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それは、いつもの道。
何ら変化のない、ふだんと変わらぬ風景。
通い慣れた道。
チリン、チリン・・・どこからともなく風鈴の音。
幼子達の笑声、物売りの伸びやかな声。
吹き渡る風は、熱風。
「あー・・・暑ィ」
低い声にて独りごち、何気なく空を見上げれば、燦々と照りつける太陽。雲一つなく、陰り一つ見せずに輝き続けている。
日差しが、鋭く痛い。
何ら、やましいことはないのだと言わんばかりの空模様に、恨めしさを感じるのはお門違いだろうか。
男はふと、がっくりと首を折った。
歩き慣れたはずの道が、今日はいよいよもって疎ましい。
「まぁ・・・こんな刻限に出歩くほうがどうかしてんだよな。御天道さんがあんなに高くちゃぁ・・・暑いはずだぜ」
天を貫く自慢の髪も、熱さに参って今にもしおれてしまいそうだ。
心なしか、背に翻る惡一文字がうなだれて見えるのは、果たして目の錯覚か。
人一倍、胸元を見せるような薄着であるというのに全身、汗だくで。
空気に刻めと、命の限りに声を上げる蝉すら、今の男にとっては雑音でしかなく。
・・・即ち。心をそよがせてくれるものなど何一つ、ない。
「剣心のとこにでも行って、何か冷てぇもんでも・・・」
・・・剣心・・・
その名の余韻は、男の脳裏に閃光の如く、あらゆる映像を浮き立たせた。
自ずと、
「剣心、剣心、剣心・・・っ」
口走るように連呼する彼が、そこにいる。
「そうだよ・・・剣心に会わねぇとな」
男は俄然、元気を取り戻した。
人気のない道、たった一人で薄笑みを浮かべて歩む姿は滑稽だ。行き過ぎる者がいたならば、さぞかし不気味であったことだろう。
上背をますます伸ばし、男は暑さにもめげずに颯爽と歩み始めた。
・・・思えば。
この道を歩むのも実に三日ぶりではなかろうか。
仲間達と博打に夢中になって、気がつけばもう三日。
どんどん懐に金子が入ってくるものだから、やめられぬのも道理だがそれほど、夢中になってしまったことは本当に久方振りだった。
・・・理由は、ともかく。
久しぶりに顔が見られるとあって長身の男、心を浮き立たせて門を潜った。
「おーい、剣心。いるんだろぉ? 何か冷てぇもんでも・・・」
と。
中庭へと足を踏み入れて男、動きを止めてしまった。
庭にて。
小柄な優男がいた。
それは、ほんの一寸前まで心に描いていたその人、緋村剣心。
特徴的な赤毛、陽の光を浴びて鈍色に輝き。
緋色の着物、惜しげもなく左右へと割り広げて上半身、熱気へと晒し。
その様、未だ距離を縮めていないにも拘わらず・・・
滲み、噴き出す無数の透たる存在が鮮明に。
白磁のような肌を伝い・・・滑り落ちていく、一瞬が。
濡らすその、雫が。
神々しくも・・・
闇夜の吐息を思い起こさせた。
艶やかな色。
高鳴る胸の音、心地よいほどに・・・
甦る、漆たる余韻。
「綺麗だ・・・」
呟いた、その声が。
「左之か」
瞬間、赤毛が翻って眼差し、
ギラっ。
男を射た。
真夏の陽光よりもさらに、凄まじく。
瞳に宿るは、狂気。
それは・・・
明らかなる、殺意。
彼を呼ぼうとしていた唇が、無意識のうちに閉ざされていた。
否、そうではなく・・・
な、なんだ・・・ッ?
彼の眼差しが自分を捉えた瞬間に。
殺意を投げられた刹那に。
男の・・・相楽左之助の全身は、熱気のこもった外気を無視して粟立っていた。
血流さえ、並々ならぬ速さを保持する。
これは・・・
「お・・・おぅ。何でぇ、身体ァ拭いてんのかぃ?」
あふれ始めた胸の鼓動に、左之助は戸惑いながらも声をかける。優男・・・剣心の足元にある桶を見ながら、つい視線を逸らそうとしてしまう自分を少々、情けなく思いつつ。
だけど・・・
直視、出来ない。
「あぁ。薪割りをしていたら汗を掻いてしまったゆえ・・・誰かさんが、約束を放ってしまったでござるから」
瞬間、
しまったッ!
