!」
「別に? 本音を言っただけだぜェ、俺は」
「左之助ッ!」
「アッハハハハ! 照れてらァ。剣心が照れてるぜェ!」
剣心、赤面したままさらに言葉を続けようと唇を開く、
が。
左之助、さらに笑おうとしていたがピタリ、
表情が強張り。
二人の異変に、恵が小首を傾げた。
「どうしたの? 二人とも」
剣心、左之助へ素早く視線を流し、
左之助、剣心へ合点とばかりに視線を返し、
二人、同時にスッと立ち上がった。
「剣さん? 左之助?」
「恵殿、申し訳ござらんが皆を頼むでござるよ」
微笑を浮かべてはいるが、瞳は豹変している。
恵も伊達に、彼等とともに過ごしてきたわけではない。すぐさま察するものがあってコクリとうなずいた。
「えぇ、わかったわ。任せて頂戴」
「かたじけない。・・・左之」
「おう」
互いに目配せをしあい、二人は大広間を出ていった。
「・・・あ、あの、恵さん。お水・・・」
「あぁ、燕ちゃん、ありがとう」
入れ違いに入ってきた燕は、大広間を出ていった二人の背を顧みつつ、恵の方へと身を寄せた。
「あの、何かあったんですか? お二人とも何だか・・・」
「大丈夫よ。どうせ、物取りか何かが入ってきたんでしょ。よくもまぁ、こんなボロ道場に物取りなんかが入ってきたわね」
肩からこぼれた艶やかな黒髪、スルリと右手で払って呆れたように吐息を、一つ。
が、その台詞を聞いている者がいた。
「なぁんですってェ、恵さん。聞き捨てならないわねェ」
それまで静かに横になっていた薫が、むっくりと身体を起こしたのだ。
「あらあら、眠っていたとばかり思っていたのに。全く、耳敏い娘ねぇ」
「え? 何ですぅって?」
「何でもないわよ。とにかく、あなたは横になってなさい。少し飲み過ぎよ」
トンっと指先で肩を押し。薫の身体、容易く畳へと転がった。
「ん〜・・・剣心・・・」
瞬く間、瞼を落として眠り始めるのだから、ますます恵、呆れてしまう。
「やれやれ・・・とんだ貧乏くじね」
再び吐いた恵のため息が、熱を孕んだ空気へ冷たく溶けた。