岡崎は時折、神谷道場へ姿を見せるようになった。
昼前に顔を見せては、剣心を昼餉へと連れ出していく。
相手が警官であるものだから、薫も弥彦も警戒することなく。
ただ一人、左之助のみがこの時ばかりは仏頂面を示すのみ。
その日も、岡崎とともに姿を消していく剣心の背中を黙って見送って、左之助は縁側で横になっていた。
「変な顔をしてやがンなぁ、左之助」
目敏く見つけたのは、稽古を終えたばかりの弥彦だ。身体の汗を拭おうと、井戸水を汲み上げるべく中庭へ姿を見せたのだった。
「どこが変な顔でェ。いつも通りだろ」
「いつも通りだったら、何も言わねェよ。しけた面ァしやがって」
「うるせェ」
鼻を鳴らした左之助に、弥彦はため息混じりに言葉を続ける。
「最近のお前、あの岡崎って警官が来るたんびにそんな顔をしてるぜ。そんなに剣心を取られるのが面白くないのかよ」
「馬鹿。取る、取られるの問題じゃねェんだよ」
「じゃぁなんだよ?」
「・・・おめェには、わからねェよ」
そう言ったきり、左之助は口をつぐんでしまった。縁側で横になったきり、瞬きもせずに空を見据えている。
何が問題ではなくて、何がわからないのか。
弥彦は全く理解できぬというようにもう一度、ため息を吐いたがそれ以上、関わるようなことはせず。汗を拭うと着替えをするべく部屋へと入っていった。
岡崎は、三、四日に一度は姿を見せている。
剣心を連れ出して何を話しているかなんて、どうでもいいが。
こんなに腹立たしく思うのは・・・
左之助にはわかっていた。この数日間ずっと、虫の居所が悪い理由を。
俺が見たことのない顔を、岡崎に見せている。
俺が知らない顔で、岡崎と話している。
このことのみが胸に渦巻いて、前にも後ろにも進めないでいる。
そうとも・・・悔しいのだ、ただ単に。
岡崎に見せる顔を、自分には見せてくれないから。
でもそれは逆に・・・
「・・・互いに、見せぬ顔があらァな。そいつと、同じこった」
月岡とのこともある。
内務省襲撃のこともある。
これは、自分自身の昔のこと・・・過去のこと。
遺恨のこと。
それは剣心とて同じことだ、だから・・・
「俺が首を出すことじゃねェのさ」
そう、わかっている。
わかってはいるのだが・・・
「くそっ」
虚空へ向かって毒づくことくらいしか、今の左之助にはどうすることもできなかった。
その頃。
剣心は岡崎とともに、既に常連となってしまったそば屋の暖簾を潜っていた。
岡崎と面して腰掛けて、そばに舌鼓を打っている。
「なぁ・・・緋村」
「なんですか」
変わらぬ単調な口調に、岡崎はやれやれとため息をこぼす。
「たまにはよ、他のモン食いに行こうや。たとえば料亭で酒なんぞ・・・」
「そんな余裕、拙者にはございませんので」
「じゃぁ、俺が奢るよ」
「結構です」
「・・・即答かよ」
少しくらいは考えてくれてもいいじゃないかと、岡崎は呟いた。が、それをはっきり言わせてくれない気配が剣心から立ち上っていた。
岡崎は少しく唸って頭を掻いた。
「なぁ、緋村」
「なんですか」
「俺って、お前に嫌われてるのか?」
「なぜ、そう思うんですか」
「なぜって・・・」
「嫌っているなら、昼飯に付き合ったりはしませんよ」
あくまでも淡々と告げる剣心に、岡崎は再度、ため息を吐いた。
「そりゃま、そうなんだろうけど。あんまりこう、考えもなく断られると・・・やっぱり落ち込むじゃないか」
「別に、考えてないわけじゃないですよ。夜間に女子供を残して、外出できるわけがないでしょう」
つと、剣心は内心で舌を出す。自分でもよくこれだけのことが言えたものだと。しかし、岡崎には通用しない。
「ふふ・・・そういう、愛想のないところや人付き合いの悪さは、昔っからまったく変わってないじゃないか。そんなお前が居候を決め込んでるとは・・・考えられないなぁ」
「悪かったですね、愛想も何もなくて」
「そういうところは、変わってないって言うんだよ」
喉の奥で笑いながら、岡崎はそばの汁を飲み干した。
