戸惑いの午後
BY.ぢぇっと
つつ・・・つぅ・・・
項を滑る指先。
ふぅ・・・
耳朶を潜る吐息に、
− 剣心・・・
身体の芯を叩くような、低い声音・・・
「あ・・・」
容易く反応を返してしまう己が肉体が、この時ばかりは恨めしく思えども・・・
− もっと・・・声、出せよ・・・
熱に浮かされた、吐息交じりの台詞。
掠れて艶やかに・・・
「あぁ・・・」
言われるがままに声を、上げてしまう。
その様を見て・・・汗にまみれた面差しが、笑った。
カッと、身体が火照った。羞恥に駆られて顔を背ける。
− こら・・・こっち向けよ。そろそろ・・・な・・・?
「ん・・・」
と声を堪えた瞬間、
「う・・・」
腰に痛みが走った。あまやかでありつつも刺すような痛みに、剣心はハッと我に返る。返るや否や、ガチリと音がするように一つの眼差しとぶつかった。
弥彦だ。
まっすぐ瞬きもせず、黒い瞳がそこにあった。
「・・・剣心」
「な・・・何でござるか、弥彦」
「お前、大丈夫か?」
左手に茶碗、右手に箸を握りしめ、弥彦は訝るように剣心を見つめている。
「大丈夫でござるよ、弥彦」
何食わぬ顔をして返答をしてみたが、
「今、朝飯の途中だっての知ってるよな」
「もちろんでござる」
「そのわりに・・・さっきから箸が止まりっぱなしなんだけど」
鋭い突っ込みとともについっと己が箸、剣心を指し示すや否や、
「こら、弥彦! お行儀が悪いわよ!」
すかさず薫の声が飛んだ。
「へっ、お前に言われたかねェや」
ペロリと舌を出して見せたものだから、俄然、薫は奮起する。
「弥彦、あんたねぇ!」
「まあまあ、薫殿、落ち着いて。・・・心配はいらぬよ、弥彦。ありがとう」
少年の心中を察して、剣心は先手を打ってそう言った。加えて笑顔でも浮かべてみれば、
「・・・そうかよ。それならいいけど・・・みそ汁、冷めるぜ」
ややぼやくように言い、弥彦はみそ汁をすすった。
これで余計な詮索をされずにすむ・・・と、胸を撫で下ろしたその矢先、
「でも剣心、大丈夫? 何だか昨日からおかしいわよ。何か・・・考え事・・・?」
薫の心配そうな声。
「いや、そういうわけでもないのでござるが・・・」
少しく苦笑を滲ませて、剣心はゆるく首を振った。
「・・・すまぬな、薫殿、弥彦。妙な心配をかけて。拙者は大丈夫でござるよ。些か・・・物思いに耽ってしまうだけのこと。すぐに消えてしまうことでござるから、心配には及ばぬよ」
「・・・本当?」
不安そうな表情の薫に、剣心は頷いてみせる。
「本当でござるよ、薫殿」
「お前、左之助と喧嘩でもしたのか? だからそんなに考え事・・・」
「左之は関係ないでござるよ」
語尾をさらうようにはっきり、剣心は断言した。
わずかながら覇気を感じた弥彦、思わず口をつぐんでしまう。
「だから・・・心配はないでござるよ。かたじけない」
ニッコリ微笑んで、剣心はみそ汁を口にした。
・・・おそらくは。
これ以上何を言っても、彼は話そうとしないだろう・・・
剣心と一つ屋根の下に住まうようになって、どれくらい経ったか。
薫と弥彦が、彼の空気を読めるようになってきていた頃合い・・・
ゆえに。
二人はそれきり、この件について触れることはなかった。
一体・・・何を考えているのか、拙者は・・・
井戸の傍ら盥へ屈み、ただひたすら着物を洗い続けている。
水面に映る陽の光は眩く、思わず目を細めるが・・・視界に映っているものは着物ではなく。
そこにいるはずのない男の姿を見ていることに、先刻から剣心は気づいていた。
考えてはならない、考えまいとしているのに・・・理性とは裏腹、感情が肉体を逆巻いている。
鮮やかに、刻銘に、描写されては消えていき現れては・・・と、繰り返し剣心を苛ます。あの、濃密な時の流れが・・・
「忘れろ、今は・・・!」
小さく呟き、剣心はきつく唇を噛みしめた・・・着物を洗う手、無意識に震わせつつ。
・・・事の発端は、約十日前。
仕掛けたのはあの男、左之助であった。
土砂降りの雨の日に。この肉体は男の腕の中でぞんざいに散らされた。
荒々しく、配慮の欠片もない陵辱であったにもかかわらず・・・肉体に残ったものは、夥しい熱であった。
その熱に捕らわれ、浮かされるように・・・あるいは、彼に対する自分の思いがわからず、知りたくなって・・・
一昨日、こちらから仕掛けた。
最初は戸惑いを見せていた左之助も、すぐに腕を伸ばしてきて・・・
翌朝に帰るつもりが昼となり、
昼に帰るつもりが夕刻となり・・・
気がつけば、左之助の温もりに異常なまでの執着を覚える自分がいた。
いつまででも側にいたい・・・この温もりの側にいたい。
離したくはない、離れたくはない・・・!
