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 ザザ・・・
 バララララ・・・ッ

 豪雨だった。
 粒の形が見えるほどの、水の鏃。
 瓦を、枝葉を、土を叩きつける音が非情に聞こえる。
 ・・・鼓膜が、痛い。
 つい、耳朶を押さえようと両手を上げかけ、しかし力、入らない。
 左手首に巻いた紅いはちまきが、どす黒く見えた。

 「はぁ、はぁ・・・ッ」

 いつになく荒い呼吸を、どうすることもできない。
 たとえ、血が騒ぐがままに拳を振るっていても、こんなことは一度もなかった。
 なのに。
 喧嘩すらしていないのに、まるで動揺しているかの如く動悸は早く、呼吸が浅く震え。
 立ち竦んだまま、身じろぎ一つできない。
 瞬きすら忘れ、視点は一カ所に集中していた。
 ・・・眼下の、男。
 畳の上、見たこともない緋色の髪が散らばっている。
 色を抜いたような白磁の肌、冴えた色のままそこにあり。
 ・・・点々と、紅の痣がぼんやりと。
 隠すように滲んだ汗、しかしそれらは意味もなく・・・
 そんな男を、しわくちゃになった衣装が囲んでいた。
 唇が、蒼い。

 「はぁ、はぁ・・・ッ」

 雨音と・・・己が呼吸と。
 それらばかりが耳朶を打つ。

 何を、した・・・ッ。

 瞳孔が収縮しつつも視点は、ずれぬ。
 赤毛の男を見つめるばかりで視界、小刻みに震えた。

 俺は・・・俺はいったい・・・

 「俺は、剣心に何を・・・ッ!」

 苦々しく唇を汚した台詞に、ピクリと赤毛の人、わなないた。

 目を、覚ますッ?

 それまでどこか、冴え冴えとしていた意識が急激に熱く、膨張を始めた。
 胸底からどこからともなく湧き出てきた異物に、肉体は過敏な反応を見せる。

 「クッ・・・っ」

 足下にわだかまっていた「惡」一文字の半纏、咄嗟に掴み上げ、

 スパンっ

 障子を開け放つ。

 刻限は昼八ツ(午後二時)。日は未だ高いはずだが空はどんよりと重く、闇夜が迫っているように薄暗い。
 男はそのまま外へ・・・雨降りしきる空間へと身を潜らせた。
 振り返りはしなかった。
 否、振り返りたくはなかった。
 あのまま、正気を戻したときの赤毛の人と、正面切って目を合わせる自信が、今の男にはなかった。

 何を・・・俺は、何を・・・ッ!

 自問自答を繰り返すが、答えは一向、見つからぬ。

 雨の中を闇雲に走り、躓き、それでも走った。
 泥だらけになりながらも、通りすがりに奇異の眼差しをぶつけられても、男には意に介する余裕が微塵もなく。
 何かを突き破るように猪突猛進、ひたすらひたすら、走った。

 「ああああああぁぁ・・・ッ!」

 不意に怒号が迸った。
 誰に対してなのか、自分でもわからぬ。
 いや・・・それはきっと、自分に対して。
 己に対しての怒りだ。
 やってはならぬことをした・・・禁忌を侵してしまったのだッ。
 既に記憶はたどたどしいが、それでも己が起こしてしまった、事実は認識できていた。
 「畜生、俺は、俺は・・・ッ!」
 男・・・相楽左之助は、誰ともなく叫び、走り続けた。

 目を閉じても、開いても。
 見えてくるものは、「あの光景」。
 耳朶を塞いでも、開いても。
 聞こえてくるものは、「あの声」。

 ・・・気がついたときにはもう、遅かった。
 鮮明に甦るは、生白い肌を潤う赤い髪。
 とけるような唇、朱色に染まりゆく身体・・・

 ・・・けれど。

 こぼれてくるのは、苦悶たる声・・・面差し。
 虚空を舞う指先、畳を突っぱねる爪先・・・
 噛みしめる・・・唇。

   ― 離せ、左之助・・・やめろ・・・ッ

 それらをしっかり見ていたはずだ、わかっていた。
 拒んでいるとわかったではないかッ。
 なのに、止めることができなかった。
 止まらなかった、止められなかった・・・ッ!

