[ 表紙  1     ]



 「待ちやがれィ!」
 ダッと辻の角から躍り出てきたのは「惡」一文字を背負った男・左之助。半纏が風を孕み、留まることなく裾を閃かせている。額のはちまきは汗で変色し、漆黒の双眸が飢えた野獣のようにぎらぎらしている。
 ただならぬその形相に、道行く人々は誰もが目を伏せて足早に去っていく。そんな人々の群を押し分け駆け抜け、摺り抜けて左之助は、ただただ走る。
 彼と同じように、人々の群を押し分けていく一つの背中があった。時折左之助のほうを振り返っては顔面を蒼白にさせ、ひたすら前に前にと走っていく。
 「この野郎、平助! 待たねェか!」
 この状況で、待てと言われて待つ馬鹿はいない。が、左之助はそう叫ばずにはいられなかった。
 思うように走れぬこの人の群、視界の中に入っていながら捕まえられぬこの現実に、左之助は苛立ちを隠しきれない。
 「待てや、こらァ!」
 ・・・が。
 息を切って走り、四方へ目を配るのに。
 たった今見えていたはずの背中がもう、ない。
 あの角を曲がったのか、あるいはこの人込みに紛れたのか。
 いずれにせよ、見失ったことには間違いはない。
 「えぇい、畜生が!」
 思わず怒号を吐いた。その言葉尻の凄まじさに、行き交う人々が一瞬動きを止めて視線を流し、相手を認めて即座に立ち去っていく。
 周りの状況など目に入らなかった、思うは逃してしまった獲物への強い憎悪。
 「あの野郎、必ず見つけ出してやる。ただじゃおかねェ・・・」
 再度舌を打ち、己が見失ってしまったその方向を、左之助はしばし睨みすえてから。少しく呼吸を整えると、人々の中へと身を沈めた。
 肩を怒らせどんどんと歩を進めていくが胸の中、悶々としたものは一向に晴れない。晴れぬどころかいっそう、暗雲を垂れ込もうとしている。
 「あぁ、もう! 苛々すンぜ!」
 思わず口走るが、解消されるはずもない。左之助の面差しは、ますます険悪なものとなっていった。
 梅雨だというのに、ここしばらく晴天が続いている。雨よりも晴天のほうが好きな彼ではあったが、今は素直に喜ぶことができない。いっそ、この晴天のように心も晴れ渡っていたなら・・・
 つと、冷静に立ち返る。
 「・・・苛立ってもしょうがねェやな。逃げられたモンは、逃げられた。仕方がねぇ」
 そう、自分に言い聞かせるのだが・・・
 「・・・畜生。見つけ出して必ず、友達の借りは返ェすからな。覚えてやがれ・・・」
 ぶつぶつとこぼしながら、左之助はまっすぐに、本郷の神谷道場へと足を向けた。
 「汗を掻いちまった、ちょいと井戸でも借りて、水でも浴びっかな」
 うだうだ考えても仕方がないと、わざと明るい声で言い放ち。いつの間にか着いてしまっていた神谷道場の裏手側へ回り、勝手口を開いて身を滑らせた。
 昼もやや過ぎた頃、あとは洗濯物を取り込むまで時間があるに違いない。きっと茶菓子でもつまんでのんびりしているのでは・・・と思っていたのだが。
 どうやら、状況は想像していたものとはいささか違っているらしい。
 この刻限には聞こえてくるはずのない、道場から、稽古らしき喧噪が耳朶を打ったのだ。
 「なんだ? 昼からは稽古は無ェはずだが・・・」
 弥彦かな?と左之助、ひょっこり道場を覗き見た。
 「でえぇい!」
 声も勇ましく、小さな体躯を思うがままに馳せているのはやはり、門下生の弥彦だった。両手でギリリ、音でもするのではと思えるほどに力強く握りしめ。眼光鋭く、びったりと前方を見据え、
 「はぁ!」
竹刀を振り上げていく。
 力の入れようが違う、空を裂く音、竹刀と竹刀がぶつかる音、どれもこれもが弾けている。
 左之助は思わず、道場の入り口からじっと、声を掛けることもなく見つめてしまった。
空気に呑まれてのことではない、素直に驚いてしまったためだ。
 弥彦の竹刀を受け止めているのは、師範代たる女剣士の薫ではなく。神谷道場の居候をしているあの、剣心だったのだ。
 竹刀こそ、両手で握ることはなかったが確実に、弥彦の斬撃を受け止めては流している。攻撃に転じることはなかったが、明らかに彼の動きを見切っている剣心のそれは、不動のものだ。
 額には汗すら滲んでいない。
 この時節、どんなに身体を動かさずともじっとりと汗ばんでくるものだが、剣心に限ってはその例には漏れてしまうようで。弥彦と相対する面差しには揺らぎなく、かつ暑さすら覚えぬかのように涼しげな肌。
 どんな身体の造りになっているのだと、静観を決め込んだ左之助はふと、そんなことを思った。
 がむしゃらに攻撃を続けている弥彦といえば、全身が汗だくであった。玉のように噴き出す汗を拭うことすらなく、鼻先や頤からポトポトと滴らせている。
 「どりゃぁ!」
 鋭く突き込んできた竹刀の先を、だが剣心は鮮やかに弾き返した。
 「!」
 息を飲んだときには竹刀は空中、
 ダン!
