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「甘える心」

 「いたッ」
 指先に走った痛みに、剣心は思わず手を止めた。
 よくよく見てみれば、それはあかぎれ。いつのまにできたのだろう、右手の指先、そのほとんどが小さくも赤い亀裂を走らせている。もしかと左手も見遣れば・・・同様の有様。
 「おろろ・・・もうこんな季節になったでござるか〜」
 洗濯をしていた手を休め、己が両手を見定めて剣心、つい苦笑をこぼす。
 思えば、水も冷たく感じるようになった。
 無意識のうちに、息を吹きかけて温めているような気がする。
 枝の葉も落ちきり、庭を払うには楽になったものの、些か寂しげな感はしていた。
 「そうか・・・もう、冬が近づいているのでござるな・・・」
 早いものだと、洗濯を再開しながら剣心は思いを馳せる。
 ・・・この地にとどまって、早どれくらいの月日が流れたのだろう。短いのか、長いのか・・・その感覚すらおぼつかぬ。
 わからぬほどに、この地が・・・道場の居心地がよいのか・・・
 あれほど、人との関わりを極端に避け、時折時間の軸が交わった、その人のために刃をふるって流れ歩いていたあの頃が、遙か彼方のように思われる。夢のようであったとも・・・
 儚く記憶の奥へと埋もれていくことに、剣心は少しく、危うさを覚えた。
 この、生温い空気の中に浸っていてはいずれ、自分は腐ってしまう・・・
 甘い時の中に身を没していては、身も心も抜け出せなくなる、このまますべてを委ねようとしてしまう・・・
 良いのだろうか、このままで。
 盥の中、いつの間にか手が止まり。波紋一つ浮かべぬ水鏡に剣心の、薄い苦渋を滲ませた面差しが映り込んでいた。
 ・・・けれど・・・
 ハッと我に返り、三度洗濯を再開して剣心は思う。
 もう、これほどぬるま湯に浸かってしまっては、あの頃の自分には戻れない。流浪をしていたあの頃には・・・
 ・・・いや。戻りたいわけではない、ただ・・・
 あまりに平穏な時の流れに、戸惑っているだけだ。
 今まで・・・戦場しか知らなかったこの身、この心。
 荒ぶる魂を求めてやまない、この血潮・・・

− 闘いたい・・・ッ

 身体のどこかで眠っている「もう一つの自分」が、燻り続けているから・・・
 「・・・よそう、こんなことを考えるのは。今は・・・明治の世なのでござるから・・・」
 自分の力など、必要とされない時代が来ることが一番、理想的なのだ。
 たとえ・・・深淵の底で、自分を求めて欲しいという欲求が潜んでいたとしても。
 それは・・・表面化してはならぬもの・・・。
 「拙者達の世は終わった・・・。これから、弥彦のような者達が担う世になる・・・」
 「おい、何をぶつぶつ言ってんだよ、剣心っ」
 「おろ?」
 振り返ると、そこには縁側で仁王立ちになっている弥彦の姿。門下生でありながら、なかなか威風堂々たるもの。右手に竹刀を握ったまま、じっと剣心を見つめていた。
 「まだ洗濯、終わらないのかよ? 手伝ってやるよ」
 竹刀を縁側へ置き、中庭へ降り立つと弥彦、剣心と同じように盥の傍らへと腰を落とした。
 彼の行動に、剣心は微笑を浮かべる。
 「すまぬなぁ、弥彦。どうにも・・・こう、あかぎれが痛くて・・・」
 「お、本当だ。これじゃぁたまらないよなぁ、剣心。ちったァ、薫にもやらせたらどうだよ」
 「そうは言うが・・・これは、拙者の役目でござるからなぁ」
 「役目云々じゃねぇだろ。何もかも剣心に押しつけやがって・・・」
 「いや、しかし拙者は居候でござるからして・・・」
 「だからって、卑屈になることないだろッ。だいたい剣心は、薫を甘やかし過ぎなんだよッ。・・・いいよ、俺が今日は洗濯をするからさ、剣心は休んでろよ」
 有無を言わせず洗濯を買って出た弥彦に、もはや剣心、言うべきことはない。
 ここでまた、この少年に甘えてしまうのかと考えたが、彼の気性はよく知っている。剣心は素直に弥彦に頼むことにした。
 「では・・・頼むでござるよ、弥彦。拙者は玄関の掃き掃除をしてくるでござるから」
 「おう、任せとけ」
 少年の言葉が頼もしく聞こえる・・・
 剣心は微笑だけを残し、正門玄関へと姿を消した。






