目を射る赤い夕陽。
銅色に染まる空の中、黒い点がぽつ、ぽつ、ぽつ。次第に・・・次第に小さくなりゆく。
そんな・・・
滴る鮮血のような陽光の中、誰かがじっと、立ち竦んでいる。
・・・待っている。
剣心はつと、歩みを止めた。
相手との距離は、まだいくばかりか。その面差しすら見えぬ。
されど、明らかに自分を待っていると確信できた。
理由なき確信、である。
・・・何だろう。
何気ない疑問が脳裏を掠めるが、剣心は再び、歩み出す・・・その肩に塩と味噌を担いで。
買い出しに出かけて通ったおり、人影など全くなかった。
いわゆる川沿い、土手道だ。人がいればすぐに見える、隠れる場所などない。
が、先にいる人物は、自分がこの道を普段から使っていることを知っている。
さもなくば、ああしてこの刻限に待ちかまえていようはずがない。
・・・行動を、知り尽くしている。
剣心は少しずつ・・・少しずつ距離が縮んでいくごとに、胸に芽生えていた小さな火種がだんだん大きく燻り始め、やがては巨大な炎へ至ったことを実感する。
・・・何だ、この・・・奇妙な、嫌な胸騒ぎは。
普段と何ら変わらぬ落ち着き払った表情にて、剣心は目まぐるしく思考を回転させながら歩み続けた。
徐々に、徐々に・・・
相手が近づいてきた、顔が、見えてきた。
彼は視線を逸らさずまっすぐ、相手を見据える。
・・・女だった。
歳の頃は三十半ば。日本髪の、乳白色の着物。もっとも、夕陽のためにそれが本当の色なのかどうか、定かではない。
涼やかな目元が、厳しく剣心を射抜いていた。
「・・・失礼とは存知まするが」
凛とした声音が、空気を刺す。
呼応して、剣心は歩みを止めた。
スッ。
女の右手が帯上げ近くへ伸びる。
「赤い髪に、頬の十字傷。・・・緋村抜刀斎殿とお見受け致しますが」
剣心は、無言だった。無言で、女の仕草のすべてを見ていた。
・・・表情一つ、変えずに。
風が・・・
赤毛を靡かせ・・・袂を靡かせ・・・
・・・唇、開かせた。
「いかにも・・・拙者は、緋村抜刀斎でござる」
「!」
ぶわっ。
音が聞こえたかと錯覚するほど、女の全身から夥しい殺気が放たれた。
その気概の存在にだが剣心、眉尻一つ、動かさぬ。
女の、懐に当てていた手が強い力を孕んだ。
奥に息づかせている、分身がそこに、ある。
剣心は、すべてを見通しつつも声音、穏やかそのもの。
「・・・お手前は」
「名乗ったところで覚えておろうはずもないッ! お前にとっては、虫けら同然だったのでしょうからッ」
ピンっ。
微かな音とともに白光が一筋、突き刺さる。それは・・・懐剣の刃。
「お前の命、私がもらい受けまするッ」
・・・やはり、仇討ちか。
口上も名乗りも何もない、礼儀を尽くしての仇討ちではなかったが、剣心にとってはそんなこと、取るに足らぬ問題。
剣心、表情なきままに担いでいた荷を降ろすと。
女、今だとばかりに懐剣を両手、握りしめ、
「ええぇい・・・ッ!」
走り出し、勇ましい掛け声とともに突き込んできた。陽を背に浴びて、身体の前面を闇に染め。されど・・・
恐ろしいほどに、眼光のみが炯々と光っていた。
掛け声は奇声となり、たちどころに剣心に迫ってくる。
間合いは詰まり、
女の顔が狂喜を帯び、
刃の切っ先が鳩尾めがけ、
ビっ。
「・・・!」
女の眼前、紅い花。
その瞳、瞬きを忘れ・・・
視線を落とせば両手、生温かなものが飛び散っていた。
・・・血。
女にとってそれは、初めて見た他人の血、だった。
「あっ・・・あぁ・・・ッ」
途端、彼女はガクガクと大きく震え始めた。
ふと見れば、男の左腰には一本の脇差し。柄頭が陽光を浴びて艶やかに輝いているではないか。鍔でさえ、鈍い輝きを放っている。
得物を、刀を抜かなかった・・・なぜッ?