 と尻餅をついてハッと目を見開けば、喉仏には剣心の竹刀が抉るようにして突き込まれていた。
 ツツ・・・と、弥彦のこめかみから汗が伝い落ちた。身体が強張り、動けない。
 「・・・よし。ここまでにしておくでござるかな、弥彦」
 トントンと竹刀で己が肩を叩いて、剣心はふわりと微笑んだ。
 「まだだ、剣心!」
 息づかいも荒く、両肩で呼吸をしながら弥彦は一言投げた。だが剣心は取り合わない、ゆるりと首を横に降った。
 「駄目でござるよ。これ以上、拙者はつきあえぬ。そろそろ洗濯物も取り込まねばなるまいしなぁ」
 「そんなもの・・・!」
 「これは拙者の仕事でござるよ。融通は利かぬよ、弥彦」
 「ム・・・」
 弥彦が言葉を詰まらせたところで、
 「なんだ、それじゃぁ俺の相手もしてくれねェのか?」
 横合いからの声に即、弥彦が敵意をこめた眼差しを飛ばした。
 「左之助! てめェは引っ込んでろ!」
 「あんだァ? やけに荒れてんじゃねェか」
 「うるせェ! やっと剣心が稽古の相手をしてくれるって言ったんだ、この機会を逃して、邪魔をされてたまるかってンだ!」
 齢十にしてこの気迫、左之助は思わず苦笑いを浮かべた。その態度がまた気に入らなかったのだろう、弥彦が食ってかかろうとしたその時、
 「弥彦、これ以上は駄目だと言ったでござろ? 拙者との稽古を望むならば、また付き合ってやるから。今日は勘弁してくれ」
 「本当か!」
 くるりと振り返るなり弥彦は、まっすぐに剣心へと眼差しをぶつけた。
 「本当に、付き合ってくれるんだな?」
 「あぁ、二言はござらぬよ。飛天御剣流は教えられぬが、稽古の相手くらいにはなれる」
 「・・・その言葉、覚えておくからな」
 弥彦は噛みしめるように言うと、弾かれてしまった竹刀を片づけ、どこからか桶と雑巾を持ってきた。
 「ほら、どけよ! 今から掃除をすっから! 左之助! あんまり剣心の邪魔をするんじゃねぇぞ! 剣心だって忙しいんだからよ」
 さっきまで自分が稽古に付き合えと言っていたのに・・・と、左之助は思ったがそれを口には出さない。苦笑いのまま、ヘイヘイと軽く頷くと、剣心を伴って道場から出ていった。
 「どういう風の吹き回しでェ、弥彦に稽古をつけるたァ」
 渡り廊下を歩みながら、左之助は何気なく問いかけた。
 「なに、相手になるくらいならば良いかな・・・と、そう思ったまでのこと。それだけのことでござるよ」
 屈託のない笑顔を浮かべた剣心を、左之助もまた笑顔を浮かべて言う。
 「弥彦にとっちゃ、嬉しくて堪らねェんだぜ。なにしろ、日本一の男に稽古をつけてもらうんだからな」
 「左之、日本一は余計でござるよ」
 「馬鹿、本当のことだろ。本当のことを言って何が悪い」
 苦笑を滲ませて心底困ったような表情をしている剣心を、左之助は愉快そうに笑った。
 「おめェが柄にもねェことをしやがるから、今夜が心配になってきたぜ。雨なんざ降らなければいいがなぁ」
 「馬鹿を言うな、そんなことが・・・」
 「今は梅雨だぜ、何があるかわからねェ」
 「う・・・」
 言葉を失ったらしい剣心を、左之助はしてやったりと笑ってポンポン、小さな背中を叩いた。