そんな想いが自らに芽吹いたことを知って、剣心は愕然とした。
あって良いことではない。個人に執着するなど、まして・・・ましてや同じ男に・・・!
こんなこと、あってはならぬ・・・!
だが何だ、この想いは。
激しくも・・・痛いほどにどうして、左之助が欲しくて欲しくてたまらぬのかッ?
いかん・・・このままでは・・・これはまずい・・・!
ゆえに、
「左之、しばらくは顔を出してくれるな」
酷な言葉かもしれぬと思いつつ・・・そう、言わざるを得なかった。
どうしてだと食い下がる彼に、自分は体力がないから身がもたない、何より腰が痛くてたまらない・・・と、やや苦しい言い訳にとどまった。
けれど・・・本当は・・・
「・・・こんなものは・・・こんなもの、予定外だ・・・」
ふぅと息をつき、濡れた手で額を押さえる。
火照り始めた肉体が、少し冷めたように思えた。それでも・・・たちどころに温もりは吹き返してしまう。
仕掛けてきたのは左之助だ。
そこにとどめを刺したのは自分だ。
・・・彼に、己が心を見据えてみよと言いその実、自分の心を見据えていた・・・
その、結果。
「まさか・・・こんなことに、なろうとは・・・」
屈んでいた身体をまっすぐに伸ばし。
絞った着物を抱えて物干し竿へと歩み寄る。
ト・・・ト・・・。
ゆっくり、ゆっくりと・・・一歩を踏みしめるように。
左之助は言った、惚れているのかもしれない、と。
拙者は・・・拙者、は・・・?
考えたくもなかった。いや・・・考えてはならない!
しかし、しかし・・・
「このような想いは・・・久方振りで・・・」
皺を伸ばしながら、物干し竿へと着物を吊っていく・・・
見上げる青空が、とてつもなく眩しかった。>
この感情を初めて知ったのは、一体いつだっただろうか。
確か・・・妻を、娶った・・・あの時ではなかっただろうか・・・。
そうとも・・・これは、彼女を失って以来の感情。感情なのだが・・・
・・・正確には違うもののようにも思える。
それは激しく愛おしく思うものと、友人として頼もしさを覚えるもの・・・そして、ともに肩を並べて闘える仲間としての喜び・・・
すべてに当てはまりながら、すべてに当てはまらぬような・・・そんな気がする・・・
・・・そう。
これは・・・これはまずい感覚なのだ。
おそらくは・・・もう二度と、感じ得ぬことはできぬであろう感覚・・・
心底、快いと思える・・・
「これは・・・触れて良いものなのか、拙者が・・・得ても良いものなのか・・・?」
そんな資格があるのか、数多の命を殺めていながら。
あまつさえ、妻たる女をこの手で殺めていながら・・・!
今更・・・今更、そんな虫の良いようなことを・・・
何より・・・!