女は困惑する。
困惑しつつ、恐る恐る見上げてみれば・・・
「!」
優しげな微笑が、そこにはあった。
「あ、ああぁッ!」
一つの命を殺め、かつ、相手が得物を抜いていなかったことに女は愕然とした。
なぜ、刀を抜かなかった、
なぜ、反撃をしない、
なぜ、笑っていられる・・・
笑えるッ?
「ああぁ・・・ッ!」
「もしッ!」
咄嗟、剣心の鋭い声。
女はビクッと震えて再び、剣心を見上げた。
「驚かせて・・・申し訳ござらぬ」
そう言って、剣心は己が右手を指し示して軽く、頭を下げた。
・・・赤く染まっている。血だ。
「・・・え・・・?」
「残念でござりましょうが、死んではおらぬよ」
剣心は、突き出された刃を右手で握り込んだのだ。が、気が動転した女はそのことに気づかなかった・・・。
女は、へなへなとその場へ崩れ落ちた。
「・・・お手前のお気持ち・・・お察し申す」
片膝を落とし、剣心は女と目線を合わせてそう言った。既に、先ほどの笑みはない。
女は放心して、無言で剣心を見つめる。
「されど・・・拙者、申し訳ござらぬが、お手前に討たれるわけには参らぬ。これから先もずっと・・・誰にも、討たれるつもりはないでござる」
剣心の台詞は、女をたちまち正気に立ち返らせた。眉間にしわを刻み、眉をつり上げてくってかかる。
「なんですってッ? 我が夫の命を奪っておきながら、なんという・・・ッ!」
「しかし」
ゆっくりと首を振り・・・剣心は否を示す。
「お手前の愛しき者は、その御手が血で濡れることを望んではおられぬ。命の重さに喘がせるために闘ってきたわけではござらぬゆえ。あの頃・・・拙者達は確かに、敵同士でござった。だが、それは偏に戦いのない世の中を作るためでござった。互いに・・・お手前のような方が生涯、安寧に暮らせる世の中を作るためでござった・・・」
「なっ、何を勝手なことをッ」
「拙者はどう思われても構わぬ。これから先、拙者を狙っても一向に構いませぬ。いつ、どこで、どのような形であっても、拙者は拒まみは致しませぬ。しかし、拙者はお手前には手出し致さぬ。それが、お手前の愛しい者をこの手で殺めてしまったせめてもの償い・・・」
「償いと言うならッ! 私の大切な人を返して・・・返してよっ! それが出来ないなら、死んで頂戴ッ」
腰が砕け、立てなくなったというのに女、赤くなった両手で懐剣を握りしめた。だが、剣心はそれを黙って見守るのみ。止めようともしなかった。
「申し上げたはずでござる。拙者は誰にも討たれるわけには参らぬと。されど・・・誰も、殺めも致さぬ。たとえ敵と罵られようとも。・・・拙者を憎みたくば、憎んで下され。殺したくば、殺しに来て下され。でも、たとえこのような命であってもくれてやるわけには参らぬ。このような命でも、一度背負ってしまったら・・・重すぎて、歩くことも、立ち上がることもできなくなるでござるよ・・・」
剣心は、立ち上がった。
立ち上がり、脇差しをにわかに差しなおし。
置き去りにしていた塩と味噌を担いだ。
「拙者は・・・生き抜かねばならぬ。この、無数の命を背負って、生き抜かねばならぬ。この重みで身動き取れなくなるか、あるいは・・・。どうなるかわからぬが、生きて・・・生き抜くことが、今まで命を軽んじてきた拙者の、自らの命を全うすることが償いになると・・・信じているでござるよ」
「人殺しッ!」
歩き出した剣心の背に、女は叩きつけた。
「お前がどんなにきれい事をほざこうとも、そんなもの全部、言い訳に過ぎぬッ! お前は自分の罪を償うと言いながら、自分の罪を生きることで忘れようとしているのですッ! そんなことが許されていいはずがない、許すものかッ! 私は生涯、お前を憎む、忘れるものかッ。呪い続けてやるッ!」
思いつく限りの罵詈雑言を、女は腹の底から吐き尽くした。
剣心は・・・ピタリ、歩みを止めた。
一瞬、斬りかかってくるかと女は懐剣を握り直したが、
「・・・!」
わずかに振り返った彼の表情を見て、目が釘付けになってしまった。
・・・笑って・・・?