「他人のところで居候をしていたり、あの・・・相楽左之助とかいったか? 奴とつるんでいたりよ。どこか、一線を引いていたお前が・・・本当、珍しいというか変わったというか・・・」
「・・・・・・」
「なぁ、あの相楽って奴はどういう男だ? お前とつるむなんて・・・」
「この間もお話ししたでしょう。爽やかないい男だと」
「ふーん」
「何か、気になることでも?」
「いや、別に・・・お前とつるめる男はどんな奴かなと思っただけさ。俺以外にもそんな奴がいるとは、考えられなくてね」
じっと剣心を熟視し始めた岡崎などお構いなく、剣心は黙ってそばを食べた。
その空気が、岡崎には鋼鉄なものに感じたのだろう、何度目かのため息を吐くとガラッと席を立った。
「さて! 俺は職務に戻るぜ。またな、緋村」
暖簾を潜って去っていった岡崎を見送ることなく。剣心は彼の気配が消えることのみを感じ取り。やがて・・・
「ふぅ・・・」
一人、ぽつんと息を吐いた。
「どうにも・・・」
警戒心が拭えない。
同志であった頃もそうだったが。
唯一、温かく言葉をかけてくれていた人物ではあったのだが。
その当時からも・・・どこか、暗い影を匂わせていた。
顔は笑っていても、眼が笑っていない。
奥底で光るものが、剣心に何かを掻き立てる。
これはいったい、何だというのか。
「・・・それに・・・」
やはり、というべきなのだろうか。
「今日も、だ・・・」
ことあるごとに左之助のことを口の端に掛けるようになった。
左之助を気にしていることは間違いない。彼の正体を、過去についても探り出しているのかもしれない。
目撃者がいない以上、捕縛はできない。
自分が唯一の証人。
「・・・眼が離せない、邪険にはできぬ・・・ということか」
剣心はゆるりと席を立つと、にわかに逆刃刀を差しなおした。
本当は、この帰りに買い物をして帰ろうと考えていたのだが、胸に広がった暗雲はさらに厚さを増し、重い広がりを見せていた。
それらの重さに負けるようにして・・・剣心は買い物をやめ、夕餉はありあわせのものでなんとかしようと心に誓い。足を引きずるようにして神谷道場を目指した。
縁側で昼寝を貪っている左之助を見つけたとき、剣心は心がス・・・と晴れたような気がした。たとえそれが、一時的なものであったにせよ、今の剣心には安らぎに等しい感覚だった。
「やれやれ・・・そこで寝られると、非常に困るのでござるがなぁ」
苦笑をこぼし、こぼし。剣心は軽く左之助の身体をゆすった。
「左之・・・左之、起きるでござるよ」
「ん・・・剣心かァ?」
緩やかに意識を浮上させてきた左之助に、剣心はそっと告げる。
「すまんが、どいてくれるか。洗濯物を取り込んで、ここから上がりたいのでござるよ」
「あ・・・あぁ、すまねェ。そうだったな」
素直に身を起こした左之助に、もう一度謝罪をすると剣心は、手際よく洗濯物を取り込んでいく。その姿を目で追いかけながら、左之助は一つ大きなあくびをした。
「帰りが早ェじゃねぇか。買い出しはしたのか?」
「あ・・・いや、今日はそんな気分になれなくてな。まっすぐ帰ってきた」
「ふーん・・・」
「夕餉はありあわせのものでこしらえるよ、勘弁してくれ」
「まぁ、おめェが作るものなら俺ァ文句はねェけどよ」
ぼりぼりと腋下を掻きながら、左之助は剣心を目で追いかけつつ。
あっという間に洗濯物を取り込んでしまった彼に、左之助はぽつりと言った。
「岡崎と何かあったのか」
「え?」
縁側へ腰掛けた剣心は、真剣な眼差しを向ける左之助に気づいた。
「何もないでござるよ。どうしたのでござるか、左之」
「別に。なんとなく・・・そう思っただけだ。何もなけりゃ、いいけどよ」
そっぽを向いて鼻の頭を掻いた左之助に、剣心は薄く笑みを浮かべた。
「・・・気苦労ばかり掛けているようでござるな。大丈夫でござるよ、左之」
俄然、剣心の視界が回転した。
ダンッと後頭部が何かに打ち付けられる。・・・それが、縁側であると知ったときには左之助が、上空を支配下においていた。