と、強く臍を噛んだがもはや、後の祭り。
そう。ついその三日前。
残り少なくなった薪を見て、「俺がやるから、おめぇはやらなくていいぜ」と言ったのは他ならぬ、左之助自身ではなかったか。
事の重大さを直ちに認識すると夥しい汗、滝の如く瞬時に噴き出した。
・・・微妙な、奇妙なる無の空間。やがて・・・
「あー・・・その、剣心?」
「何でござる?」
「・・・怒ってるか?」
「怒ってなど、おらぬよ?」
返答はすれど、顧みず。
ますます、左之助は「マズイ」と認識した。
明らかに、怒っている。声音には感情の欠片すら滲んでいないが・・・
どれほど悔いても、時間は元には戻らない。
この事態を打開するほうが先決だ。
「俺が・・・拭いてやろうか」
一歩、剣心へ踏み出した途端、
「結構でござるよ、左之」
振り返ることなく、無論、顧みることなく。
剣心は一言、突き立てた。
・・・冷涼な声音。
左之助の身体は、芯から硬直した。
側に居るのに、触れられない。
近くに居るのに、歩み寄れない。
声をかけたいのに・・・言葉すら、拒絶する空気。
今まで簡単に手にしていたものがついぞ、遠くへ押しやられた。
寝食忘れるほど夢中になってしまう玩具を取り上げられた、幼子のように・・・
愕然とした。
なのに。
眼が、彼から離れられない。
高鳴る胸が、抑えられない。
なにゆえか・・・
怖気にも似た冷たい感触が思いのほか、心地よくて・・・
・・・左之助は。
苦虫を潰した。
「ねぇ、左之助。今日は泊まっていくの?」
屋敷の主たる、神谷道場が師範代・神谷薫にそのような問いかけをされて、男は一瞬言葉を呑んだ。
ちらり、傍らの剣心へと視線を送るが、彼は無言のまま食事を進めている。
既に刻限は宵の口。破落戸長屋へ帰ってもよいが、このまま泊まってしまってもよい刻限。
だが・・・
脳裏によぎるのは。
結局、剣心と言葉を交わしたのは些細なことばかり。しかも、こちらの問いかけに対する返答だけ、賛否の有無ぐらい。
気まずいこと、この上ない。
出来ることならばこのまま、帰ってしまいたい・・・が、関係を改善しておかなければ、何やら尾を引くことになりそうでどうにもならず、左之助はこの刻限までずるずると、長居してしまった。
どうする、と、自らに問いを投げかけても始まらぬ。
前にも後ろにも進めぬのならば、相手にぶつかっていくより他、方法はない。
「左之助? どうしたの?」
「あ、いや・・・・何でもねぇよ。俺、このまま泊まっていくぜ」
「あら、そう。それなら客間にお布団、運んでおくわね。と、いうわけで・・・弥彦、後は頼んだわよ」
薫は、傍らで無我夢中に食を進めていた門下生の少年・明神弥彦に言葉を投げた。
弥彦は思わず喉を詰まらせかけたが何とか飲み下し、薫へ食ってかかった。
「ちょっと待てェ! 何でオレがそんなこと・・・ッ」
「私は後片づけがあるの! それぐらいはしてもらわないとっ」
「だからって何で・・・左之助にやらせればいいだろッ?」
「つべこべ言わないの! 左之助は何を言っても動かないもの」
「だぁ〜ッ? そいつは差別だろ、薫!」
「やかましい!」
二人のいつもの口喧嘩。しかしそれを見つめる左之助の心、いまいち晴れない。面白がって囃し立てるのが常なのだが、そのような気すら起きない。
ひとえに、胸を席巻し続けているものは・・・
「ごちそうさまでござる。・・・ほらほら薫殿、弥彦。もうそのへんに・・・」
苦笑混じりに制止する剣心を、左之助は無言で見つめた。
剣心の態度は至って、平穏。何ら変化は見られない。
が、それは薫と弥彦から見た視点だ。
左之助にとっては、違う。