それきり。
剣心はもう二度と、振り返ることはなかった。
「お〜い、剣心ッ」
自分を呼ぶ声に、剣心はにわかに顔を上げた。
駆け寄ってくるのは、どうやら弥彦のようである。背中に結びつけてある竹刀が揺れている、剣心は近くまで彼が来るのを待った。
「遅かったじゃねぇか、剣心っ。どんどん日は暮れてくるし・・・何かあったのかと思って、オレ、探しに来たんだぜ?」
息も絶え絶えに、弥彦は剣心を見上げてそう言った。全力疾走だったのか、額には大きな雫が吹き出ていた。
「それは悪かったでござるなぁ。うん、ちょっといろいろとあって・・・」
「言い訳なら、薫に言えよな。あいつカンカンだぜ? いつまでたっても帰ってこねぇから・・・」
「・・・弥彦。頼みがござる」
「は?」
苦笑交じりの剣心の顔が、弥彦を見ている。
しかし、弥彦は妙に何か、ひっかかるものを感じ取った。
何ら変わらぬ表情ではあるのだが、微妙に・・・何というのだろう、漂わせている空気が、違うのだ。強いて言うなれば・・・痛い・・・辛い・・・何か、そんな感じの・・・
ぼうっとそんなことを考えているうちに、
「では、頼んだでござるよ、弥彦」
「えっ、えぇっ?」
剣心、担いでいた塩と味噌を弥彦へと渡してしまった。
いくら男といえど、まだ十にも満たぬ少年である。これほど重いものを担ぐことは・・・
「ちょ、どこへ行くんだよ、剣心!」
「今、話したでござるのに」
苦笑して、剣心はもう一度言った。
「用があるから、ちょっと左之助の所へ行って来るでござるよ。今宵は帰らぬからと、薫殿に伝えておいてくれ」
「あ、いや、だから剣心、どうしてこんな刻限から・・・て、おい!」
弥彦の言葉など、聞こえてはいなかった。
剣心は風のように、その場から消え去っていたのだ。
弥彦、途方に暮れてしまった。
早く帰りたくとも目の前には塩と味噌。
だが、屋敷に帰れば頭から角を生やした立腹の薫が。
・・・どうすりゃいんだよ。
弥彦、頭を掻きむしる。
「どうなっても知らねぇぞ、剣心っ。・・・はぁ・・・参ったなぁ・・・」
弥彦、この時ばかりは剣心を心底恨んだのだった。
弥彦の心情など、剣心の知るところではなかった。
思い起こせば、弥彦と会ってから破落戸長屋へ行き着く間、全く記憶がない。だが・・・
あの女の顔が、胸を苛んでいた。
台詞の端々にこもった憎しみが、心を焼いていた。
辛い・・・生きることが、辛い・・・。いっそ、死んでしまったほうがどれほど楽か・・・!
生きて、苦しみを・・・命を背負っていくよりもどれほど楽になれるか・・・!