 午後からの買い出しは、些か風が強く冷気を孕んでいた。
 木枯らしが吹く中、剣心は懐手にして八百屋の前に立つ。
 「こんにちは、ご主人」
 「お、赤い剣客さん、いらっしゃい」
 常に顔を見せるので、既に顔なじみだ。二、三言葉を交わしているとまけてくれると言う。昨日もまけてもらった上に今日も・・・。申し訳ないと思いながらも剣心、主人の言葉に甘えることにした。
 「やれやれ・・・やはり拙者、甘えてばかりでござるなァ・・・」
 口中呟いたその表情、満面の笑顔であったことは言うに及ばず。
 画して、今晩の食材は豊富に仕入れることができた。が・・・
 ・・・問題は、食べきれるかどうか、である。
 あの大食漢が来れば、事なきを得るのだが・・・
 はてさて、彼の者は風来坊。いつ来るとも知れず、当てにもできない。
 さりとて、支度を整えてなくば臍を曲げるのだからややこしい。
 「ふむ・・・まぁ、今宵も左之の分もこしらえておくでござるかな」
 「俺が、何だって?」
 「左之」
 背後から声をかけられて、剣心は振り返る。
 人混みに紛れ、ひときわ目立つ長身がそこにあり。
 寒空にかかわらず半纏一枚を羽織ったきり、鍛え抜かれた胸板をさらして黒い瞳、剣心を見つめていた。
 「今、俺のこと言ってただろ」
 「あぁ、言っていたところだ。どこかで聞いていて、顔を出したのでござるかな?」
 クツクツと笑いながら剣心が歩み出すと、左之助も並んで歩み出す。
 「おぉよ。俺の耳は地獄耳だからな、何でも聞こえてくるんだぜェ」
 「ハハ、それは怖い怖い」
 左之助、ひょいっと上体を曲げて、剣心の腕の中を見る。
 「今日の戦利品は、なかなか盛況じゃねぇか。鍋でもするつもりかい」
 「あぁ、そのつもりでござるが・・・」
 「チッ、鍋かよ。しくじったなぁ」
 ボリボリと頭を掻きながら、心底悔しそうに歯がみをしてみせる。
 「今日に限って、修達と約束があンだよ。あ〜、鍋かァ! 食いたかったなぁ〜」
 ふうっとため息交じりに、本当に惜しいと思っているのか、堂々としている背中が急に丸くなった。両肩を落として歩く様は、偉丈夫たる凛々しさなど微塵もない。
 「ハハ、そう落ち込むこともなかろう。また今度、鍋は作るでござるから。修殿達と楽しんでくるでござるよ」
 「う〜ん、残念だが・・・仕方がねぇなァ・・・じゃあな、剣心っ。絶対に鍋、作ってくれよ!その時ぁ必ず、顔を出すからなッ」
 軽く手を挙げて、左之助は笑みを剣心に残して雑踏に消えた。
 剣心は左之助の広い背中を消えるまで見送り、自分も帰途を急ぐべく歩を踏み出していった。






 鍋の出来は上々、薫も弥彦もすこぶる喜んでくれた。これほど冷えてきた日には鍋に限ると、満面の笑みを浮かべて食べてくれた・・・
 二人の笑顔を思い出しながら、剣心は一人、厨に立っていた。
 後かたづけである。
 盥の水に器を浸し、ひたすら黙々と洗っている。
 時折、指先を走る痛みに眉尻を痙攣させながら。
 「・・・冷たい、な・・・」
 ふと、独りごちて。剣心は両手にハアッと息を吹きかける。
 けれども・・・温かくはならぬ、一向に。
 真っ赤に染まって、見た目は温かそうなのに少しも、温もりを宿そうとはしない・・・
 「・・・何をこんな、無意味なことをしているのでござろう。早く片づけてしまわねば・・・」
 カタカチャ・・・微かな音をさせながら、剣心は黙々と洗う。
 洗いながら・・・
 「・・・左之・・・」
 思いがけず、名が唇からこぼれた。
 頭の中、今確かに左之助が脳裏をよぎっていったような気がする。
 だからといって、どうして唇からこぼれたのか・・・。
 どうして・・・
 「・・・どうして・・・だと・・・?」
 器を洗いつつ、剣心は自問自答する。
 「それは・・・今宵、左之が来なかったから・・・」
 でも、本当にそれだけなのか。左之助が来なかったから、ふと考えてしまうのか・・・?
 ・・・盥の水が。
 まとわりつく、指先に。
 痛む・・・あかぎれ。
 冷たい・・・水。

 あぁ・・・そうだ・・・

 「・・・左之ならば・・・温めてくれる・・・」

 己が言葉に、心の臓が悲鳴を上げた。
 思わず、奥歯を噛む。

 「拙者・・・今、何を・・・」

− 剣心・・・

 「!」

 耳朶を汚したのは、左之助の声。されど・・・それは、普段の声ではなくて・・・

− どうしたよ、剣心・・・おめぇ、もうこんなになっちまってんのか・・・?

