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 そう・・・
 いつでも、何度となく、剣心を抱いた。
 腕の中で喘がせ、鳴かせ、陥落させた。
 されども・・・
 「会えねェ・・・」
 奥歯を噛みしめる、押しつぶすように。
 そんな、彼の呟きを剣心が耳敏く聞いていた。
 「何に会えないのでござるか、左之?」
 あっ、と。今自分が、彼の買い出しに付き合っていることを画然、思い出す。
 苦笑を満面に広げて、視線を流してくる剣心へと返答する。
 「いや、何でもねぇよ」
 言葉を濁し、本質を隠したことを剣心は感じ取った。しかし・・・
 「そうか」
 一言のみで終わらせてしまう。
 言いたくないのであれば、それでよい・・・剣心は、むやみやたらと相手の確信に迫る質ではなかった。
 実はそれが些か都合良くもあり、寂しくも・・・ある。
 自分のことなどそれほど知りたくはないのか、剣心ならば何でも話しておこう・・・話せると思うのに。
 肝心な相手は興味の一つ、示しもせぬ。
 「ま・・・いいんだけどよ」
 ぼそりと独りごちて、頭を掻きむしった。
 心地よい晴れた昼下がり。左之助は剣心の背中を追うようにして歩を進めていた。
 目的は、買い出しの手伝い。
 無論、いわずと知れた荷物持ちである。
 剣心とて男、買い物の荷物くらいは充分持てる。・・・外見からは想像もつかないが、これでも案外、力はあるほうなのだ。
 もちろん、左之助から言わせれば非力に近いものがあるが、口に出したことはない。
 いや、口に出す前にまず、手が出てしまう。
 だから買い出しには、必然的に付き従う。
 彼の細腕ではどうも、頼りないと判断してしまうがゆえに。
 剣心が、そんな左之助の心理が読めぬはずがない。ところが彼もまた、口に出したことはない。手伝ってもらえるのならばそれで幸いと、黙っているに過ぎないのだ。
 左之助の眼に、自分の膂力が非力だとわかっていても、だ。
 そんな剣心に・・・
 左之助、自分が完膚無きまでに叩き伏せられたことがいまもって、悔しく思うのだ。
 潔く負けを認めてはいるが、やはり悔しいものは、悔しい。
 ・・・外見で判断しちゃ、痛ェ目を見るよな・・・
 自慢ではないが。
 自分が一番、剣心の側にいて、彼の強さを実感し、認識していると思っている。
 居候先である神谷道場が主、神谷薫よりも、だ。
 ともに肩を並べ、拳をふるってきた。
 両眼で彼の強さを焼き付けてきた。
 それらのすべてが剣心の、小柄な身体に潜んでいる神懸かり的な強さを思い起こさせる。
 この男に、触れてはならないのだ。
 剣を、抜かせてはならないのだ。
 抜く手を見せぬ限り・・・
 「お、左之助。何とも立派な胡瓜でござるぞ」
 にこやかな微笑を浮かべ、好々爺よろしく穏和な男であり続けるのだから。
 ・・・眠れる獅子を、呼び覚ましてはならない。
 覚ませば途端に、恐ろしくも・・・

 ・・・だが。

 節に、願ってしまう。
 獅子が、目を覚ますことを。
 そうすれば・・・

 「・・・之、左之?」
 「お、おぅ」
 「妙だな。お主が呆けるとは」
 「すまねぇ、ちいっと考え事をな」
 照れ臭そうに頭を掻いてみせると、剣心は苦笑に伏した。

 何を、馬鹿なことを考えてやがんだ・・・
 剣心が争い事を好むような奴じゃねぇって、知ってるじゃねぇか・・・

 胸の内。
 強く、自分自身を戒めたそのざまが、左之助にとっては少しく情けなかった。
 ところが、どこに機会が転がっているかわからぬもの。
 左之助の切望していた事態が、この半刻ほど後に起こってしまったのである。
 それは買い出しも済んだ、帰途をのらりくらりと歩んでいたときのこと。
 欲しいものが存外手早く揃ってしまい、かつ、別段急ぐ用件などもなかったゆえ、剣心と左之助はのんびり、他愛のない言葉を交わしていた。
 と、剣心の眼光がチリッと輝いた刹那、
 「左之ッ」
 「!」
 彼の抱えていた笊が・・・野菜を盛った笊が、左之助目がけて放り投げられた。
 左之助、反射的に笊を受け取りつつも素早く、身体を捻って反転、退いて。
 剣心の右手が空気に霞み、

 ギイイィィ・・・ッ!