何だってぇんだよ・・・
愚痴ってみせるが、それらはすべて胸の内。剣心に聞こえるはずもない。
彼は決して・・・否、ほとんど左之助を見ようとはしなかった。声をかけようとしなかった。
・・・ただ。
ごく、一寸。
どれほど見つめても反応を示さないのに、不意に視線を流してくることがあった。
その瞳が。
どうして・・・そんな、眼をするんだよ。
己が瞳に己が想いを託していたはずだというのに、彼の瞳たるは・・・
いつになく、いと・・・淋しげ。
「畜生・・・」
口中呟き、込み上げてくる雑然たるやりきれなさに左之助、小さく舌打った。
・・・どんなに、意識を集中したところでそれは、振り払われるはずもなく。
湯船に浸る、水底に沈む己が肉体を見つめながら左之助、しきりに頭を振る。
「なんだってぇんだ、畜生」
今日は何度、同じ言葉を吐いただろう。唸るような悪態は誰の耳にも届くはずはなく。ましてや、一番聞かせねばならぬ相手がこの場にいようはずもなく・・・
「俺は・・・こんなに・・・」
いくら、脳裏から面影を落とそうとしても一向、失せる気配など微塵もなかった。むしろ、時を刻む事に激しく、酷くなっていく。
「剣心・・・」
思わず呟いた言葉に胸裡、恐ろしいほどの焔が立ち上る。
瞼、閉じれば。
浮かぶ面影、冷涼なる微笑み・・・しっとり濡れた、透いた肌。
艶やかに揺れる瞳は藍の色、淡く熟れた花弁なる唇、桜の香り。
匂い立つほどの雫の煌めき、鼓動の奥を焼き焦がす。
宿るは、妖たる空間・・・
「剣心・・・っ」
呼吸、乱れ。
あえなく左之助、自らを掻き抱く。
離れない、どんなに努力をしてみても。
昼間のあの光景が、網膜に焼き付いて離れない、消えない、
忘れられないっ。
露と消えゆく汗が、
生温い風に靡く赤毛が、
白金のように輝く素肌が、
熱気の中に宿った氷の瞳が、
すべてを、凌駕する・・・ッ
「・・・剣心ッ」
たった一人のことを想うだけなのに、こんなに・・・
こんなに、自分を狂わせる。
あの時どれほど、駆け寄りたかったか。
あの時どれほど、頬へ唇を寄せたかったか。
あの時どれほど、肌の香りを吸い込みたかったか。
あの時どれほど・・・
どれほど・・・ッ!
「この腕で、あいつをッ」
・・・左之・・・
婉然と。
漆黒の深淵より、自分の名を口にする想い人がいる。
眉間に微かな溝を刻み、黒くも蒼い瞳を揺るがせて。
白い手、スラリと・・・
・・・左之ッ。
「あっ、はぁ・・・ッ」
瞳を開けば、水面下。
己の如実なる反応。
「・・・剣心・・・」
苦悩に満ちた声音は、水面へわずかに溶け込む。
ゆらり。
湯の中、左之助の右手は迷いなど見せずに泳ぎゆく。
・・・猛々しくも想いのすべてを物語る、象徴すべき欲の源。
「俺、は・・・ハァ」
喉仏がうごめき、唇が幾度となく唯一の名を呟く、口走る。
「剣心・・・剣心ッ。あ・・・はぁ・・・ほ、欲しい・・・ッ」
右手が。左之助の意のままに活動を始めた。
彼はうっとりと、まどろむように湯船へ沈みつつ・・・
「ン・・・あ、イイぜ・・・剣、心ッ」
絡みつく湯がまるで想い人、その人の温もりのようにすら思えてきた。
・・・が。
「剣心、俺・・・もう、我慢ならねぇ・・・っ」
苦々しく吐き捨てるなり、左之助は激しい憤りを覚えて立ち上がった。
こんなことをして、自身が満たされるわけがない。・・・一時の慰みでしかない。
あまりに、惨めだった。
「剣心・・・」
・・・身体中を。
一つの想いが荒れ狂っていた。
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