「本当に、大丈夫なんだろうな」
「左之・・・?」
剣心の肩を掴んでいる左之助の握力が、にわかに強さを増した。
軽く痛むくらいのその力は、剣心の心を勇気付けた。
「あぁ、大丈夫・・・大丈夫でござるよ、左之。だから、心配をするな」
「心配なんざ誰がするかよ。ただ、何もかも自分で全部背負い込もうとしやがる、おめェが気に入らねェだけだ。もし俺がらみだったらなおのこと、許さねェ」
舌打ちをしてから少しく、目をそらした左之助に。剣心は苦笑をこぼした。
「やれやれ。拙者は信用がないでござるなぁ」
「当たり前だ、全部をさらけ出さねェやつを、どうやったら心底、信用できるってェんだ」
全部をさらけ出さない。
その言葉が剣心の胸をわし掴んだ。微量な寂寥感が、心を包む。
「だから俺は、おめェを縫い止めておくことに必死なんだよ、こうでもしてさ」
黒髪の先端が、剣心の額を掠めた瞬間、左之助の唇は彼の唇を力強く奪い取っていた。
剣心は小さく呻いたが、抵抗は見せずに。そのまま、彼の荒々しい高ぶりを受け止める。
「ん・・・」
重ねられた柔らかな感触に陶然となった。少しく唇を開いて左之助を迎え入れてしまいながら・・・
「は・・・ぅ・・・」
吐息を洩らし、背中へ腕を絡ませようとすぃ、伸ばした。
応えるように、左之助の唇が激しさを増した。
剣心の肌が呼応してたちまち、熱を帯び始める。
が、
バン!
背に絡ませていた両腕が反射的に、左之助の両肩を強く突っぱねていた。
左之助の長身は大きく弾み、上体がぐわりと浮き上がる。
「剣心?」
剣心は左之助のほうなど見ていなかった。目を見開いてじっと、中庭の向こう側、そう、垣根の向こう側へと意識を飛ばしていた。
「どうした」
剣心はゆっくりと身を起こし、軽く頭を振った。そして張りつめた糸が切れたかのように、ふぅと・・・息を吐き出した。
「いや・・・何でもない」
「何でもないって面かよ。おめぇ、やっぱり変だぜ」
「大丈夫でござるよ」
「じゃぁ何だよ、その汗は」
「え?」
言われて初めて気がついた、額にはびっしりと汗が噴き出ていたのだ。・・・そう言えば、胸の動悸も幾分、速い。なんだろう、この・・・この、言いしれぬ不安は。
「剣心?」
「左之・・・」
コトン・・・と。剣心は顔を左之助の胸乳へ預けた。じんわり、温もりが伝わってくる。
・・・確かに。
確かに今、あの瞬間・・・誰かがいた。
殺気が突如、あふれ出してきた・・・噴出してきた。
まるで弾丸のようにすさまじく・・・
あのものすごい殺気は、いったい・・・
「・・・今の俺には、おめぇが見えねぇ」
ぼそりと。
こぼした左之助の言葉に、剣心は顔を上げた。今にも降ってきそうな星の瞬きを携え、黒い瞳が不安を浮かべている。
「見えぬか、左之」
「あぁ・・・見えねぇ。だからこそ信じ切れない、いや、信じてはいるんだが・・・いつも、どこか遠いところにおめェがいるような気がしてよ。たまらなくなるんだ」
「悪」一文字を撫でながら。剣心はゆるやかに息を吐いた。
「拙者はここにいるぞ、左之」
「そういう意味じゃなくて・・・!」
「わかっている・・・わかっているさ、左之」
再び彼の胸乳へ顔を埋めながら。剣心はゆるく息を吐く。
伝わってくる温もりに、意識が焼き切れそうな思いがした。
・・・ふと。
この温もりにすがってしまいたい。
そう、思った。
思ったら・・・胸の奥が熱くなった。
唇が、ぼそりとこぼす。
「・・・今・・・拙者を確かめてみるか、左之?」
「え?」
「拙者が本当に遠いところにいるのかどうか・・・確かめてみるといい」
ちろりと伸ばされた舌先が、左之助の胸の華をぺろりと舐めた。
「!」
頭上で、左之助が息を詰めたのがわかった。剣心は薄く目を閉じるとそのまま、唇を開いて。その奥へと・・・胸の華を誘う。
半纏の、襟の下で。湿った息が肌を這い、密やかなる水音が耳朶を打った。
「剣、心・・・!」