 一筋、甲高い斬撃音。
 左之助の双眸は、鋭さを宿して情景を睨んでいた。
 剣心の右手には冷涼な空気を纏う、逆刃刀。夏至の空気を切り裂いて青空の中へ突き込もうとしている。
 空へ突き込めぬのは、阻む存在があるがゆえ。
 逆刃刀に食いつくようにひとふりの見事な太刀が、ギリギリと声を上げて動きを封じていた。
 剣心、両手で柄を握りしめ、一分の力も緩めず相手に問いただす。
 「お主、何者でござるかっ」
 薄茶けた単衣に袴姿。無精髭にぼさぼさの短髪。一昔前であれば「浪人」、今でいえば「氏族崩れ」といったところか。陽に焼けた肌の奥から、ギョロリと眼球が剣心を睨んでいる。
 「・・・貴様だな、神谷道場の赤毛の男というのは」
 喉に潰されたようなだみ声が、剣心の耳朶を汚す。
 この男、何が目的なのか。
 よくわからなかったが、剣心は素直に返答する。
 「いかにも」
 「ならば、死んでもらうッ」
 グッと刃を押し返して男、後方へ一端退いたかと思えばすぐさま、剣心へと斬り込んでいった。
 「はぁッ」
 果敢にも攻め入ってくる男の斬撃を、だが、剣心は冷静な面差しで相対する。
 攻撃を仕掛けていくのは男ばかり、剣心はただただ受け流していくだけで一向、反撃に転じようとはしない。
 男に視線を合わせながらも、隙を見計らってちらちらと四方を見遣る。
 「よそ見をするなァ!」

 ガンッ

 渾身の一撃を、逆刃刀は受け止めた。
 ・・・左之助は、剣心の戦いぶりを逐一洩らさず見ていたのだが、どうにも彼らしい戦いぶりではない。
 無論、「不殺」の理念を貫くことは重々承知の上ではあるのだが、それにしたって、歯切れが悪い。
 剣心ならば一撃必殺、こんな男などすぐに倒せてしまうだろう。
 だが、それを剣心は躊躇っているように見える。