「・・・怖い・・・怖いのでござるよ、左之・・・」
愛おしさと同じくらいの強さで沸き上がるものは、この数十年来感じたことのない夥しい恐怖・・・
左之助を得るということは。
左之助を知るということは。
唯一無二の存在を知り、得るということは・・・即ち、
「左、之・・・」
まだ干せていない洗濯物を手にしたまま。
剣心は、その場に立ち尽くしていた。
神谷道場にふらり、一匹の男。
歩む姿は颯爽と、さりとて漂う空気は飄々と。
風に靡く赤いはちまきが、自由気ままに身を流す。
背中に貫く「惡」一文字、
先刻より門前を行ったり、来たり・・・
長身痩躯を持て余して揺れ動いていた。
「・・・う〜ん・・・」
その男、左之助は顎に手を当てて何やら思案顔。時折歩みを止めては立派な門を見上げ、
「はぁ・・・」
と、ため息。そうかと思えば歩み出し、
「う〜ん・・・」
再び唸り始める。
それを一体、どれほど繰り返してきただろうか。
刻限は既に九ツ半(午後一時頃)を回っている。人様の宅へお邪魔するには程々の刻限だと思うのだが・・・。
「・・・やっぱ、まずいよなぁ・・・」
ふぅ・・・と、ため息を吐かずにはいられない。
理由は、昨日剣心と別れ際に言われた言葉にある。
− 左之、しばらくは顔を出してくれるな。
明らかな拒絶だと思った。
どうしてなのかは・・・わからない。
いや、自分が不用意に無理をさせてしまったから・・・腰が痛んでしまったことが要因だとは思う。
けれども、どうもあの時の歯切れの悪さといったら・・・腰が痛むのは事実だとしても、彼にはどうしても言い訳にしか聞こえなかったのだ。
だからとはいえ。
しばらくは顔を見せるなと言われていながらここにいる。
それをどう、切り出すべきか・・・話すべきか。
「・・・参ったなぁ・・・」
何しろ昨日の今日・・・一日として空けていない。
これでは堪え性のない子供のようで・・・どうにも、情けなくて仕方がない。
かと、言って。
「・・・会いてェもんは、会いてェんだよな・・・」
理性では「会っては駄目だ」とわかっていても、感情では「会いたくて仕方がない」。
抑えが効かぬのだから、どうしようもない。
「畜生、もとはといえば、俺があんな夢を見ちまうから・・・!」
ガリガリガリっと短い黒髪、両手で掻きむしった。
昨夜・・・左之助は、剣心を抱いた夢を見た。
意識が白濁とするような・・・熱の塊と得も言われぬ声音・・・
あと、もう少し・・・というところで無情にも、鮮明に意識は冴えてしまった。
それが夢であると認識するまでに、しばし時を要してしまうほど、彼は夢と現の境がなくなっていた。
あれほど・・・飽いても飽きたらぬほどに剣心を抱いておきながら、その夜の夢でも彼を抱いて・・・。
底のない欲情を沸かせる己自身に、さしもの左之助も思わず自嘲してしまった。
「・・・初めての色事でもあるめェし・・・なぁに、俺もうわずってんだか・・・」
始めて女を知ったときには、寝ても覚めてもそのことばかり考えていたが・・・その状況に再び陥ってしまおうとは。
しかも男相手に・・・日本一強い剣客の剣心に。
「俺も・・・まだまだだなァ・・・」
何度目になったかわかりはしない、ため息を深々と吐いた時だった。
「あれ? 左之助じゃねぇか。どうしたんだよ、こんなところで」
画然、声をかけてきたのは少年剣士・弥彦。背中にいつもの竹刀を担いでじっと左之助を見上げている。
「何だ、弥彦か。・・・どうした、出かけるのか」
「あぁ、これから出稽古だからな。前川先生の所へ行くんだ」
「へぇ、そうかい・・・じゃぁ、嬢ちゃんも?」
「当たり前ェだろ。薫が行かねぇと意味がねぇだろうが」
「そりゃま、そうだ」
「女の身支度には時間がかかるんだとよ。早く行かねぇと遅れるってェのに・・・」
ぶつぶつとぼやきながらも弥彦、話の筋を忘れない。
「それで、どうしてこんなところにいるんだよ。中に入ればいいだろ。剣心ならいるぜ?」