左之助が剣心の面差しを掴み上げ、言葉を塞ぐまでの時間はさほど、かからなかった。縁側の、頭上から注ぎ込む陽光に目を細めるようにして、剣心は瞼を下ろす。
そして、わずかに唇を離した一瞬を逃さず、剣心は囁いた。
「中へ入ろう、左之・・・」
転がり込むようにして。二人は部屋へと入り込んでいった、手早く障子を閉めながら。
それぞれが、言いしれぬ不安を抱いたままに・・・
それぞれが、何かを掴もうとするように。
陽差しは、穏やかに降り注いでいた。
笊を片手に市井を歩く、やや小さな歩幅で。
視線はまっすぐに前方へ、じっと見据えて動かさない。
腰には、その細さには不釣合いかと思われるほどの大刀が。笊を手にしての姿は滑稽だが、既に周りへと溶け込み違和感はない。もう、日常の風景として町の人々は捉えてしまっている。
が、そんな行き交う人々を見つめているようで、剣心の瞳は何も映し出してはいなかった。頭の中はただ、一点のみで占められていた。
岡崎が、来ない。
この数日・・・十日あまり。ぱったりと姿を見せなくなった。
最初は勤務の都合だろう、忙しいのだろうと判断した。
しかし長引いてくると剣心の直感は、別のことを告げた。
「あの日の気配、まさか・・・」
神谷の屋敷の縁側で。左之助と唇を重ねたあの瞬間。痛いほどに感じた凄まじい殺気。
もしかして、と考えている。
あの日から岡崎は姿を見せなくなったのだ、偶然にしてはあまりにできすぎている。
これは・・・岡崎のものであると判断すべきではないのか。
「!」
剣心の足がぴたりと止まった。
こんなに人通りがあるというのに・・・浮いたように、それは異質の気配だった。
背中がじっとりと汗ばむ。
消そうと思えば消せるはず。それを消そうともしないで漂わせる、即ち・・・
剣心は、意を決して振り返った。
「・・・岡崎さん」
距離、一間ほど。離れたところに岡崎が立っていた。黒地の詰襟をきっちりと着込み、黒いひさし帽の奥から覗かせている眼が、炯々と光っている。
「よぉ、緋村。買い出しか?」
にやりと笑った岡崎に、剣心は淡々と答える。
「岡崎さんこそ、職務中ですか」
「まぁ、そんなところだな」
ゆっくりと歩み寄ってくる岡崎に、剣心は無意識のうちに汗ばんだ手を握り締めていた。
動悸が、速い。
「すまないなぁ、最近はお前のところへ行けなくて。心配してたんじゃないか」
「まさか。どうして拙者が心配などしなければならないのですか」
「つれないなぁ」
クックッと笑いを忍ばせて岡崎、剣心の眼前へと立った。
「俺じゃなく、相楽だったら心配をしていたのかな」
「!」
剣心は唇を開かなかった。
やはり、と。
剣心の直感は確信へと変貌した。
「今夜付き合えよ、緋村」
「え・・・?」
岡崎の瞳がすぅと細くなる。
「断らないよな。いや・・・断れない、か・・・?」
唇が。下卑て歪むのを剣心は、苦虫を噛み潰したように見つめた。
「場所は」
「深川の料亭、『彩乃』。七時から待っている、お前の都合のいい時間に来な」
すれ違いざま、ポンと剣心の肩を叩き。岡崎はそのまま立ち去っていった。
「・・・料亭、『彩乃』・・・」
ぐっと。剣心はただ、拳を握り締めるばかりだった。
汗ばんだその、手のひらを・・・ひたすらに。
いつものようにふらり、左之助が神谷道場へ顔を出したのは、夕刻を迎える少し前。出稽古から帰ってくる薫と弥彦のために、剣心はちょうど、風呂をたてたところだった。
やれやれと腰を上げた剣心に、左之助が声をかける。
「よぉ」
「左之助。今日は少し遅かったでござるな」
「そうか?」
「あぁ。そんな気がするのでござるが」
苦笑を含ませた剣心をだが、左之助の鋭い眼差しが瞬時に射抜く。
「剣心」
「ん?」
「おめぇ・・・」
「さて、今宵は何をこしらえようか。何か食べたいものでもあるか、左之?」
一変、にこやかに微笑みかけられて左之助、声を呑んだ。次の言葉を出そうとしたときには、もう剣心は目の前を通り過ぎていて、厨へと入っていく。