 なんだ・・・何か、気になることでも・・・

 ・・・ふと。
 左之助の視線が初めて、剣心から逸れた。
 「・・・あ」
 ようやく、左之助は気づいたのだ。
 道端で腰を抜かしている、幼子がいることを。
 刹那、剣心の本心を左之助、理解した。
 「チッ、俺としたことが・・・迂闊だったぜ」
 どうしてもっと早く気づかなかったのか。自分らしくない失態に、左之助は舌打ちしつつすぐに、幼子の所へ駆け寄っていた。
 「おい、大丈夫か?」
 幼子の返答など聞かず、ひょいっと腕の中へ抱き込んでしまう。その視界を閉ざすように。
 そうとも・・・剣心ならば、幼子の目の前で刃をふるったりはしない、見せつけたりはしないッ。
 「剣心! もう心配いらねぇぜ」
 その声が、しっかり剣心の耳に届いたのだろう。
 左之助の方など顧みることもなく、あるいは返答すらしなかったのだが、いや・・・これが、剣心なりの返答であったのかも知れない。
 「ぐはッ!」
 たちまち男は。
 腹部に強烈な一撃を浴びせられ一瞬にして、意識を落とした。
 恐らく、彼には剣心の一撃が見えなかっただろう。
 それが左之助にとっては小気味よくもあり、嬉しくもある。
 「すまなかったなぁ、剣心。こいつに気がつかなくってよ」
 腕の中の幼子を、左之助はそっと地面に降り立たせると。幼子は粟を食ったように走り去ってしまった。
 その姿を、剣心はさもおかしそうに笑って見送りつつ、
 「いや、助かったでござるよ。ありがとう、左之助」
 屈託のない笑顔を浮かべ、剣心は懐から懐紙を取り出した。
 未だに右手に握られたままの逆刃刀、懐紙に包んでスッと拭き上げると鞘へ収めた。
 「それにしても、どうにも最近、不穏な輩が多くて困る。剣客警官隊をあのような目に合わせてしまってからというもの、名を挙げようとする者が多くて・・・」
 実際、その事件が起きたのはもう数ヶ月も前なのだが、噂が噂を呼び、いつしか剣心は裏の世界では有名人となり果てていた。
 左之助からそう聞かされた時には苦笑で済ませていたのだが・・・
 「俺には、『強すぎて困る』としか聞こえねぇぜ」
 左之助は腕に笊を抱えなおしながら、ニヤリと笑う。
 「茶化すな、左之。拙者は本当に・・・」
 心底困ったというように剣心、フッと息を吐いた。
 「じゃ、俺が一緒の時には代わりに相手をしてやらァな。それでどうだい?」
 「お主の方こそ、『暴れたくてうずうずしている』としか聞こえぬが」
 クツクツと笑いながら、剣心は再び歩み出す。
 左之助もまた、小さく鼻で笑うとあとに続く。
 「チッ、何だよそれは。おめぇが嫌だって言うから、俺は・・・」
 「拙者は一言も嫌だ、とは言っておらぬぞ」
 「ム・・・」
 たちまち言葉に詰まってしまった左之助を、剣心は小気味よさげに忍び笑う。
 左之助は不愉快に身を染めて仏頂面を決め込んだが、楽しげな剣心を見るのは心地よかった。・・・惚れた腫れたもここまでくれば、もう重傷かもしれぬ。
 「しかし、せっかくこの間手入れをしたばかりだというのに、また手入れをしてやらねばならぬなぁ」
 「・・・え?」
 ドキリ、と。無意識のうちに胸を高鳴らせて左之助は、剣心を見遣っていた。
 多分に含まれた視線の意味合いを知ってか、知らずか。彼は苦笑交じりに話す。
 「逆刃刀でござるよ。ほら、左之が来たこともわからなかった日があったでござろ。あの時はちょうど手入れをしていた時でござったが・・・あの日から、まださほど経ってはおらぬ」
 「あ、あぁ・・・そうだな」
 「まぁ、手入れをしすぎるということはないでござるから構わぬが・・・薫殿と弥彦がおらぬ頃合いを見計らわねばなぁ」
 「どうしてでェ?」
 「ン・・・」
 ふと。
 剣心は歩みを止めた。
 左手で鞘を握り、その全身へと視線を落とし。
 「拙者・・・あまり、手入れをしている姿を見られたくはないのでござるよ」
 「?」
 不思議そうに眼差しを歪めた左之助を、剣心はやはり、苦笑のみで受け止める。
 「逆刃刀と語らうときの拙者は、恐らく・・・本来の拙者が顔を覗かせているはずでござる。そんな生身の拙者をさらす勇気は、今は・・・」
 「剣心・・・」
 彼は、逆刃刀と語らうのだと言った。
 彼は、本来の自分が顔を覗かせているのだと言った。
 それは・・・
 逆刃刀と向き合う時。
 「緋村剣心」の本性が表面化する、ということなのか・・・
 逆刃刀を抜いた時の剣心も。
 逆刃刀を愛しそうに握りしめている剣心も。
 それぞれに面差しはまるで違う。
 でも、それは「緋村剣心」で・・・
 ・・・いや、その奥に潜んでいるもの・・・「緋村剣心」を形成している芯たるものが、逆刃刀と語らっているとき、即ち手入れをしているときに現れるというのか・・・
 ・・・そういえば。
 左之助とて、彼が逆刃刀の手入れをしているところを見たことがなかった。
 京都へ行っていたときでさえ、見たことがない。
 そう・・・この間。既に手入れは終わっていたとはいえ、あの時に見たものが初めてであったのだ。

 そうすると・・・「あの顔」を知る奴ァ・・・いねぇのか・・・

 ゾク・・・っ

 背筋に悪寒が貫く。

 「剣心・・・」
 「ん?」
 「今度、いつ・・・手入れをするんだ」
 「え?」
 「だから今度はいつ、手入れをするんだよッ?」
 「左・・・」
 「見てェ・・・」

 笊が、地面に落ちた。
 バララ・・・野菜が転がり。
 左之助は剣心の両肩を、掴んでいた。

 「俺、おめぇが手入れをしているところ、見てみてェ」
 「そっ、それは・・・」
 「・・・俺にも、見せられねェのか・・・?」
 「・・・・・・」
 「生身のおめぇ・・・俺に見せる勇気、ねぇのか・・・」

 真剣な眼差しで。
 左之助は静かに問いかける。
 剣心は・・・じっとその場にたたずんだまま。唇を堅く結んだまま。
 何を・・・躊躇っているのか、迷っているのか。
 いや・・・それは当たり前だ。
 どんなに仲が良くても、自分の隅から隅までをさらけ出すというのは想像を遙かに越えた、勇気がいる。
 迷うということは、少なからず見せても良いという思いがある証拠・・・
 左之助は。
 剣心の耳朶に唇を寄せた。
 「おめぇのすべてを、見せてくれよ・・・」
 規則正しかった呼吸が、わずかに乱れたのを左之助の頬、感じ取り。
 瞬間、
 「わ・・・かった・・・」
 掠れたように、呟くように。
 剣心の承諾する言葉が、左之助の胸に仄かに灯った。

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