 「くぅ・・・ッ」

 走り、走り続けて飛び込んだところは破落戸長屋・・・言わずと知れた、古巣。
 左之助はパンッと戸を閉めるなり心張り棒を噛ませ、
 「はあ、はあっ」
 両肩で大きく息をしながら遮二無二、半纏を脱ぎ捨てる。
 肌に吸い付く感触が、気色悪かった。
 脱いだ途端、
 ぼたぼたっと雫が落ち。
 左之助、すくい上げるように半纏、両手でまとめてギュウと絞り。
 絞ったその先、桶いっぱいの水ができた。
 下袴も脱ぎ、同様に絞り。
 下帯も外し、絞った。
 ・・・視線が、無意識に下腹部へと落ちる。

 愕然とした。

 「なッ、何だよ・・・、欲情してんのかよ・・・あンだけ酷いことをしておいて、俺はまだ、あいつが欲しいと・・・ッ」

 自らのあからさまな反応に、左之助は思わず頭を抱えた。

 こんなことになるなんて、思いもしなかった。
 この腕の中に巻き込んで、こともあろうか精をまき散らすなんてこと・・・
 馬鹿なことを・・・ッ!

 「どうしちまったんだよ、俺ァ・・・なんで・・・ッ」

 ・・・思いつく心当たり、と言えば。

 一度目、不可解な「衝動」が起こったのは。
 初めて「緋村剣心」と相対した時。
 あの・・・魂が凍るような恐怖とともに絶対的な「死」をもたらす、眼が今でも・・・
 二度目、不可解な「衝動」が起こったのは。
 黒笠事件の時、剣術小町のみが目撃してしまった剣心の、もう一つの顔・・・「緋村抜刀斎」。
 その一面を自分が見られなかったことへの悔しさ、未だに燻っていて・・・
 三度目、不可解な「衝動」が起こったのは。
 武田観柳での一件、御庭番衆・四乃森蒼紫へ言った剣心の言葉・・・
 「闘って拙者を倒して、『最強』の二文字を四人の墓前に添えてやれ」

 そうとも・・・あの台詞が引き金になった。
 どうしてそこまで他人に対して尽くせる・・・自分を犠牲にできるッ?
 「蒼紫」にそこまでしてやろうとするッ?

 「わかってる・・・あいつは、たとえ誰であっても放っておけねェ奴だ。そういう奴だって、わかってンじゃねぇかよ! こいつぁ・・・そうさ、程度の低い嫉妬だよ、俺ァ、嫉妬してンだッ。そんなこと、わかってる! なのにどうして剣心を抱いたりしたんだよ、どうしてそうなる・・・ッ?」

 普通に、剣心と話をしていたはずだ。
 いつものように、戯れていたはずだ。
 それが・・・そうとも、その「蒼紫」の話題になってから・・・俺は、何だか気がおかしくなって、剣心を押し倒して・・・ッ

   ― やめろぉ・・・ッ!

 「畜生・・・ッ」

 ミシリ。奥歯を噛んで左之助は、拳を握りしめた。
 節々から、雨粒を滴らせながら・・・






 ゆるりと瞳を開いたときには、そこにはもう人の気配は・・・左之助の気配は消えていた。

 今・・・何時くらいなのでござろう・・・

 ぼんやりとそんなことが脳裏を掠めたが、思考する気力がない。
 何が・・・どうなってしまったのか。薄暗い室内、天井を見つめながら剣心は思い起こす。
 いつものように、ふらりと左之助が姿を見せた。
 断りもなく部屋に入ってきて、どっかりと腰を下ろして屈託のない笑顔を浮かべて。
 他愛のない話に花を咲かせて・・・
 ・・・そうだ・・・話題が、この間の観柳の・・・御庭番衆へ移って・・・

 「おめぇが、あんな男のことを気にする必要はねェっ!」

 突然のことだった。
 左之助の両腕が伸びてきてこの身体を、畳の上へ組み伏せたのは。
 アッと思ったときにはもう、あの・・・唇がこの首筋を、肩を、胸元を・・・

   − 剣心・・・剣心・・・ッ

 生々しい感触が、甦ってきた。
 耳朶に絡まる湿った吐息、大きな手のひら、荒れた感触・・・
 ・・・唇の、柔らかさ。垣間見える歯、ぬめった舌先・・・
 瞳の、光。

 「左之助・・・っ」

 それまで動かなかった両腕が、彼の名前に反応を示した。グッと己自身を掻き抱いて、剣心は瞳を閉じる。
 素肌に痛いほど刻み込まれてしまった、左之助の感触・・・温もり。
 獰猛な獣のように、荒々しい・・・
 「左之・・・」
 瞼を閉じたまま、左之助の残像を探しに肉体をまさぐる。
 肌は、時が経った今でも熱く火照っていた。
 彼を受け止めた箇所が、火傷をしたように夥しく熱く・・・痛く。
 何より・・・
 手のひらにはべっとりと、左之助の残していったものがまとわりついていた。
 「あぁ・・・っ」
 何と、いうことだろう。
 これが指し示す意味を、剣心は痛いほどによくわかっていた。