 「なぁに、心配すンな! 花火の時だけ晴れてくれりゃぁそれでいいンだからよ。終わったらすぐに降ったって構わねェさ」
 「それも困るぞ、左之。雨に濡れてしまっては、帰るにも帰れなく・・・」
 「そン時は俺とおめェで、どっかその辺の旅籠にしけこみゃイイんだよ」
 「!」
 剣心の頬が朱に染め上がった。画然、彼は縁側から中庭へと降りてしまう。
 「馬鹿なことを言っていないで、洗濯物を取り込むのを手伝え、左之」
 「顔が赤いぜェ、剣心」
 「からかうな、馬鹿者」
 クツクツと忍び笑う左之助を、だが剣心は意に返さない。何事もなかったように縁側と物干場を往復していく。
 「手伝いてェのも山々だが、今の俺が手伝っちゃぁ、嬢ちゃんに叱られらァ。全身汗だくでどうしようもねェんだ。ちょいと井戸、借りるぜ」
 半纏を脱ぎ捨て、はちまきを解き、縁側へと放り投げると。左之助は井戸へと走っていき水を汲み、ザァと勢いよく頭から被ってしまった。地下で冷やされた水が、左之助を心地よさに誘う。
 「ぷはぁ! 気持ちがいいぜェ!」
 洗濯物を取り込み終えた剣心が、手拭いを持って歩み寄ってきた。
 「お、ありがとよ」
 受け取り、ガシガシと髪の毛を拭き始める。
 「左之助、あの半纏・・・やけに汗臭いのでござるが。ここまで走ってきたのでござるか? 少しばかり湿っぽいようにも思うのでござるが・・・」
 「あぁ、ここへ来る前ェに、ちょいといろいろとな。おかげで汗だくよォ! これでさっぱりしたぜ!」

 やはり、何かあったのか。

 姿を見せたときから、剣心は胸に引っかかりを覚えていた。
 にわかにではあったが、普段の左之助のようでありながら、どことなくピリピリとしているのだ。何かが彼を苛立たせている・・・なんだ・・・?
 そんな胸中とは裏腹、剣心の唇は全く別の事柄を紡ぐ。
 「また、あの半纏を着るのでござるか?」
 「あ? そのつもりだが・・・何か問題でもあンのか?」
 やれやれ、と剣心は苦笑交じりにため息を付いた。
 「一度洗った方がいいな、あれは。・・・仕方がない、拙者が薫殿に掛け合ってみよう。拙者も一張羅だが、あそこまで酷くはないぞ。汗まみれのうえに泥まみれだ」
 「そうだっけ?」
 何も気がついていないのか、この男は・・・と内心呆れていながら何も言わずに。剣心は苦笑に伏したまま母屋のほうへと姿を消した。
 「ま、半纏も綺麗になってさっぱりするならそれでいいや! あ、ちょうどいい、どうせ剣心が洗ってくれンなら、こいつも脱いじまおう」
 左之助、下袴をスパッと脱いで。またしても縁側へと放り出してしまうと再び、井戸水を汲み上げてザバザバと頭からかぶり始めた。蒸し暑さの漂う中での水浴びは、まさしく格別なものだった・・・のだが。
 「きゃあぁ!」
 という女性の甲高い悲鳴が。いわずと知れた薫である。
 無理もない。今の左之助の姿たるは下帯一丁、筋骨逞しい身体をお日様の下にさらしている。婦女子が正視できる状態ではない。
 このあと、薫の雷が容赦なく左之助の頭上に落ちたことは言うに及ばず。
 それはちょうど通りかかった、金魚売りの声が掻き消されるほどであった。


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