 「左・・・っ」

 まずい、と思った。
 ガンガンと鍋を叩くように、左之助の声が脳裏に響き、全身を揺るがせる。

− もっと・・・声、出しな・・・

 「・・・ッ」

 止まらない。
 頭の中で、左之助が蠢き始める。
 現実でも彼は自分を翻弄するが、頭の中でも彼には・・・左之助には敵わないというのか。

− ほら・・・俺にしがみつけよ・・・

 「あ、ぁっ・・・左・・・ッ」

 剣心、渾身の力を振り絞って頭を振り払う。

 ダメだ、このままでは・・・ッ

 「拙者・・・ッ」

 それは、一瞬の出来事。
 洗いかけの器もそのままに前掛けを外し。
 剣心、慌ただしく居間へ向かうと薫と弥彦に、これから左之助の長屋へ行って来ると告げて逆刃刀を帯び、寒空の闇へと身を投げた。






 破落戸長屋は、ひっそりと静まり返っていた。
 もともと住人もさほど、多い長屋ではない。
 まして、長く居着く者などそうそういない。
 そう、相楽左之助が例外であったのだ。
 剣心は無意識のうちに足音を忍ばせながら、長屋の奥へ位置する左之助の住まいへと向かった。
 案の定、行灯の明かりもなく人の気配はない。
 まだ、帰ってきていないのだろう。修達との約束と言っていたから、おそらく賭場か、居酒屋のどちらかなのだろう。
 ・・・どうする?
 はあっと両手に息を吹きかけ、急いで懐手にして剣心は己が心に問う。
 このまま待ってみるか。しかし・・・
 今更ながらに、剣心は勢いに乗じて飛び出してきてしまったことを後悔していた。
 悔いたところで始まらないのだが、どうにも、年甲斐もなく衝動に駆られてここまで来てしまったことが恥ずかしく、情けなく感じてきたのだ。
 訪うた相手がいなかったことで、余計に実感してしまった。
 衝動が冷めてくると、羞恥ばかりがこみ上げてくる。
 どうにも、いたたまれなくなった。
 指先も冷たく堪らぬが、足もまた、足袋を穿いているとはいえ寒さに凍えてしまっている。
 外気がさらに剣心に追い打ちをかける形となって、これはもう、一刻も早く立ち去ってしまおうと考えついてしまった。
 「・・・左之助とは、明日にも会える。何も今でなくとも良いではないか・・・」
 自分にそう言い聞かせ、剣心は踵を返した。
 「・・・誰だ? 剣心・・・か?」
 ビクッ。剣心の両肩が大きく震えた。
 「さ・・・左之・・・」
 長屋の入り口で、一つの影。
 月明かりに浮かび上がり、蒼く染まって。
 肩には酒を担いでいる。
 「何だ、どうしたよ、こんな夜更けに」
 酔っているのだろうが、足取りはしっかりしたものだ。自分の住まいの前で硬直してしまっている剣心に、左之助は歩み寄っていった。
 「いや、その・・・別段、用があったというわけではないのでござるよ」
 何を言えばいいのか、わからない。左之助と視線が合わせづらいのが心苦しい。
 「ふ〜ん? そうだよなぁ。用があったんなら、昼間合ったあの時に言えばいいこと・・・あ、でもその時忘れてたってェこともあるか」
 指先で頬を掻いて、忽然と姿を見せた剣心を、左之助は相変わらず不思議そうな面差しで見遣っている。
 左之助の視線の意味に気づいて、剣心はますますいたたまれなくなってしまった。
 この場から、逃げ出したい。
 「良いのでござるよ、左之。気にしないでくれ。また・・・明日にでも・・・」
 小さく顔を伏せ、左之助の傍らを摺り抜けようとする。
 が、
 「剣心」
 左之助の腕がにゅうと伸び、剣心の左腕を掴んだ。
 「な・・・何でござる」
 面差し強張り、胸が画然、早鐘を打ち鳴らし始める。
 「用件、当ててやろうか」
 「・・・っ」
 「おめぇ・・・」
 剣心の額、寒さにもかかわらず汗が滲んだ。
 面差し、上げられぬ。

 「夜這いに来たんだろ」
 「!」

 思いがけず、左腕に力がこもった。
 しかし、左之助の腕は振りほどけない。がっしりと掴まれたまま、どうにもならぬ。

 「へぇ・・・?」

 グイッ。
 左之助の力が、剣心の身体を引き寄せる。
 身体は容易く戻され、左之助の眼前に立たされた。

 「何だ・・・図星なのかィ?」
 「・・・ッ」

 唇を噛み、ますます顔を伏せてしまう剣心を。
 左之助は、穏やかな眼差しで迎え入れていた。

 「嬉しいねェ・・・」

 左之助の腕がふらり、舞って。
 指先がゆるゆる・・・剣心の項・・・稜線、なぞった。

 「うっ・・・」

 微かに漏れ出た声を、左之助は聞き逃さない。

 「何だ・・・冷えきってンじゃねぇか。いつからここにいたンでェ」

 項から耳朶へ・・・頤へと触れられて、剣心はもう、言葉も出ない。

 ただうっとりと微睡んだように瞳を閉じている。

 「はぁ・・・左、之・・・」
 「・・・イイ顔だ・・・」

 喉の奥で笑ったのが剣心、気配でわかった。

 「とにかく、中へ入れよ。ここじゃ寒いばっかりだからなぁ」

 いいざま、ふいっと上体を折り曲げた左之助、

 「中で、俺が温めてやらァな」

 囁かれて、剣心の顔面は朱に染まり。
 彼の反応に小気味よさを覚えて、左之助は剣心を中へと押し込むとしっかり、心張り棒を噛ませた。

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