 左之助は、拙者をそのような目で見ていたのだろうか。

 ・・・いや、と。自らの問いかけに、剣心はゆるく首を振る。
 違う・・・そうではないだろう。もしそのような眼差しであったなら、当の昔に気づいていたはずだ。
 自分の容姿が他人にどのように映るのか、剣心はしっかり把握している。かつて人斬りであった頃、仲間達の、色で染め抜かれた視線の中で寝食を共にしてきたではないか。
 だから、自分が気づかぬはずがないのだ。
 ・・・左之助は、そのような気はなかったはず。では・・・
 「・・・わからない」
 ふっとため息を吐いて、剣心は傍らの衣装を引き寄せつつ身をもたげた。
 「うッ」
 激痛に、身体が強張った。
 思わず左手、腰へと伸びた。
 「・・・左之・・・」
 視線、外へと移せば。
 開きっぱなしの障子の向こう、中庭が見え。
 音の存在を許さぬように、戦場の槍の如く雨粒が、間断なく降り続けていた。






 ・・・夢を、見るようになった。
 どれもこれも甘く、苦く・・・狂おしいものばかり・・・
 それは決まって、左之助を苛ます。
 目覚めたときの後味の悪さ・・・
 ・・・なのに。
 「・・・・・・正直なのか、ただのバカなのか・・・」
 舌打ちしては布団へ潜り込む。
 潜り込んでは眠り、夢を見て・・・
 眼が覚めれば舌打ちし、また布団の中へ・・・
 そうした日々を、いったい何日繰り返しているのだろう。
 最初のうちは数えてもいたのだが、今ではもう、わからなくなっている。
 時折仲間が持ち込んでくるものを食べ、酒を飲んだ。
 天気がよいから外へ出ようと誘いをかけてくるが、一向にそんな気になれなかった。
 この男にしては、珍しいこと。
 仲間も首を傾げてはいるが、それ以上のことを突っ込んでは来ない。
 左之助も、そのほうがありがたかった。
 ・・・豪雨の日以来、左之助は破落戸長屋に引きこもったまま。
 外へ出ると言えば、顔を洗いに出る、用を足しに・・・くらいなものか。
 いつだって「留守」というのが通常だというのに、この連日の在宅に、近所の者達は一様に首を傾げ、ひそひそと言葉を交わした。
 「はぁ・・・」
 柄にもなく、ため息を吐く。
 頭を掻きむしり、天井を見上げ、
 「はぁ・・・」
 と、もう一つ。
 不抜けてしまったように、左之助の身体から何かが消えていた。
 「・・・・・・どうすりゃいいんだ、これから」
 途方に暮れ、まんじりとせず。
 考えるのが嫌になって布団に潜る。
 ・・・そしてまた、夢を見るのだ。
 あの時の・・・
 剣心の白い肌、を。
 「剣心・・・」
 眠っていても、起きていても。
 考えてしまうのは・・・「あの時」のことばかり。
 思い起こしては・・・身体を火照らせてしまう自分が、恨めしくて仕方がない。
 いけないことだとわかっていても・・・どうしようもないほど、反応してしまう。
 しかし自分をなじってももちろん、収まることはなく。
 「ええィ、畜生っ」
 ・・・そんな、時だった。
 「左之助、いるか〜?」
 ・・・聞き覚えのある声。神谷道場に居候し、かつ、門下生である明神弥彦だ。
 弥彦はこのしばらく、左之助が姿を見せないために様子を見に来たのだ。
 「なんだ、いるんじゃねぇか。返事くらいしろよ、左之助」
 ガラリと戸を開くなり、弥彦は憎まれ口を叩いた。
 が、その彼の言葉が、今の左之助にはたまらなく腹立たしい。心張り棒を噛ませていなかったことを、心底悔いた。
 「うるせぇ。俺の勝手だろ」
 「・・・何を拗ねてんだ、おめぇは」
 「拗ねてなんかねぇよッ」
 ガバリと起きあがり、左之助は弥彦を睨め付けた。
 しかし、彼の眼光で怯むほど、弥彦は柔ではない。齢十とはいえ、年齢に似合わず多くの修羅場を潜ってきた。左之助如きに怯える弥彦ではない。
 「元気じゃねぇか。風邪でも引いたんじゃないかって、みんなが心配してるぜ」
 「心配って・・・誰が」
 「だから、みんなが」
 「・・・嬢ちゃんと、剣心が、か・・・?」
 「当たり前だろ、他に誰がいるってぇんだ。もちろん、オレも入ってンぜ」
 胸を張って言い放つ弥彦に、左之助はフンっと鼻を鳴らす。
 「あぁ、そうかよっ。そいつぁ、悪かったな。俺はこの通りピンピンしてっから、あいつらに伝えといてくンな」
 言い捨て、左之助は再び布団へ潜ろうとする。
 その姿に、弥彦は呆れたように顔をしかめた。
 「何だよ、そりゃあ。ホント、どっかのガキみてぇだぜ、今のお前」
 「何だとッ?」
 「何があったか知らねぇけど、どうしてそんなに苛々してンだよ」
 「苛々なんか・・・」
 「してるだろ」
 「・・・・・・」
 一回り近く離れている子供から言われるべき言葉ではない。左之助、小さく舌打ちして頭を掻きむしる。
 「あぁ、もうッ。いいだろ、俺のことなんかッ。放っておいてくンなっ」
 「・・・なぁ、左之助」
 「なんだッ」
 「お前、剣心と喧嘩でもしたのかよ?」
 「!」
 思わず両目を剥いて面差しをあげた左之助に、今度は弥彦がたじろいだ。にわかに背を逸らしつつも、左之助を見遣る。
 「な、なんだよ・・・やっぱり、喧嘩をしたのか」
 「そ、そんなんじゃ、ねぇけど、よ・・・どうか、したのかよ」
 口ごもりつつ左之助、それとなく気になる相手のことを弥彦へ問うてみる。
 弥彦とてそれがわからぬわけでもない。喧嘩をしたとなれば、のちに良心が痛むもの、相手のことが気にならぬわけがない。とりわけ、左之助と剣心であればなおさらと弥彦、勝手に得心して話し始めた。
 「剣心の様子がおかしいんだよ。洗濯をしていても上の空だしよ、風呂を沸かせば沸かしすぎたり・・・何か深く、考え込んでいるみたいでさ。それも、お前がパッタリ姿を見せなくなってからだ」
 「へ、へぇ・・・」
 「この間、すっごい雨が降っただろ? あの日は風邪を引いたとか何とか言って寝こんじまって、薫が慌ててたんだけど、その次の日からは大丈夫だって起きてきてよ・・・いつものように炊事やら何やらするんだけど、何をしても上の空なんだ」
 ・・・風邪で、寝込んでいた・・・
 左之助の胸に一寸、痛みが走る。きっと・・・それは、風邪などではなかったはずだ。恐らく・・・
 「・・・で・・・今でも上の空、なのか」
 「あぁ。だから、お前となんか関係があるのかなって・・・」
 関係あるも何も・・・そのような剣心にしてしまったのは、すべて自分だ。
 左之助の胸裡、凄まじい罪悪感がこみ上げてきた。
 「・・・俺に、どうしろってェんだ」
 「決まってンだろ、仲直りしろってことだろうが」
 何を抜かす、とばかりに鋭い眼差しで弥彦は言い放つ。
 だが・・・
 「・・・・・・悪ィ。もうしばらく、時間をくれ」
 「何を言ってんだ! 左之助らしくねぇぞ!」
 「そうかもしれねぇが・・・今回ばかりは、勝手が違う。・・・すまねぇな、弥彦」
 苦く笑いを浮かべ、左之助はクルリと背を向けた。