剣心は走った。
無我夢中になって走った。
何かから逃れるように、振り返りもせずにひたすら走った。
「左之、左之、左之・・・ッ」
生きていけるのか、これから。
まだまだ、今日のような出来事に直面していくであろうに。
・・・覚悟を、決めていたのではなかったか。いかなる現実にも立ち向かっていくとッ。
なのに・・・
生きていくことが、怖い・・・ッ
「左之、左之・・・ッ!」
・・・いつしか。
剣心は無心の内に何度も呟いていた。
自分でもどうして、突拍子もなく、あの男の顔が見たくなってしまったのかわからぬ。
が、それは本人を目の前にした瞬間、心底理解しながら・・・どうでもよくなってしまった。
剣心が「左」の字の引き戸前に立った時。
手を伸ばす前に、カラリっとそれは開いた。
「あ、あぁッ? 剣心じゃねぇか」
腰を少しく屈めて外へ出ようとしたところに、客人の姿を認めて彼は驚く。普段は少々低めの声音なのだが、この時は本当に驚いたのだろう、わずかにうわずっていた。
「どうしたよ? おめぇがこっちまで来るなんざ、珍しいじゃねぇか。今、おめぇンとこへ飯でも食いに行こうかと・・・剣心?」
ようやく。左之助は剣心の異変に気づいた。
入り口で突っ立ったまま。面差しすら伏せて、見上げようともせず。
何より無言だ。
「おい、剣心? おめぇ・・・あッ」
左之助、彼の右手を握るなりグイッ、己へと引き寄せた。
「何だこりゃッ。どうしたんだよ! この傷、どうしたんだ剣心っ」
だが、剣心は何も言わない。
「まったく、おめぇって奴ァ・・・ッ」
右手を・・・手首を握りしめたまま、左之助は剣心を部屋へと上げた。
上げてから、一端土間へ降りると心張り棒を噛ませ、酒と晒しを用意した。
剣心と左之助、四畳半の中央で互いに向かい合う。
「おらっ。右手を見せな」
右の手のひらが、紅葉のように赤くなっていた。傷を負ってから時間が経っているのか、すっかり乾いてしまっている。
左之助は、消毒もかねて手拭いを酒に浸すと、搾って丁寧に右手を拭き始めた。ゆっくり・・・ゆっくり白い肌を取り戻していくものの、鮮血は見事に手のひらに染み込んでいてなかなか拭えぬ。
「どうしたんだ・・・剣心。こんな傷・・・嬢ちゃんが見たら、びっくりするぜェ・・・」
ちらっと表情を窺うが、部屋の薄暗さと相まってよく、わからない。
ただ、相変わらず唇は閉ざされたまま。
盥に張った酒に手拭いを泳がす・・・薄く、紅色に染まった。
きつくしぼり、再び拭う。
拭いながら、手のひらを矯めつ眇めつしていたのだが、
「・・・傷がよく、見えねぇなぁ・・・。もう日暮れだもんな。ちょっと待ちな、行灯に火ィ・・・」
「やめろッ」
画然、剣心が言葉を発した。
強く、鮮明な声音に、左之助は息を呑んでしまう。
「・・・ま、まぁ・・・おめぇが嫌だってぇんなら、それでもいいけどよ・・・」
何を考えているのだろうか。左之助、頭を掻きむしったがあえて反論はしなかった。
何かが、おかしかった。
いつもの剣心ではない。
空気が冴え冴えと・・・冷たく、澄んでいく・・・
左之助はある程度血糊を拭き取ると、そのまま晒しを巻き始めた。
「・・・嬢ちゃんや弥彦には、ここにいるって、言ってきたのかィ?」
だんだんと明かりが失われていく空間の中で。左之助の声音が、静かにたなびく。
・・・ふっ、と。剣心の吐息が聞こえ。
「・・・途中で、弥彦に会った。弥彦に言付けてきた・・・」
「そうかい。それなら・・・いいけど、よ・・・」
巻き終えると、左之助は手の甲できゅっと結んだ。
「よし、一丁上がり! ・・・でもよ、思っていたより結構、傷は深いみてぇだぜ。早ェとこ恵にでも診てもらったほうが・・・」
「今は、いい」
「けど剣心、」
トンっ。
「!」
左之助の言葉を遮るように、剣心の面差しが彼の胸元へと落ちてきた。
「剣・・・」
次いで、彼の両手が左之助の、半纏の襟元を握りしめる。
戸惑った。
「お、おい・・・剣心・・・? どうし・・・」
顔が、見えぬ。
伏せたまま、胸乳に埋めたまま。
感じるのは剣心の・・・微かな吐息と両手の、凄まじい握力。
赤毛が、小さく震えていた。
「このまま・・・しばし、このままで・・・」
「・・・・・・剣、」
「甘えさせろ、左之・・・っ」
「!」
絞り出したような声、思いがけぬ言葉。
・・・甘えさせ、ろ・・・?
初めて耳にした台詞・・・なのに。嬉しい、はずなのに・・・
何だろう、このやりきれなさは。
いや、違う。やりきれないのではなく・・・心配なのだ、不安なのだ。
今、この男の中で何が起こっているのかがわからなくて。
左之助は・・・ふうっと、胸の息を吐いた。
「好きなようにしねェ・・・。俺ァ、おめぇのモンだからよ」
逞しい、両腕が。
剣心の身体をそっと、包み込んだ・・・
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