「ん・・・まぁ、そうなんだが・・・」
ごにょごにょと語尾を濁した左之助、軽く鼻を擦って視線を逸らした。
途端に弥彦、鋭敏な嗅覚で異変を嗅ぎ取る。
「何だよ。おめぇといい剣心といい・・・何かあったのかよ? やっぱ、喧嘩でもしたのか?」
「は?」
弥彦の不思議な問いかけに、今度は左之助が狐につままれたような面差しを向けた。
「おめぇと剣心が夜通しで遊んで帰ってきたのは・・・昨日の夕方くれェだろ。あの辺りからだとは思うんだけどよ、剣心の奴、普段通りのわりには・・・こう、どこか抜けてるってェか・・・」
「抜けてる?」
「顔つきは変わらねぇんだ。でも・・・何か、こう・・・呆けてるって、言えばいいのかなぁ・・・オレにもよく、わからねぇんだけど。様子が妙なんだ」
「そうなのよ、左之助」
いつのまにか薫が側まで歩み寄ってきていた。すっかり出稽古の支度が整ったのだろう、清々しいほどに凛々しい、女武芸者の姿であった。立派な門構えと青空が、よりいっそう彼女の姿を引き立たせる。
「あんた達、何かあったの? 剣心・・・何か物思いに耽っているというか・・・深く考え込んでいるっていうか・・・問いただすんだけど、うまくはぐらかされちゃうのよ」
ふぅとため息をついた薫を、左之助はまじまじと見つめてしまう。
「あいつが・・・そんなに・・・?」
「えぇ・・・。ねぇ、左之助。昨日と一昨日と・・・何かあったの?」
何かあったどころの話ではない。
だが、それを言っては身も蓋もない。
左之助、頭を掻きむしった。
「いや・・・別に何もねぇけど、よ・・・」
「そう・・・?」
「まぁ、嬢ちゃんも弥彦も心配してるみてぇだから、ちょいと俺が顔を出してみるさ。それでいいだろ?」
彼の言葉に、薫も弥彦も無言で頷く。神妙な顔つきの二人に、左之助は満面の笑みを浮かべた。
「そんな顔をするなよ。ま、おめェらが帰って来る頃にゃ、きっといつもの剣心に戻ってらァ。ほらほら、早いところ出稽古へ行った、行った」
ポンポンっと二人の背中を押し出して。
左之助、軽やかに笑って見せた。
・・・その、胸裡では。
・・・これで剣心と臆面もなく会える口実ができたわけだが・・・
薫と弥彦の言う、剣心の様子が変というのは一体、どういったものなのだろうか。
自分との関係で、何かを悩んでいるのでは・・・
ふと思い至ってしまうと、気が気ではなくなってきた。
もはや自分の悩みなどそっちのけ、ほいほいと屋敷の中へと足を踏み入れるなり、厨のほうへと向かった。
この刻限ならば、厨にて器を洗っている可能性が高い。
「剣心」
屋敷の裏へ回って直接、厨を覗いてみた。が・・・そこに求める人の姿はなく。ひっそりと静まり返るばかり。
ここにはもういないということは・・・買い出しか? いや、まだいるって言ってやがったから・・・
私室のほうかもしれないと、彼はそのまま中庭を突っ切り、直接縁側へと上がり込んだ。
「おーい、剣心。いるかー?」
カラリ、と障子を開けば。
「・・・左之」
中で湯飲みを手にしている剣心がいた。
「何でぇ、茶なんぞすすってやがったのか。爺くせェなぁ」
「お主と違って、歳を食っておるからな。爺くさいでござろうよ」
苦笑をこぼし、剣心は一口茶をすすり。つと・・・湯飲み、膝の側へ置いた。
「・・・左之」
「何でェ」
「しばらくは顔を出してくれるな、と・・・頼んでおいたはずだが」
お、きやがったと左之助、一瞬息を呑んだ。だがここで怯むわけはなく、部屋の中へ入り込むとピシャリ、障子を閉めた。
ピクっと、わずかに剣心の眉が痙攣したことを左之助、見逃さない。どっかりと腰を下ろして剣心を見据える。
「嬢ちゃんと弥彦に会ってよ。おめぇの様子がおかしいから、見てくれないかって・・・頼まれたんでェ」
本当は自分から言い出したことなのだが・・・彼はすっかり、そのことは忘れてしまっている。
が、剣心、スパンと言い放った。
|