 「左之助の所へ、行ってきた?」
 弥彦の台詞を思わず繰り返し、剣心は振り返った。
 まな板の上、緑も鮮やかな浅葱が横たわっている。
 コトリと包丁を置いて、剣心はしっかり弥彦へと向き直る。
 「やっぱり、左之助と喧嘩をしたんだろ。あいつがそう言ってたぜ」
 「アハハ・・・そうか。とうとう知られてしまったか」
 柔らかな苦笑を浮かべて、剣心は弥彦に話を合わせた。
 「ちっともあいつらしくねぇんだぜ? 剣心と仲直りしろって言ったらよ、今回ばかりは勝手が違うから、もっと時間をくれ、だって。情けねぇったらありゃしねぇ」
 両腕を組んで嘆く弥彦を、剣心は微笑ましそうに見遣る。・・・この少年は、小さい胸の中で自分達のことを気遣ってくれている・・・いや、周りに常に気を配っている・・・。
 自分のことだけではなく、周りのことを気がけていける・・・子供ながらに素晴らしいことだと、剣心は内心で感心する。
 「ありがとう弥彦、心配をしてくれて。・・・せっかくだから、拙者の方から出向いて参ろう」
 「えッ?」
 「長屋にいたのでござるな? 左之助は」
 前掛けを外しながら今にも出て行こうとする素振りの剣心を、弥彦は驚いて見遣った。
 「長屋にいたけど・・・でも、今すぐにかよ、剣心?」
 「あぁ、昼餉の支度もできたでござるしな。・・・拙者はあまり腹は減っておらぬから、弥彦と薫殿で食べてしまうでござるよ」
 「でも・・・」
 「大丈夫。しっかり仲直りをしてくるでござるから。・・・帰りが遅くなるかも知れぬが、心配はいらぬ。そう、薫殿にも伝えておいてくれ」
 「あ、あぁ・・・わかった」
 彼の迅速な行動に呆気にとられながらも、弥彦には見送ることしか何もできず。
 黙って、小さな背中を見守るのみだった。




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