あわてて背中を追おうとした矢先、
「ただいまー!」
「剣心、帰ったわよー!」
薫と弥彦だ。元気のよい声に、剣心も答える。
「お帰りでござる、薫殿、弥彦」
中庭へ姿を見せた二人に、剣心は厨から出迎える。三人がにこやかに、騒がしいまでの空間を作り上げて話している姿に、左之助は一人、ため息を吐いた。
はぐらかされた。
頭を掻いて、左之助は口中で舌打ちをする。
普段と変わらぬ雰囲気を醸し出してはいるが、彼の宿る眼差しが違う。色が違う。
何かを・・・考えている眼だ。
機会を見計らって問いたださなければならない。
そう、胸に誓ったのも束の間、正体がわかったのは夕餉のときだ。
「あら剣心、食べないの?」
「そのことなのでござるが、薫殿」
食卓へ薫、弥彦、左之助の面々がそろったところで、剣心はおもむろに口を開いた。
「これから、出掛けねばならぬ用事ができてしまったのでござるよ」
「え? 用事? 珍しいわね、剣心」
「女のところか?」
「あんたは黙ってなさい」
薫がすかさず、ポンと弥彦の頭を叩く。弥彦はじろりと薫を見やったが、それ以上は何も言わなかった。左之助はじっと、黙って剣心を見ている。
「岡崎さんが、たまには飲もうと誘ってきたのでござるよ。断ったのでござるが・・・しつこいでござるから、一度だけ付き合おうかと」
「あら、いいじゃない! たまには羽目を外してくるといいわ」
薫と弥彦の、岡崎に対する印象はすこぶるいい。警官という職務のこともあるかもしれないが、あの人懐っこい笑顔が彼らにそういった思いを抱かせてもいる。
ゆえに、警戒心のかけら、一つもなかった。
それが返って、今の剣心にはありがたかった。
「すまない。帰りは遅くなるかもしれない、明け方になるかも・・・」
「かまわないわよ。飲み明かすのもいいんじゃない? 昔話でもしていらっしゃいな」
岡崎の信頼は絶大だと、剣心はしみじみ思ってしまった。それはおそらく、左之助も同様の思いであったのだろう、眉根を寄せて渋い顔をしていた。
それを目敏く弥彦が見つける。
「なんだ左之助、やっぱり面白くないんだな。剣心が岡崎さんにとられたから」
「何を言いやがんだ、てめェは。ンなガキみてぇなこと考えっかよ」
「わかるかよ、ガキみたいだもんな、左之助は」
「なんだとぉ〜?」
「あぁ、やめるでござるよ、二人とも」
剣心と薫の笑いがこぼれたが、左之助は渋面を崩そうとはしなかった。
ギュ、ギュとわらじを履いて。
シュッと、逆刃刀を腰へ差したその手つきを。
左之助は、正面玄関で見つめていた。
「行くのか」
「あぁ」
背中を向けたまま、剣心は答える。
「止めないのでござるか」
「あ?」
剣心の言葉に、左之助が語尾を上げた。が、剣心はやはり振り返らない。
「どうして俺が止めなきゃならねぇ。おめぇの友達のことじゃねぇか」
「そう言うわりに、止めたそうな顔をしているなぁと思ってな」
「馬鹿を言うな」
半ば舌打ちをしながらそう言った左之助を、剣心は密やかな笑いで濁した。
「じゃぁ・・・行ってくるでござるよ」
「剣心」
「ん?」
「・・・気をつけてな」
くるり、剣心が振り返った。振り返ってじっと、左之助を見つめる・・・深い色と意志をたたえた眼差しで。
左之助は、何も言わなかった。無言のままに剣心の、蒼い瞳を見つめる。
「・・・薫殿と、弥彦を頼む」
剣心は緩く微笑むと、踵を返した。
彼の微笑みを・・・脳裏に描きながら。左之助は、遠ざかっていく背中を見つめることしかできず・・・ただ。見守った。
そんな視線の温もりは、剣心の背中を貫いていて。なおのこと、心にも届いていて・・・
途端。
足が、止まって。
「左之」
彼の名を口にしていた。
「深川の料亭、『彩乃』だ」
それだけを言い残し、剣心は足早に夜の闇へと消えた。
「・・・剣心・・・?」
ほんの、少し。
胸に広がった黒い染み。
それがいったいなんだったのか・・・まだ、左之助にはその正体がわからない。
[ ≫≫≫≫ ]